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当ブログは、こんなにも地味で簡素な状況下でどれだけ映画の面白さに迫れるかにこだわった実験ラボです。画像もなければ絵文字もない。あるのは雑然と並べられたテキストのみ。はてさて、あなたにとって有益な情報はございますやら。

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『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』

300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』です。

このコメディを腹の底から笑える時代はやってくるのだろうか?

80年代の冷戦期、女好きのお気楽議員チャーリーが、たまたまTVでソ連のアフガニスタン侵攻のニュースを目撃。その荒廃した街並み、子供たちの表情に衝撃を受け、議会やCIAを通じてあの手この手でアフガン兵の支援に動き出す!…というハリウッドならではの豪華キャストによる王道コメディ。トムとCIAエージェント(!)役のシーモア・ホフマンの掛け合いなんて抜群に面白いが、でも笑ってばかりはいられない。だって彼らの大作戦が何の因果か20年後の現代に耐え難い痛みとして跳ね返ってきたのだから。こう言うとコメディの可能性を狭めることになるが、いまは過去の一点を祝福するよりも、このジレンマと果敢に対決しようとする映画の方がよっぽど見たい。

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チャーリー・ウィルソンズ・ウォー
監督:マイク・ニコルズ
出演:トム・ハンクス、ジュリア・ロバーツ、フィリップ・シーモア・ホフマン
(2007年/アメリカ)東宝東和
5月17日より全国ロードショー

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『スカイ・クロラ』

 押井守の最新作『スカイ・クロラ』は冒頭から度肝を抜く空中戦で幕を開ける。雲を貫き、俊敏かつ大胆な動線を繰り出す無数の戦闘機。そのスピードは加速したかと思うと次の瞬間には超スローモーションへと突入し、戦闘機とは思えぬアクロバティカルな動きを視界に焼き付けつつ、『マトリックス』ばりの、もとい押井守の代名詞でもある機銃掃射が炸裂し、おびただしい数の薬莢が空中をジャラジャラと舞う。つまり『攻殻機動隊』の戦闘シーンをグレードアップした上に、人間(あるいはロボット)ではなく、機体と機体とが文字通りの肉弾戦を繰り広げるのだ。

 弾が機体を貫くと、こちらにまで痛みが伝わってきそうだ。驚くべき写実性に手を触れながら、あえてそれを究極化させず、映像をどこか1ミリほど霧がかった非日常性へと放り込む。戦闘機が飛行していく様は時折よく出来たジオラマのように見えることさえあり、このリアリティとフィクションの薄膜のようなものが観客を実写ではない別次元へといざなう。

 いつの時代かも知れない/国家に代わって企業間で戦争が行われている世界/殺しあう理由も、目的もよく分からない/住民たちは守られることに慣れっこになっている/そして代わりに戦うのは子供たち/といっても、ただの子供ではない/大人になることを拒否した、永遠の子供<キルドレ>たちだ/いつ空中で散るかも分からない彼らに成長など必要ない/今日も警報が鳴り響き、敵機が飛来する/子供たちは戦闘機に乗り込み、テイク・オフ/激しい空中戦/そして仲間がひとり死ぬ/でも翌日には戦闘要員が補充/新入り?/うん、よろしく/あれ、なんか前に会ったような…/そんな会話をもう何度交わしたことか/繰り返される記憶/麻痺していく感覚/今日は昨日の繰り返し?/彼らが殺しあう理由は?/みんな本当は気づいているくせに、知らないふりをしているだけ?/関わりたくないと思ってるだけ?/誰だって間接的に生きていたいから/また仲間が死ぬ/もはや哀しみさえ沸き起こらない/また死ぬ/無感覚。

 ダイナミックな空中戦を抜けると、地上ではごくアニメーション然としたキャラクターたちのドラマが待っている。空と地上。このタッチの切り替えしが、戦うことを運命づけられたキルドレたちの非日常性を緩急織り交ぜながら彩っていく。僕らは『スカイ・クロラ』がどのように成り立っているのかはっきりとは分からない。ただ想像や予測の向こうに、主人公の操縦者カンナミと女性司令官クサナギとの関係性を核とした独自の死生観が見て取れる。

 押井守はこの映画を純愛物語として捉えているという。細部にまでこだわりを感じるビジュアルもさることながら、ストーリーラインがすこぶる強靭に描かれていることが観る者の心をえぐる。押井は製作序盤で行定勲監督作『春の雪』(原作は三島由紀夫)に共鳴するものを感じ、若き脚本家・伊藤ちひろに原作の脚色を依頼したのだそうだ(行定勲の名前は“脚本協力”としてクレジットされている)。この起用が素晴らしい相乗効果を生んでいる。『春の雪』と『スカイクロラ』。両作品ともに触れた(読んだ)方ならば、押井が本作のテーマとして何を大事に見つめていたのかすぐに分かるだろう。

 紡ぎだされる無機質な言葉が逆に温度を帯びて沁みてくる。加瀬亮がささやくように淡々と語れば、菊地凛子が猫のように粘っこくも毅然とした声で冷たく言葉を放つ。原作者・森博嗣の文体が工学的なまでにカチッカチッと細かい歯車を噛み合わせながら進んでいくように、ここで語られるすべてのセリフにも確たる意図があり、それが組み合わさってさらに大きな機能となって立ち上がる。いや、むしろ無機質・機械的であるからこそ、僕らの枯れ果てた心には“命の尊さ”や“愛の深さ”といったものが逆説的にヒリヒリと沁み出してくるのかもしれない。

 2時間1分の上映が終わるとき、僕らはそれらの言葉に、そして映像に、もっと触れていたいと思うだろう。それほどまでに印象的な一瞬一瞬の積み重ねが、この刹那的な人間ドラマを、極めて示唆的な、生を再発見するためのバイブルへと高めている。

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スカイ・クロラ
監督:押井守
声の出演:加瀬亮、菊地凛子、栗山千明、谷原章介
(2008年/日本)ワーナー・ブラザーズ映画
8月2日全国拡大公開

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『マンデラの名もなき看守』

300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『マンデラの名もなき看守』です。

南アフリカ現代史は、塀の中でもリアルタイムに動いていた。

アパルトヘイト政策下の南アフリカ。反政府活動家として逮捕されたネルソン・マンデラと彼の監視を命じられた看守が数十年に渡って少しずつ心を通わせていく。マンデラ本人によって伝記映画の製作が許可されたのはこれが初。その重圧をものともせず、地道な人間描写に定評のあるビレ・アウグストは知られざる塀の中の友情を丹念に描き込む。そして気になるマンデラ役には…デンゼル?モーガン?いやいや、なんとあのTVシリーズ「24」の黒人大統領役、デニス・ヘイバートが大抜擢!森のクマさんのような愛らしさもさることながら、言葉を交わした者すべてを感化させる『グリーンマイル』もビックリの特殊な人物像に史実としての十分なリアリティを付与している。

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マンデラの名もなき看守
監督:ビレ・アウグスト
出演:ジョセフ・ファインズ、デニス・ヘイバート、ダイアン・クルーガー
(2007年/仏=ベルギー=伊=南ア)ギャガ・コミュニケーションズ
5月17日よりシネカノン有楽町1丁目、シネマGAGA!ほか全国順次ロードショー

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ボンド新作の邦題決定!

007最新作の邦題決定のお知らせが入ってきました。
そのタイトルは『007/慰めの報酬』(原題は“Quantum of Solace”)。

前作のラストで命を落としたヴェスパーを影で操っていた男、Mr.ホワイト。
彼の正体を追及していくうちに、ボンドはある悪の組織の陰謀を知る。
舞台はパナマ、チリ、バハマ、イタリア、オーストリア、イギリスと
世界中を破格のアクションで席巻しながらの大横断。
そしてボンドの内面では、自らに課せられたスパイとしての任務と
復讐心との狭間でとめどない葛藤が渦巻いていく・・・。

日本での公開は2009年お正月第二弾だそうです。

『007/慰めの報酬』の原作は、イアン・フレミングによる短編集「薔薇と拳銃」の中に収録されています。ちなみに007シリーズ小説って、イアン・フレミングが死去したあとも、イアン・フレミング財団によって公認を受けた作家によって新作が発表され続けているらしい。なるほど、映画の原作が尽きないのはこのためなのか。

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『丘を越えて』

 『ALWAYS 三丁目の夕日』が戦後日本の復興期を熱く彩ったものだとしたら、『丘を越えて』で描かれるのはその間逆のベクトルを持ったもうひとつの黄金期だ。それは、

 「大正デモクラシー」

 中学校のとき、語感の面白さだけで一日中ずっと唱えていられたこの言葉。でも実際はそれがどんな空気を持っていたのか、どんな手触りでどんな味がしたのか多くの者が知らない。関東大震災という悲劇を引きずりながら、ようやく精神的な自由が叫ばれるようになってきたこの束の間の楽園はいったいどのようなものだったのだろう。

 原作は、いまや東京都副知事となった猪瀬直樹の「こころの王国」。西田敏行演じる文豪・菊池寛と池脇千鶴が演じるその私設秘書との交流を通じて、大正デモクラシー期の空気、そして「生活第一、芸術第二」としてあくまで庶民路線を貫いた菊池文学の真髄にフィクションを織り交ぜながら迫っていく物語だ。

 花街が近い下町。至るところに赤が映える。たしか学生の頃に見た日本史資料集の大正期はその奇抜な色使いが薄気味悪かったが、こうやって実写でみると幻想的ですらある。物語は池脇演じる葉子が知人の紹介でとある出版社を訪ねるところから始まる。いつかは女性文士になれるかもと胸を高鳴らせる葉子。そして着いた先は創立したばかりの文芸春秋。社長はあの文豪、菊池寛だ。

 西田敏行演じる菊池は、その体型といい、顔立ちといい、まるで彼の魂がそのまま現代に蘇ったかのよう。腕時計は2つはめ、腰紐はズルズルと地面を這い、将棋をしながら自分の持ち駒をピーナッツと一緒にポイポイッと口にほうばってしまったりと、かなり天然というか、豪快というか。けれど同時にとても繊細な部分も持ち合わせていて、時折シュンといじらしいほどにしおれたり、哀しい世相にワンワンと泣き崩れたりもする。ちなみに西田は歌がとても上手いが、実際の菊池は死ぬほど音痴だったとか。

 葉子はこんな菊池の秘書となり、関東大震災と昭和の戦乱期という2大悲劇の真ん中にポッカリと空いた“大正”という楽園において、菊池のナビゲーションのもとにモガ・モボを地で行く華麗なる自由を胸いっぱいに満喫する。そして時おり、文芸春秋の社員であり在日朝鮮人である美青年(西島俊之)と共に、菊池寛の作風について文学探偵のような読み解きを進めていく。「生活第一、芸術第二」を謳った菊池文学。どうやらその根底には日本文学の神様・夏目漱石への根の深い反動があるらしいのだが…。

 確かに『丘を越えて』は雲の上の楽園のような物語だ。しかし僕らは知っている。この楽園もほんの束の間のものであったことを。原作では登場人物たちの後日談にまで触れてあり、大正期の華々しさはこのあと宴の後のようにフウッと掻き消されてしまう。いつしか菊池も戦意高揚のために筆を振るい、多くの文士たちを戦場へ送り、戦後にはその戦争責任さえも問い正され、すっかり精気を失ってしまったかのようだったとか。

 けれど僕は『丘を越えて』を単なるノスタルジー映画と捉えたくはない。むしろ、今ではすっかり忘れ去られてしまった“丘の向こうの風景”へと観客を誘う「招待状」として、同時代性をもって受け止めたい。哀しくも9.11をきっかけに国際的な憎しみ合いの渦中へと身を投じてきた現代人。それは「繊細過ぎる時代」でもあり、同時に「過激すぎる時代」でもある。たとえ出口の見えない時代であっても、そこに丘があることを精一杯想像し、その向こうに拡がる景色がきっと素晴らしいものであると信じたい。それが人間の性(さが)ってもの。その領域へと観客をいざなうのが他ならぬ現代に生を受けた映画作品の使命だと僕は思っている。

 ではこの映画の最終花火はどんな夢を見せてくれたか?

 それは驚愕の、

 「あまりに朗らかなクライマックス」

 ・・・だった。

 直面した瞬間、思わず苦笑してしまった。まるで負け戦にあえて挑んでしまったかのような潔さ。でもそんなに悪い気はしないのは、作り手の気持ちがとてもストレートに伝わってきたから。このシーンに高橋伴明監督の祈りに似た想いがあふれているように感じられたのは僕だけではないはずだ。

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丘を越えて
監督:高橋伴明
出演:西田敏行、池脇千鶴、西島秀俊、余貴美子
(2008年/日本)ゼアリズエンタープライズ/ティ・ジョイ
5月17日よりシネスイッチ銀座、新宿バルト9他にてロードショー

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今年のカンヌの見どころは?

 いよいよ5月14日に開幕する第61回カンヌ国際映画祭。

 昨年のスティーブン・フリアーズからバトンを受け、今年の審査委員長を務めるのは米国を代表する俳優・監督のショーン・ペン。貪欲なまでに問題意識の高い作品を繰り出し続ける彼だけに、パルムドールの行方は昨年の受賞作『4ヶ月、3週と2日』とはまたちょっと違った流れに委ねられるかも。

 彼が率いる審査員には、ナタリー・ポートマン(女優)、アルフォンソ・キュアロン(監督)、マルジャン・サトラピ(監督)、ラシッド・ブシャール(監督)、ジャンヌ・バリバール(女優)、アレクサンドラ・マリア・ラーラ(女優)、アピチャッポン・ウィーラセタクン(監督)、セルジオ・カステリット(監督)といった面々が顔を揃える。

 コンペ部門参加作品には、クリント・イーストウッドがアンジェリーナ・ジョリーを迎えて送るミステリー“Chaneling”、2度のパルムドールに輝くベルギーの巨匠ダルテンヌ兄弟“The Silence of Lorna ”、『長江哀歌』がヴェネツィア国際映画祭金獅子賞に輝いたジャ・ジャンクー“24 Cities” 、他にもスティーブン・ソダーバーグ、ウォルター・サレス、ヴィム・ヴェンダース、アトム・エゴヤン、フェルナンド・メイレレスなどの新作に加え、なんとあの奇才脚本家チャーリー・カウフマンが“Synecdoche, New York”で監督デビュー!

 この『シネクドキ、ニューヨーク』、入ってきた情報によると、恋に破綻し、人生に絶望した主人公(フィリップ・シーモア・ホフマン)劇作家が、自分自身の再生のために地元ニューヨーク州スケネクタディを捨てて、自分で新たな「ニューヨーク」を作り出す…!?という、なんど読んでも訳が分からない内容。つまり、カウフマン=奇想天外なので「超期待作!」ってことで絶対的に間違いないです!ちなみに「Synecdoche」っていうのは、「一部で全体を、または全体で一部を表現する比喩」のことなんだそうです。んんん!ますます訳が分からなくなってきたぞ!?

 チャーリー・カウフマン初監督作『シネクドキ、ニューヨーク(原題)』は、2009年全国ロードショー。配給はアスミック・エースです。

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『ランボー 最後の戦場』

 アジアの田園風景。水田をかき分け、兵士がおもむろに何かをばら撒いている。その一個が着水した瞬間に凄まじい水しぶきを上げる。手榴弾だ!岸には銃を突きつけられた幾多の村人たち。将軍の合図で地獄のダッシュが始まる。彼らは水田を突き進み手榴弾に触れずに対岸まで辿り着かねばならない。前方には手榴弾、背後には兵士。彼らは全力で走り出す…ひとりが弾を踏む。瞬時に人間が真っ赤な水風船と化して弾け飛ぶ。行くも地獄、留まるも地獄。ゲーム感覚で繰り広げられる虐殺風景。立ち止まって動けなくなる村人たち。背後から一斉射撃が降り注ぐ。結局彼らには死ぬ運命しか残されていなかった…。

 かくも壮絶なシーンから幕を開ける『ランボー 最後の戦場』はこれまでのシリーズとはかなり雰囲気が違う。まるで通過儀礼のごとく次々と提示されるバイオレンスシーンの数々はもはやエンターテインメントとは一線を画した常軌の逸し方で観る者の心をえぐる。しかしこれは恐らく事実なのだ。世界のどこかで起こっている真実。82年の誕生以来アメリカ、ベトナム、アフガニスタンで転戦を繰り広げてきた『ランボー』シリーズ。それは殺し合いをやめるための戦いだったはずだ。しかし哀しいかな、人間の殺しあう性は有史以来まったく変わらない。

 アフガンでの戦いから20年。ジョン・ランボーが最後の戦場として選んだのはミャンマーのジャングル地帯。(ちなみに映画の中では「ビルマ」と呼ばれるが、これはアメリカが軍事政権下で成立した「ミャンマー」を容認していないから。では日本政府は容認しているのか…?そこら辺に日本政府の非常に曖昧かつダークな姿勢が見え隠れするのだが、それはこの映画とはまた別の話だ。参照→ウィキペディア「ミャンマー 

 タイの奥地でボート屋を営むジョン・ランボーは今やすっかり絶望している。『ロッキー ザ・ファイナル』でロッキーが再起を誓うまでが恐ろしく長かったように、今回のランボーも怒りが頂点に達するまでに時間を要する。その間にも村で虐殺が行われ、人権活動家たちが拘束され、彼らを救うために5名の傭兵部隊が編制されランボーのボートへと乗り込んでいく。

 この5名+ランボー+ガイドの少年で人数はバッチリ。常套手段として『七人の侍』的な展開になるのか、あるいはこちらも壮絶極まりなかった『プライベート・ライアン』のような様相を呈していくのか。巧いやり方はいくらでもあったはずだ。しかし“あらゆる巧い手段”をみすみす手放して、ランボーは思考のタガが弾け飛んだかのように殺戮マシーンへと変わる。もはやアドレナリンも分泌されない。さきほどまで虐殺の限りを尽くしていた敵兵がいまや肉の塊となって崩れ落ちていく戦場の凄惨さを観客に痛いほど突きつける。殺らなければこっちが殺られる。そこには崇高なドラマ性など生じえない。戦場に愛情やぬくもりなど存在しないのだ。人が人を殺すというある種の思考停止状態に、その場の凄まじい臭気さえ伝わってきそうだ。

 「これは観るのに苦痛を伴う映画です」

 来日したスタローンは正直にそう語っている。

 そこまでして軍事政権下の残虐性を告発したかったのか。確かにそれもあるだろう。と同時に彼は、80年代にアクションスターとしてシンボル化されてきた自分自身にひとり決着をつけようとしている。きっと20年間、時代の移り変わりを静かに見つめてきたのだろう。変わり行く破壊の意味、怒りの意味。自らをヒーローからひとりの人間へと帰還させたいとする想い。その実力行使として、いま、伝説としてフェイドアウトすることも可能だった『ランボー』シリーズをハリウッドの虚構性から奪還し、現代性の極地、リアリティの極地へと放り込むことでアップデート&ターミネートを図っているのだ。

確かに苦痛を伴う映画だし、心臓の悪い人は絶対に観てはいけない。僕自身、この映画はもう二度とは観たくないが、このシルベスタ・スタローンの映画人としての意欲には多くの人たちが瞠目すべきだと思う。

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ランボー 最後の戦場
監督・脚本・主演:シルベスタ・スターローン
出演:ジュリー・ベンツ、ポール・シュルツ、マシュー・マースデン、
グレアム・マクダビッシュ
(2008年/アメリカ)ギャガ・コミュニケーションズ
5月24日より日比谷スカラ座ほか全国東宝洋画系にてロードショー

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『ハンティング・パーティ』

300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『ハンティング・パーティ』です。

怒らせるといちばん怖いのは、実はこいつらかもしれない

手にマイク、肩にカメラ。背には大きく「TV」の文字。世界の激戦地を飛び回り、彼らは命がけでレポートをモノにする…かつてそんな武勇伝を鳴らせた報道コンビがボスニアで再会。湧き上がるアドレナリンを抑えきれず、彼らは鉄壁の守りに囲まれた戦争犯罪人を追いかける旅に出る。『MASH』『フルメタル・ジャケット』のブラックな遺伝子に、『スリー・キングス』的な軽妙さも加味。次第に見えてくる戦争のリアリティ。立ちはだかる世界の不条理。そのジレンマに非武装で立ち向かっていく彼らの底力は物語としてなかなか斬新…と思ってたら、なんとこれらはほぼ実話なのだという。うーん、やっぱりカメラは史上最強の武器なんだな。

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ハンティング・パーティ
監督:リチャード・シェパード
出演:リチャード・ギア、テレンス・ハワード、ジェシー・アイゼンバーグ
(2007年/アメリカ)エイベックス・エンタテインメント
5月10日より、シャンテシネ、新宿武蔵野館ほかにて全国ロードショー

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『最高の人生の見つけ方』

 人間の誰をも待ち構える死―。

 その果てに絶望するか、あるいは前向きに突き進むかで人の一生は変わっていく。

 多くの宗教は「死を見つめること」を発端に数百年、数千年の歴史を歩んでいるが、これらに対し100分足らずの映画作品に一体何が描けるだろう。エンタテインメントは死を緩慢に感じさせる麻薬ではない。ハリウッド映画だって、ときには真正面から死を見つめようとする。もちろんそれには用意周到な布陣と、極上のユーモアが不可欠なわけだが。

 本作『最高の人生の見つけ方』に集結したのは、『スタンド・バイ・ミー』の名匠ロブ・ライナー&米映画界が誇る2大俳優、ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマン。それはとてもシンプルな映画だった。複雑なプロットも無ければ、観る前にいささかの緊張を強いることもない。我々はただブラッと劇場に立ち寄り、数多くの公開作に埋もれたこの映画の邦題を窓口で告げ、客席でただスクリーンのカーテンが開くのを待てばいい。

 映画の中に集中しようと気構える必要はない。隣のお年寄りがビニル袋をガサガサとうるさくったって別に気にしない。何しろスクリーンに映っているのはエキセントリックな“ジョーカー”と“神様”なのだ。最高の俳優たちによる極上のコラボレーションは自ずと向こう側から僕らの心に飛び込んできてくれる。

 ふたりが演じるのは余命幾ばくと診断されたガン患者。性格も社会的地位もまったく違う。健康に生活していたら絶対に出逢うことの無かったふたりは、運命のいたずらで病室の同居人となる。最初は他人行儀な生活が続くが、闘病風景がふたりの距離をだんだん縮めていく。剃髪、そして淡白な毎日。抗ガン剤治療は徐々に苦しさを増す。トイレに閉じ込もり嘔吐。ベッドでのたうち回る。そして新たに突きつけられる無情な診断結果・・・互いの弱い部分をさらけ出したふたりに強がりなんて要らない。気がつくと彼らは人生最後の、そして唯一無二の親友となっていた。

 そしてリストを作成する。死ぬまでにやっておきたい項目を書き連ねる“The Bucket List”ってやつだ。スカイ・ダイビング、カーレーシング、絶景を眺める、絶世の美女とキスする…。いつまでもベッドの上で燻ってはいられない。人生が動に転じていく。彼らはいま、人生最後の大冒険に漕ぎ出そうとしていた。

 同じテーマで、サラ・ポーリー主演の『死ぬまでにしたい10のこと』が思い出される。だがこちらは年齢が何倍も上だ。人生の酸いも甘いも体験し尽くした彼らはごくシンプルに生を謳歌しようとする。これまで病室に停滞していたエネルギーは一気に吐き出され、そのまま距離へ置き換わる。世界中どこにでも飛んでいくバイタリティ。今更ながら湧き出してきたチャレンジ・スピリット。死を前にした彼らに怖いものなど何も無い。

 死に対して守りではなく、攻めに転じながら、ふたりの表情はどんどん少年のように変わっていく。どんな名優も子役と動物には敵わないなどと言うがそれは完全な間違いだ。いまやこのふたりに勝るものなんてあるものか。

 ところで、ふたりはそれぞれ演技のアプローチが少しずつ違う。ジャックは常に声を尖らせて仕掛けるタイプ。モーガンは相手の出方を慎重に見定め、柔軟な吸収力で受け止めるタイプ。かと思っていたら、時折その演技がスイッチする瞬間があって驚かされる。モーガンがふと意固地になり、一方ジャックの表情がシュンと軟化する。演技の応酬だ。このリラックスした雰囲気の中であっても彼らは常に仕掛け、そして仕掛けられている。かつて来日したモーガン・フリーマンは演技についてこう語っていた。

「演技はチェスのようなものだ。うまい相手と対戦しているときはどんどん自分も上手くなっていく」

 本作はまさにその頂上対決。名人戦だったわけだ。

 バックを彩るジャジーな音楽も、それにエンディングに流れるジョン・メイヤーの楽曲“Say”も深い余韻を残す。僕らはずっとにこやかにスクリーンを見つめ続け、気がつけばこの映画の醸し出す雰囲気に泣いている。それは単に哀しいだけの安っぽい涙では到底なく、とても幸福感に満ちた、自分で言うのもなんだが、とても尊い涙だったように思う。

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■関連記事「生ジャック・ニコルソンに感激!」

最高の人生の見つけ方
監督:ロブ・ライナー
出演:ジャック・ニコルソン、モーガン・フリーマン、ショーン・ヘイズ、
ロブ・モロー、ビバリー・トッド
(2007年/アメリカ)ワーナー・ブラザーズ映画
5月10日より丸の内ピカデリー2ほか全国公開

先日14年ぶりに来日したジャック・ニコルソンは「天国まで持っていきたい映画」としてこの3作品を挙げていました。

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生ジャック・ニコルソンに感激

 人が多いところが苦手なので、普段は記者会見の類にまったく足を運ばないのですが、『最高の人生の見つけ方』のプロモーションでジャック・ニコルソンが来日するとあっては居ても立ってもいられず、六本木ヒルズ内のグランドハイアット東京まで乗り込んできました。

 普通、記者会見ってやつは主賓の会場到着が遅れたり、個別取材が押したりで、何かと開始時間が遅れがちなんですが、今回のジャック・ニコルソンに関してはなんとオン・タイム。一緒に登場するはずだったロブ・ライナー監督が飛行機トラブルで来日キャンセルになってしまったこと以外はすべて順調にスタート。

 そして、上手(ステージ右手)から現れるかと思いきや、あの男はステージ中央から現れた!

 真っ白いシャツにダークブラウンのジャケットを着こなし、サングラスごしにニッ!と笑う。その表情にはまるで少年のような無邪気さがあふれている…いやはやあまりに素敵な笑顔だ。素敵過ぎてある意味、冷徹非道なマフィアのボスのようでもある。4月22日に71歳になったばかりの彼にはそんな両極端のオーラが並存しているかのようだった。つまり映画どおりの異様な存在感ってことだ。

 開始早々、額に光る汗の粒。ちょっといいかな、と照明を落とすように指示。サングラスをはずしてハンカチで汗をぬぐいながら「こればっかりは苦手でね…」と映画の中では見られない生のジャックを見せてくれた。(この日の会見で彼がサングラスをはずしたのはこのときだけだった)

 で、もうひとつ判明した事実。これは今回の記者会見が時間通りに始まったこととも大きく関係するのだが、なんとジャック・ニコルソンは原則としてテレビの個別取材はいっさい受けないのだ。その理由は彼に言わせると極めて「職業的なもの」らしい。

 「テレビでいろいろと語ることで余計なイメージを与えたくないんだ。映画の中だけで判断してほしい」

 なのでこの日は「王様のブランチ」のLilicoさんやフジテレビの軽部さんがここぞとばかりにステージ上のジャックへ質問を投げかけていた。質問に答えてくれるチャンスはこのとき限りだったのだ。

 ということで、素顔のジャック・ニコルソンは職業俳優として明確なルールを持つ人らしい。「役作りでいちばん重要なことは?」という質問にも「やはり脚本を読んで分析すること」と即答。

 「これがいちばん重要だよ。これだけ長く俳優を続けていると、時にはいろいろ勉強が必要な役柄もあるけれど、重要なのはやっぱり脚本なんだ。脚本を読むと、そのキャラクターが自分に入り込んで息づいていく。それが潜在意識の中まで浸透することで、私はようやくそのキャラクターの人生を生きることができる」

 そんなこだわりもあってか、最新作『最高の人生の見つけ方』では脚本作りの段階から積極的に参加したんだとか。たまたま同じ病室の同居人となり、同じく突きつけられた「余命半年」を思い切り笑いながら生きていこうと決意するふたりの男の物語。共演のモーガン・フリーマンについても「私らが最もワイルドだった70年代からぜひ一度は共演したいと思っていた人物だった」とリスペクトを惜しまない。

 でもでも原題の“The Bucket List”がいったいどんな邦題へ姿を変えたのか気になっていたようで、ここで逆質問。“How to find the ~”と直訳されると「う~ん…」と頭を抱え込んだ。ここでいう“Bucket List”は、“死”を前向きに捉えるべく「棺おけに入る前にやり遂げたいこと」を箇条書きで列挙したリストのこと。主役のふたりはこのリストに従って、スカイダイビング、カーレース、ピラミッド登頂、最高の美女とキス・・・などなど、人生最大の挑戦に踏み出していく。

 「私も最初は聞きなれない言葉だなとは思っていたけれど、最近では政治家なども演説で使うくらいに一般的な言葉になってきた。黒沢明の『羅生門』がそのまま“RASHOMON”で通用するように、映画は原題のままがいちばんいいんじゃないかな。って言っても、私はプロモーションの担当者じゃないけどね」

 苦言を呈してはニッとまた笑う。この笑顔ですべてを和やかにする(冒頭で感じていた戦慄は今やどこへやら)。まあ、僕は『最高の人生の見つけ方』って邦題は、印象的なふたりの笑顔が大写しになったポスターカットも相俟ってかなり妥当な線いってると思いますけどね。

 最後のスチール撮影時、カメラマンのリクエストに応え、にこやかに手を振ったり、両手を広げてお辞儀をしたり、投げキスを決めてちょっとおどけてみたり。そして最後は取材陣の盛大な拍手に見送られながら、下手(ステージ左)ならぬステージ中央の真後ろに降壇していったジャック・ニコルソン。そうやって彼の後姿を強調しようとする演出だったのだろう。ジャックは優雅に背中を揺らしながら、ステージから消え行く直前、背後の取材陣に向かって右手を真横に突き出して、それからグッと親指を突きたてた。

 「万事快調!」

 後姿がそう語りかけてくるような、なんとも胸をすくラストシーンだった。

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最高の人生の見つけ方』は5月10日より丸の内ピカデリー2ほか全国公開

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『ミスト』

 フランク・ダラポン監督の最新作『ミスト』は、『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』に引き続きダラポンが三たびスティーヴン・キングの原作に挑んでいるからといって、同系色の感動モノと思って臨んでしまうとうっかり鼻血が吹き出しねない。

 人間の持つ良心の深度を測るような作風を得意としてきたこの監督だが、同路線を追究したジム・キャリー主演作『マジェスティック』は力作ながらもヒットに恵まれず、長らく執筆していた『インディ・ジョーンズ4』の脚本はスピルバーグに手放しで賞賛されたものの、その後ジョージ・ルーカスの不評を食らい、あえなくボツ。ここ最近の心境は一面に広がったミスト(霧)そのものだったに違いない。

最新作『ミスト』には、かつて彼の作品で描かれていた良心など存在しない。むしろ『ノーカントリー』や『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のような黙示録的作品といえる。彼はこの映画で、これまでの鬱屈した気持ちを吐き出すかのように「絶望」を描いているのである。

 すべては嵐の過ぎ去った朝にはじまった。主人公が息子と共にスーパーマーケットのレジに並んでいる。すると突如、町の警報がけたたましい音で鳴り響く。街で何かが起こった。通りを駆け抜けていく消防車。身を乗り出して外の様子を探ろうとする買い物客たち。その視界が徐々に白んでいく。霧だ!霧が周囲を覆っている!と、そこへ血まみれになった男が飛び込んできてこう叫ぶ。「霧の中に化け物がいる!みんなそいつにやられてしまった!」それを信じる者。虚言だと耳を貸さない者。平然とスーパーから脱出していく者。やがて彼の証言は具体性を帯びてくる。多くの不気味な生物たちがスーパーの明かりの周りに集結しはじめたのだ・・・

 スーパーが舞台とは、なんと『ゾンビ』的な設定だろう。そこに避難してきた者たちは、とりあえず霧からは守られている。でも裏を返せば周囲には絶望しかなく、内部には延命装置としての食料が盛りだくさんに備えられているということになる。早かれ遅かれ彼らは絶望の目撃者となる。この設定は、カオスと隣り合わせに増長する消費文明のメタファーなのかもしれない。

 この焦燥と緊張のみなぎる限定状況が人間たちに無惨な諍いをもたらす。それは心の中の霧が明けて人間の本性がむき出しになったかのよう。徐々に派閥が生まれ、相手を罵倒し、嘲り合い、そして狂気じみたクリスチャンによる「神の怒りである!」との大演説がぶち上げられ、それに感化された人々が刃物を手に生贄を求める。唯一の聖域だと思われていたスーパー内にもカオスが生じるわけである。よりにもよって人間自身の手によって。

恐ろしい。迫りくる奇っ怪な生物もさることながら、人間の深層心理こそが本当に恐ろしい。時間と共に緊迫の度合いを増していく人間の様子を、まるで虫かごを見つめ観察日記でもつけるかのように冷静に、段階的かつ生々しく描きこんでいくダラボンの底意地の悪さがまた鋭く突き刺さる。これはもしや『マジェスティック』の恨みか。それとも『インディ・ジョーンズ』の腹いせか。

 彼のキャリアの原点にはホラー映画も数多い。『エルム街の悪夢3』や『ザ・フライ2』の脚本を手がけ、初監督作はスティーブン・キングの短編『老婆の部屋』(ただし、この原作「312号室の女」は、病室のベッドで苦しそうに死を待つ母親を安楽死させようとする息子の心象を追った非ホラー、むしろ文学的な香りさえ漂う短篇だった)。スピルバーグの『プライベート・ライアン』ではノルマンディー上陸作戦を下手なホラーよりもよっぽど恐怖に満ちたシークエンスへとリライトした(ただしノー・クレジット)実績もある。

 人々はついにこの男を本気にさせてしまった。人間は覆い隠された裏の表情が現れたときこそいちばん危険なのだ。もう勢いが止まらない。ああ、ダラボン。あんなに善意に満ちた作品を紡いでいたダラボンボン。彼は恐怖の帝王にして友人のスティーブン・キングにまたもや魂を売り払った。手にしたのは傑作短編小説「霧」。いちばん善人そうな顔をしたヤツが拳銃を握りしめたかのような、とにかく最悪の組み合わせだ。

 これは『ミスト』の登場人物にも当てはまる。父親は愛する我が子の「どうして?どうして?」という素朴な疑問に対して常に説明責任を負う。それに息子の切なる期待に対して精一杯の態度で応え続ける責任を負っている。果たしてこの父親は目の前の黙示録的状況を息子にどう説明するのだろうか?想像もしたくはないが、いま世界中の崩れ行く瓦礫の下で、降り注ぐ銃弾や空襲の中で、このような責任を背負わされた父親・母親は意外と数多いことに、ちょっと冷静になってみると愕然とさせられる。

 我々はこの映画の最後に絶望を知る。試写室では「う…ああ…」と声にならない声が漏れていた。たぶん口から魂が抜け出ていく音だったろう。みんな絶望していた。僕も思いっきり絶望した。逆に気持ちいいくらいに。で、エンドクレジットが終わるまで、祈るように“夢オチ”を待っていた。まだか、まだか、まだか。

 そして…

 そのまま場内は明るくなった…

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ミスト
監督:フランク・ダラボン
原作:スティーヴン・キング
出演:トーマス・ジェーン、マーシャ・ゲイ・ハーデン、ローリー・ホルデン、
アンドレ・ブラウアー、トビー・ジョーンズ、ネイサン・ギャンブル
(2007年/アメリカ)ブロードメディア・スタジオ
5月10日より、有楽町スバル座ほか全国ロードショー

『ミスト』の原作は、スティーヴン・キングの短編「霧」。カービー・マッコリー編のモダンホラー書き下ろし短編集「闇の展覧会」に収録されています。(スティーヴン・キングの名で検索するとなかなかヒットしないのでご注意を)

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『幻影師アイゼンハイム』

 映画が始まるや、エドワード・ノートンが一点集中、凄い形相を浮かべて念力を送っている。どうやらそこはステージの上らしい。固唾を飲み見守る観客。やがて彼の目線の先におぼろげな光が姿を現し始める…

 昨年のアカデミー賞で話題になっていた“The Illusionist”という作品が、『幻影師アイゼンハイム』という深夜アニメのような邦題で日本公開となる。今年の夏に『インクレディブル・ハルク』が待機するノートンが相変わらずのペロンとした“なで肩”ぶりで観客をいざなうは、19世紀末、ウィーン。突如現れた幻影師アイゼンハイムが、世界中を旅して習得したという驚愕のマジックで一大ブームを巻き起こしていく。

 そこに現れし、幼なじみの麗しき女性がひとり。長らく秘めていた想いがあふれるアイゼンハイムだったが、彼女はすでに皇太子の婚約者となっていた・・・。とまあ、歴史ラブロマンス、そして後にサスペンスの様相も呈してくる本作だが、僕はむしろこの映画の捉える時代性にこそ焦点をあてたい。

 19世紀末といえば、もうじき科学の時代が間近に迫っている。そんな時の流れを察してか街中では“超自然主義”が最後の花火を打ちあげる。人々は超能力や心霊現象に魅了され、“手で触れられないもの”に強く想いを馳せる。アイゼンハイムのマジックショーはそういった嗜好の観衆たちに拍手喝采でもって迎えられた。どんな頭脳をもってしても解き明かせないトリックの数々。彼はそれがマジックなのか超能力なのか決して種を明かさない。それが彼のカリスマ性をますます助長し、やがて権力をも脅かす強大な影響力を持ち始めるのである。

 イリュージョンVS権力。この対立構造が時代の本質を巧く浮き上がらせる。どちらもこれといった実態がなく、いわゆる“手で触れられないもの”。あるいは「権力とは極めてイリュージョン的なもの」と解釈することだって可能かもしれない。いや、そういってしまえば“映画”だってそもそも光のイリュージョンとして生まれたものなのだから、この映画自体が手品箱のような謎に満ちた存在といっても過言ではない。

 参考までに、おなじイリュージョン映画『プレステージ』に登場した「一流のマジックに必要な3つのパート」を紹介しておこう。

 1つ目はプレッジ(確認)、2番目にターン(展開)、3番目に観客の喝采を一身に浴びる、プレステージ(偉業)。

 これを踏まえて本作を振り返ったとき、その随所に名優ポール・ジアマッティの姿が浮かび上がってくる。『サイドウェイ』で御馴染みのこの俳優、今回は危険分子としてのアイゼンハイムを取り締まる警部役として威厳たっぷり(その中にお茶目な部分も満載)の重厚な演技に徹している。そんな彼が、思いのほかこの映画の“プレステージ(偉業)”とも思える地点において快心の演技を爆発させるのだ。

 「ジアマッティの一人勝ちじゃないか!」

 思わずスクリーンに向かって叫びそうになった。もちろん主役のエドワード・ノートンも素晴らしいのだが、彼はあくまで仕掛ける側の人間。それを受ける側としてのジアマッティはリアクション俳優として最高ポイントを獲得している。僕はこの瞬間にこそ“イリュージョン”の意味を改めて実感させられた。映画がイリュージョンならば、演技だってイリュージョンである。それは手で触れようにも触れられない。僕らの心の中でその重量を受け止め、グッとくるかこないかでその成果が計られるものである。とても感覚的な物言いで申し訳ないが、ジアマッティのあの腹の底から湧き上がるような表情は間違いなく“プレステージ”の極みに達していた。マジックの種明かしなどにも増して、あの場所ではずっと高度なイリュージョンが炸裂していたように思う。
 
 映画&ドラマ好きで知られる作家スティーブン・キングは本作について「繰り返し何度も見たくなる!特別な一本!」(Entertainment Weekly)と評しているらしい。その理由が同じかどうかは分からないが、僕もまったく同じ気持ちだ。繰り返し見るたびにポール・ジアマッティのプレステージに触れられるとあらば、これ以上の幸福はない。

 これからはポール・ジアマッティのことをプレステージ俳優、いや、イリュージョン俳優と呼ばせていただく。

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幻影師アイゼンハイム
監督・脚本:ニール・バーガー
原作:スティーヴン・ミルハウザー
出演:エドワード・ノートン、ポール・ジアマッティ、ジェシカ・ビール、
(2006年/アメリカ=チェコ)デジタルサイト/デスペラード
5月24日より日比谷シャンテシネほか全国ロードショー

「幻影師アイゼンハイム」の原作は、スティーヴン・ミルハウザー著作「バーナム博物館」に収録されています。名優ポール・ジアマッティのイリュージョンにもっともっと触れたい方は、『サイドウェイ』、とにかく必見です。

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『愛おしき隣人』

300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『愛おしき隣人』です。

トリアー、カウリスマキに並ぶ、北欧からの怪人が登場

個性派ぞろいの北欧から『散歩する惑星』で知られる鬼才ロイ・アンダーソンの新作が届いた。今回彼が仕掛けるのは、なんと「ストーリーが存在しない」物語。そこでは人々の見た悪夢がモザイク状に散りばめられ、ある女性は怒りに任せてラップ(?)を口ずさみ、ある男はマチャアキばりのテーブルクロス芸に大失敗。列車の音がうるさくて眠れない男がいれば、新婚夫婦の住居が突然車両となって発進し窓越しに大勢が「結婚おめでとう!」と祝福したりもする。すべては一時的。過ぎ去るともう二度と戻ってこない夢の嵐。最初は頭の中が「?」でいっぱいだが、ハマるとなんだか可愛らしくって愛おしくて、不思議ゾーンの魅力に火がついて止まらなくなる。

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愛おしき隣人
監督:ロイ・アンダーソン
出演:ジェシカ・ランバーグ、エリック・ベックマン、エリザベート・ヘランダー
(2007年/スウェーデン=フランス=デンマーク=ドイツ=ノルウェー=日本)
スタイル・ジャム、ビターズエンド
4月26日より、恵比寿ガーデンシネマほか全国順次ロードショー

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『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』

長文はウンザリな方は、300文字でサクッとチェック。

 クセのあるキャラクターが大量投入されることは無い。ジョン・ブライオンによるおもちゃ箱をひっくり返したかのような音楽も無ければ、機関銃のようにしゃべくりまくるセリフの狭間にポッと生じる“間”のマジックも存在しない。つまりこれまでポール・トーマス・アンダーソン(以下PTA)のトレードマークとされてきたものがどこにも無いのだ。何の前触れもなく本編を見せられたら、誰がPTAの作品だと言い当てられるだろう?

 常に前進し続けることを自らに課したPTAは、冒頭から衝撃的な行動に打って出る。主人公をこれまでとは天と地ほどかけ離れた僻地へと追いやってみせるのだ。それはPTAが自らに課した苦行のようでもある。

 そこは何もない砂漠地帯。はじめは言葉さえ存在しない。バックにはジョニー・グリーンウッドの奏でる不気味な不協和音が運命の流転を匂わせる。ダニエル・デイ=ルイスのヒョロリと伸びた身体が横たわる。穴を掘っては爆薬を仕掛けるこの男。とても原始的な作業だ。危なっかしい。そして案の定、第一の試練が訪れる。彼はまるで『マイ・レフト・フット』でアカデミー主演男優賞を受賞したときのような壮絶な演技で窮地を脱する。

 そしてこれらの、本作にとっては“儀式的”とさえいえる冒頭を駆け抜けると、そこには原作小説のタイトルが示すように「OIL!」が勢いよく噴射する光景が現れる。なんと神々しいことか。それは長らく待ち望んだ崇高な存在が地上へと降臨したかのような、極めて神聖な瞬間だった。

 すべてはここから始まる。主人公を取り巻く黙示録もここから。

 やがて、血の繋がっていない幼子の手を引いて旅を続ける石油採掘師・プレインヴューは、自分が目をつけた土地の住人たちに向けてこのような言葉を投げかけることになるだろう。

 “THERE WILL BE OIL”

 それを語るときの彼の表情は預言者めいている。「私と組んだら大金持ちになれる!」。20世紀初頭のカリフォルニア、彼のような山師は大勢いた。様々な個人や企業が石油をめぐる熾烈な争いに名を連ねていた。血眼になって土地を買占め、地中を掘り進める。出るか?出ないか?すべては神のみぞ知る。その限りある資源の争奪戦の結果が、現代にどのような歴史をもたらしたかいついては、プレインヴューよりも僕ら現代人の方がよく知っている。

 “THERE WILL BE BLOOD”

 本作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は、ひとりの人間がモンスターのように変幻しながら石油を追い求めるという、まさに人類の負の歴史をここに集約したかのような超大作だ。そしてPTAが156分もの長尺を駆使してまで描きたかったのは、黒い液体が赤へと、つまりOILがBLOODへと姿を変える映画的魔法だった、ということができるだろう。

 人間のスケールを大きく越えたダニエル・デイ=ルイスの演技は、本作でアカデミー主演男優賞を受賞した。彼の演じるプレインヴューは、親子、兄弟の関係性すらも破綻させながら、暗黒の運命に向かって猪突猛進を決め込んでいく。この怒髪点を抜く迫力を目の当たりにすると誰もが『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』をデイ=ルイスの映画なのだと解釈してしまう。しかしそれは違う。

 彼の前に立ちはだかる男がいる。牧師イーランだ。演じるのは、『リトル・ミス・サンシャイン』でニーチェを敬愛する兄貴役を演じたポール・ダノ。第一印象は天使のように穏やかだが、自分の住む小さな町が石油の産出地へ豹変していくことで、彼もまた“カリスマ”とはちょっと違う不気味な宗教指導者へと成り果てていく。

 彼の説法は絶叫に満ちている。慈愛と狂信を全身にみなぎらせ、顔を真っ赤にさせながら涙目で「悪魔よ、出て行け!」と叫ぶ。とりわけプレインヴューに洗礼を施すシーンの異様さは筆舌に尽くしがたい。まるでカメラを回しっぱなしにして、ふたりの狭間で異様な空気が醸成されていくのをじっと観察し続けているかのようだ。なかなかカットがかからない。ふたりも演技を続ける。もういいだろう。いや、でもまだカットの声はない…普通ならばグダグダになってギャグへと転じてしまいそうなこのシークエンスで、彼らとPTAは絶対に逃げないのである。

 石油を探究するプレインヴューと、神の道を探究するイーラン。彼らは一対の合わせ鏡のようになっている。ふたりしてモンスターへと豹変していき、ことあるごとに衝突する。資源と宗教。合わせ技で一本。論じ始めれば現代にまで及んでしまいそうな歴史の火種がこの小さな田舎町を席巻する。いや、でもそれだけではこの物語は終わらない。

 原作小説でいうならば、本作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』はアプトン・シンクレアが著した「石油!」の一部分にしか過ぎない。原作ではこのあと、“資本家プレインヴュー”VS“血の繋がっていない息子”との飽くなき闘いへと発展していくのだ。映画の終盤、プレインヴューは息子に対して「バケモノめ!」と罵詈雑言を浴びせる。何を口走っているのか。バケモノはプレインヴュー自身ではないか。あるいは彼自身も父親から同じ言葉を浴びせかけられたのだろうか。歴史は繰り返される。目の前の息子もまたバケモノへと変貌していくカルマを宿しているのだろうか。

 先に、“資源”と“宗教”は現代に連なる悲劇のテーマだと述べた。だが『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は評論的に時代を読み解くことなどしない。これは紛れもない人間の物語だ。「たかがひとりの人間の破茶滅茶な人生」と誰かが言うかも知れない。しかし、血のつながりのまったく無いところで、同じ“怪物性”というやつは暗黒の液体が勢いよく噴射するかのごとく生じ得るのであり、何もプレインヴューだけが特別なのではない。

 息子、それにイーラン牧師。あるいはすべての人間の内面に巣食っているのかもしれないこの“怪物性”を真正面から描ききる。これまでのようなテクニックなどは通用しない。PTAは自らの内面にさえ巣食うこの魔物を赤裸々にあぶりだしながら『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の世界を宗教画のように描きこんでいく。

 “THERE WILL BE BLOOD”

 初めから結末はわかっている。しかしどういうわけか胸に爽快感が吹き込んでくる。すべての石油が噴出し終わったときのような、もう失うものなどなにもないようなこの達成感。それはひとつの神話の完結を意味する。PTAがこのジャンルに挑むことはもう二度とないだろう。ふとエンドクレジットの終盤に「ロバート・アルトマンに捧ぐ」の文字。そもそもPTAの傑作群像劇『マグノリア』はアルトマンの『ショートカッツ』の発想があってこそ生まれえたものだ。PTAはアルトマンの遺作『今宵、フィッツジェラルド劇場で』の撮影中、もしもの事態に備え「代打監督」として常に現場に付き添っていたという。物語とは全く関係ないが、こんなところにも血の繋がっていない親子のような関係性がついて回る。

 天国にいるロバート・アルトマンは「よくやった!」と笑っているだろうか。それとも「バケモノめ!」と嫉妬心をあらわに罵り倒しているだろうか。ともあれ、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は未来の巨匠PTAが踏みしめたマイルストーンとして、末永く語り継がれていくことだろう。

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ゼア・ウィル・ビー・ブラッド
監督:ポール・トーマス・アンダーソン
出演:ダニエル・デイ=ルイス、ポール・ダノ、ケヴィン・J・オコーナー、
キアラン・ハインズ、ディロン・フレイジャー
(2007年/アメリカ)ウォルトディズニースタジオモーションピクチャーズジャパン
4月26日よりシャンテシネほか全国順次ロードショー

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