映画部#1
いよいよ『ノーカントリー』が公開!ってことで、2008年3月13日、たまたま「ひまわり親方」と遭遇したことから、その流れで夜な夜な「映画部」が開かれました。話題の中心はやっぱりこの映画。『ノーカントリー』を観て悶々とした気持ちが抜けきらないでいるあなた、他愛のないおしゃべりにどうぞお付き合いください。
●いつものコーエン兄弟とちょっと違う?
ひまわり親方(以下、ひ):
いま話題のコーエン兄弟の作品といえば?
牛津(以下、牛):
そりゃもちろん『ノーカ…
ひ:『Henry Kissinger, Man on the Go』!
牛:ああ(笑)、彼らがアカデミー賞のスピーチで触れてた作品ね
ひ:ジョエルが15歳、イーサンが12歳の時の初監督作だって。ふたりでスーツを着て空港に乗り込んで、シャトル外交についての映画を撮ったっていう
牛:子供ながらに凄い発想だよね。タイトルも斬新だし。そして『僕らは今も、あの頃とちっとも変わってません』っていうスピーチ、よかったね。他の受賞者と違って、感極まって泣いたりもしないし
ひ:興奮してるコーエン兄弟なんて見たくないよ
牛:ずっと自然体でブレずにやってきたから、大人になってもマイペースな部分は変わらないんだろうね。彼らの場合、製作、監督、脚本、それに“ロデリック・ジェインズ”名義での編集に関してもずっとふたりの共同作業だから。
ひ:「分業はしてません、すべての過程において完全なる共同作業です」って語ってるよね
牛:だからこそ、あの掴み所のない独特の空気が貫けるのか
ひ:でも、『ノーカントリー』はこれまでとちょっと違ってたよ。これまでの飄々とした部分を残しつつも、なんか鬼気迫る感じがハンパじゃなかった。あれは「映画を観る」っていうより「体感する」って言った方が適切かも
牛:去年の作品賞が『ディパーテッド』だったじゃない。あれはスコセッシへの敬意の表れみたいなものだったから、映画単体としての評価じゃなかった。それに比べて、今年の『ノーカントリー』は、鑑賞者ひとりひとりが受けた途方もない衝撃を、授賞式のあの場でみんなでもう一度共有したい、っていう想いが強かった気がする
ひ:共有しなきゃ始まらない映画だよね
牛:うん、映画があまりにも強大すぎて、ひとりで抱えようとするとグシャっと潰されちゃう
ひ:心の中の変なツボにはまって、ずーっとダークな気分を引きずったりね
牛:逆に、ハビエルの髪型のことばっかり思い出して笑いが止まらなかったり(笑)
●『ノーカントリー』には正解がない?
ひ:僕らがこれほどショックを受けて潰されそうになってるのは、この映画の解釈に“正解”が存在しないからじゃないかな
牛:そうだね、「これだ!」って確信を突いたところで、すべてが曖昧なモヤの中に放り込まれてしまって、とたんに相手の姿が見えなくなってしまう
ひ:「アメリカについてのメタファーだ!」とか「世界を覆った暴力の連鎖だ!」とかいろんな指摘があるけれど、この映画(原作)は意図的に観客に“つかまらない”ようにできてるよね
牛:作り手の「そうかもしれないし、違うかもしれない。でも君に正解はあげないよ~」っていう飄々としたスタンスがすごくコーエン兄弟らしい
ひ:あまりメディアに出たがらないコーエン兄弟がいくつかのインタビューに答えてるのを見たけど、どの質問でもこの映画の解釈の部分には絶対に触れてないんだ。不思議な間合いでスルスルと質問をかわしちゃう
牛:映画監督にはだいたい二種類いて、自分の作品に関して分析的に語ってくれる人と、そうじゃない人がいる。きっとコーエン兄弟は後者なんだろうね。その代わり、“皆さんがどんなに受け取っても僕らは一向に構いませんよ~”っていうことなんだと思うよ
ひ:評論家から2時間の映画をたった一言で「アメリカのメタファーだ!」って要約されたとしても、やっぱり笑顔で「さあ、どうかな。僕らは原作を忠実に映画化しただけだし」って流しちゃいそうだね
牛:ブログで「はっきり言って不快でした!」「あれが作品賞だなんて理解できません」っていうストレートな意見を数多く目にしたけど、あれはむしろコーエン兄弟にとってウェルカムな反応だと思う
ひ:観客の心の中に到達できた、って証だもんね
牛:原作の「血と暴力の国」って邦題が表現するように、この物語が“アメリカ”の要素が少なからずあることはまず間違いない。ストーリーラインもテロ対策やイラク戦争で目に見えぬ敵に対してどんどん武装化して強硬路線を突き進んでいく過程と一致してる。けれど、その解釈だけがすべて、というわけではないんだよね
ひ:そうだね、それは解釈のひとつに過ぎないよね
牛:コーエン兄弟のことだから、あからさまな政治的メッセージを込めた映画を作るとは考えられないし、大統領選にあわせた共和党タタキってわけでもなさそうだし
ひ:でも、仮に同じ原作でコーエン兄弟以外の監督がメガホンをとったとしたら、まったく違った脚色で、ガラッと雰囲気の違った映画になったと思う
牛:シガーの生い立ちが描かれてみたりね(笑)
ひ:彼の家庭はひどい暴力家庭でした、とか(笑)
牛:この映画に被害者論を持ち出したらおしまいだよね
ひ:この前、原作を読んでみたんだけど、モスやシガーのアクションが事細かに描かれる一方で、彼らの感情がほとんど描かれてないんだ。映画と全くおんなじで、すごくドライ。そして途中途中で、ベル保安官が閑話休題的に「恐ろしい時代になったなあ」ってボヤくという。
牛:ベル保安官は読者にとって砂漠の中の水みたいな役回りなんだ?
ひ:キャラ的にはそうだと思う。そして僕らにいちばん近いところにいる人間でもある
牛:でも、むしろシガーの暴力性こそ身近でありふれたものかもしれないよ
ひ:原作者のコーマック・マッカーシーは“シガー”について“純粋な悪”と説明してるらしいけど
牛:個人的にはその説明は要らない気がするな
ひ:かえって世界観を縮めちゃうかもね
牛:世の中に“説明が存在しない”ってことほど恐ろしいものはないんだよね。いずれにしても、この映画の凄さは、“世界観を限定しない”ことで、あらゆる時間や空間をスッポリ飲み込んじゃったるところにあるんだと思う
ひ:ギリシア悲劇みたいに?
牛:あるいは“黙示録的”というか。物語的にあれこれ考え出すとキリがないんだけど、むしろ、精神的レベル、本能的レベルで体感したほうが楽しめるんじゃないかな
ひ:そうそう、いま唐突に思い出したんだけど、6月に公開予定のポール・ハギス監督作『告発のとき』でもトミー・リー・ジョーンズとジョシュ・ブローリンが共演してるよね。ストーリーは別物って分かっていても、頭のどっかでハビエル・バルデムの姿がチラチラって浮かんできて、あの凶悪事件の犯人は…あいつだ、絶対にあいつだ、間違いない!って思っちゃって…
牛:病んでるなあ…でもそれはまた別の症例なので、次の機会に
というわけで、夜も更けてきましたので、今回はこの辺でお開きに。
おつきあい、ありがとうございました
『ノーカントリー』レビューはこちら
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