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2005/09/26

『悪い男』

既に海外の映画祭ではお馴染みの顔にして、韓国映画界でひときわ異才を放つ監督、キム・キドクが「魚と寝る女」以来の堂々たるお目見え。東京フィルメックスなどでも毎年紹介されてきた監督作品にようやく時代が追いついてきたというべきか、2004年には彼の作品が4本も公開される運びとなりそうだ。時として垣間見られる残虐性とその真逆の繊細な感情描写との火傷するほどの温度差を例えて世界では「韓国の北野武」と評されることもある。

孤独なヤクザ男のハンギは、街角で見かけた女子大生ソナにひとめぼれ。次の瞬間、人ごみの中で彼女の唇を強引に奪う。すぐに騒ぎは大きくなり軍人に取り押さえられるハンギ。ソナからはツバを吐きかけられ屈辱感が押し寄せる。だが、彼は次の行動へと移行。それはソナを罠にはめて売春宿に送り飛ばす策略だった。作戦は成功。日々、客の相手をしてヤツれていく彼女を眺めながら、ハンギは複雑な感情に駆られていく…。

“悪い男"と呼ばれる男の顔は、そのファースト・カットから本当に“悪そう"だった。顔のつくりだけではなくて、なんかもう、根本的に悪いものを見た、って気持ちにさせられる。キム・キドクには恐れるものが何もない。映画とは似て似つかぬ端整でおとなしそうな顔をしながらも、彼がいったい何を見つめているのか皆目分からない。まるで子供にポルノを読ませるように観客の心を意図的に乱し、それにまともに付き合っていると神経がヒリヒリと火傷を負いそうだ。だが、そんな目を覆うような残虐性を包含しながらも、最終的には思いも寄らない芸術性と奇想天外な筋書きで観るものを圧倒する。その魅力に気付いたときにはもう虜になっている。キドク監督はベルリン国際映画祭に出品した新作「Samaritan Girl」で監督賞を受賞したばかり。我々がようやく本作へと辿りついたとき、彼はもう更に先の次元へと歩を進めている。

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『ヘブン・アンド・アース』

「グリーン・デスティニー」「HERO」「MUSA」に続いて、またまたアジアから壮大な歴史アドベンチャーが登場した!舞台は、その名を聞けば誰もがロマンを抱かずにはいられない、あの“シルクロード”。遣唐使として中国に渡ったひとりの日本人の長くて過酷な旅を、「双旗鎮刀客」のフー・ピン監督が渾身の力を込めて描ききる。主演は「鬼が来た!」のチアン・ウェンと「壬生義士伝」の中井貴一。共演に「少林サッカー」のヴィッキー・チャオ。

紀元700年頃の中国。13歳で遣唐使として派遣されて以来、いまだに皇帝に仕える一人の日本人剣士がいた。その者の名は、来栖(中井貴一)。25年ぶりの帰国が許された彼は、司令官の娘、文珠(ヴィッキー・チェン)を警護し長安へ送り届ける中で、皇帝より最後の仕事を命じられる。それは、「元将軍で反逆者の李(チアン・ウェン)を始末せよ」というもの。一方その頃、李は皇帝へ献上する仏教経典の護衛として長安を目指していた。ふたりの通り道はひとつ、シルクロード。闘いの時は、少しずつ近づいていた…。

つい先日にも、チェン・カイコー監督が真田広之を主演に歴史大作を撮ることを発表したばかりだが、アジアの歴史大作に付き物なのは“多国間協力”という概念だ。それもそのはず、例えば舞台を“シルクロード”と定めたときに、我々が歴史の時間に習った定義からすれば、そこに雑多な人種が集っていなければそれはシルクロードでもなんでもない。国家間の垣根を越えてこういったアジアの誇る壮大な物語が少しずつ映像化され始めていることに、同じ地に生きる者として息を弾ませずにはいられない。普段は“七三分け”で、よく見ると日本人らしからぬテイストを併せもつ中井貴一は、その髪を惜しげもなく振り乱して熱演。陰と陽の関係のごとく対峙する怪優チアン・ウェンと堂々と渡り合っている。

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2005/09/23

『四月の雪』が本国で不調?それでは韓国年間NO.1映画ってどんな作品なの?(ウェルカム・トゥ・トンマッコル)

ぺ・ヨンジュン主演の『四月の雪』が韓国では不振らしい。19日までの観客動員数が74万。「え、これ多いんじゃないの!?」と思われる方もいらっしゃるだろうが、韓国ではヒットすると数百万人を動員するパターンが多いので、日本との単純な比較では現状が分からないことになっている。では日本は?20日までの4日間で42万人。興行収入にして5億5000万円。配給のUIPでは30億円のヒットへと導きたいとしている。まあ、『四月の雪』は前にも個人的な感想をお伝えしたようにかなり地味で重いトーンの作品だ。かなりのエンターテインメント寄りの作品がとんでもないヒットを飛ばしてしまう韓国ではそれほどヒットし得ないことは当事者も薄々分かっていたのかもしれない。まあ、日韓両メディアは「ヨン様が日本においてのみ人気の外タレのようになってしまうかも!?」というような文句で煽り立ててはいるものの、日本の観客が満足して劇場を後にしているのならそれはそれでいいじゃないか。

というわけで、今回は6年ほど遡ったあたりからの各年韓国映画NO.1作品を列挙してみたいと思う。

1999年 シュリ

2000年 JSA

2001年 友へ/チング

2002年 大変な結婚(現在、日本の一部地域にて公開中)

2003年 殺人の追憶

2004年 ブラザーフッド

2005年  ?

本年度のNO.1を空白としているが、今のところ有力なのは『ウェルカム・トゥ・トンマッコル』という作品。これは朝鮮戦争時代にトンマッコルという浮世離れした平和な村があり、そこでたまたま鉢合わせてしまった韓国兵、北朝鮮兵、アメリカ兵の3者が三すくみ状態に陥るも、村人の粋な計らいによってその緊張はすぐに打ち解け、3者は仲良くこの村に住み着くようになるのだが・・・というヒューマン・ファンタジー。本国では動員数が既に800万人を越え、『マラソン』、『親切なクムジャさん』を追い抜くどころか、なんと韓国歴代ヒット作の第4位につけ、今後まだまだ数値を伸ばしていきそうな気配だという。ちなみに歴代NO.1は『ブラザーフッド』、NO.2は『シルミド』、NO.3は『友よ/チング』という順序になっている。

ウェルカム・トゥ・トンマッコル

監督:ペク・カンヒョン 主演:シン・ハギョン、チェン・ジェヨン、カン・へジョン日本での公開はまだ未定

そうそう、この映画の音楽監督はなんと久石譲だというから驚きだ。いつから彼の活動はこんなにボーダーレスとなったんだろう。

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2005/09/22

『チャーリーとチョコレート工場』に満ち溢れるこの幸福感はいったいなに?

恐らくチャーリー少年を見ていてとても心が温かくなるのは、彼の存在に「調和」を感じるからなのだろう。それは彼の住む「(文字通りの)傾いた家」の中に漂う空気のようなものでもある。

父親は「歯磨き粉工場」で働き、そこをクビに。家には祖父祖母が4人同じベッドで暖を取り、夕食のスープにはキャベツが浮かんでるだけ。そんな貧しい中にありながらも彼の家庭にはそこはかとなく「調和」の灯火が絶やさず明かりをともし続けている。そんな家庭の描写のひとつとして、おじいちゃんが汚い言葉を吐きまくり、思わず父親がチャーリーの耳を塞ぐというシーンがあるのだが、後にこのおじいちゃんが「いいか、紙幣は毎日刷られ続けている。しかしゴールデンチケットは1枚しかないんだぞ。それをお前は捨てるというのか?」などと問いただし、チャーリーが思わず「イエス、サー」と言ってしまうところを見ると、このおじいちゃん、恐らく軍隊上がりなのである。後々のシーンでキューブリックの『2001年 宇宙の旅』のパロディが登場するところを見ると、もしかするとこのおじいちゃんのくだりは同じくキューブリックの『フルメタル・ジャケット』のパロディですらあるのかもしれない。

で、まあ、「調和」の話だ。チョコレート工場のウィリー・ウォンカ氏はとある出来事から今回の見学ツアーのアイディアを思いつく。作中では原作にない彼の過去(少年時代)が語られるが、「歯医者」であった父親の存在と、それでも「チョコレート」を食べたかったウィリー少年の間にはティム・バートンの前作『ビッグ・フィッシュ』でも見られた父と息子の関係性が浮上しており、思えば「歯医者」と「お菓子」の関係性というものは一見互いに反目しているようにも思えるが、実は「歯」という対象を取り巻くバランスのようなものとも考えられる。つまり「調和」なのである。本作を既にご覧になった方ならお分かりかと思うが、クライマックスではその「調和」という方向性がさらに突き詰められることになる。なぜだかこのごろのティム・バートンはそういうテーマにご執着らしい。そして、この世界中で有名な原作にそのようなテーマ性を盛り込むことの出来る手腕と度胸にはほとほと頭が下がる。

このストーリーの中で現われし他の子供達、そしてウォンカ氏は皆、きれいな歯を持ってはいるものの、それが保たれているのは「調和」からかけ離れた別の理由によるものだ。その“バランスが悪い”とされる挑戦者たちを、ウォンカ氏はティム・バートン風のブラック・ユーモアでもって次々と脱落させていく。彼は調和か否かを見抜く才能(そんなもの観客でも一目瞭然ではあるのだが)を持っている。と同時に、彼をそれらの行動へ向かわせるのは、彼自身がかねてよりバランスの悪い状況の持ち主であるという事実を暗黙のうちに悔いているからではないだろうか。

つまり、永久に少年のようでさえあるウォンカ氏にもいつかは「老い」という魔物が食いついてくる。そのタイムリミットが迫る時分になって、彼はようやく過去の記憶をフラッシュバックさせはじめ、そのような修復能力が自ずと働き始めたのかもしれない。結局は彼も手探り状態で、チャーリー少年の持つような「調和」を模索するようになる方向性がこの映画の本質でもある。

そんなことを考えながら、スクリーン上のチャーリー少年に「君はとても調和しているね」などと語りかけたところで、彼はきっとただポカンとしてしまうだけなのかもしれない。だって、彼の言葉を借りれば「理屈ぬきに楽しいのがお菓子」なのであって、きっと「理屈ぬきに温かいのが家族」でもあるに違いないのだ。

こういう映画の根本的なところを「調和」などといった言葉で片付けてしまう僕のあざとさを彼は笑うだろうか。白髪は生えていないものの、僕もそろそろ引き返せないところまで歳を取り始めているのだ。

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2005/09/21

『アビエイター』をどう見るよ!?

「・・・で、何が言いたかったの?」

アカデミー賞最多4部門受賞を果たした本作だが、実際に日本でこれを観た人の中にはこう呟く人も意外と多いことかと思う。

たとえば我々が幼い頃、図書館で体験したような記憶に思いを馳せるならば、そこには伝記コーナーの前で何かしら「聞いたことのある名前」を手に取る自分の姿が浮かび上がるだろう。そこに「ヴィトゲンシュタイン」という名前があったとして恐らくその幼子は早口言葉の練習材料以上としての興味は何も沸かないだろうしだろうし、もしかすると成人した今でさえ「ヴィトゲンシュタイン」への興味はむしろゼロに近いと思うのだ。

それで、長々と何が言いたいのかというと、「ハワード・ヒューズ」って人、知ってますか?興味ありますか?ってことなのだ。このたび製作をも手がけたという主演のレオナルド・ディカプリオを10代の頃から魅了し続けたこの実在の富豪、飛行家、映画監督に関する伝記映画が本作なのである。アメリカ人にとってはきっと有名な人物なのだろう。もちろん「ヴィトゲンシュタイン」よりは浸透度が高いに違いない(もういいって)。

本作について言えば、少なくとも日本人にとっては照準の絞り方が困難だ。3時間近い長丁場の推進力は、開発不可能と言われた飛行輸送機が一度きりの試験飛行に成功するという“ストーリー・ライン”によるものではなく、きわめて年表的な時間軸のように思える。1978年に死去したヒューズの黄金期20代~30代にスポットを当て、そこで巻き起こったハワード・ヒューズに関する事件を時系列に挿入させていく。まあ、ストーリーは公式サイトを見ていただくとしよう。いや、むしろ彼の人生をきちんと頭に入れてから臨まれたほうが、それが少なからず楽しみにつながるであろうことは絶対に保証する。

もちろん、『ギャング~』から始まり『アビエイター』を経て次回作「Departure」(『インファナル・アフェア』のリメイク)に至る「スコセッシ&ディカプリオ」コンビは、互いにカリスマ的俳優の「若さ」と巨匠の「巧さ」とがガッチリと手を結んだシリーズではある。観客の集中力が続くかどうかは別として、本作が見せる、カメラの枠を越えて1930~40年代の風景がどこまでもどこまでも続いていくような映像世界には、作品を細かく観れば観るほど湧き上がる圧倒感を禁じえないし、社交界シーンと飛行シーン(特に「アルマゲドン」を超える勢いの墜落シーンは必見)のスケール、終始額にスジを刻みながらまるで飛行機のエンジンのようにフルスロットルで回転を続けるディカプリオにも人物的な魅力ではないが、演技的には成長を感じる。

そしてたった一人の存在感でその場のイメージをガラリと自分色に変えてしまえるケイト・ブランシェット扮するキャサリン・ヘプバーンには、その出演シーンのすべてにおいてハッとさせられる魅力に満ちている。僕はキャサリンの出演作品をそんなにたくさん見ているわけではないが、僕が『アビエイター』を鑑賞する前日にたまたまNHK-BSで放送されていた作品を見た分には、彼女のイントネーションと気取りのない活舌の良さは、本作においてそのままケイトに乗り移ったかのような印象さえあった。もちろん映画がただのそっくりさん自慢になってしまってはしょうがないわけではあるが、彼女を見ていて僕は、むしろこのまま突然字幕が登場し、「アビエイターの途中ですが、事情によりキャサリン・ヘプバーンの話に変更させていただきます」って趣旨変更されたほうがよっぽど良かった気がした。それは結局、観客としていかにたやすくキャラクターに入り込めるか、という至極単純な問題なのだ。

その点、ハワード・ヒューズという人物はあまりにも謎に満ちている。本作を観ても謎は一向に解消されないし、むしろ本作の狙いは“謎を謎として提示する”ことにもあったと思う。そこに特別な結論を付け加えるでもなく、そのあまりに広大なディテールをブワッと一挙に提示してみせた、その点において製作者とスコセッシともに職人的な仕事ぶりを讃えられるべきだと思う。しかもそれが3時間近くも息切らせずに続くのだから、その精力の持続ぶりは人知を超えたところにある。

だって映画の中のハワード・ヒューズでさえ時々自分のことがわからなくなるのだ。ディカプリオが気が狂ったように手を洗ったり、ミルクを所望したり、同じフレーズを口ずさむのがとまらなくなったり。それでそういう兆候が現れ始めた自分に恐れおののいたりもする。それだけ「ハワード・ヒューズ」という人物は本人さえも超越してどっかの次元へと羽ばたいてしまっている。コミカルに見せていたこの手の描写がいつしかどうしようもなく本人を襲いはじめる切実さといったらない。

つまり、本作は、ハワード・ヒューズのあまりにも広大な人生模様を圧倒的でパワフルな手腕のもとで3時間という尺に詰め込んだものの、結果として観客(特に日本人の)はその人生の入り口にようやく立てたかどうか、という地点で終幕を迎えるにとどまる。 それはむしろ当然のことかもしれないし、それがスコセッシの目論見なのだとしたらそれはそれで凄いことだろう。事実、アカデミー賞効果も手伝って、今回ハワード・ヒューズを知らない世界中の人々の間で一気に彼の知名度は上がった。これは映画というメディア以外には到底成しえない偉業だと思うのだ。

スコセッシの作品に関して「何がいいとは一口では言い切れないが、とにかくすべての描写が深くて素晴らしい」という記述をネット上のどこかで見つけたのだが、僕にももちろんそんな風に特別な感情を抱く映画監督はいるし、その気持ちはよく分かる。しかし、どうにもスピルバーグ世代という時期を成長してきた僕にはそんな気持ちになれないのが悲劇といえる。

それで僕はいよいよ迎えるクライマックスに向けて心の準備などしつつ、席に座りなおしたりしながら、ひとつの“締め”の描写を目の当たりにする。そこで気が付いたのは、結局この人物が、冒頭とラスト(詳しくは述べないが)において母親の記憶に包まれて描かれていたということだ。

僕は映画を観るときに必ず、どうしてこの作品がそこに生まれ出でたか、について一番興味関心を惹かれるのだが、その地点に至って、本作に関するようやくひとつの答えを得られたような気がした。つまり、この父性全快の時代に、いかに国家が潜在的に母性を求めているか、という解釈だ。それはなんともフロイト的な解釈になりかねないのだが、たとえば、ブッシュ批判の極みだった『華氏911』がクライマックスにかけてジャーナリズムというよりは感情的な反戦歌のようになっていった事実にも何か故郷で息子の帰りを待ち続ける母性的なものを感じてしまうように、つまり、何かこのアメリカという遠い国がどうしようもなく行き詰まりを迎えているような気がしたのだった。

そう考えたときに、眉間にしわのハワード・ヒューズの姿はジョージ・ブッシュを主人公としたアメリカ現代史にも重なりあうように思え、その父性の象徴的存在が最後に「母性」を求めていた、というあまりに涙ぐましい告白(僕にはこう見えた、というだけだが)に、ああ、とうとうこんな映画が作られるまでにこの国は追い詰められているのか、とただ身を切るような気持ちに襲われた。

最後になるが、最近めっきり出番が多くなっているジョン・C・ライリーがいい味を出している。というか出演してくれるだけでこっちが嬉しくなる。彼の役どころは芸術だとか技術に関してはいっさい理解できない男。しかし何故かヒューズには何か希望を見出しているというフツーの男だ。ヒューズの監督作『地獄の天使』のプレミアで観客が大喝采を贈った時、彼はキョロキョロとあたりを見回し、それで「・・・ああ、いい映画だったのか」と初めて気が付いて拍手を始める。そんな小ワザがいい。多分、この映画にはそんな細かさが他にもたくさん詰まっているんじゃないか。それは2度や3度見ただけでは決して理解できるものではなく、先にも書いたが、もちろんそれこそが人の伝記、ハワード・ヒューズの人生と思われるのである。

「で、何が言いたかったの・・・?」

そこに答えがあっては人の人生としてどうなんだろう。否定的に思われるこの言葉が、時として肯定的に響くことだってある。特に人間の人生に関しては、そう易々と答えなど出てたまるものか。

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第18回東京国際映画祭がいよいよ始動!

第18回東京国際映画祭の概要が発表されました。

●チャン・イーモウ(監督/審査委員長)
●桃井かおり(女優)
●ロン・ハロウェイ(ドイツの映画評論家)
●鈴木光司(Mr.リング)

■オープニング作品『単騎、千里を走る』
■クロージング作品『力道山』
■クロージング・ナイト『大停電の夜に』

↑これまでのようなハリウッド大作がなくなってしまいましたね。これも特色を出すひとつの方法ってことで。


*チケットの発売は10月8日。
上映作品&スケジュールはこちらから確認できます。
http://www.tiff-jp.net/#

今年も良い映画とたくさん出会えますように!

*******************

ところで、この映画祭の歴代グランプリ(東京グランプリ)にはどのような作品があるのでしょうか。調べてみました。あなたは何本くらい見たことがありますか?

1985年(第1回) 台風クラブ

1987年(第2回) 古井戸

1989年(第3回) ホワイト・ローズ

1991年(第4回) 希望の街

1992年(第5回) ホワイト・バッジ

1993年(第6回) 青い凧

1994年(第7回) 息子の告発

1995年(第8回) 該当作品なし

1996年(第9回) コーリャ/愛のプラハ

1997年(第10回) ビヨンド・サイレンス、パーフェクト・サークル

1998年(第11回) オープン・ユア・アイズ

1999年(第12回) 最愛の夏

2000年(第13回) アモーレス・ぺロス

2001年(第14回) スローガン

2002年(第15回) ブロークン・ウィング

2003年(第16回) 故郷の香り

2004年(第17回) ウィスキー

『スローガン』と『ブロークン・ウィング』はまだ公開されてないんですね。良質ながらとても地味な作品であることは理解できるんですが、そうなればこの映画祭の権威というものはいったい何なんだろうという気持ちもしてきます。少なくともグランプリを受賞した作品は映画祭事務局が責任を持って公開の道を模索する、いや、もっと大手を振って劇場公開できるようなブランディングと環境作りが望まれるところです。

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2005/09/15

ヨン様の『四月の雪』を試写。

『四月の雪』を試写させてもらった。先日の来日会見の際には、きっと凄いことになっているだろうとの憶測(いや、確信)のもと、すっかり弱気になって会場に赴くことさえ出来なかった。そんな僕に本作とあいまみえる資格があるのだろうかといささか憂鬱になりながらの試写。『八月のクリスマス』や『春の日は過ぎゆく』の確立された映像演出で観るものを心酔させてきたホ・ジノ監督の手腕はやはりここでも健在だった。

インス(ぺ・ヨンジュン)とソヨン(ソン・イェジン)演じる男女が出会う場所は救急病院。ふたりはそれぞれに妻が、夫が交通事故に巻き込まれたとの連絡を受けて駆けつけていた。緊急治療室で生死の境をさまよい横たわるふたりの男女。彼らは事故当時、同じ車に乗り合わせていた。どうやら主人公らの目を盗んで不倫関係にあったらしい。普段はまったく酒が飲めなかったはずのインスの妻からはアルコールが検出されていた。

飲酒運転による交通事故・・・しかも対向車線を走行中に巻き添えになった若い男性はすでに息を引き取っていた・・・。あまりにも衝撃的な事実を突きつけられ、絶望の淵に立たされたインスとソヨンには言葉も出ない。意識不明のままの妻の顔を眺めながらインスは言う。「いっそのこと死んでくれればよかったのに・・・」。

それでも看病のために毎日通院しなければならないインスとソヨンは、そんな状況の中でまるで互いの傷を癒すように言葉を重ねていく。そしていつしか、彼らの互いを想う感情は特別なものへと変わっていた・・・。

こういったあらすじで物語は進行し、まあ、これを読まれれば大抵の方はこう想うに違いない。

「暗いなあ・・・!」

そう、本作は哀しみの物語でもある。冒頭部なんて哀しみのミルフィーユのような構造で描かれていて、うわあ、もうこれ、どうしよう、とこの悲劇に自分が耐えられるのか心配にすらなってしまうのだが、それは観客がインスとソヨンというふたりの主人公らの感情を少なからず推察してしまうからで、実際には彼らが泣きわめいたりなどという見ているのも辛い劇的なシーンがあるわけでもない。

そこに映るのは、どんよりと曇った空、うっすらと降り積もる雪、一面に広がる荒涼たる田園地帯。観客はこれらの描写をもとに、自ずと彼らの心理状態を察してしまうのだ。そこには互いの気持ちを安易な言葉で表現してしまうような演出などいっさい存在せず、イメージによって積み重ねられていく心の変化といったものが、ごく自然に伝えられていく。この上手さに僕ははっきりいって脱帽したのだった。

また、病院のベッドに横たわる男女の表情を克明には映さないことで、主人公らにとっても“自分の妻、夫の表情が見えていない”状況なのだということが瞬時に伝わってくる。自分のいちばん側にいた人間について実は何も知らなかったのだ、という絶望。そんな残酷な状況に見舞われた彼らであっても、明日はやってくる。その当たり前な日常がもたらす更なる絶望・・・。

僕は最初、いろんな媒体で「やがてインスとソヨンが心を通わせていく」という展開を知らされ、「いやあ、それは出来すぎだろう!」などと思っていたのだが、彼らの置かれた状況とは実際そんな生易しいものではなく、むしろ「明日を生きるために心を通わせる」といった様相にやりきれなさを感じたのだし、ホ・ジノ監督によって丹念に描かれる心象風景が絶妙であるからこそ、観客は知らぬうちにその境地へといざなわれてしまう。

かなり重い映画ではあるものの、クオリティとしては非情に高い。こうした作品を日比谷スカラ座のような一級の劇場で観られるのは、日本人としての幸福と言えるのかもしれない。

ちなみにソヨン役のソン・イェジンは10月公開の『私の頭の中の消しゴム』という作品でもヒロイン役を演じている。これまた幸せの絶頂でアルツハイマー病に侵されるという薄幸な女性役であり、いや、彼女の魅力はきっとその“薄幸そうなたたずまい”にこそあるのではないか、と勝手ながら感じてしまった。こちらの作品は、原作がなんと日本のドラマということで(永作博美が主演でした)、驚くべきことにまったく韓国っぽい匂いのしない“世界標準”的な上質ラブ・ストーリーに仕上がっていることを付け加えておきたい。

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2005/09/14

『トゥルーへの手紙』を、日本でも。

写真家のブルース・ウェバーが愛犬トゥルーへの手紙というカタチでアメリカへの郷愁の想いを綴った『トゥルーへの手紙』というドキュメンタリーが10月8日より公開となる。

これに併せてEYESCREAMでは、日本で活躍する写真家陣とコラボレートして「LETTER TO MY DOG」という特集を企画。この写真家たちが愛犬への想いを綴った「日本版:トゥルーへの手紙」とも言うべき誌面特集が評判となり、シブヤ西武百貨店にて展覧会が開催される運びとなったようです。

“LETTER TO MY DOG” 展
9月13日(火)~10月3日(月)
シブヤ西武百貨店 3F連絡通路特設会場
(A館とB館をつなぐ通路)
参加アーティスト:長島有里枝/半沢克夫/藤代冥砂/レイク・タホ

『トゥルーへの手紙』は10月8日より、渋谷シネマライズにて公開。

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『殺人の追憶』の絶望の淵で、わずかに微笑む。

韓国では、『シュリ』『JSA』さらには『マトリックス』シリーズをも超える560万人を動員。見事、2003年興行収入No.1を記録した。出演は、『シュリ』『JSA』のソン・ガンホ、『気まぐれな唇』のキム・サンギョン。監督は、『吠える犬は噛まない』のポン・ジュノ。第16回東京国際映画祭では「アジアの風」にて上映され、アジア映画賞を受賞している。ちなみに韓国の興行成績NO.1をその年ごとに振り返ってみると、1999年『シュリ』、2000年『JSA』、2001年『友へ チング』、2002年『大変な結婚』、2003年『殺人の追憶』、2004年『ブラザーフッド』という具合になっており、2005年については今のところ『マラソン』が優勢であると見られている。

1986年、ソウル近郊の農村で若い女性の裸死体が発見された。無惨にも手足を拘束のうえ暴行されており、その後も同じ手口の連続殺人事件が相次いで発生。現地には特別捜査本部が設置され、地元の刑事パク・トゥマン(ソン・ガンホ)とソウル市警から派遣されたソ・テユン(キム・サンギョン)は、この難事件に挑む。性格も捜査方法も異なる二人は、対立を続け何度も失敗を重ねながら、ついに有力な容疑者を捕らえるのだが…。

本作が“衝撃的なサスペンス”でありながらも、“笑い”の要素をふんだんに取り入れていることに驚かされる。そういえば、ポン・ジュノ監督の前作『ほえる犬は噛まない』も抱腹絶倒のコメディだったが、この作品でもふとした瞬間にふらりとジャンルの境界を越えて、なんだか凄く切なくなってしまったり、という部分が多分に見受けられた。本作も同じだ。一方で笑わせておいて、他方で途方もない“恐怖”と“無力感”が背後から忍び寄り、知らないうちに身体を蝕んでいく。人間、これだけどうしようもない絶望に追い込まれるとかえって感動すらしてしまうのだから、本当に奇妙なものだ。これらのジャンルの器用な往復に、観客の体内時計はすっかりと狂わされてしまう。岩代太郎の音楽も耳にやさしくて素晴らしいし、またそのバックに映し出される田園風景も息を呑むほどに美しい。だからこそ恐ろしい。我々は、それらを「美しい」と感じた瞬間に、次の罠への入り口に立たされているのだから。

ところで、ポン・ジュノ監督は意外な日本通としてもよく知られており、日本の漫画「オールド・ボーイ」を友人でもあるパク・チャヌク監督に紹介したのも彼だったし、山下敦弘監督作『リンダリンダリンダ』に『ほえる犬は噛まない』で主演したぺ・ドゥナが出演することになったのも彼の紹介がきっかけだったという。

8月に日本で公開された『南極日誌』では脚本執筆に参加していたジュノ。期待を集める新作は2006年の夏に公開の『怪物』という作品となるようだ。本作は、突如現われた怪物の手から逃れようと奔走する家族の物語、となっている。 「怪物」という言葉を聞いたときに僕は『殺人の追憶』のラストシーンを思い浮かべてしまう。そこでソン・ガンホの見せた表情とは、まさしく人間という名の怪物の存在にうちふるえる哀れな子羊といった衝撃的なものだった。

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2005/09/13

スピルバーグの新作はこんなことになっている。

スピルバーグの『宇宙戦争』に続く新作はこんなことになってるらしい。

その名も、『MUNICH(ミュンヘン)』。

1972年9月5日にミュンヘン・オリンピックにて発生したイスラエル選手団襲撃事件にスポットを当てた作品とのこと。この事件の実行犯、“ブラック・セプテンバー”の11人の構成員を暗殺すべく、イスラエルの特殊精鋭部隊“モサド”が送り込まれてくる。その後の中東の歴史を左右したとも言えるこの事件を、スピルバーグは「復讐を命じられた兵士の視点で描きたい」と語っているらしい。

なるほどスピルバーグ→ユダヤ人というこちらの発想は早合点というわけだ。

彼にはこの映画を通じて、やはり“現代”を描きたいとする想いがあるようだ。そういえば彼は『宇宙戦争』でも100年前に上梓された古典を基に見事“現代”を描いていた。憎しみが憎しみを呼ぶテロ後の世界縮図をスピルバーグがどのように表現するのか、そしてこの時代にいかなるエンターテインメントとしての道筋を提示するのか、いまから楽しみである。

『ミュンヘン』のアメリカ公開は「2005年12月23日」って、今年か!はえー!! っていうか、アカデミー賞狙いが見え見えだな。日本での公開は「早春」ということだから「お正月」か、「正月第二弾」くらいだろうか。1年に2本という公開ペースで進むスピルバーグの創作活動。ビジネスと表現活動とを両立できる手腕はやはり凄いというか、神がかり的ですらある。

出演はエリック・バナ、ダニエル・クレイグ、ジェフリー・ラッシュ。脚本は『フォレスト・ガンプ』や『モンタナの風に抱かれて』や『アリ』『インサイダー』といったマイケル・マン監督との共同作業の多いエリック・ロスと、『エンジェルス・イン・アメリカ』で高い評価を受けたトニー・クシュナーが担当。撮影はヤヌス・カミンスキー。音楽はおなじみジョン・ウィリアムズ。

なお、本作と同様の内容を描いた『テロリスト 黒い9月』というテレビ映画がすでに1976年に存在しており、77年に製作されたジョン・フランケンハイマー監督作『ブラック・サンデー』もスーパーボウル真っ只中の競技場を舞台にテロリスト集団と特殊部隊との決死の攻防を描いた傑作として名高い(タイムリーな作品であったがゆえに日本では公開中止にまで追い込まれてしまったが)。

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『ネバーランド』で、大人になる“痛み”を知る。

2004年12月27日は英国で舞台『ピーターパン』が上演されて(つまり劇作家ジェームズ・バリがこの作品を発表して)から100周年だったという。これを記念してかどうかはわからないが、バリがいかにしてこの“子供のための永遠のバイブル”を生み出すにいたったかについて丹念に触れた物語がこの『ネバーランド』だ。

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『ブラザー・グリム』で、ギリアムの異端ぶりを確認

もう最初っから終わりまで特殊効果をそっちのけで暴走しまくる役者のバイタリティ&テリー・ギリアム仕込みの顔芸の数々に気分が高揚しっぱなし。

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『サイドウェイ』で、華麗なる負け犬文化を学ぶ。

そもそも美形俳優が揃い踏みの映画のためにわざわざ劇場まで足を運ぶことに、いったいどんな意味があるというのか。仮にそういう疑問で始めたならば、そこには、本作のように「あまりパッとしない」風な俳優たちが一堂に会した映画を観ることに意味はあるのか、という対となった疑問さえもが立ち現れる事態も考えられる。

要は、両者ともに等価値ということだ。

顔が良くても悪くても、結局、観客はものの5分もすれば顔のことなんて忘れる。もしも10分、30分、1時間後でもずっと「かっこいいなあ…」と俳優に見とれている観客がいたとすれば、それは映画じゃなくて特定の俳優を観に来ているのだと、多少の悪意を込めてそう断言してやっても構わないだろう。

つまり、ポール・ジアマッティのような顔立ちの俳優が登場し、「うん、このワインの香りは…」なんてうんちくを垂れながら、豊穣なその液体を舌の上で器用に転がしてみせる様子に、僕らはきっと、「その顔で美を語るなんて…」という多少の“絵にならなさ”を一笑しがちなのだが、観客が彼の顔の“面白さ”をちょうど忘れる頃に、コメディ一辺倒だった作品のトーンは僅かに境界線を越える。

そのきっかけはヒロインのヴァージニア・マドセンだった。
彼女がワインへの想いを告白するシーンは本作でもっとも美しさに彩られた瞬間だろう。

「一本のワインが精製される過程でどのような運命をたどってきたのか、いつもそのことに想いを馳せながらその味わいを口にする。そう、ワインはひとつひとつ違う…」

この言葉はもちろん、ワインのみならず全てのキャラクターへの慈しみを語ったものとしても受け取れる。そこで流れるジャズの和音が、フレーズごとに様々な響きに形を変えて耳に届き、そのあり方には、ワインの渋みやまろやかさといった持ち味すべてを結集したかのような様子さえ感じられた。そしてこの瞬間、恐らく観客の半分くらいはスクリーンの彼女に恋をする。もちろん、この映画の主人公もまっさかさまに恋に落ちる。それはもう見事なほどに・・・。

そもそもこのワイナリー・ツアーは、もうじき結婚する親友のために主人公が企画したささやかなイベントに過ぎない。そしてこれは間接的な、男どうしの“別れ”の旅でもあるわけだ。この旅はやがて終わりを告げ、そうして独り身の男はまた独りとなっていく。そこには馬鹿騒ぎの余韻というか、どうしようもない切なさがあふれる。しかし、ラストはまた、心地よくあったかい。

真の大人ならばこういうときに極上のワインでも一杯、ということになるのだろうが、本物でない僕には、せめて就寝前に安物のワインを口に流し込むことで精一杯だった。どうにかマイルス(主人公)がやっていたように口の中で液体を転がそうとしたら、その直後、あろうことかむせ返した。なんという負け犬。

そんな負け犬たちが愛せる作品として、本作はとても安心なのだ。

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『グッバイ、レーニン』に見る“やさしい虚”

ドイツで公開されるや次々と歴代記録を塗り替え、ドイツアカデミー賞9部門に輝いた心温まるヒューマン・コメディ。監督は、ドイツ映画界の旗手として活躍するヴォルフガング・ベッカー。新星ダニエル・ブリュール、ベテラン女優カトリーン・ザースらがコミカルにそして涙ぐましく演じるバックには、あの『アメリ』のヤン・ティルセンによる音楽が、おもちゃ箱をひっくり返したかのような愉快さと哀愁をもって響き渡る。

ベルリンの壁崩壊前の東ドイツ。主人公アレックスは、社会主義に傾倒した母クリステリアーネと暮らしていた。ある日、心臓発作を起こし意識不明となる母。その8ヶ月後、長い眠りから奇跡的に目覚めた母だったが、その間にベルリンの壁はすっかり崩壊し、ドイツは劇的な変化を遂げていた。「一度でも強いショックを与えたら命取りになる」との医者の言葉に、もしも母が東ドイツの崩壊を知ったなら・・・と不安を抱くアレックスは、母を自宅に引き取った後も、東ドイツがずっと存続しているかのようなフリを装うのだが・・・。

近年稀に見る幸福感に満ち溢れた作品。まるで“ドイツ版・三谷幸喜作品”とでも言うべき団結力をもって、世紀の大芝居が展開する。興味深いのは、東ドイツと西ドイツの地図上の“横の関係性”に合わせて、地上と宇宙とを結ぶ“縦の関係性”が登場することだろう。東ドイツが周りとの接触を絶っていた時代にはこのようにして心の広がりを遥か上空に求めるしかなかったのだ。本作ではこの対比がいたるところでメタファーとして使用され、それ識してみることで、東側の人々の心の内を感じることが出来る。“フィクション”あるいは“物事の虚構性”といった部分が核となる構造は、『ライフ・イズ・ビューティフル』『アダプテーション』、そしてティム・バートンの『ビッグ・フィッシュ』などに見られる9.11以降の世界の映画製作シーンで見られる新たな特徴であり、現代という時代性の大いなる映し鏡として受け止めることができるだろう。

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エターナル・サンシャイン

例年、アカデミー賞で注目を集める作品ラインナップといえば、その多くが前年の12月に滑り込み公開を迎えギリギリにノミネートの権利を獲得したものばかり。そうすることで人々の脳内に新鮮な記憶を刻むことが作戦なのだとしたら、昨年3月の公開にもかかわらず観客の記憶の中でずっと輝きを失うことのなかった本作こそ、本来の意味でのマスターピースと呼びうるものなのではないだろうか。

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『ドッグヴィル』で精神的に追い詰められるキャスト、そして観客。

果たしてここは舞台上か、それとも巨大なスタジオか。床はチョークによってそれぞれの敷地が割り振られ、住民すべてがまるで子供の“ままごと”のように何もない空間で生を営む町、ドッグヴィル。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でカンヌ・パルムドールを受賞したデンマークの巨匠ラース・フォン・トリアーが、まだ一度も見たことのない地“アメリカ”(監督自身、飛行機恐怖症であり、海外旅行を避けたがる傾向にあるらしい)を奇想天外なイマジネーションのもとに描き上げる。出演は、リメイク版『奥様は魔女』のニコール・キッドマン、『マスター・アンド・コマンダー』のポール・ベタニー、『ブラウン・バニー』のクロエ・セヴィニー。

ロッキー山脈にある平和な村ドッグヴィル。ある夜、そこにギャングに追われた見知らぬ女が逃げ込んでくる。村人たちはそのグレース(N.キッドマン)と名乗るその女性をとりあえずはかくまうことにしたものの、その働きぶりが功を奏し、次第に彼女は村人に受け入れられるようになる。だが、どういうわけか村人の“善意”はいつしかエスカレートし、弱みに付け込み、彼女をまるで奴隷のように扱わうようになる。グレースは今や、村の“害悪”として見られるまでになり、彼女をいっそのことギャングに売りとばす案すら浮上するのだが、村人達はこの後自分達にどのような運命が待ち構えているのか知る由もなかった・・・。

この映画の挑発的な存在感には観ていてヒリヒリするものがある。人間の深層心理に対してこれほどまでに執拗で変質的なアプローチを施してしまっていいものか。まるでハリウッドが誇る特殊技術をあざ笑うかのような“空間的な何もなさ”。そして、技術や金などでは決して描くことのできない“実験的コミュニケーション”という発想。ラース・フォン・トリアーの怪物のごときその創造性には恐れ入って言葉も出ない。まるで人形をもてあそぶかのように、主人公をいとも簡単に地獄へと突き落とす変質的な描写がいたるところに驚き共に立ち現れてくる。その境地へといざなわれたこと自体、僕には初めての体験だったのだし、この味を一度試してみたのなら、この先にいかなる「衝撃作!」の類が登場したとしても、僕にはそれがとうてい楽しめそうにない。いまのところもっぱらの懸念はそれくらいであり、もしも本作をご覧になった誰かが不快感を露にして怒鳴り散らしていらっしゃったとしても、本作が傑作であるとそう確信している僕にとってはまったく影響がないことというか、そうした反応も含めた“問題作”として、ますますこの映画の目指すべき境地へとたどり着いたものとみなしてホッと胸をなでおろしさえするかもしれない。

ちなみに本作の撮影中、スタジオのすぐ近くには「告白室」なるプレハブが建てられていた。そこには休憩の度に俳優やスタッフがひとりずつ人目を忍ぶようにやってきて、カメラの回っている中でひとり撮影についての愚痴をこぼし続けていたのだという。トリアー監督はそもそも役者を極限にまで追い込むことに関しては右に出るものがいないほどの変質的な人で、そのことでノイローゼ気味にすらなって告白室の扉を叩く者の姿も見受けられた・・・という舞台裏の風景が収められたドキュメンタリー『ドッグヴィルの告白』も本作の上映に併せてレイトショー公開され話題を呼んだ。

実は物語はこれで終わりというわけではない。『ドッグヴィル』を発表した2003年のカンヌ映画祭で、トリアーはこれが「アメリカ3部作」となることを宣言しており、そのことを証明するかのように2005年のカンヌでは続編『Manderlay』を発表。主役を降板してしまったニコール・キッドマンの代わりには『ヴィレッジ』の透明感溢れる演技が絶賛されたブライス・ダラス・ハワード(ロン・ハワードの娘さんですね)が登板している。

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『イン・ディス・ワールド』で、決して語られることのない世界の裏側を知る。

いまや英国を代表するまでに登りつめた『ひかりのまち』『24アワー・パーティー・ピープル』などの実力派マイケル・ウィンターボトム監督。彼が本作で選んだ題材はアフガン難民の少年が英国を目指しひたすら過酷な旅を続けるロードムービー。その現実ともフィクションとも区別のつかぬリアルな描写が観客、批評家の心を掴み、本作は2003年ベルリン国際映画祭にて金熊賞(最高賞)受賞する快挙を成し遂げている。

主役を演じるジャマールは、細長い目が印象的な男の子だ。いつも笑っているのかしかめっ面をしているのかよく分からない表情で行く先をじっと見つめる。アフガン難民の彼は、ある日、従兄弟のエナヤットと共によりよい生活を求めて英国を目指す旅に出る。もちろんビザも何もない彼ら。正式なルートをたどるべくもなく、その運命を各国にはびこる“運び屋”に委ねることとなる。言葉や文化の違いによる不信感やいらだち、警察や軍隊による執拗な取調べ、生命の保障もない決死の越境。彼らの前には数々の困難が立ちはだかる。ふたりは果たして無事、英国にまでたどり着けるのか・・・。

ウィンターボトム監督のこれまでの作風と同じく“痛み”を感じる描写も多い。しかし、それと同じくらいにふとしたきっかけで飛び込んでくるとてつもなく“温かな”描写に心を潤されるのも事実。例えば、日中はあまりに厳しい現実を突きつけていた街が夜になると幻想的なイルミネーションを放ち、それはまるで99年の監督作『ひかりのまち』で描かれたロンドンのように温もりのある味わいを見せる。出逢いがあり、別れがあり、やりきれない過酷な人生があり、それでも立ち向かわなきゃならない決意がある。そのすべてをタイトルの「イン・ディス・ワールド」がすっぽりと包み込んで、今日も地球は回っている。

僕は本作を劇場で観終わった後、ついつい街の喧騒の中についジャマールの姿を探してしまった。イルミネーションに照らされながら、彼がいまでも旅を続けているような余韻が心地よく残る。


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『CODE46』で、現地調達のSF世界を目撃する。

未来社会、上海。

“パペル”と呼ばれる滞在許可証が偽造されているとの報を受け、ひとりの男(ティム・ロビンス)が調査に乗り込む。容疑を掛けられたのはその印刷所の女性職員(サマンサ・モートン)。男は彼女が犯人と知りながらも運命的な衝動を抑えることができず、ふたりはいつしか不思議なほど自然と恋に落ちてしまう。それがCODE46と呼ばれる法規に違反するとは知らないまま・・・。

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『ロスト・イン・トランスレーション』に見る、海外生活の孤独と楽しみ

『ゴッド・ファーザーPART3』での不評や、父フランシス・フォード・コッポラのことを持ち出すのは野暮ってものだ。いまやソフィア・コッポラといえば、『ヴァージン・スーサイズ』でその卓越したセンスが観客をすっかりと心酔させ、第2作目にはこの日本を舞台として素晴らしい贈り物を届けてくれた一種のカリスマ的な存在にまで上り詰めてしまった。アカデミー賞での脚本賞の受賞など世界中で賞賛を集めた本作でのテーマは、“アウトサイダー・イン・ニッポン”。出演は『ゴースト・バスターズ』『チャーリーズ・エンジェル』(本人はこの作品が持ち出されることは好まないだろうが)のビル・マーレイと『真珠の耳飾りの少女』のスカーレット・ヨハンソン。

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『10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス』で、巨匠を囲い込んだパトロン風情を味わう。

「“時間”というテーマで10分間のショート・ムービーを」とのオファーに、恐れ多くも巨匠クラスの映画監督15人が快諾。それそれに平等な予算と時間とが与えられ、ここにかつてない短編映画プロジェクトがスタートした。各作品はそれぞれのテイストにより2作品へと配分され劇場公開されたが、DVD発売にあたってはどうやら当初の“競作”という理念を尊重して15本がすべてコンプリートされている。

ちなみに劇場公開時の「人生のメビウス」編には、これらの経緯で完成した作品中、アイディア満載で奇想天外な7作品を収録。たった10分間とあなどることなかれ。そこにはハマり出したら止まらない、まるで無限の宇宙のような創作空間が贅沢に拡がっている。(なお、もう一方の「イデアの森編」では“時間”についてもっと哲学チックに掘り下げた作品集になっている)

「人生のメビウス」編では、7人の監督が様々な“人生の瞬間”をピックアップ。『過去のない男』がカンヌで絶賛されたアキ・カウリスマキは、10分後に出発するロシア行きの列車にフィアンセと一緒に乗り込むべくプロポース作戦を展開する男を独特の乾いたユーモアで描き、10年に1作しか撮らないという伝説の監督ビクトル・エリセは、詩情溢れる感覚でなんとも温かい味わいの作品を綴り、鬼才ヴェルナー・ヘルツォークは、アマゾン奥地に住むとある民族についてドキュメンタリー・タッチで考察を重ねる。プロジェクトの発起人ともいうべきジム・ジャームッシュは、女優に与えられた10分間の休息時間をリアルタイムで描写し、ヴィム・ヴェンダースは、砂漠のど真ん中でバッド・トリップに襲われる男の悪夢をROCKな映像感覚に乗せ爆発させる。スパイク・リーは、ゴアVSブッシュの大統領選挙に劇的変化をもたらした“運命の10分”を再現すべく数々のインタビューを抜群の切れ味で紡ぎ、ラストを飾るチェン・カイコーは、大規模な変貌を遂げる北京を舞台にファンタジックでユーモラスな寓話を展開している。

ショート・ムービーというと、日本では「世にも奇妙な物語」のような“オチ付きミステリー"ばかりが蔓延していて、その作品数がある程度にまで達すると、観客も食傷気味にもなってしまうわけだが、それでも本作に「ガツン!」と持っていかれてしまう理由は、まず、その発想の“自由自在”にある。たった10分間の中にいったいどれだけのことが詰められるというのか。誰もが頭を抱え込みそうなこの難題に、参加した監督達は確実に楽しんで取り組んでいる。『過去のない男』に代表されるようなおなじみのテイストをそのままに持ち込んだカウリスマキの手法もOKだし、そのカウンターとしてのヘルツォークやスパイク・リーの「10分間ドキュメンタリー」ってのもお手軽にいろんなことが学べて面白い。これはもはや、観客と監督の知恵比べのようなものなのかもしれない。次はどの監督がいったいどんな手で来るのか、それが次第に楽しみで仕方がなくなる。

ちなみに個人的に特に気に入ったのは、2本目のビクトル・エリセの作品。モノクロ映像がまるで詩のように胸にスッと入り込んできて、思わず涙ぐんでしまうじゃないか。男の子が自分の腕にペンで描いた時計にそっと耳を近づけるシーンなんか、もう神の領域としか考い。

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『10ミニッツ・オールダー イデアの森』で、巨匠の奏でる8つの哲学世界を目撃する。

「“時間”というテーマで10分間のショート・ムービーを」とのオファーに、恐れ多くも巨匠クラスの映画監督15人がこれを快諾。それそれに平等な予算と時間とが与えられ、ここにかつてないプロジェクトが始動した。劇場公開時にはこれらが2編へと分かれ、この「イデアの森」編には、“時間の謎”についてより深く、より濃密に迫った8作品が編纂された。そしてアンカーを努めるのがなんとあのゴダールだというのだから、これはとにかく凄い事態である。

ベルトルッチは白黒の映像美で巧みに寓話を語り、フィッギスはスクリーンを4分割してそれぞれに10分間ワンカット同時進行の視点を注ぎ込む。イジー・メンツェルは“とある俳優”の一生をフィルムで追いかけ、イシュトヴァン・サボーが描くのは夫婦の身に起こる「一寸先は闇」。クレール・ドゥニは列車の個室で交わされる哲学的な対話を展開させ、シュレンドルフが手掛けるのは“蚊”が人間世界を飛び回りアウグスティヌスの「告白」を朗読するという異色作。ラドフォードはまるで藤子不二雄を思わせる手法で唯一のSF世界を構築し、そしてラストを飾るゴダールは、自らのナレーションに乗せて1本につき1分の映像を10本という贅沢な時間を紡ぎだす。

どちらかというと、姉妹編の「人生のメビウス」の方が、ポップな仕上がりで観やすいことは確か。だが、本作「イデアの森」も決して負けてはいない。収録された各作品に直接触れてみて初めて気付くその濃密さには、思わずため息が漏れてしまうほどなのだ。いわば、時間についてそれぞれが哲学的考察へと踏み込んだ「実践編」といった具合。

個人的にとりわけ印象に残ったのはやはり、ゴダールの作品だろうか。『ゴダールの映画史』をも思わせる文字の挿入と貴重な映像群、そしてナレーションという詩的な融合に、人間の内面の奥底までをもすべて見通したかのような深い余韻が残る。


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幸せになるためのイタリア語講座

久々に「これは!」と思わせる魅力的な邦題で登場したのは、北欧デンマークから届いたヒューマン・ラブ・コメディ。第51回ベルリン国際映画祭において銀熊賞をはじめ4部門での受賞を果たし、その後も世界各地の映画祭で絶賛された。リアリズム重視の撮影手法「ドグマ95」(たとえば、特殊効果は厳禁。エンドロールさえも手書き。音楽はサウンドトラックとしてではなく、その場に流れているものを利用。セットや衣装は現地調達。照明は自然光を採用・・・などなど。これらを守れなかったときには非情なる制裁、いや冗談、「私はこれこれを守れませんでした」という告白をしなければならない)を採用しながらも、爽やかな幸福感を画面いっぱいに呼び込んだのは女性監督ロネ・シェルフィグ。キシリトール配合のちょっぴりヒンヤリとした北欧の感触が心身をリフレッシュさせてくれる一作である。

Italian
舞台はコペンハーゲン近郊のとある街。仕事、恋愛、家族・・・身の回りに様々なトラブルや悩みを抱え、うつむき加減な毎日を過ごしている6人の男女は、それぞれの思いを胸に、週に一度のイタリア語 講座への参加を決める。やがて、いくつもの出来事や偶然を通じて、その講座は彼らにとっての生きる原動力となっていく。だがある日、担当教師が授業中に胸の痛みを訴えて救急車で運ばれてしまう。案の定、講師を失った講座は無制限休校に。それでも6人は週に一度、何となく講座へと集ってしまうのだった。彼らはそろそろ気付き始めていた、自分から進んで行動しなければ何もつかみ取れないことを。今週もまた開講日がやってくる。いつもの場所、いつもの時間。だが今日は様子が違う。何かが起こりそうな予感が満ち満ちている・・・!

人生のうち一度でもスクーリングを経験した人ならば、本作の楽しさはきっと倍増するに違いない。あの扉を開ける時のドキドキ感。ほんの少しだけ日常と違った世界へとトリップできる新鮮さ。本作は、人生をより充実させたくて試行錯誤を繰り返す人への心温まる応援歌として、一歩踏み出す小さな勇気を与えてくれる。悩みを抱えた者どうしが週に一度集まるその空間は、まるで教室のカタチをした船のよう。一路、イタリアを目指す6人は、時に“逃避”とも“リセット願望”とも取れる台詞を口にするかもしれない。しかしそれを大いなる“船出”と捉えると、一気に視界は開け、明るさを増していく。

今日も「ボン・ジョルノ!」と口にした瞬間、船は大きく動き出す。だから僕らも精一杯の笑顔で、こう返そう。

"Buon Viaggio!(よき旅を)"。

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2005/09/12

『茶の味』で、サブカル的田舎ライフを満喫すべし。

『鮫肌男と桃尻女』『PARTY7』の成功でこれまでの邦画になかったスタイリッシュな脱力系コメディを確立させてきた石井克人。久々の新作で彼は小津映画を思わせるような純・和風のタイトルを掲げ、豊かな自然に囲まれた日常を巧みに映像化。2004年のカンヌ国際映画祭・監督週間ではオープニング作品として好評を博し、韓国で開催されたプチョン国際ファンタスティック映画祭では審査員特別賞を受賞している。

山間の小さな町に住む春野家の人々は、春霞のようなモヤモヤを心に抱えている。長男の一(はじめ)は片思いの女の子が転校してしまった哀しみに打ちひしがれ、小学1年生の幸子はときどき現れる自分の巨大なドッペルゲンガーが早くきえてくれないかなぁ、と頭を悩ませる毎日。母の美子はアニメーターへの復帰をかけてキャラクター・ポーズの開発に余念がなく、父のノブオは個性溢れる面々に挟まれどこか居場所なさげ。彼らの悩みはきっと時間が解決してくれる。いつか心のモヤモヤが溶けてキレイな夕陽が差し込むその日まで、たゆたうような時間が彼らの毎日を不思議な味わいで包み込んでいく・・・。

はじめのうちはこの映画にどう踏み込んでいいのか分からず、笑いのポイントさえつかめずにいた。しかしエピソードを重ねるうちにその心配はなくなり、クセになるような独特の空気がそこかしこに充満していることに気付く。最初の砦は寺島進。すんごいモノを頭に乗っけた彼が呆然としてこちらを見つめる姿に、あなたは完全に“落ちる"か、あるいはこの作品を嫌いになるか、究極の決断を迫られるだろう。一方、我修院達也が最後に見せるエピソードは、かつてアニメータを目指していた石井の演出にも思わず力が入ったのか、こちらの涙腺が緩んでしまうほどの優しさがいっぱい。まったく我修院、今回もオイシイ役でイイとこ取り。もちろん、石井ワールドを深く知り尽くした浅野の存在感も欠かせない。

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『ニューオリンズ・トライアル』で、カテリーナ襲来前に想いを馳せる。

原告側―ダスティン・ホフマン、被告側―ジーン・ハックマン。

数々の名画で観客をうならせてきたこの2大俳優が、銃器製造の是非をめぐる法廷(トライアル)の表と裏で激しいバトルを繰り広げる!そして、両者の境界線に“陪審員”という立場で絡みこんでくる謎の主人公を熱演するのは『ハイ・フィデリティ』『アドルフの画集』の演技派ジョン・キューザック。また、もうひとりのキー・パーソンとなる謎の女性役に『ハムナプトラ』シリーズのレイチェル・ワイズ。紅一点の逆境に負けじと、頬に青アザを作りながらも豪華俳優陣を相手に堂々と渡り合う度胸の良さを見せてくれる。原作は、「ザ・ファーム/法律事務所」「評決のとき」など数々の傑作サスペンスを次々と世に送り出してきたJ.グリシャム。彼の小説が映画化されるのもこれで8度目となる。

ことの始まりは2年前の忘れがたい事件にさかのぼる。とある証券会社で銃の乱射事件が発生。犯人は11人を射殺し、自らも自殺する。犠牲者の妻は悲しみをやがて怒りに変え、ベテラン弁護士ローア(D.ホフマン)と共に銃器メーカーへの告訴を決意する。一方、負けの許されないメーカー側は、今回の裁判にやり手の陪審コンサルタント、フィッチ(G.ハックマン)を起用。その仕事とは、評決の鍵を握る陪審員一人ひとりへの裏工作である。だが彼は、陪審員のひとり、ニック(J.キューザック)という男の真の「目的」にまだ気付いていなかった。ニックは持ち前の人の良さから陪審員の中で機用に信頼を拡げていく。ちょうどその折、原告・被告の双方に謎の女性マーリー(R.ワイズ)から「陪審員、売ります」との打診が入る。裁判の行方は今、予想もしない方向へ突き進みはじめていた。

期待を裏切らない“骨太な”つくり。話題のジーン・ハックマンとダスティン・ホフマンの直接対決はなかなか訪れず、これはひょっとして『ヒート』のアル・パチーノとロバート・デ・ニーロ(に関するウワサ)のように一度も現場に居合わせることのない“共演”なのでは?と怪しんでみたのも束の間、なんと待望の瞬間は「トイレ」で炸裂する。紛れもない本人同士の演技バトル。法廷モノでありながら、最大の見せ場がトイレで巻き起こるなどというこの乾いたジョークに必死に笑いをこらえながらも、彼らのまるで刃物を突きつけ合ったかのような激しい“言葉”の応酬に、しばし茫然とさせられる。もちろん、“普通っぽさ”が最大の売りのジョン・キューザックも忘れてはならない。主人公としての圧倒的な“カリスマ性の無さ”を誇る彼の演技は、観客の視点を裁判制度の内部へと向かわせるために計算しつくされた設定に基づいており、驚きのラストへとつながる重要な伏線とも言えるだろう。

最後に、先日の“カテリーナ”の犠牲になられた方に深い哀悼の意を表しておきたい。

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『酔画仙』

本作に関してまず湧き上がる疑問は、2002年のカンヌ映画祭で監督賞を受賞した話題作にも関わらず、どうして公開がこれほど遅れてしまったかということだろう。この件について宣伝の方に尋ねてみたところ、かなり慎重になってタイミングを探っていたとの事情を話してくれた。そして、いよいよタイミングの女神は微笑んだ。韓流ブームが到来し、2004年のカンヌでは『オールドボーイ』がグランプリを受賞。この一大潮流が次の段階へと移行していくことを見届けるかのように、本作は満を持して劇場公開を迎えたわけである。

主人公は19世紀後半に実在した伝説的絵師、チャン・スンオプ。『風の丘を越えて』(93)や『春香伝』(00)を経て今や巨匠となったイム・グォンテク監督は、酒をあおり女と戯れることで名画を生み出すスンオプの異才ぶりを時に静かに時に激しくアピールし、その一方、激動の韓国史を背景に、周囲への迎合を拒否し、常に自分に正直であり続けた男の熱い想いを丁寧にすくいとる。もちろん、そこでは『オールドボーイ』の狂騒的な演技が記憶に新しいチェ・ミンシクが大いに輝きを放っているし、また、“静"の存在感でそっと深みを添えるアン・ソンギの妙演もいい。

酒に酔ったソンオプが筆を取りいよいよ描画をはじめると、まるで激しいスポーツでも観戦しているかのようにダイナミックなカメラワークと編集とが一体となり、天才絵師の天才たるゆえんを追い続ける。筆使い、呼吸、それを見守るギャラリーの緊張感、そしてため息。その一切の描写が名実ともに「酔画仙」の出現を人々に納得させ、劇中のギャラリーの表情はいつしか私たち観客のそれと奇妙なシンクロを果たす。逆説的に言うならば、ある意味、ソンオプの絵画にはいつの時代の人々をも虜にする“映画の源泉"が詰まっているのかもしれない。

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『午後の五時』

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邦画の新たな手ごたえは、『リアリズムの宿』にある。

『どんてん生活』『ばかのハコ船』で一気にコアなファンを獲得した山下敦弘監督が、つげ義春による原作漫画を大胆に脚色し、ここに傑作オフビート・コメディが誕生した。またしても、極上のくすくす笑いが忍び寄る作風ながら、全体が過ぎ去ったときに訪れるふとした悲哀がより中毒性を促進しているように感じられる。出演は、舞台に映画にと幅広い活動を展開する長塚圭史、山下作品常連の山本浩司、『萌の朱雀』の尾野真千子。そして、インド人のサニー・フランシスさん。ちなみに彼、サイコーです。『ジョゼと虎と魚たち』に続いて、くるりが音楽を手掛けているのも注目。

駆け出しの脚本家・坪井と、映画監督・木下。金はないが、見栄はある。そんなふたりは、ひなびた温泉街へとあてもなくやってきた。互いのことをあんまり知らないのに行きがかり上ふたりきりになってしまった彼ら。ふたりきりで見つめる真冬の日本海。突然海から駆け上がってきた謎の少女・敦子との出会い。そんなこんなで3人は共に旅をする。それぞれに惹かれあうものを感じつつ。

やたらと素晴らしい。とてもリラックスしたムードの中で、脱力の笑いが間断なく続く。その作風に素直に惹きつけられた。若い監督の映画はすぐ走る、といったイメージがあるかもしれないが、それよりももっと若い世代の監督の映画では主人公はちっとも走らない。走らないどころか、実にマイペースで、飾ることなく、自分の言葉で話をする。つまり、相手と積極的にコミュニケーションを図らない。だが、平行線をたどるかに見えた登場人物たちの道程が、何かをきっかけにふとブレる。そのブレが、ほんの少しずつではあるが、両者のこれからの道程を僅かに交差させていくかのようだ。山本のボケ、長塚のツッコミ、そして尾野が醸しだす“ブレ”が、日常からはみ出さない程度に、ちょっと笑えて、ちょっと泣かせてくれる。タイトルにもなっている“リアリズムの宿”はラスト付近に満を持して登場。これまたどんなCG技術をも凌駕するほどのリアリズムっぷり。ぜひとも心ゆくまでの圧倒されていただきたい。

ちなみにこの後、山下監督は、韓国人俳優ぺ・ドゥナらを主演に『リンダリンダリンダ』を手がけてこちらでも大成功を納めている。いつまでもこのようなミニマムな世界を作り続けてほしいという思いと、いやこれからもどんどん日本を背負うような監督として羽ばたいてほしいというアンビバレントな期待が平気で託せるのも、彼ならばふとした妙案によってその難題を軽々とこなしてしまいそうな予感が漂っているからである。

 

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『25時』にテロ以降の米映画の潮流を見る。

収監日を明日に控えた主人公が最後の自由な空気を吸えるのはあと24時間。

いま、『ドゥ・ザ・ライト・シング』『マルコムX』のスパイク・リー監督が、愛すべきアメリカの歩み始めた新たな一章を重厚に描く。テーマは、“9.11以降のアメリカ”をいかに生き抜くか。デイヴィッド・ベニホフによる青春小説をベニホフ自身が脚色し、『ファイトクラブ』のエドワード・ノートン、『マグノリア』のフィリップ・シーモア・ホフマン、『プライベート・ライアン』のバリー・ペッパーといった芸達者な面々が揃い踏み。エンドクレジットには製作者の欄に「トビー・マグワイア」の名が連なっており、驚かされる。

モンティ(ノートン)はある日、瀕死の犬を発見し、ほんの成り行きでそれを助けたいと思う。次の瞬間に映し出される数日後の風景。いつしか元気な姿に回復した犬ドイルと共に、モンティは川岸を歩いている。だが、彼の心はドン底。あと24時間もすれば刑務所に収監される。麻薬の売人だった彼は誰かに売られ、そして運悪くパクられたのだ。周りの風景すべてが憎らしく見える。数多くの民族がひしめき合うこのニューヨークで、彼は最後の残り時間をどう過ごすべきか考えあぐね、その結果、幼なじみのジェイコブ(ホフマン)、フランク(ペッパー)に声をかける。突然の連絡にはじめは戸惑いながらも、彼らは次第に悩みを吐露しあうようになり、刻一刻と迫るタイムリミットの無情を噛みしめていく。

恐らくスパイク・リーの作品で初めて白人が主役にとなった作品だろう。『アメリカンヒストリーX』『ファイトクラブ』を経たエドワード・ノートンが、実に様々な役柄にリンクしているようでもあり、『10ミニッツ・オールダー』でもアメリカに辛辣な警告を発しているリーなだけに、本作でも鋭い切れ味の描写が光る。

“痛み"を施すその手に感じる“痛み”。“憎しみの連鎖”を打ち破るために必要な賢い知恵。人それぞれが内に秘めた“傷”を回復させることの意味。

本作はまるで詩を読んでいるかのようにそういったメッセージがスッと胸に入り込んでくる。変わりつつあるニューヨーク、新たな時代を迎えつつある“ブッシュ以降”のアメリカに想いを馳せるうえで重要な一作と言えるだろう。


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『ハッピーエンド』

韓国映画は本当に深い。何がどう深いかって「もっともセックスシーンの印象的な韓国映画」というアンケートが過去に実施されたという事実も“深さ"を感じる一因を担っているし、それで選出されたのが本作「ハッピーエンド」だということも、これまた“深み"を伴う結果である。その冠が示すとおり、かなりの激しい性描写から幕を開ける本作は、「接続」のチョン・ドヨン、「MUSA-武士ー」のチェ・ジンモ、「シュリ」のチェ・ミンシクの3者が見事なまでに揃い踏みする傑作ラブ・スリラーである。

ストーリーは単純明快。昔の恋人が忘れられず密会を繰り返す女(チョン・ドヨン)、その相手の男(チェ・ジンモ)、そして女の夫(チェ・ミンシク)の3人の関係が次第に泥沼化する。夫は妻を疑い始め、妻は夫が自分を疑ってるんじゃないかと疑い始め、男はふたりの夫婦間などお構いなしに、ただただ身体が忘れられないのだと女に懇願する。このドロドロは“昼ドラ"級だな、と思いきや、ただそれだけではせっかくの【R-18】の名が黙っちゃいない。ストーリーはやがて暴走する。一面に拡がった泥沼模様は、最後に訪れる驚きの展開で一気にカラリと干上がってしまう。

私の独断と偏見で言わせていただくならば、とにかくチェ・ミンシクが凄い。とにかく彼を見て欲しい。「シュリ」の北朝鮮ゲリラのリーダー役で「お前らがハンバーガーをゴミ箱に捨てている時に、北の人間は飢えて死んでるんだ!」という忘れ難いセリフと共に観客の感情を深くえぐり取った、韓国のゲイリー・オールドマン、あるいは韓国の西岡徳馬である(似てると思いません?)。彼が古本屋でラブストーリーを読みふけるときの小動物のような表情と、それとは対極にある魂の抜けきったかのような絶望の表情。両者のギャップの激しさは、話題のセックスシーンの激しさすらも軽く凌駕してしまう。果たして彼はラストシーンでどのような表情を浮かべるのか。はたまた、タイトルの「ハッピーエンド」とは皮肉か真実か。それを目撃できるのは、現在18歳以上であることが証明できる、あなた自身である。

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『気まぐれな唇』

「ハッピーエンド」の公開と期を同じくして、これまた変わった味わいの韓国映画がお目見えする。ほぼ即興に近いカタチで撮影されたこのラブストーリーには、たった一週間という期限の中で生まれては消えていった男女3人の恋愛模様が鮮烈に刻み込まれている。監督はこれが劇場映画4作目となるホン・サンス。手掛けた作品のどれもが数々の映画祭で受賞を果たしているその手腕もさることながら、本作をカンヌ映画祭事務局に見込まれながら、その招待をあえて辞退するという驚きの決断でも韓国マスコミの話題をさらった。主演には、後に出演した「殺人の記憶」(日本では3月公開)で大ブレイクを果たしたキム・サンギョン。

ギョンス(キム・サンギョン)の職業は俳優。出演した映画が興行的に失敗し、次回作への出演もなくなって、気分がすこぶるどん底に落ち込んだ毎日。これではダメだとふと思い立ち、彼は思い切って旅に出ることにする。旅先では、美しいダンサー、ミョンスク(イェ・ジウォン)と知り合い、ふたりは思いのほか意気投合。次第に彼女は取り付かれたようにギョンスを愛し始める。旅の帰り道、列車に乗り込んだギョンスの隣にソニョン(チュ・サンミ)という女性が座る。言葉を交わすうちに彼の心はソニョンへと惹かれはじめ、別れの挨拶を交わした後、彼はたまらずその足で彼女を家までつけていく。たった一週間のうちに生まれては消えていく2つのロマンス、果たしてこの結末とは・・・。

「コーヒーにします?それとも私のダンスを見ます?」と聞くや否や、突然その場で踊り出してしまう、その自由な発想と自由な空間。“コーヒー”と“ダンス”が並列として扱われる不思議をどうこう言う前に、まずそのセリフをノートに書き写しておきたいという衝動に駆られ、しなやかな動きで魅せるダンスに心洗われる想いがする。だがそれらは時として、胸に深く突き刺さる凶器のように響くこともあり、「人として生きるのは難しい、でも怪物になるな」という具合に主人公へ浴びせられる罵倒には、実は誰の身にも覚えのあるとても日常的な風景にバックグラウンドが潜んでいるようにも感じる。気の利いたセリフとリアリスティックな映像の数々は、ちょうどよい間隔を保ちながら観客をリードする。こんなにも小さなラブ・ストーリーを、そんなに大袈裟ではない“等身大の芸術”へと引き上げられるその手腕の確かさに、韓国映画の勢いを思い知らされた想いがする。

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『オアシス』

 映画を単なる娯楽だと侮ってはいけない。時としてそれは、我々が直視しがたいとても過酷な描写を突きつけ、その交換条件として天地がひっくり返るかのような感動をもたらすことがある。この「オアシス」は、まさしくそんな作品だ。

 監督は、前作「ペパーミント・キャンディー」が絶賛され、いまでは韓国政府の文化観光長官を務めるイ・チャンドン。すでに国際的な評価も高く、2002年のヴェネツィア国際映画祭では、最優秀監督賞、新人俳優賞(ムン・ソリ)を受賞するという快挙を成し遂げている。

 ストーリーは、常識どおりに生きるのが苦手な青年ジョンドゥと脳性麻痺を患った女性コンジュの出逢いから幕を開ける。衝撃的で突発的な“ある事件"からスタートしたはずのふたりの関係は、やがて次第に純粋な愛へと変わり、彼らは自分たちだけの世界の中でその愛を大切に育んでいく。だが、周りの人間にとってその様子はとうてい理解が困難なものだった。そしてある日、彼らの愛は誤解が誤解を呼び、警察沙汰の事件にまで発展してしまう。

 始めのうちは衝撃的で声もでなかった。てっきりムン・ソリという女優が本当に脳性麻痺を患った人なのだと信じて疑わなかった(彼女が自分の想像の中で突然に立ち上がり朗々と歌いだすところで初めて“演技"だということがわかるのだが)。こんなにも真に迫ったリアルな演技を前にしたとき、観客は果たしてどういう態度をとるだろうか。誤解を恐れずに言うならば、僕はとても“うろたえた”。誤解を恐れずに言うならば、直視しがたいというか、居心地の悪さというか、そういう陰鬱な感情がいっせいに噴き出し、身動きが取れなくなった。しかしイ・チャンドン監督は、人間がこれらの感情を見事に克服できる生き物であることを知っている。我々がそのハードルを乗り越えたと同時に、これまでに体験したことのないまったく価値観が、感慨が大波となって押し寄せてくる。 こんな完璧な演出を思いつく人が政府の大臣を務める韓国という国がとても強大なものに思えて仕方がない。

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『ゼブラーマン』

哀川翔100本目の主演作は、なんと東映の大得意とする“ヒーローもの”!この異色作を哀川作品の金字塔にしようと、更に日本一忙しいふたりの男が立ち上がる。まずは、今や日本が世界に誇る型破りな映画監督・三池崇。そして、お馴染みの超売れっ子脚本家・官藤官九郎。彼らが手を組んだとあれば、もはや普通の“お子ちゃま向け”映画を期待することは困難だ。鈴木京香、渡部篤郎らのあっと驚くキャラをも巻き込みながら、日本にいま、シマウマ旋風が吹き荒れる!

その昔、たった7話で打ち切られたヒーロー番組があった。“シマウマ”をモチーフにしたキャラクターを人は「ゼブラーマン」と呼んだ。時は流れて2010年、小学校教師・市川(哀川翔)は、幼い頃にテレビで目にしたそのヒーローが忘れられず、せっせとコスチュームをこしらえては鏡の前でポーズを決める日々を送っていた。ある日、彼の教えるクラスに車椅子の少年・浅野が転校してくる。「ゼブラーマン」について詳しい浅野に、ようやく完成した新コスチュームを見せたくなった市川は、それを着たままコッソリと街に出てみるが、そこで偶然にも蟹のカブリモノを着込んだ危険人物に遭遇。格闘の末、そのカニ怪人をなんとか倒したものの、これはまだ序奏に過ぎなかった。多発する怪事件の数々に防衛庁の及川(渡部篤郎)も動き出し、いま、この街に隠された驚愕の事実が明らかになろうとしていた。

国際的にも顔が知られる三池なだけに、既に本作を狙っている映画祭もあると聞く。だが、ここではっと気付かされるのは、“ヒーローもの”というジャンルの持つ特殊性だ。「スパイダーマン」や「バットマン」とも一味違う、この日本という風土からしか生まれ得なかった、人々の共有財産とも言うべきこのジャンルが果たして外国人に理解できるだろうか。だいたい、どんなヒーロー番組を見ていたかでその人の年齢すらもおよそ特定できてしまうという浸透ぶりには、とても深遠な文化性を感じずにはいられない。本作はそこに目をつけて製作された、日本人による、日本人のための、そしてもうちょっと言うならば“大人のための”ヒーロー映画なのであり、特に劇中での「ゼブラーナース」なる異様なサブ・キャラの作り込み様には思わず笑ってしまった。もちろん、三池ならではの暴力性やビザールっぷりも大いに盛り込みつつ、子供には決して見せられないシロモノへと結実している。

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『わが故郷の歌』

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デビュー作「酔っぱらった馬の時間」で一躍国際的な注目を浴びたイランのクルド人監督バフマン・ゴバディによる、クルド民族音楽に彩られたヒューマン・ドラマ。2002年のカンヌ映画祭でフランソワ・シャレ賞を受賞した他、数々の国際的な賞に輝いている。ちなみに、主人公の3人は本物のクルド人ミュージシャンが演じている。

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『ペイチェック/消された記憶』

ハリウッドで快進撃を続けるアジア監督ジョン・ウーが、今度は「マイノリティ・リポート」で知られるフィリップ・K・ディックの描いた未来世界の映像化に挑む。出演は「パールハーバー」のベン・アフレック、「ザ・コア」のアーロン・エッカート、「キル・ビル」のユマ・サーマン。

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『アフガン零年』

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『レジェンド・オブ・メキシコ / デスペラード』 

あの「スパイ・キッズ」シリーズの監督としてお馴染み、ロバート・ロドリゲスの出世作にして、アントニオ・バンデラスが荒唐無稽に暴れるあの傑作アクション「デスペラード」がスケールを倍増させて帰ってきた。前作から引き続いての出演となる「フリーダ」のサルマ・ハエックに加えて、本作で新登場を果たすのは、「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」でのアカデミー男優賞ノミネートが記憶に新しいジョニー・デップ。相変わらずの飄々とした演技で楽しませてくれる。

国政の不安定なメキシコ、クーデター前夜。状勢を鎮圧するために奔走するCIA捜査官サンズ(ジョニー・デップ)は、この任務を利用して私服を肥やそうとたくらむ。そんな彼から暗殺の依頼を受けたエル・マリアッチ(アントニオ・バンデラス)もまた、報酬以外に特別な目的をもっていた。麻薬王バリーリョ(ウィレム・デフォー)、悪名高きマルケス将軍なども絡みながら、ストーリーは国家の運命を左右するほどの空前のスケールで展開していく。

恐れを知らぬ爆発的な魅力を秘めた前作を凌ぐことはもはや困難。では、ちょっと角度を変えて攻めてみようかと、かなり戦略的にジョニー・デップを囲い込んだ感のある本作。なるほど、やはりかなり助けられている。デップが加わっただけで“危なっかしさ”というか“ミステリアス”というか、なんか作品の未知度は確実に深まっている。けれど彼がバンデラスと直接的に絡むことは少なく、むしろメキシコのクーデターを平行線上に描いているという印象。ん?なんかこんなタイプの映画があったな、と思い出すのは「トラフィック」。もちろんジャンルは全く違うのだが、監督のロドリゲスは自分の運命を決定付けたこの作品に結構いろんな試みを持ち込みたかったのではないかと思う。なんだか笑ってしまうような突拍子もないアクションも健在で、しかもスケールは前作の倍の倍。バンデラスの銃の撃ち方ひとつとっても身体の反らし方は前作の2倍(多分)。もはや、尋常ではない。

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『イノセンス』

あの『マトリックス』にも大きな影響を与えた、日本が世界に誇る革命的ジャパニメーションがついに復活!『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』の押井守監督が満身の力を込め、製作に5年間という歳月を費やした待望の続編が公開となる。製作は『キル・ビル』のアニメーション・パートを担当したプロダクションI.G.が手掛け、今回は製作協力としてスタジオジブリが参加するなど、まさしく日本のアニメ界が総力を結集させた作品となっている。

バトーは、生きたサイボーグ。その体のすべてが作り物。残されているのはわずかな脳と、ひとりの女性“素子”の記憶だけ。ある日、少女型ロボットが暴走を起こし、その所有者を惨殺する事件が発生する。人間のために作られたはずのロボットがなぜ人間を襲ったのか。バトーはトグサ(彼は人間)とコンビを組み、さっそく捜査を開始する。

もちろん本作の公開を機に劇場へと馳せ参じる純粋なアニメファンの方も大勢いらっしゃると思うのだが、他方、『マトリックス』に影響を与えた存在として“逆輸入”的に興味をもたれた方も多いことと思う。どちらかというと私もそういうクチ。原作の情報などあまり知らないものだから、そこに表現される1時間40分の枠だけを“勝負の場”として見てしまう。それで、ちょっと台詞が哲学的だし、かなりの情報量が詰め込んであるせいもあり、例えば私の隣にいた若い男性(というか兄ちゃん)は内容が難しすぎたのか、途中から「降参」とばかりにグウグウと寝入ってしまった(注:ここは試写室!)。しかし私にとっては、観客がいろんなことを聞きこぼしたり、見逃したりしてしまうこのレベルの方が心地よく、後日DVDなどで見返す時の楽しみにすらなりうると思った。夢のように美しく幻想的なシーンと、リアルなアクションシーンとの間を振り子のようにたゆたう映像世界、ただそれだけに注目するだけでも十分に酔いしれることが出来る作品。

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『リクルート』

前作「13デイズ」でそのスリリングな描写力を絶賛されたR.ドナルドソン監督が放つ衝撃のトリック・サスペンス。ハリウッドの重鎮A.パチーノと若手実力派NO.1のC.ファレルが第一級の演技バトルを繰り広げるのに加え、本作ではなんとCIAの全面協力が実現。その細部にいたるまでの事細かな再現には関係者も舌を巻くほどだとか。極めて男臭い状況の中をほぼ紅一点で立ち回る「トータル・フィアーズ」のB.モイナハンにも注目。

ジェイムズ(C.ファレル)は全米屈指の大学MITで最も優秀な生徒。卒業を控えたある日、企業向けにデモンストレーションを行う彼の姿を遠くからじっと見つめる人影があった。その謎の人物の名はバーク(A.パチーノ)。彼はジェイムズに声を掛け、自分がCIAのベテラン教官であり、彼を是非CIAへリクルートしたいと考えているということを告げる。はじめは冗談だと思い受け合わなかったジェイムズだったが、長年の謎である“父の死”に関する情報をバークがふと匂わせたことから、その誘いに応じることにする。次々と試験を突破するジェイムズ。長きに渡る厳しい訓練も終盤に迫った頃、彼の元にバークから「CIA内に潜伏する二重スパイを摘発せよ」との極秘任務が下る。これまで学んだことを生かしながら、そのミッションを無事に遂行できるかに見えたその時、彼は自分が予想もしない事態に巻き込まれていることを知る。耳に響くのは「自分の五感さえも信じるな」というバークの教え。果たしてジェイムズは窮地を脱することができるのか。

なるほどCIAのリクルートとはこのように行われていたか。かつて織田祐二が主演した邦画「就職戦線異状なし」をCIA版に置き換えるとズバリこんな風になるわけだ。その切り口からしてとても斬新で興味をそそられる。だが、最大の問題は作品の中に潜んでいた。せっかくのそれらの詳細な状況設定をA.パチーノとC.ファレルの演技バトルが見事に“食って”いるのである。彼らの醸しだす最上級の緊張感は、ただそれだけでひとつの魅力として確立されるほどのものであり、CIAなんたらという要素が束になってかかっても、そして最後にどのような“どんでん返し”が待っていようとも、敵う相手ではない。観客はいつしか2種類の見所を別々に味見しているような気分にすら陥ってしまうかもしれない。これはある意味もったいなくもあり、またある意味、ふたりのカリスマ俳優の偉大さを改めて証明する結果とも言えるだろう。

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『半落ち』

2003年版「このミステリーがすごい!」(宝島社)で堂々1位を獲得した横山秀夫による原作小説を、「陽はまた昇る」の佐々部清監督が映画化。出演は、「雨あがる」「阿弥陀堂だより」の寺尾聡、「あぶない刑事」シリーズでお馴染みで夏には「69シクスティナイン」の公開も控える柴田恭平、「学校」シリーズやテレビ「北の国から」の吉岡秀隆ら。

元捜査一課の敏腕警部、梶(寺尾聡)が警察署へ出頭してきた。アルツハイマー病を患っていた妻に懇願されて3日前に自らの手で妻を殺害したというのだ。刑事を辞した後、警察学校で後進の指導に当たっていた彼はその人柄から広く敬愛を集めていた。そんな人物が何故・・・?取り調べにはベテランの志木(柴田恭平)があたることになる。梶は犯行については素直に認めるものの、彼が出頭するまでの“空白の2日間”については頑なに口を閉ざし、この“半落ち”状態に警察は大いに頭を悩ませる。やがて事件は表ざたとなり、その推移とともに担当検事(伊原剛志)、弁護士(國村隼)、新聞記者(鶴田真由)、判事(吉岡秀隆)らをまみえて、やはり“謎の2日間”に焦点が絞られていく。梶が隠していることとはいったい何なのか。彼はそこまでして誰を守ろうとしているのか。

ターゲットとなる観客層の年齢が少し高めに設定されているとのことで、試写ではなく劇場で、まさしくその年代の人々と鑑賞してみた。驚いたのはクライマックスが過ぎてエンディング・ロールが始まっても多くの観客がなかなか席を立てずにいたことだ。CMで幾度も耳にしていたはずの主題歌が、いまこの瞬間になんと穏やかに胸に響いてくることか。その中でふと思いを馳せるのは、登場人物にただの一人も“悪者”がいないということ。事件のやりきれなさに比例して、いつしかすがるような気持ちでそれぞれのキャラクターに“人間の善意”を追い求めていた私にとって、彼らはとても真摯な態度で答えを返してくれたように思えた。スタッフに関しても同じことが言え、誰もが奇をてらわずに実直なまでに丁寧に作りこんでいった様子がひしひしと伝わってくる。きっと原作モノの映画化としてこれ以上の出来はあり得なかっただろう。

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『バレット・モンク』

不死身のチベット僧が悪の組織と空前のバトルを繰り広げるヒーロー・アクション。アメリカン・コミックから飛び出したような主人公を演じるのは「男たちの挽歌」「グリーン・デスティニー」でお馴染みのチョウ・ユンファ。他に「アメリカン・パイ」のショーン・ウィリアム・スコットと「ブロウ」のジェイミー・キングらが脇を固める。監督は、エミネムやジェニファー・ロペスなど大物ミュージシャンから絶大なる信頼を受けるポール・ハンター。MTV界の出身で、これが劇映画への監督デビューとなる。

ニューヨークにひとりのチベット僧(チョウ・ユンファ)が現れた。彼は60年前にチベットの寺院で奇跡の巻物を受け継ぎ、その守護者として数々の奇跡の力に守られながら生きる男。悪を相手に素手で弾丸の雨に立ち向かい、悟りの力で宙をも舞う。だがその長きに渡った任務期間もまもなく終了しようとしていた。彼は新たな後継者を探し続けており、その果てになぜかスリの青年(ショーン・ウィリアム・スコット)と謎の美少女ストリート・ファイター(ジェイミー・キング)らに目をつける。僧は厳しい修行を施すことで彼らの優れた素質を次第に実感していく。そんな中、巻物の存在を聞きつけたストラッカー(カレル・ローデン)率いる悪の組織の影が3人の背後へと忍び寄っていた。

まるで漫画だ。だいたい巻物一本をめぐってのこれだけの大バトルはいったいなんだ。いまどきこんなに漫画的な作風も珍しいと頭を抱えながらも、あのチョウ・ユンファがここまでやるのなら…と、意外と許せる気にもなるわけだ。同じ二丁拳銃でも「男達の挽歌」で見せたスタイリッシュでクールな映像感覚とは一味違い、そもそも彼が終始チベット僧の恰好をしているというしごく基本的な点がなんだか可笑しくてしょうがない。そういったセルフ・パロディの要素も盛り込みながら、アクションと脱力感が交互に楽しめるMTV感覚溢れた作品へと仕上がっている。最終的に私の興味を捉えて離さなかった最大の驚きは、監督のポール・ハンターが弱冠22歳(!)であるということだったのだが。製作にあのジョン・ウーが参加していたり、音楽をリュック・ベッソン作品でおなじみのエリック・セラが担当していたりとスタッフ面での発見も多い。

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『シー・ビスケット』

不況期のアメリカで多くの人々を勇気づけた一頭の競走馬をめぐる感動の物語。「カラー・オブ・ハート」に続いて2度目の監督作となるゲイリー・ロスがメガホンを取っている。主演は「スパイダーマン」のトビー・マグワイア、「ザ・コンテンダー」のジェフ・ブリッジス、「アダプテーション」のクリス・クーパー。脇には「マグノリア」のウィリアム・H・メイシーが笑みを浮かべて控えている。「ミスティック・リバー」「ビッグ・フィッシュ」に並んでアカデミー賞に最も近い作品のひとつとして注目が集まる。

大恐慌で家族が離ればなれになった記憶を引きずる騎手レッド(T.マグワイア)、孤独な調教師スミス(C.クーパー)、最愛の息子を失い失意の底にあったハワード(J.ブリッジス)。まったく別の人生を歩んでいるかに見えた3人は、シービスケットという1頭の馬を通じて運命的な出逢いを果たす。過去に絶望的なケガを負ったことのあるこの小柄の競走馬は、やがて3人の力がひとつに合わさることによって信じられないほどの快進撃を始め、出走時には全米がそのレースに釘付けとなった。そんな矢先、シービスケットは大事なレースでまさかの逆転負けを喫してしまう。「どうして後ろから来る馬に気付かなかった?」と激怒するスミスにレッドの衝撃的な告白が覆いかぶさる。実はレッドの右目は視力を失っていたのだ。騎手としての致命的なハンディキャップを乗り越え、いつしか家族以上の強い絆で結ばれる3人と1頭の馬。だが、そんな彼らに更なる試練の時が訪れようとしていた。

超満員の競馬場から漂ってくる熱気、蹄の音と共に舞い上がる土煙、そしてシービスケットがゴールを切る瞬間に湧き上がる大歓声。ふと気付くと知らないうちにこぶしを強く握り締めている自分がいる。メイン俳優3人(T.マグワイア、J.ブリッジス、C.クーパー)を軸とする重厚なドラマにも、その何気ないやり取りひとつひとつに心が温まる。この作品の根底に流れる「一度や二度のつまづきは、誰にでもある」というメッセージが主人公たち、不況期のアメリカ人、そして本作と出逢うすべての観客を勇気付けてやまないことだろう。ちなみに、まだテレビなど生まれていないこの時代を描くのに欠かせないのが当時の最大のメディア、ラジオ。今回、映画ファンにはお馴染みのウィリアム・H・メイシーがラジオの実況アナを演じており、「ラヂオの時間」を彷彿とさせる音のマジックとその巧みな話術が古きアメリカの香りをいっそう際立たせてくれる。アカデミー賞の前に是非チェックすべし!

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『悪霊喰』

キリスト教から異端の扱いを受ける“罪喰い"の儀式の謎に迫ったオカルト・ホラー。監督・脚本は「L.A.コンフィデンシャル」でアカデミー脚色賞を受賞し、同じく脚色作「ミスティック・リバー」が公開中のブライアン・ヘルゲランド。出演には、「チョコレート」「サハラに舞う羽根」のヒース・レジャーに加え、他にシャニン・ソサモン、マーク・アーディーといったヘルゲランドの監督作「ロック・ユー!」での共演組が再集結。「ロボコップ」のピーター・ウェラーが久々にスクリーンに顔を出しているのも注目。

ニューヨークに住む司祭アレックス(H.レジャー)は、ある日、恩師のドミニクが急死したことを知らされる。その死に不可解な点があるとされ、真相を究明すべくローマへと飛ぶように命じられた彼は、師の遺体が発見された現場で何か儀式の跡らしきものを見つける。アレックスは親友のトーマスと心に傷を負った女性マーラと共に調査を開始。事件を穏便に片付けたい教会から激しい風当たりを受けながらも、彼らはアンダーグラウンドで得た情報により“罪喰い"という宗教上のタブーとされる儀式に行き着く。それは、臨終のふちにある者の“罪"を代わりの者が喰らい、その魂を天へと導く、というものだった。何百年もこの役目を背負い続けてきた能力者がこのローマにいる。その人物の目的とはいったい何なのか。謎に迫る3人は、“罪喰い"によって張り巡らされた巧妙なワナにいつしか自らの身体が絡み取られていようとは知る由もなかった…。

スタッフや関係者に相次いだ数々の災いがたたり、2年間にわたって5回も公開延期を余儀なくされたいわくつきの問題作がまさかの日本公開。きっとアメリカの20世紀フォックス本社には悪霊による密かな圧力が及んでおり、日本公開が実現しなければ更なる災いが降り注ぐと脅されたに違いない。もちろんオカルト・ホラーの要素はてんこ盛りなわけだが、「ミスティック・リバー」が同時期に公開中というグッド・タイミングの今、やはりB.ヘルゲランドの文脈で本作を鑑賞するという楽しみを味わっていただかないわけにはいかない。悪霊うんぬんという前に“人間の抱える闇"の部分を“ノワール"風に描こうとする試みは、きっとヘルゲランド流のオカルト復興計画の一環なのだろう。B級色満載な上にシリーズ化をも匂わせる展開に、この手の映画好きは思わずニヤリとしてしまうかも。

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『ラスト・サムライ』

「七人の侍」などの名作を通してその存在を世界に知られ、愛されてきた日本の“サムライ"たち。彼らは果たして歴史上どのようにして姿を消していったのか。日本でもほとんど知られざるその壮絶な灯火を、ハリウッドが誇るスタッフ、キャストが圧倒的スケールで描いた歴史絵巻がここに誕生した。主演のトム・クルーズもこの題材には心底惚れ込み、公開前に3度も来日キャンペーンを行うほどの気合の入れよう。日本からは渡辺謙、真田広之、小雪らが堂々たる貫禄でこれに参戦している。監督は手堅い演出で知られる「グローリー」「レジェンド・オブ・フォール/果てしなき想い」のエドワード・ズウィック。

ネイサン・オールグレン(トム・クルーズ)は、かつてネイティブ・アメリカン討伐のために活躍した英雄だった。明治政府の使者・大村(原田眞人)は、そんな彼を“サムライの根絶"という任務にふさわしい人材と判断し、破格の待遇で日本へ招く。急ピッチで政府軍の近代化を進めるオールグレンだったが、突如、軍が未成熟なままでの出陣を余儀なくされ、初陣にあえなく敗退してしまう。敵陣に取り残され捕らえられた彼だったが、敵のサムライの大将・勝元(渡辺謙)の一存で生かされ、彼らの村で少しずつ日本の文化に浸っていく。月日は過ぎ、いつしか彼は外見は異人でありながら心は立派なサムライとなっていた。一方で、この国の西洋化は止まるところを知らない。廃刀令など厳しい法令の制定は、事実上、この国のサムライへたちへの最後通達であった。果たして勝元ら“ラストサムライ"たちは、この先にいかなる運命を選択するのか?

まずはこの映画に関わったすべての人々に僕は心から謝りたい。またまた日本を扱ったトンデモ映画の登場かと、心の中でそう馬鹿にしていたのだ。それが違った。とにかく素晴らしい出来だった。ハリウッド大作でこんなにも感動し充実感に満たされたのは「グラディエーター」以来かもしれない。日本人である我々が嫉妬してしまうほどの映像的美しさ、そしてサムライの魅力溢れる生き生きとした描写、いや、とどのつまりの“カッコ良さ"。徐々にサムライへと傾倒していくトムも申し分ないほどカッコいいのだが、渡辺謙、真田広之の見せる人間的な魅力についてはこれがただごとではなく、彼らが一丸となって挑む生死を賭けた闘いには、スケールの大きさだけでは決してない、何か熱くこみ上げてくるものが抑えられなかった。これは僕の中にも流れる日本人の血のせいなのか、それとも万国共通の想いか。とにかく2時間半、圧倒的に魅せる!魅せる!魅せる!見終わった後にしばらく席を立てなくなるかもしれないので、くれぐれもご注意を。ちなみに、“寡黙なサムライ"という役どころを“斬られ役一筋40年"の福本清三がとてもいい味出して演じているので、こちらも特筆しておきたい。彼を起用したキャスティングの巧さにも頭が下がる思いだ。

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『美しい夏キリシマ』

映画監督・黒木和雄が、自ら少年期を過ごした宮崎の美しい村を舞台に、今だからこそ語り尽くせる新しい戦争映画を生み出した。といっても、この映画の中では誰も死なない。むしろ心の中の大事なモノを失ってしまった者たちの喪失感が群像劇タッチで丹念に描かれる。敗戦間近の日々に生きる監督の分身を演じるのは、日本が誇る名優・柄本明を父に持つ柄本佑。彼の実直ながら透明感に溢れた演技が基調となり、本作はこれまでになく実に不思議な魅力のある戦争映画として仕上がっている。

まだ日本で戦争が続いていた頃。ついに沖縄が陥落し、米軍の次なる上陸先はキリシマだろうと噂されていた。雄大な自然がゆっくりと時を刻むこの村で、人々はいずれ訪れるであろう決戦の日に息を呑み、ただ漠然とした恐怖を抱いて生きている。胸の病気のために学徒動員を免れた康夫(柄本佑)は、祖父(原田芳雄)らと一緒に暮らしながら、かつて目の前で死んでいった親友のことが忘れられずにいた。「どうして自分の方が生き残ってしまったんだろう」。心の中にポッカリと空いてしまった穴をもてあまし、奇異な行動に走る康夫だったが、それからまもなくして、ラジオはとても聞き取りにくい音でゆるやかに終戦を告げる…。

実際にこの作品に触れてみない限り、「どことなくジミな映画だなあ」という先入観は決して拭えないと思う。しかし、だからこそ多くの人に是非見て欲しいと願わずにいられない。ふたを開けてみれば紛れも無く戦争映画なのだが、これがまったく戦争映画っぽくないのだ。第一、人が死ぬ場面などひとつも描かれない。まあ、観ている方はこの映画の規模から考えて、大規模な戦闘シーンなど撮れはしないことは重々承知なのだが、しかし、この制約をバネにして、まるでヨーロッパ映画を思わせるような格調高い内面世界が味わえるなんて思ってもみなかった。また、ここで監督が選択した「群像劇」という手法が、斬新でもあり、まったく古臭さを感じさせない。気鋭の劇作家、松田正隆の力量が大きく反映された点もあるだろうし、何よりまず、この映画に参加した日本映画を代表する演技者たちのさり気ない一挙手一投足に深い味わいを感じた。これは世代を超えて多くの人に支持される作品だと思う。

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『再見 ツァイツェン また逢う日まで』 

両親の不慮の死により離ればなれになった兄弟姉妹が、20年の歳月を経て感動の再会を果たすまでを描いた物語。中国では歴代興行収入の第一位の大ヒットを記録し、また、カステリナリア(スイス)国際青年映画祭ではゴールデン・キャッスル賞、モスクワ国際児童青少年映画祭ではブロンズ・テディベア特別賞に輝くなど、海外の映画祭でも数々の賞を受賞している。

時は現代、女性オーケストラ指揮者チー・スーティエン(ジジ・リョン)は20年ぶりに祖国・中国の大地を踏みしめた。アメリカで音楽の才能を開花させ国民的な成功者となった彼女は、祖国でのコンサートを長らく夢見る一方で、20年前にはなればなれになったきり音信が途絶えていた兄弟姉妹たちとの再会を待ち望んでいた。思い出すのはかつての愛に満ちた家族の日々。音楽教師の父としっかりものの母、そして責任感の強い兄、やんちゃな弟、妹。そのかけがえのない記憶すべてが彼女の成功の原動力だった。父母の不慮の死をきっかけに養子として方々に散っていった兄弟姉妹を探すために、スーティエンはマスコミを通して呼びかける。そのとき彼女の手に握られていた家族写真をきっかけに、ひとり、またひとりと消息が判明していく。

この映画の持つ力強さを言葉で表すならば、私が参加した試写での模様をお伝えするのがいちばん分かりやすいに違いない。もう、涙涙。特にクライマックス付近はすすり泣きの大合唱で、隣の席の男性が必死にハンカチを探していたのを思い出す。誰の心をもグッとわしづかみにするのは、きっとこの家族の肖像があまりに日常の風景に根ざしていて私達の原風景にさえピタリと一致するのと、やはり貧しい中で見せる彼らの笑顔が深い意味をもって染み入ってくるからなのだろう。無邪気な表情の愛らしい子役の魅力もさることながら、彼らを優しく、時に厳しく見守る父親役、ツイ・ジェンがまた素晴らしい。彼のプロフィールには「中国初のロック・ミュージシャン」との肩書き。話題作「鬼が来た!」の音楽や本作の劇中曲も手掛けており、その才人ぶりが十分に伺える。

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『阿修羅のごとく』

「失楽園」「模倣犯」など話題作を連発する森田芳光監督が、念願の向田作品と最強のキャスティングを得て生み出した日本映画史に残る傑作。父親の浮気を知った4人姉妹が「母に知れたらたいへん」と奔走し、またそれぞれに悩みを抱えながらもくじけずに生きていく。第16回東京国際映画祭にてオープニングを飾ったことはレッドカーペットの映像と共に記憶に新しい。

昭和54年、冬。三女の滝子(深津絵里)の呼びかけで久しぶりに姉妹が集まった。滝子が言うには父(仲代達也)に愛人がいるというのだ。彼女が雇った探偵(中村獅童)からの写真には、その女性と小さな男の子と共に公園で戯れる父の姿。このことを母(八千草薫)は果たして知っているのだろうか。いつも朗らかに笑う母の顔が皆の頭によぎる。だが、彼女達は他人の心配もよそに、それぞれにも悩みを抱えている。長女の網子(大竹しのぶ)は妻子ある男性との情事を重ね、次女の巻子(黒木瞳)は夫の浮気を疑いはじめ気が気でない。また、滝子は自分が雇った探偵のことが気になっていて、四女の咲子(深田恭子)は同棲中のボクサーと慎ましい生活を続けている。人の心には阿修羅がいるという。姉妹は励ましあい、罵りあいながら、日々、自分の答えを求めて懸命に生きていく。

映画がはじまって数分、四姉妹が正月明けの鏡開きでカラカラに干からびた鏡餅を見て「なんだかお母さんのカカトみたいだね」と笑う。このシーンでもう、ほぼノックアウト。私は彼女らが織り成す、ごく自然な雰囲気にすっかり取り込まれてしまった。そして彼女らが、生みの親として、女性として、限りない尊敬の眼差しを向ける母親役をまるで「そよ風」のようにこなしてみせる八千草薫の存在感には、見ているだけで拝みたくなるようなオーラが滲み出ていた。あと男性にとっては、仲代達也の見せるある種の“情けなさ”が本当に涙を誘いますね。何はともあれ、それぞれが主役を張るほどのビッグスターが集結し実現させた奇跡のようなコラボレーションと、そこで描かれる終始ダレることのない人間模様を、是非スクリーンでご覧になっていただきたい。

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『ブラウン・バニー』

全国のミニシアターで伝説的なヒットを記録した「バッファロー'66」から5年。映画人、というよりはアーティスト・ギャロが満を持して発表する新作は、透き通るように繊細な映像の中に男の痛みが充満する失意の物語。カンヌ映画祭にて激しいブーイングを浴びてボロボロになった本作も、やっとのことで日本へ漂着。ギャロに対して極めて好意的なこの国での評判のほどは?そして、その真価のほどは?

ニューハンプシャーで開催されているモーターサイクルレース。エンジンの爆音に包まれた束の間の時間は過ぎ、選手達は次なる開催地カリフォルニアへと旅立つ。バド・クレイもその中のひとり。彼は黒いバンにマシンを積み込み、アメリカ横断の旅に出る。バドはかつて一緒に暮らしていた恋人で幼馴染じみのデイジーのことがどうしても忘れられずにいた。ふとした衝動で彼女の実家を訪ねてみるが、そこにデイジーの姿はない。だが、そこで飼われていた茶色いウサギを見て愕然とする。その“ブラウン・バニー"は、微かな子供時代の記憶と何ら変わぬ姿を保ち続けていた。それをきっかけに、バドの頭の中にはデイジーとの想い出がありありと蘇り始める。彼は旅の途中、必死に彼女の姿を追い求めるようになる。

カンヌでブーイングの一件もあったことから、あえてマスコミ試写を外して劇場へと足を運んでみた。開場を待つ列の横を前回の観客が通り過ぎていく。「マジで良かった!」と声高に激賞する青年もいれば、彼女が彼氏に向かって「こんな映画につき合わせてしまって、ほんっと申し訳ないよ」と必死に謝っているカップルすら見受けられた。同じ作品を前にしてこの反応の多様性はいったい何なんだ。そう不安になりながら私も鑑賞。まるで北欧製の家具を見るように“ひんやりとした"映像の数々。直感的に作られている分、努めてギャロの意識下に入り込まないと彼の目論見がさっぱりわからない。ラストでようやくたどり着いた結論なのだが、これは主人公の心の移ろいを観客にリアルに追体験してもらおうとの意図で作られたのではないか。その感情と同調できた人はYesと受け入れるだろうし、否ならばひたすらNoだろう。私はこのひたすら繊細な映画作りにはとても感銘を受けたものの、満足度で言うと結果的に“星の数"の通りとなった。

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『涙女』

あなたは中国の葬式を見たことがあるか。そして、葬式で泣いてお金を稼ぐという職業、“泣き女"について知っているか。本作は、期せずしてその仕事に従事せざるを得なくなった女性の奮闘を、ユーモラスに描いた異色作である。“異色"との言葉どおり、舞台が中国であるにも関わらず国内での上映許可はいっさい下りず、すべてを海外資本に頼った状態での製作とあいなった。監督のリュウ・ビンジェンは、「男男女女」がロカルノで受賞するなど、鋭い感性の持ち主として評価が高く、北京でオペラ歌手をしているという主演のリャオ・チンを従えて、これまで見たことのない“生(ナマ)の中国"をここに浮かび上がらせている。

北京に不法滞在中のグイは、夫が傷害で逮捕され、傷つけた相手には慰謝料を請求され、しまいに預かっていた近所の子供の親が夜逃げしてしまい、そのすべてを抱え込んだ最悪の状態に陥る。不法滞在がバレ、懐かしの故郷へと追い返された彼女は、そこで葬儀屋を営む幼馴染じみのヨーミンと共に“泣き女"としての商売をスタート。彼女は案外、泣きマネがうまかったのだった。思いのほか商売がうまくいき各地の葬式へ引っ張りだことなるグイ。この先、順調に行くかと思われた彼女の人生だったが、この先、もう少し多難な出来事が用意されていた・・・。

そもそも喜怒哀楽のうちの「哀」、すなわち“泣く"といった感情表現ほど胡散臭いものはなく、例えばあの無邪気な子供たちでさえ、“とりあえず泣いてみる"といったこしゃくな手段で大人をコントロールすることもあまあるのだから、たまったもんじゃない。とは言うものの、これは全部、実は大人の“たてまえ"なのかもしれない。「泣けば許してくれるだろう」。我々はきっと、いつまでもこんな甘っちょろい考えを抱えて生きていくのである。“泣くこと"について知的好奇心をかきたててくれる本作は、まるで公開実験さながらに“泣き続けたその先"の次元へといざなってくれるものでもある。また、中国に伝わる“風習"と“資本主義精神"とが妥協を見出した“ある一点"における非常に特殊な表情をとらえた作品でもある。最後のグイの涙に現代中国の目指すべき場所が示されているような気がしてならない。

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『ゴシカ』

精神科医の身に巻き起こる想像を絶する恐怖を描いたゴシック・ホラー。「チョコレート」のH.ベリーを主演に迎え、「バニラ・スカイ」のP.クルスが鬼気迫る演技を見せ、薬物依存から立ち直ったR.ダウニーJr.は嘘か誠か分からぬ浮遊感たっぷり演技で作品世界を撹乱させる。監督は、「クリムゾン・リバー」なども手掛け、「アメリ」では主人公のボーイフレンド役としてクセのある好印象を残したM.カソビッツ。

森の奥にある刑務所精神科病棟。精神科医のミランダ(H.ベリー)は、問診のたびに悪魔のはなしを物語るクロエ(P.クルス)に頭を悩ませていた。その夜、仕事を終えて車で帰宅していた彼女は、突然、雨の中でずぶ濡れの少女に遭遇。驚いて駆け寄ると少女は途端に発火し、みるみるうちに燃え上がってしまった。そこで、はっと目が覚めた。次の瞬間、ミランダは監獄の中にいた。同僚の医師ピート(R.ダウニーJr.)は彼女に驚愕の真実を告げる。昨晩、ある殺人事件が発生したというのだ。被害者はミランダの夫、加害者はミランダ…。彼女は昨晩の記憶のいっさいがなくなっていた。しばらくして、誰もいないはずの独房に“NOT ALONE"とメッセージが浮かび上がる。誰もいないはずの独房にどうやって…。彼女はいま、未知なる恐怖の扉を押し開こうとしていた。

この作品の要は“ロバート・ダウニーJr."である。周知の通り、薬物に関する(2度目の)ペナルティとして矯正施設での生活を余儀なくされた彼を、もはや「チャーリー」の主役として見つめ直すのは困難だ。あの意味深な目の輝きを、我々は今では何かしらの“危なっかしさ"として受け止めているが、それをただ匂わせるだけで、本作の面白さは抜群に膨らみを増している。「ゴーストシップ」「TATARI」の製作会社ダーク・キャッスルらしいCG技術を駆使したギミックの数々、「炎の少女チャーリー」や「シックスセンス」(本筋には関係ないのだが)からの引用、“水"のイメージがもたらす不安感など、一個一個の関連性が実に楽しく絡み合っている。場当たり的で意味不明のホラーではなく、怪奇現象に関する“ことの発端"を追究させるあり方は、「ザ・リング」以降の新たな潮流として認識されつつある。

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『The Juon』をトラウマのままやり過ごすか、それとも壁を乗り越えるか。

言わずと知れたジャパニーズ・ホラーをハリウッド製作でリメイク。しかし、どこかこれまでのリメイク方法と違うなと思わせるのは、例えば丸々アメリカ式に変換されて凱旋した『ザ・リング』のような“翻案”ではないということ。まず、舞台は日本のままだし、あの恐怖の家だってそのままの形で存在している。入れ替えられるのはキャスト。そして言語に過ぎない。

つまり、オリジナル版(ここでいう“オリジナル”とはあえてビデオ版でなく映画版ということにしておくが)で奥菜恵が演じたホームヘルパーの役どころをなんとサラ・ミシェル・ゲラーなんぞが演じてしまうわけだ。主要人物はほぼ滞日アメリカ人で占められ、そして彼らが、宗教や文化の枠組みを飛び越えて無条件で“あの母子”の恐怖に苦しめられていく。

「シチュエーション・コメディ」という言葉があるが、僕はこの考え方が『THE JUON』にも案外当てはまるんじゃないかと思った。いわゆる「シチュエーション・ホラー」だ。大事なのは既に完成している「シチュエーション」。しかもオリジナルの。そしてひとつひとつスケッチ(コント)を積み重ねてストーリーが練られるがごとく、ここではホラーの要素が積みあげられていく。

製作総指揮のサム・ライミがオリジナルの配給ではなくあえて“リメイク”を指示したのは、外国人キャストの視点を導入することでこの息の詰まるような日本家屋(シチュエーション)の内部へと外国人観客をも深く深くいざなうことを目的としていると同時に、この日本で生まれた「シチュエーション・ホラー」を米市場への試金石として投入することに目的があったのだろう。

もちろん日本人観客の中にはストーリーを十分把握している人も多いだろうから、ここはどうか再演される舞台にでも接するような感覚で観てほしい。リメイク、複製、翻案という洗礼を通って、そこにはきっと『ザ・リング』以上に興味深いいでたちをしたホラー映画が横たわっているはずなのだ。

あ、言い忘れていたが、もちろんあの“俊雄くん”だってキャスティングされている。母オバケも同様だ。だって本作の“シチュエーション”ってのは、結局、彼らを起点として形成されているのだから。

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『ヴィタール』で、死後の世界を肉体的に解釈せよ。

主人公のモデルはレオナルド・ダ・ヴィンチだという。そんな大それたことを耳にしたので、つい笑ってしまった。いったいどんな荒唐無稽な作品が飛び出すのだろうと身構えていたら、これがこれまで観てきたどの系譜にも属さない作品だったので驚いた。

浅野の役柄は、死の淵から蘇った医学生。車の運転中に事故を起こし隣に座っていた彼女を亡くしたらしいのだが、その記憶のいっさいを失ってしまっている。

浅野はいつもながらの透明感溢れる演技を基調としながらも、時に、何か魂の乗り移ったかのような“憑依系”の表情をちらつかせ、その一瞬に何か鬼気迫るものを感じながらも、しかし観客の気持ち的には決して苦痛や不安でなく、いざなわれるのは安らぎの方向だ。その奇妙な心地よさはきっと彼の演技が人の心の深いところにまで介入している結果なのだろうと思う。

随所に生なましい解剖シーンが散りばめられているものの、映像は決して刺激狙いのグロテスクには傾かない。これにも浅野の醸し出す解毒作用がかなり働いていると思うのだ。彼のピュアなイメージがすべてのグロ要素を浄化していく。

徐々に取り戻しはじめる記憶、そして目の前に置かれた一体の検体(解剖用の遺体)。主人公は徐々に何かを捜し求めるかのように鬼気迫る勢いで解剖に没入していく。

そもそもダヴィンチや杉田玄白が医学へ、そして体内の不思議へと没入していった原因はなんだろう。もしかすると彼らは主人公と同じく、検体の中に何か“答え”が隠されているような精神状態へといざなわれていったのではないか。没入したその先に何かが見えるような気がして、それで無心になってスケッチを続けていたんじゃないか。

僕は前に主人公のモデルがダヴィンチと聞いて笑いそうになったが、実際にここまで来ると、これはフィクションの名を借りた“人間の身体に関する崇高な哲学”のようにも感じられ、それがダヴィンチに代表される先人たちにも共通するものと考えても不思議は無くなっていった。

そして一方で、塚本は人間の身体性を極限まで表現するにあたってコンテンポラリー・ダンスを起用し、バレリーナであるヒロインに砂浜で突拍子もなく身体をくねらせ、高く軽やかに弾ませる。同時に、映像もそれに対抗するかのようにねじれ、ふくらみ、移動し、鼓動し、そして爆音でがなりたてる。

それを目にして、僕はふと「あ、映像も踊っている」という印象を受けた。それは以前に「人間の体内」展に衝撃を受けたという塚本がごく率直にそのときの思いを吐露した映像のようにも感じられた。飛び跳ねる身体、そして医学生の目の前で体内のすべてをさらす身体。どちらもが紛れもなく人間の身体。だが、一方には魂が宿っていて、一方には魂が抜け落ちている。でもその決定的な違いとはなんだろう。例えば、こうしていまPCに向かっている僕と、いつか死んで抜け殻となる僕、どちらも同じ僕であることには変わりないんじゃないか。

なんだか頭がおかしくなりそうな命題がグルグルと頭の中を駆け巡る。だが、これに「映画」として答えを賦与しようと塚本なりの格闘が感じられてますます興味深いのだった。

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『キング・アーサー』で思わず背伸びしてしまったブッラッカイマーを許せるか、否か。

この映画は、間違いなくジェリー・ブラッカイマー製作なのだが、それにしちゃあ、地味過ぎやしないだろうか。彼のプロデュース作品ならば、もっとドッカンドッカンと爆発&ガン・アクションの世界が広がっているはずでしょ。あ、いや、もちろんガンもバズーカも時限爆弾もない時代だってことは百も承知なんだけど、そもそもジェリーはそんなこと気にしない性格だったはずだ。

・・・それが違った。

私がこれまでイマイチ好きになれなかった唯我独尊のジェリー・ブラッカイマーがここにはいなかった。ということは・・・意外と好きな映画かもっ!もうなんというか男臭い物語なわけです。この世にはそもそも「アーサー王伝説」なるものがあるのだけれど、それらはかなり現実ばなれしたというか、神がかり的なエピソードが多いシロモノ。この映画が目指したのはそのベースとなった真実の物語というわけだ。伝説の真意は結局こういうものだったんじゃないの?というアプローチ。神様とか魔法とかいっさいなし。つまり、巧妙なジェリー・ブラッカイマー封じというわけだ。

で、見終わったあとはやっぱりブラッカイマーっぽく何も残らないんだけれど、アーサーの極端なまでのカリスマ性の無さなど、なんだか逆療法っぽくも心に迫ってくるものもあったりする。旅の仲間が7人いて、彼らがとある一家を救出に向かうという序盤戦、あらら、これは『七人の侍』、あるいは『プライベート・ライアン』といった雰囲気ですね~、と感じたりもするのだが、後からネットで監督の発言内容などを確認していると、本当に『七人の侍』をお手本としていたらしい。それほどガツーンとくるものがないのがたまにキズなのだが。もちろん、あまりガツーンといってはいけないところがこの映画の定め。何しろ伝説の元ネタという設定なのだから。神がかることなく、地味に、地味に。

結局、観客がいざなわれるのは、「あれ?意外とアーサー王伝説に興味が沸いてきたかも!」という境地。まるで知識の扉の前に立たされたかのような気持ち。これを押し開くかどうかはあくまであなた次第なのである。これまでは胸焼けしそうなくらいに押し付けがましい映画を量産してきたブラッカイマーが、自分を封じ込めることで掴み取ったこの謙虚な幕切れに、新たな意味が生まれている。

歴史大作や壮大な冒険ファンタジーが割拠する中でこれは物足りないと感じる人もいるかもしれないが、本作でアーサー役のクライヴ・オーウェンはこの役をステップに、この後『クローサー』を経て、待望の『シン・シティ』へと進出することになる。これらの作品ではオーウェンのかなり変態的、妄想的な部分がかなりいい味を占めているだけに、『キング・アーサー』で目にした彼の勇姿はいったいなんだったのか、まるで幻を見たようにも感じられるし、いや、それをいちばん感じているのはオーウェン自身だと思うのだ。

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『スパイダーマン2』で、ヒーローの愚痴を聞く楽しみを。

たいていの映画なんてものは、「人生は開かれている!」「あなたの前には可能性という名の道がいくつも延びている!」なんてまるで軍隊PRのようなプロパガンダでまくしたてるけれど、このヒーローはやっぱりひと味違う。一見華やかに見えるスパイダーマンという職業(ボランティアなの?)も意外とトホホなんだよ、っていう弱気な部分を堂々と見せてくれる。まるで着ぐるみヒーローのグチを楽屋で聞かせてもらっている感じ。もちろんデパート屋上で。

それで主人公ピーターの悩みもまた真に迫っているんだ。「大きな力を持つことで失うものも多い」って悩み、いまにも多くの歴代ヒーロー達が集まってきて「そうだよなあ…」なんて相談会が始まっちゃいそうだもの。ヒーローってホント大変。

で、今日の地球上で、政治の世界であれ商売の世界であれ人助けであれ、ピーターみたいに悩みに打ちひしがれながらヒーローやってる人間っているんだろうか、って話。素顔隠してボロボロになって、恋人にも愛を告げられず、怪物にはボコボコにされ、新聞にはオモシロおかしく書き立てられ、親友には平手打ち食らわせられ…。

けれど、口の悪い編集長はきっと誰よりもスパイダーマンが大好きだし、叔母さんはいつも慈愛に満ちた眼差しで彼を包み込んでくれる。近所の子供らは密かに彼を目標として大きな夢を抱くことができるし、愛する人だっていつか彼の気持ちに気付いてくれるはず。

なんで単なるヒーローものでこんなにもいろんなことを考えさせられるんだろう、とふと気づくんだけど、やっぱり『死霊のはらわた」なんていうカルト映画を作っていたサム・ライミだからこそ成せるワザなんじゃないかな、と思う。ヒーローが超人なんて時代はもうとっくの昔に終わってはいるけれど、彼らのウジウジした部分に臆することなくねちっこく迫れるのはきっとライミの力。

第3弾ではどんなヒーローの楽屋バナシが聞けるのか、いまから楽しみにしています。

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