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『悪い男』

既に海外の映画祭ではお馴染みの顔にして、韓国映画界でひときわ異才を放つ監督、キム・キドクが「魚と寝る女」以来の堂々たるお目見え。東京フィルメックスなどでも毎年紹介されてきた監督作品にようやく時代が追いついてきたというべきか、2004年には彼の作品が4本も公開される運びとなりそうだ。時として垣間見られる残虐性とその真逆の繊細な感情描写との火傷するほどの温度差を例えて世界では「韓国の北野武」と評されることもある。

孤独なヤクザ男のハンギは、街角で見かけた女子大生ソナにひとめぼれ。次の瞬間、人ごみの中で彼女の唇を強引に奪う。すぐに騒ぎは大きくなり軍人に取り押さえられるハンギ。ソナからはツバを吐きかけられ屈辱感が押し寄せる。だが、彼は次の行動へと移行。それはソナを罠にはめて売春宿に送り飛ばす策略だった。作戦は成功。日々、客の相手をしてヤツれていく彼女を眺めながら、ハンギは複雑な感情に駆られていく…。

“悪い男"と呼ばれる男の顔は、そのファースト・カットから本当に“悪そう"だった。顔のつくりだけではなくて、なんかもう、根本的に悪いものを見た、って気持ちにさせられる。キム・キドクには恐れるものが何もない。映画とは似て似つかぬ端整でおとなしそうな顔をしながらも、彼がいったい何を見つめているのか皆目分からない。まるで子供にポルノを読ませるように観客の心を意図的に乱し、それにまともに付き合っていると神経がヒリヒリと火傷を負いそうだ。だが、そんな目を覆うような残虐性を包含しながらも、最終的には思いも寄らない芸術性と奇想天外な筋書きで観るものを圧倒する。その魅力に気付いたときにはもう虜になっている。キドク監督はベルリン国際映画祭に出品した新作「Samaritan Girl」で監督賞を受賞したばかり。我々がようやく本作へと辿りついたとき、彼はもう更に先の次元へと歩を進めている。

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『ヘブン・アンド・アース』

「グリーン・デスティニー」「HERO」「MUSA」に続いて、またまたアジアから壮大な歴史アドベンチャーが登場した!舞台は、その名を聞けば誰もがロマンを抱かずにはいられない、あの“シルクロード”。遣唐使として中国に渡ったひとりの日本人の長くて過酷な旅を、「双旗鎮刀客」のフー・ピン監督が渾身の力を込めて描ききる。主演は「鬼が来た!」のチアン・ウェンと「壬生義士伝」の中井貴一。共演に「少林サッカー」のヴィッキー・チャオ。

紀元700年頃の中国。13歳で遣唐使として派遣されて以来、いまだに皇帝に仕える一人の日本人剣士がいた。その者の名は、来栖(中井貴一)。25年ぶりの帰国が許された彼は、司令官の娘、文珠(ヴィッキー・チェン)を警護し長安へ送り届ける中で、皇帝より最後の仕事を命じられる。それは、「元将軍で反逆者の李(チアン・ウェン)を始末せよ」というもの。一方その頃、李は皇帝へ献上する仏教経典の護衛として長安を目指していた。ふたりの通り道はひとつ、シルクロード。闘いの時は、少しずつ近づいていた…。

つい先日にも、チェン・カイコー監督が真田広之を主演に歴史大作を撮ることを発表したばかりだが、アジアの歴史大作に付き物なのは“多国間協力”という概念だ。それもそのはず、例えば舞台を“シルクロード”と定めたときに、我々が歴史の時間に習った定義からすれば、そこに雑多な人種が集っていなければそれはシルクロードでもなんでもない。国家間の垣根を越えてこういったアジアの誇る壮大な物語が少しずつ映像化され始めていることに、同じ地に生きる者として息を弾ませずにはいられない。普段は“七三分け”で、よく見ると日本人らしからぬテイストを併せもつ中井貴一は、その髪を惜しげもなく振り乱して熱演。陰と陽の関係のごとく対峙する怪優チアン・ウェンと堂々と渡り合っている。

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『四月の雪』が本国で不調?それでは韓国年間NO.1映画ってどんな作品なの?(ウェルカム・トゥ・トンマッコル)

ぺ・ヨンジュン主演の『四月の雪』が韓国では不振らしい。19日までの観客動員数が74万。「え、これ多いんじゃないの!?」と思われる方もいらっしゃるだろうが、韓国ではヒットすると数百万人を動員するパターンが多いので、日本との単純な比較では現状が分からないことになっている。では日本は?20日までの4日間で42万人。興行収入にして5億5000万円。配給のUIPでは30億円のヒットへと導きたいとしている。まあ、『四月の雪』は前にも個人的な感想をお伝えしたようにかなり地味で重いトーンの作品だ。かなりのエンターテインメント寄りの作品がとんでもないヒットを飛ばしてしまう韓国ではそれほどヒットし得ないことは当事者も薄々分かっていたのかもしれない。まあ、日韓両メディアは「ヨン様が日本においてのみ人気の外タレのようになってしまうかも!?」というような文句で煽り立ててはいるものの、日本の観客が満足して劇場を後にしているのならそれはそれでいいじゃないか。

というわけで、今回は6年ほど遡ったあたりからの各年韓国映画NO.1作品を列挙してみたいと思う。

1999年 シュリ

2000年 JSA

2001年 友へ/チング

2002年 大変な結婚(現在、日本の一部地域にて公開中)

2003年 殺人の追憶

2004年 ブラザーフッド

2005年  ?

本年度のNO.1を空白としているが、今のところ有力なのは『ウェルカム・トゥ・トンマッコル』という作品。これは朝鮮戦争時代にトンマッコルという浮世離れした平和な村があり、そこでたまたま鉢合わせてしまった韓国兵、北朝鮮兵、アメリカ兵の3者が三すくみ状態に陥るも、村人の粋な計らいによってその緊張はすぐに打ち解け、3者は仲良くこの村に住み着くようになるのだが・・・というヒューマン・ファンタジー。本国では動員数が既に800万人を越え、『マラソン』、『親切なクムジャさん』を追い抜くどころか、なんと韓国歴代ヒット作の第4位につけ、今後まだまだ数値を伸ばしていきそうな気配だという。ちなみに歴代NO.1は『ブラザーフッド』、NO.2は『シルミド』、NO.3は『友よ/チング』という順序になっている。

ウェルカム・トゥ・トンマッコル

監督:ペク・カンヒョン 主演:シン・ハギョン、チェン・ジェヨン、カン・へジョン日本での公開はまだ未定

そうそう、この映画の音楽監督はなんと久石譲だというから驚きだ。いつから彼の活動はこんなにボーダーレスとなったんだろう。

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『チャーリーとチョコレート工場』に満ち溢れるこの幸福感はいったいなに?

恐らくチャーリー少年を見ていてとても心が温かくなるのは、彼の存在に「調和」を感じるからなのだろう。それは彼の住む「(文字通りの)傾いた家」の中に漂う空気のようなものでもある。

父親は「歯磨き粉工場」で働き、そこをクビに。家には祖父祖母が4人同じベッドで暖を取り、夕食のスープにはキャベツが浮かんでるだけ。そんな貧しい中にありながらも彼の家庭にはそこはかとなく「調和」の灯火が絶やさず明かりをともし続けている。そんな家庭の描写のひとつとして、おじいちゃんが汚い言葉を吐きまくり、思わず父親がチャーリーの耳を塞ぐというシーンがあるのだが、後にこのおじいちゃんが「いいか、紙幣は毎日刷られ続けている。しかしゴールデンチケットは1枚しかないんだぞ。それをお前は捨てるというのか?」などと問いただし、チャーリーが思わず「イエス、サー」と言ってしまうところを見ると、このおじいちゃん、恐らく軍隊上がりなのである。後々のシーンでキューブリックの『2001年 宇宙の旅』のパロディが登場するところを見ると、もしかするとこのおじいちゃんのくだりは同じくキューブリックの『フルメタル・ジャケット』のパロディですらあるのかもしれない。

で、まあ、「調和」の話だ。チョコレート工場のウィリー・ウォンカ氏はとある出来事から今回の見学ツアーのアイディアを思いつく。作中では原作にない彼の過去(少年時代)が語られるが、「歯医者」であった父親の存在と、それでも「チョコレート」を食べたかったウィリー少年の間にはティム・バートンの前作『ビッグ・フィッシュ』でも見られた父と息子の関係性が浮上しており、思えば「歯医者」と「お菓子」の関係性というものは一見互いに反目しているようにも思えるが、実は「歯」という対象を取り巻くバランスのようなものとも考えられる。つまり「調和」なのである。本作を既にご覧になった方ならお分かりかと思うが、クライマックスではその「調和」という方向性がさらに突き詰められることになる。なぜだかこのごろのティム・バートンはそういうテーマにご執着らしい。そして、この世界中で有名な原作にそのようなテーマ性を盛り込むことの出来る手腕と度胸にはほとほと頭が下がる。

このストーリーの中で現われし他の子供達、そしてウォンカ氏は皆、きれいな歯を持ってはいるものの、それが保たれているのは「調和」からかけ離れた別の理由によるものだ。その“バランスが悪い”とされる挑戦者たちを、ウォンカ氏はティム・バートン風のブラック・ユーモアでもって次々と脱落させていく。彼は調和か否かを見抜く才能(そんなもの観客でも一目瞭然ではあるのだが)を持っている。と同時に、彼をそれらの行動へ向かわせるのは、彼自身がかねてよりバランスの悪い状況の持ち主であるという事実を暗黙のうちに悔いているからではないだろうか。

つまり、永久に少年のようでさえあるウォンカ氏にもいつかは「老い」という魔物が食いついてくる。そのタイムリミットが迫る時分になって、彼はようやく過去の記憶をフラッシュバックさせはじめ、そのような修復能力が自ずと働き始めたのかもしれない。結局は彼も手探り状態で、チャーリー少年の持つような「調和」を模索するようになる方向性がこの映画の本質でもある。

そんなことを考えながら、スクリーン上のチャーリー少年に「君はとても調和しているね」などと語りかけたところで、彼はきっとただポカンとしてしまうだけなのかもしれない。だって、彼の言葉を借りれば「理屈ぬきに楽しいのがお菓子」なのであって、きっと「理屈ぬきに温かいのが家族」でもあるに違いないのだ。

こういう映画の根本的なところを「調和」などといった言葉で片付けてしまう僕のあざとさを彼は笑うだろうか。白髪は生えていないものの、僕もそろそろ引き返せないところまで歳を取り始めているのだ。

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『アビエイター』をどう見るよ!?

「・・・で、何が言いたかったの?」

アカデミー賞最多4部門受賞を果たした本作だが、実際に日本でこれを観た人の中にはこう呟く人も意外と多いことかと思う。

たとえば我々が幼い頃、図書館で体験したような記憶に思いを馳せるならば、そこには伝記コーナーの前で何かしら「聞いたことのある名前」を手に取る自分の姿が浮かび上がるだろう。そこに「ヴィトゲンシュタイン」という名前があったとして恐らくその幼子は早口言葉の練習材料以上としての興味は何も沸かないだろうしだろうし、もしかすると成人した今でさえ「ヴィトゲンシュタイン」への興味はむしろゼロに近いと思うのだ。

それで、長々と何が言いたいのかというと、「ハワード・ヒューズ」って人、知ってますか?興味ありますか?ってことなのだ。このたび製作をも手がけたという主演のレオナルド・ディカプリオを10代の頃から魅了し続けたこの実在の富豪、飛行家、映画監督に関する伝記映画が本作なのである。アメリカ人にとってはきっと有名な人物なのだろう。もちろん「ヴィトゲンシュタイン」よりは浸透度が高いに違いない(もういいって)。

本作について言えば、少なくとも日本人にとっては照準の絞り方が困難だ。3時間近い長丁場の推進力は、開発不可能と言われた飛行輸送機が一度きりの試験飛行に成功するという“ストーリー・ライン”によるものではなく、きわめて年表的な時間軸のように思える。1978年に死去したヒューズの黄金期20代~30代にスポットを当て、そこで巻き起こったハワード・ヒューズに関する事件を時系列に挿入させていく。まあ、ストーリーは公式サイトを見ていただくとしよう。いや、むしろ彼の人生をきちんと頭に入れてから臨まれたほうが、それが少なからず楽しみにつながるであろうことは絶対に保証する。

もちろん、『ギャング~』から始まり『アビエイター』を経て次回作「Departure」(『インファナル・アフェア』のリメイク)に至る「スコセッシ&ディカプリオ」コンビは、互いにカリスマ的俳優の「若さ」と巨匠の「巧さ」とがガッチリと手を結んだシリーズではある。観客の集中力が続くかどうかは別として、本作が見せる、カメラの枠を越えて1930~40年代の風景がどこまでもどこまでも続いていくような映像世界には、作品を細かく観れば観るほど湧き上がる圧倒感を禁じえないし、社交界シーンと飛行シーン(特に「アルマゲドン」を超える勢いの墜落シーンは必見)のスケール、終始額にスジを刻みながらまるで飛行機のエンジンのようにフルスロットルで回転を続けるディカプリオにも人物的な魅力ではないが、演技的には成長を感じる。

そしてたった一人の存在感でその場のイメージをガラリと自分色に変えてしまえるケイト・ブランシェット扮するキャサリン・ヘプバーンには、その出演シーンのすべてにおいてハッとさせられる魅力に満ちている。僕はキャサリンの出演作品をそんなにたくさん見ているわけではないが、僕が『アビエイター』を鑑賞する前日にたまたまNHK-BSで放送されていた作品を見た分には、彼女のイントネーションと気取りのない活舌の良さは、本作においてそのままケイトに乗り移ったかのような印象さえあった。もちろん映画がただのそっくりさん自慢になってしまってはしょうがないわけではあるが、彼女を見ていて僕は、むしろこのまま突然字幕が登場し、「アビエイターの途中ですが、事情によりキャサリン・ヘプバーンの話に変更させていただきます」って趣旨変更されたほうがよっぽど良かった気がした。それは結局、観客としていかにたやすくキャラクターに入り込めるか、という至極単純な問題なのだ。

その点、ハワード・ヒューズという人物はあまりにも謎に満ちている。本作を観ても謎は一向に解消されないし、むしろ本作の狙いは“謎を謎として提示する”ことにもあったと思う。そこに特別な結論を付け加えるでもなく、そのあまりに広大なディテールをブワッと一挙に提示してみせた、その点において製作者とスコセッシともに職人的な仕事ぶりを讃えられるべきだと思う。しかもそれが3時間近くも息切らせずに続くのだから、その精力の持続ぶりは人知を超えたところにある。

だって映画の中のハワード・ヒューズでさえ時々自分のことがわからなくなるのだ。ディカプリオが気が狂ったように手を洗ったり、ミルクを所望したり、同じフレーズを口ずさむのがとまらなくなったり。それでそういう兆候が現れ始めた自分に恐れおののいたりもする。それだけ「ハワード・ヒューズ」という人物は本人さえも超越してどっかの次元へと羽ばたいてしまっている。コミカルに見せていたこの手の描写がいつしかどうしようもなく本人を襲いはじめる切実さといったらない。

つまり、本作は、ハワード・ヒューズのあまりにも広大な人生模様を圧倒的でパワフルな手腕のもとで3時間という尺に詰め込んだものの、結果として観客(特に日本人の)はその人生の入り口にようやく立てたかどうか、という地点で終幕を迎えるにとどまる。 それはむしろ当然のことかもしれないし、それがスコセッシの目論見なのだとしたらそれはそれで凄いことだろう。事実、アカデミー賞効果も手伝って、今回ハワード・ヒューズを知らない世界中の人々の間で一気に彼の知名度は上がった。これは映画というメディア以外には到底成しえない偉業だと思うのだ。

スコセッシの作品に関して「何がいいとは一口では言い切れないが、とにかくすべての描写が深くて素晴らしい」という記述をネット上のどこかで見つけたのだが、僕にももちろんそんな風に特別な感情を抱く映画監督はいるし、その気持ちはよく分かる。しかし、どうにもスピルバーグ世代という時期を成長してきた僕にはそんな気持ちになれないのが悲劇といえる。

それで僕はいよいよ迎えるクライマックスに向けて心の準備などしつつ、席に座りなおしたりしながら、ひとつの“締め”の描写を目の当たりにする。そこで気が付いたのは、結局この人物が、冒頭とラスト(詳しくは述べないが)において母親の記憶に包まれて描かれていたということだ。

僕は映画を観るときに必ず、どうしてこの作品がそこに生まれ出でたか、について一番興味関心を惹かれるのだが、その地点に至って、本作に関するようやくひとつの答えを得られたような気がした。つまり、この父性全快の時代に、いかに国家が潜在的に母性を求めているか、という解釈だ。それはなんともフロイト的な解釈になりかねないのだが、たとえば、ブッシュ批判の極みだった『華氏911』がクライマックスにかけてジャーナリズムというよりは感情的な反戦歌のようになっていった事実にも何か故郷で息子の帰りを待ち続ける母性的なものを感じてしまうように、つまり、何かこのアメリカという遠い国がどうしようもなく行き詰まりを迎えているような気がしたのだった。

そう考えたときに、眉間にしわのハワード・ヒューズの姿はジョージ・ブッシュを主人公としたアメリカ現代史にも重なりあうように思え、その父性の象徴的存在が最後に「母性」を求めていた、というあまりに涙ぐましい告白(僕にはこう見えた、というだけだが)に、ああ、とうとうこんな映画が作られるまでにこの国は追い詰められているのか、とただ身を切るような気持ちに襲われた。

最後になるが、最近めっきり出番が多くなっているジョン・C・ライリーがいい味を出している。というか出演してくれるだけでこっちが嬉しくなる。彼の役どころは芸術だとか技術に関してはいっさい理解できない男。しかし何故かヒューズには何か希望を見出しているというフツーの男だ。ヒューズの監督作『地獄の天使』のプレミアで観客が大喝采を贈った時、彼はキョロキョロとあたりを見回し、それで「・・・ああ、いい映画だったのか」と初めて気が付いて拍手を始める。そんな小ワザがいい。多分、この映画にはそんな細かさが他にもたくさん詰まっているんじゃないか。それは2度や3度見ただけでは決して理解できるものではなく、先にも書いたが、もちろんそれこそが人の伝記、ハワード・ヒューズの人生と思われるのである。

「で、何が言いたかったの・・・?」

そこに答えがあっては人の人生としてどうなんだろう。否定的に思われるこの言葉が、時として肯定的に響くことだってある。特に人間の人生に関しては、そう易々と答えなど出てたまるものか。

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第18回東京国際映画祭がいよいよ始動!

第18回東京国際映画祭の概要が発表されました。

●チャン・イーモウ(監督/審査委員長)
●桃井かおり(女優)
●ロン・ハロウェイ(ドイツの映画評論家)
●鈴木光司(Mr.リング)

■オープニング作品『単騎、千里を走る』
■クロージング作品『力道山』
■クロージング・ナイト『大停電の夜に』

↑これまでのようなハリウッド大作がなくなってしまいましたね。これも特色を出すひとつの方法ってことで。


*チケットの発売は10月8日。
上映作品&スケジュールはこちらから確認できます。
http://www.tiff-jp.net/#

今年も良い映画とたくさん出会えますように!

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ところで、この映画祭の歴代グランプリ(東京グランプリ)にはどのような作品があるのでしょうか。調べてみました。あなたは何本くらい見たことがありますか?

1985年(第1回) 台風クラブ

1987年(第2回) 古井戸

1989年(第3回) ホワイト・ローズ

1991年(第4回) 希望の街

1992年(第5回) ホワイト・バッジ

1993年(第6回) 青い凧

1994年(第7回) 息子の告発

1995年(第8回) 該当作品なし

1996年(第9回) コーリャ/愛のプラハ

1997年(第10回) ビヨンド・サイレンス、パーフェクト・サークル

1998年(第11回) オープン・ユア・アイズ

1999年(第12回) 最愛の夏

2000年(第13回) アモーレス・ぺロス

2001年(第14回) スローガン

2002年(第15回) ブロークン・ウィング

2003年(第16回) 故郷の香り

2004年(第17回) ウィスキー

『スローガン』と『ブロークン・ウィング』はまだ公開されてないんですね。良質ながらとても地味な作品であることは理解できるんですが、そうなればこの映画祭の権威というものはいったい何なんだろうという気持ちもしてきます。少なくともグランプリを受賞した作品は映画祭事務局が責任を持って公開の道を模索する、いや、もっと大手を振って劇場公開できるようなブランディングと環境作りが望まれるところです。

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ヨン様の『四月の雪』を試写。

『四月の雪』を試写させてもらった。先日の来日会見の際には、きっと凄いことになっているだろうとの憶測(いや、確信)のもと、すっかり弱気になって会場に赴くことさえ出来なかった。そんな僕に本作とあいまみえる資格があるのだろうかといささか憂鬱になりながらの試写。『八月のクリスマス』や『春の日は過ぎゆく』の確立された映像演出で観るものを心酔させてきたホ・ジノ監督の手腕はやはりここでも健在だった。

インス(ぺ・ヨンジュン)とソヨン(ソン・イェジン)演じる男女が出会う場所は救急病院。ふたりはそれぞれに妻が、夫が交通事故に巻き込まれたとの連絡を受けて駆けつけていた。緊急治療室で生死の境をさまよい横たわるふたりの男女。彼らは事故当時、同じ車に乗り合わせていた。どうやら主人公らの目を盗んで不倫関係にあったらしい。普段はまったく酒が飲めなかったはずのインスの妻からはアルコールが検出されていた。

飲酒運転による交通事故・・・しかも対向車線を走行中に巻き添えになった若い男性はすでに息を引き取っていた・・・。あまりにも衝撃的な事実を突きつけられ、絶望の淵に立たされたインスとソヨンには言葉も出ない。意識不明のままの妻の顔を眺めながらインスは言う。「いっそのこと死んでくれればよかったのに・・・」。

それでも看病のために毎日通院しなければならないインスとソヨンは、そんな状況の中でまるで互いの傷を癒すように言葉を重ねていく。そしていつしか、彼らの互いを想う感情は特別なものへと変わっていた・・・。

こういったあらすじで物語は進行し、まあ、これを読まれれば大抵の方はこう想うに違いない。

「暗いなあ・・・!」

そう、本作は哀しみの物語でもある。冒頭部なんて哀しみのミルフィーユのような構造で描かれていて、うわあ、もうこれ、どうしよう、とこの悲劇に自分が耐えられるのか心配にすらなってしまうのだが、それは観客がインスとソヨンというふたりの主人公らの感情を少なからず推察してしまうからで、実際には彼らが泣きわめいたりなどという見ているのも辛い劇的なシーンがあるわけでもない。

そこに映るのは、どんよりと曇った空、うっすらと降り積もる雪、一面に広がる荒涼たる田園地帯。観客はこれらの描写をもとに、自ずと彼らの心理状態を察してしまうのだ。そこには互いの気持ちを安易な言葉で表現してしまうような演出などいっさい存在せず、イメージによって積み重ねられていく心の変化といったものが、ごく自然に伝えられていく。この上手さに僕ははっきりいって脱帽したのだった。

また、病院のベッドに横たわる男女の表情を克明には映さないことで、主人公らにとっても“自分の妻、夫の表情が見えていない”状況なのだということが瞬時に伝わってくる。自分のいちばん側にいた人間について実は何も知らなかったのだ、という絶望。そんな残酷な状況に見舞われた彼らであっても、明日はやってくる。その当たり前な日常がもたらす更なる絶望・・・。

僕は最初、いろんな媒体で「やがてインスとソヨンが心を通わせていく」という展開を知らされ、「いやあ、それは出来すぎだろう!」などと思っていたのだが、彼らの置かれた状況とは実際そんな生易しいものではなく、むしろ「明日を生きるために心を通わせる」といった様相にやりきれなさを感じたのだし、ホ・ジノ監督によって丹念に描かれる心象風景が絶妙であるからこそ、観客は知らぬうちにその境地へといざなわれてしまう。

かなり重い映画ではあるものの、クオリティとしては非情に高い。こうした作品を日比谷スカラ座のような一級の劇場で観られるのは、日本人としての幸福と言えるのかもしれない。

ちなみにソヨン役のソン・イェジンは10月公開の『私の頭の中の消しゴム』という作品でもヒロイン役を演じている。これまた幸せの絶頂でアルツハイマー病に侵されるという薄幸な女性役であり、いや、彼女の魅力はきっとその“薄幸そうなたたずまい”にこそあるのではないか、と勝手ながら感じてしまった。こちらの作品は、原作がなんと日本のドラマということで(永作博美が主演でした)、驚くべきことにまったく韓国っぽい匂いのしない“世界標準”的な上質ラブ・ストーリーに仕上がっていることを付け加えておきたい。

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『トゥルーへの手紙』を、日本でも。

写真家のブルース・ウェバーが愛犬トゥルーへの手紙というカタチでアメリカへの郷愁の想いを綴った『トゥルーへの手紙』というドキュメンタリーが10月8日より公開となる。

これに併せてEYESCREAMでは、日本で活躍する写真家陣とコラボレートして「LETTER TO MY DOG」という特集を企画。この写真家たちが愛犬への想いを綴った「日本版:トゥルーへの手紙」とも言うべき誌面特集が評判となり、シブヤ西武百貨店にて展覧会が開催される運びとなったようです。

“LETTER TO MY DOG” 展
9月13日(火)~10月3日(月)
シブヤ西武百貨店 3F連絡通路特設会場
(A館とB館をつなぐ通路)
参加アーティスト:長島有里枝/半沢克夫/藤代冥砂/レイク・タホ

『トゥルーへの手紙』は10月8日より、渋谷シネマライズにて公開。

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『殺人の追憶』の絶望の淵で、わずかに微笑む。

韓国では、『シュリ』『JSA』さらには『マトリックス』シリーズをも超える560万人を動員。見事、2003年興行収入No.1を記録した。出演は、『シュリ』『JSA』のソン・ガンホ、『気まぐれな唇』のキム・サンギョン。監督は、『吠える犬は噛まない』のポン・ジュノ。第16回東京国際映画祭では「アジアの風」にて上映され、アジア映画賞を受賞している。ちなみに韓国の興行成績NO.1をその年ごとに振り返ってみると、1999年『シュリ』、2000年『JSA』、2001年『友へ チング』、2002年『大変な結婚』、2003年『殺人の追憶』、2004年『ブラザーフッド』という具合になっており、2005年については今のところ『マラソン』が優勢であると見られている。

1986年、ソウル近郊の農村で若い女性の裸死体が発見された。無惨にも手足を拘束のうえ暴行されており、その後も同じ手口の連続殺人事件が相次いで発生。現地には特別捜査本部が設置され、地元の刑事パク・トゥマン(ソン・ガンホ)とソウル市警から派遣されたソ・テユン(キム・サンギョン)は、この難事件に挑む。性格も捜査方法も異なる二人は、対立を続け何度も失敗を重ねながら、ついに有力な容疑者を捕らえるのだが…。

本作が“衝撃的なサスペンス”でありながらも、“笑い”の要素をふんだんに取り入れていることに驚かされる。そういえば、ポン・ジュノ監督の前作『ほえる犬は噛まない』も抱腹絶倒のコメディだったが、この作品でもふとした瞬間にふらりとジャンルの境界を越えて、なんだか凄く切なくなってしまったり、という部分が多分に見受けられた。本作も同じだ。一方で笑わせておいて、他方で途方もない“恐怖”と“無力感”が背後から忍び寄り、知らないうちに身体を蝕んでいく。人間、これだけどうしようもない絶望に追い込まれるとかえって感動すらしてしまうのだから、本当に奇妙なものだ。これらのジャンルの器用な往復に、観客の体内時計はすっかりと狂わされてしまう。岩代太郎の音楽も耳にやさしくて素晴らしいし、またそのバックに映し出される田園風景も息を呑むほどに美しい。だからこそ恐ろしい。我々は、それらを「美しい」と感じた瞬間に、次の罠への入り口に立たされているのだから。

ところで、ポン・ジュノ監督は意外な日本通としてもよく知られており、日本の漫画「オールド・ボーイ」を友人でもあるパク・チャヌク監督に紹介したのも彼だったし、山下敦弘監督作『リンダリンダリンダ』に『ほえる犬は噛まない』で主演したぺ・ドゥナが出演することになったのも彼の紹介がきっかけだったという。

8月に日本で公開された『南極日誌』では脚本執筆に参加していたジュノ。期待を集める新作は2006年の夏に公開の『怪物』という作品となるようだ。本作は、突如現われた怪物の手から逃れようと奔走する家族の物語、となっている。 「怪物」という言葉を聞いたときに僕は『殺人の追憶』のラストシーンを思い浮かべてしまう。そこでソン・ガンホの見せた表情とは、まさしく人間という名の怪物の存在にうちふるえる哀れな子羊といった衝撃的なものだった。

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スピルバーグの新作はこんなことになっている。

スピルバーグの『宇宙戦争』に続く新作はこんなことになってるらしい。

その名も、『MUNICH(ミュンヘン)』。

1972年9月5日にミュンヘン・オリンピックにて発生したイスラエル選手団襲撃事件にスポットを当てた作品とのこと。この事件の実行犯、“ブラック・セプテンバー”の11人の構成員を暗殺すべく、イスラエルの特殊精鋭部隊“モサド”が送り込まれてくる。その後の中東の歴史を左右したとも言えるこの事件を、スピルバーグは「復讐を命じられた兵士の視点で描きたい」と語っているらしい。

なるほどスピルバーグ→ユダヤ人というこちらの発想は早合点というわけだ。

彼にはこの映画を通じて、やはり“現代”を描きたいとする想いがあるようだ。そういえば彼は『宇宙戦争』でも100年前に上梓された古典を基に見事“現代”を描いていた。憎しみが憎しみを呼ぶテロ後の世界縮図をスピルバーグがどのように表現するのか、そしてこの時代にいかなるエンターテインメントとしての道筋を提示するのか、いまから楽しみである。

『ミュンヘン』のアメリカ公開は「2005年12月23日」って、今年か!はえー!! っていうか、アカデミー賞狙いが見え見えだな。日本での公開は「早春」ということだから「お正月」か、「正月第二弾」くらいだろうか。1年に2本という公開ペースで進むスピルバーグの創作活動。ビジネスと表現活動とを両立できる手腕はやはり凄いというか、神がかり的ですらある。

出演はエリック・バナ、ダニエル・クレイグ、ジェフリー・ラッシュ。脚本は『フォレスト・ガンプ』や『モンタナの風に抱かれて』や『アリ』『インサイダー』といったマイケル・マン監督との共同作業の多いエリック・ロスと、『エンジェルス・イン・アメリカ』で高い評価を受けたトニー・クシュナーが担当。撮影はヤヌス・カミンスキー。音楽はおなじみジョン・ウィリアムズ。

なお、本作と同様の内容を描いた『テロリスト 黒い9月』というテレビ映画がすでに1976年に存在しており、77年に製作されたジョン・フランケンハイマー監督作『ブラック・サンデー』もスーパーボウル真っ只中の競技場を舞台にテロリスト集団と特殊部隊との決死の攻防を描いた傑作として名高い(タイムリーな作品であったがゆえに日本では公開中止にまで追い込まれてしまったが)。

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『ネバーランド』で、大人になる“痛み”を知る。

2004年12月27日は英国で舞台『ピーターパン』が上演されて(つまり劇作家ジェームズ・バリがこの作品を発表して)から100周年だったという。これを記念してかどうかはわからないが、バリがいかにしてこの“子供のための永遠のバイブル”を生み出すにいたったかについて丹念に触れた物語がこの『ネバーランド』だ。

この物語には父の死の想い出から逃れられない一人の少年が登場する。彼はかつて病床の父が守れもしない約束を告げて逝ってしまったことを忘れられずにいる。そのとき父の体内には紛れもなく創造力が宿ったのだった。少年を安心させたくてつい口を突いて出た言葉。その真意を少年は幼さゆえにまだ理解できずにいる。そしてバリは、この少年と交流していく中で何とかして彼に創造力の素晴らしさを知ってもらいたいと願う。それを知ることは「大人になること」の第一歩でもあるのだから。バリの必死の想いはやがて新作舞台「ピーターパン」の中に存分に散りばめられていく。

バリを演じるジョニー・デップの“大人になりきれない子供ぶり”を目にすると、観客は即座にその虜にならずにはいられない。そして、少年の母親役ケイト・ウィンスレットも女優としての成熟ぶりを感じさせる包容力を醸しだし、暗くなりがちなトーンをデップと共に必死で盛り立てている。その健気さがたまらなくいい。

そして、本作で最も深く切り込まれるのが「空想すること」の素晴らしさ。つまり、ピーター・パンの歴史を100年さかのぼろうとも、更には1000年、10000年、時の流れを逆流しようとも、そこにはフィクションの力が少なからず人間の心を動かしていた事実が横たわっている。フィクションの力とは永遠のもの。人は創造力の豊かさによって生き長らえてきたのだから。

監督は『チョコレート』でハル・ベリーをアカデミー女優にまで押し上げたマーク・フォースター。前作はセクシャルなアプローチも多くて全体から醸しだされる「痛み」がいつしか「受容」の域へ達するまでを丹念に綴っているが、今回は一見”ファミリー向け”。しかし、「痛み」は少なからずある。我々は大人になっていく過程でいったいどれほどの「痛み」を受け入れてきたんだろう。そして、いったいどれほど「創造力」を駆使してそれらを補ってきたのだろう。この深遠なテーマは、かつて「大人になりたくない」と願いながらもいつの間にか大人になってしまった多くの観客の心に、深く染み渡っていくことだろう。

ちなみにジョニー・デップとピーター少年役のフレディ・ハイモア君は、この秋の注目作『チャーリーとチョコレート工場』でも再共演を果たしている。まるで子供がそのまま成長したかのようなウォンカ氏(ジョニデ)に優しい言葉をかけるチャーリー少年(ハイモア)。まるで『ネバーランド』が逆転したかのような設定が嬉しいところ。

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『ブラザー・グリム』で、ギリアムの異端ぶりを確認

grim あれこれ想像をたくましくしたところで、その実物を見てみないことには始まらない!ってことで、観てきました、『ブラザーズ・グリム』。もう最初っから終わりまで特殊効果をそっちのけで暴走しまくる役者のバイタリティ&テリー・ギリアム仕込みの顔芸の数々に気分が高揚しっぱなし。

あのモンティ・パイソン時代のギリアムが狂人のごとくして見せていたあの表情!その後のギリアム作品でも『12モンキーズ』のブラピ→『ラスベガスをやっつけろ』のジョニデと受け継がれ、今度はマット・デイモン&ヒース・レジャーへ(ついでにジョン・タトゥーロにも伝染)。映画終わって自宅に帰って、こっそり鏡の前で練習してみたくもなるほどの素晴らしい表情だった。

このグリム兄弟が本物のモンスター退治に立ち上がるっていう類のストーリーは、ハリウッドのほかの監督であっても十分に映像化可能だと思う。しかし、たとえ同じストーリーであっても決してギリアムのようにはならないと断言できる。逆に言えば、ギリアムに任せたならば、ぜったいにマトモな作品にはならないということ。1ショット1ショットの本当に手を抜けばいいような簡単なシーンにいちいち乾いた小ギャグを入れていくサービス精神と、そんな彼からは想像できないくらいに芸術的なシーンとをフル回転で往復しつつ、しかも「想像力」VS「リアリズム」、そして現代世界が直面している「ファンタジー」VS「リアリズム」という対立構造をもおのずと実感させられる内容となっている。つまり、モンティ・パイソン時代からのゾクゾクするような冒険ファンタジーを受け継いだ良作。

ちなみに撮影中の洪水でテリー・ギリアムがメガホンを取っていた『ドン・キホーテの殺した男』の製作がストップしてしまったという悲劇に密着した『ロスト・イン・ラマンチャ』は、ギリアムが映画作りにかける破天荒だがとても情熱的な実直さのようなものをひしひしと伝えてくれる傑作ドキュメンタリー。『ラスベガスをやっつけろ』から『ブラザーズ・グリム』に至るまでに彼の身にどれほど大きな試練が待ち受けていたのかに触れることで、ファンタジーの作り手が直面するリアリズムとの闘いのようなものが浮き彫りになってくる。それはすなわち、『ブラザー・グリム』のテーマそのものでもあるような気さえするのだ。

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『サイドウェイ』で、華麗なる負け犬文化を学ぶ。

そもそも美形俳優が揃い踏みの映画のためにわざわざ劇場まで足を運ぶことに、いったいどんな意味があるというのか。仮にそういう疑問で始めたならば、そこには、本作のように「あまりパッとしない」風な俳優たちが一堂に会した映画を観ることに意味はあるのか、という対となった疑問さえもが立ち現れる事態も考えられる。

要は、両者ともに等価値ということだ。

顔が良くても悪くても、結局、観客はものの5分もすれば顔のことなんて忘れる。もしも10分、30分、1時間後でもずっと「かっこいいなあ…」と俳優に見とれている観客がいたとすれば、それは映画じゃなくて特定の俳優を観に来ているのだと、多少の悪意を込めてそう断言してやっても構わないだろう。

つまり、ポール・ジアマッティのような顔立ちの俳優が登場し、「うん、このワインの香りは…」なんてうんちくを垂れながら、豊穣なその液体を舌の上で器用に転がしてみせる様子に、僕らはきっと、「その顔で美を語るなんて…」という多少の“絵にならなさ”を一笑しがちなのだが、観客が彼の顔の“面白さ”をちょうど忘れる頃に、コメディ一辺倒だった作品のトーンは僅かに境界線を越える。

そのきっかけはヒロインのヴァージニア・マドセンだった。
彼女がワインへの想いを告白するシーンは本作でもっとも美しさに彩られた瞬間だろう。

「一本のワインが精製される過程でどのような運命をたどってきたのか、いつもそのことに想いを馳せながらその味わいを口にする。そう、ワインはひとつひとつ違う…」

この言葉はもちろん、ワインのみならず全てのキャラクターへの慈しみを語ったものとしても受け取れる。そこで流れるジャズの和音が、フレーズごとに様々な響きに形を変えて耳に届き、そのあり方には、ワインの渋みやまろやかさといった持ち味すべてを結集したかのような様子さえ感じられた。そしてこの瞬間、恐らく観客の半分くらいはスクリーンの彼女に恋をする。もちろん、この映画の主人公もまっさかさまに恋に落ちる。それはもう見事なほどに・・・。

そもそもこのワイナリー・ツアーは、もうじき結婚する親友のために主人公が企画したささやかなイベントに過ぎない。そしてこれは間接的な、男どうしの“別れ”の旅でもあるわけだ。この旅はやがて終わりを告げ、そうして独り身の男はまた独りとなっていく。そこには馬鹿騒ぎの余韻というか、どうしようもない切なさがあふれる。しかし、ラストはまた、心地よくあったかい。

真の大人ならばこういうときに極上のワインでも一杯、ということになるのだろうが、本物でない僕には、せめて就寝前に安物のワインを口に流し込むことで精一杯だった。どうにかマイルス(主人公)がやっていたように口の中で液体を転がそうとしたら、その直後、あろうことかむせ返した。なんという負け犬。

そんな負け犬たちが愛せる作品として、本作はとても安心なのだ。

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『グッバイ、レーニン』に見る“やさしい虚”

ドイツで公開されるや次々と歴代記録を塗り替え、ドイツアカデミー賞9部門に輝いた心温まるヒューマン・コメディ。監督は、ドイツ映画界の旗手として活躍するヴォルフガング・ベッカー。新星ダニエル・ブリュール、ベテラン女優カトリーン・ザースらがコミカルにそして涙ぐましく演じるバックには、あの『アメリ』のヤン・ティルセンによる音楽が、おもちゃ箱をひっくり返したかのような愉快さと哀愁をもって響き渡る。

ベルリンの壁崩壊前の東ドイツ。主人公アレックスは、社会主義に傾倒した母クリステリアーネと暮らしていた。ある日、心臓発作を起こし意識不明となる母。その8ヶ月後、長い眠りから奇跡的に目覚めた母だったが、その間にベルリンの壁はすっかり崩壊し、ドイツは劇的な変化を遂げていた。「一度でも強いショックを与えたら命取りになる」との医者の言葉に、もしも母が東ドイツの崩壊を知ったなら・・・と不安を抱くアレックスは、母を自宅に引き取った後も、東ドイツがずっと存続しているかのようなフリを装うのだが・・・。

近年稀に見る幸福感に満ち溢れた作品。まるで“ドイツ版・三谷幸喜作品”とでも言うべき団結力をもって、世紀の大芝居が展開する。興味深いのは、東ドイツと西ドイツの地図上の“横の関係性”に合わせて、地上と宇宙とを結ぶ“縦の関係性”が登場することだろう。東ドイツが周りとの接触を絶っていた時代にはこのようにして心の広がりを遥か上空に求めるしかなかったのだ。本作ではこの対比がいたるところでメタファーとして使用され、それ識してみることで、東側の人々の心の内を感じることが出来る。“フィクション”あるいは“物事の虚構性”といった部分が核となる構造は、『ライフ・イズ・ビューティフル』『アダプテーション』、そしてティム・バートンの『ビッグ・フィッシュ』などに見られる9.11以降の世界の映画製作シーンで見られる新たな特徴であり、現代という時代性の大いなる映し鏡として受け止めることができるだろう。

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『エターナル・サンシャイン』で、運命の出逢いに憧れる。

例年、アカデミー賞で注目を集める作品ラインナップといえば、その多くが前年の12月に滑り込み公開を迎えギリギリにノミネートの権利を獲得したものばかり。そうすることで人々の脳内に新鮮な記憶を刻むことが作戦なのだとしたら、昨年3月の公開にもかかわらず観客の記憶の中でずっと輝きを失うことのなかった本作こそ、本来の意味でのマスターピースと呼びうるものなのではないだろうか。

というわけで、これは記憶をめぐる物語だ。

だが、いくらここで文字情報を並べ立てたって、それですべてが伝わるわけがない。だって、脚本はチャーリー・カウフマンなんだもの。事はとにかく複雑だ。しかし対する映像感覚は目が覚めるほどに斬新で鮮やか。ビョークやケミカル・ブラザーズら多くのミュージシャンのPVを手掛け、劇映画としても『ヒューマン・ネイチュア』で監督デビューを果たしたミシェル・ゴンドリー(って、この人の偉大さは今さら語ったって恥ずかしいばかりだが)は、アナログとデジタルの狭間を縫うような奇想天外で、しかも温もりを感じさせる映像センスで人間の記憶の渦を具現化する。

人と人とのコミュニケーションと言ったって、それがどんなに濃密な交わりだったとしても、基本的に他人と他人との妥協点に浮き出る一瞬の幻想に過ぎない。恋人でも親でも友人でも同僚でも、こちらが一方的に嫌悪感を抱いてしまうことは多いのだし、相手にしてもそれは同じこと。はたまた、もしも自分が紛れもない自分自身と目の前で対峙することになったとしても、その嫌悪感は恐らく、輪をかけて増大するに違いない。

けれど、この映画は、その嫌悪感というやつを、たった一言で別次元へと追いやってしまう魔法を僕らにかけてくれるのだ。とりわけエンディングに流れるBeckの「Everybody's gotta learn sometime」は作品のすべての世界観を象徴しているようで心に染みてくる。

また出逢いとは必然的なもので、冒頭、ジョエル(ジム・キャリー)がすんでのタイミングでホームを逆走して反対路線の電車に飛び乗るシーンで、何か彼の中で沸々と湧き上がった運命の発生要因のようなものが一気に沸点に達したかのような高揚すら感じ、そこで流れるジョン・ブライアンの心優しげな音楽も、しっかりとその成り行きを肯定しているようで嬉しい。

見終わった後にこれほど世の中を違った目線で見つめられる映画も珍しい。これを観た直後ならば、僕はブッシュやビン・ラディンや、先ほどインターホンごしに頭にきた新聞勧誘すらも、一瞬だけ許してあげられそうな気がするのだ。

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『ドッグヴィル』で精神的に追い詰められるキャスト、そして観客。

果たしてここは舞台上か、それとも巨大なスタジオか。床はチョークによってそれぞれの敷地が割り振られ、住民すべてがまるで子供の“ままごと”のように何もない空間で生を営む町、ドッグヴィル。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でカンヌ・パルムドールを受賞したデンマークの巨匠ラース・フォン・トリアーが、まだ一度も見たことのない地“アメリカ”(監督自身、飛行機恐怖症であり、海外旅行を避けたがる傾向にあるらしい)を奇想天外なイマジネーションのもとに描き上げる。出演は、リメイク版『奥様は魔女』のニコール・キッドマン、『マスター・アンド・コマンダー』のポール・ベタニー、『ブラウン・バニー』のクロエ・セヴィニー。

ロッキー山脈にある平和な村ドッグヴィル。ある夜、そこにギャングに追われた見知らぬ女が逃げ込んでくる。村人たちはそのグレース(N.キッドマン)と名乗るその女性をとりあえずはかくまうことにしたものの、その働きぶりが功を奏し、次第に彼女は村人に受け入れられるようになる。だが、どういうわけか村人の“善意”はいつしかエスカレートし、弱みに付け込み、彼女をまるで奴隷のように扱わうようになる。グレースは今や、村の“害悪”として見られるまでになり、彼女をいっそのことギャングに売りとばす案すら浮上するのだが、村人達はこの後自分達にどのような運命が待ち構えているのか知る由もなかった・・・。

この映画の挑発的な存在感には観ていてヒリヒリするものがある。人間の深層心理に対してこれほどまでに執拗で変質的なアプローチを施してしまっていいものか。まるでハリウッドが誇る特殊技術をあざ笑うかのような“空間的な何もなさ”。そして、技術や金などでは決して描くことのできない“実験的コミュニケーション”という発想。ラース・フォン・トリアーの怪物のごときその創造性には恐れ入って言葉も出ない。まるで人形をもてあそぶかのように、主人公をいとも簡単に地獄へと突き落とす変質的な描写がいたるところに驚き共に立ち現れてくる。その境地へといざなわれたこと自体、僕には初めての体験だったのだし、この味を一度試してみたのなら、この先にいかなる「衝撃作!」の類が登場したとしても、僕にはそれがとうてい楽しめそうにない。いまのところもっぱらの懸念はそれくらいであり、もしも本作をご覧になった誰かが不快感を露にして怒鳴り散らしていらっしゃったとしても、本作が傑作であるとそう確信している僕にとってはまったく影響がないことというか、そうした反応も含めた“問題作”として、ますますこの映画の目指すべき境地へとたどり着いたものとみなしてホッと胸をなでおろしさえするかもしれない。

ちなみに本作の撮影中、スタジオのすぐ近くには「告白室」なるプレハブが建てられていた。そこには休憩の度に俳優やスタッフがひとりずつ人目を忍ぶようにやってきて、カメラの回っている中でひとり撮影についての愚痴をこぼし続けていたのだという。トリアー監督はそもそも役者を極限にまで追い込むことに関しては右に出るものがいないほどの変質的な人で、そのことでノイローゼ気味にすらなって告白室の扉を叩く者の姿も見受けられた・・・という舞台裏の風景が収められたドキュメンタリー『ドッグヴィルの告白』も本作の上映に併せてレイトショー公開され話題を呼んだ。

実は物語はこれで終わりというわけではない。『ドッグヴィル』を発表した2003年のカンヌ映画祭で、トリアーはこれが「アメリカ3部作」となることを宣言しており、そのことを証明するかのように2005年のカンヌでは続編『Manderlay』を発表。主役を降板してしまったニコール・キッドマンの代わりには『ヴィレッジ』の透明感溢れる演技が絶賛されたブライス・ダラス・ハワード(ロン・ハワードの娘さんですね)が登板している。

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『イン・ディス・ワールド』で、決して語られることのない世界の裏側を知る。

いまや英国を代表するまでに登りつめた『ひかりのまち』『24アワー・パーティー・ピープル』などの実力派マイケル・ウィンターボトム監督。彼が本作で選んだ題材はアフガン難民の少年が英国を目指しひたすら過酷な旅を続けるロードムービー。その現実ともフィクションとも区別のつかぬリアルな描写が観客、批評家の心を掴み、本作は2003年ベルリン国際映画祭にて金熊賞(最高賞)受賞する快挙を成し遂げている。

主役を演じるジャマールは、細長い目が印象的な男の子だ。いつも笑っているのかしかめっ面をしているのかよく分からない表情で行く先をじっと見つめる。アフガン難民の彼は、ある日、従兄弟のエナヤットと共によりよい生活を求めて英国を目指す旅に出る。もちろんビザも何もない彼ら。正式なルートをたどるべくもなく、その運命を各国にはびこる“運び屋”に委ねることとなる。言葉や文化の違いによる不信感やいらだち、警察や軍隊による執拗な取調べ、生命の保障もない決死の越境。彼らの前には数々の困難が立ちはだかる。ふたりは果たして無事、英国にまでたどり着けるのか・・・。

ウィンターボトム監督のこれまでの作風と同じく“痛み”を感じる描写も多い。しかし、それと同じくらいにふとしたきっかけで飛び込んでくるとてつもなく“温かな”描写に心を潤されるのも事実。例えば、日中はあまりに厳しい現実を突きつけていた街が夜になると幻想的なイルミネーションを放ち、それはまるで99年の監督作『ひかりのまち』で描かれたロンドンのように温もりのある味わいを見せる。出逢いがあり、別れがあり、やりきれない過酷な人生があり、それでも立ち向かわなきゃならない決意がある。そのすべてをタイトルの「イン・ディス・ワールド」がすっぽりと包み込んで、今日も地球は回っている。

僕は本作を劇場で観終わった後、ついつい街の喧騒の中についジャマールの姿を探してしまった。イルミネーションに照らされながら、彼がいまでも旅を続けているような余韻が心地よく残る。


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『CODE46』で、現地調達のSF世界を目撃する。

未来社会、上海。

“パペル”と呼ばれる滞在許可証が偽造されているとの報を受け、ひとりの男(ティム・ロビンス)が調査に乗り込む。容疑を掛けられたのはその印刷所の女性職員(サマンサ・モートン)。男は彼女が犯人と知りながらも運命的な衝動を抑えることができず、ふたりはいつしか不思議なほど自然と恋に落ちてしまう。それがCODE46と呼ばれる法規に違反するとは知らないまま・・・。

『イン・ディス・ワールド』のマイケル・ウィンターボトムが、『ミスティック・リバー』のティム・ロビンス、『マイノリティ・リポート』のサマンサ・モートンという最高の主演陣を擁して送る初の近未来SF。とは言うものの、そこには大掛かりな未来セットなどはいっさいなし。すべてはウィンターボトム流の空間の切り取り方によって出現する未来社会であり、それは新旧様々な建築物の乱立する上海という土地柄がなせるワザなのである。

結論から言うと、ここではものすごくドラマティックなことが起こったりすることはない。すべては『ひかりのまち』でヒロインがロンドンの夜街を彷徨っているシーンのような“情緒”に集約されている。音楽と映像とが見事に相俟ったこの心地よさは、ストーリーの充実というよりは極めてウィンターボトムの映像センスに負うところが大きく、彼はこれから先もそこにカメラがあるだけで数多くの同系作品を生み出すことができると思うし、また観客はそれを素直に「観たい」と欲するだろう。

最近の彼の作品では、ボーダーレスな語り口が顕著になってきた。自らのスタイルを確立しつつも、何かその先にあるものを静かに見つめ続ける気配が伝わってくる。巨匠の域に達しつつあるウィンターボトムが新たな作風に挑戦することを期待しつつ、やはりそこにも“ひかりのまち”がイコン的に横たわっていて欲しいと願う自分がいる。

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『ロスト・イン・トランスレーション』に見る、海外生活の孤独と楽しみ

『ゴッド・ファーザーPART3』での不評や、父フランシス・フォード・コッポラのことを持ち出すのは野暮ってものだ。いまやソフィア・コッポラといえば、『ヴァージン・スーサイズ』でその卓越したセンスが観客をすっかりと心酔させ、第2作目にはこの日本を舞台として素晴らしい贈り物を届けてくれた一種のカリスマ的な存在にまで上り詰めてしまった。アカデミー賞での脚本賞の受賞など世界中で賞賛を集めた本作でのテーマは、“アウトサイダー・イン・ニッポン”。出演は『ゴースト・バスターズ』『チャーリーズ・エンジェル』(本人はこの作品が持ち出されることは好まないだろうが)のビル・マーレイと『真珠の耳飾りの少女』のスカーレット・ヨハンソン。

ウィスキーCMの撮影のために来日したアメリカ人俳優ボブ(ビル・マーレイ)と、カメラマンの夫の仕事に伴って来日した新婚のシャーロット(スカーレット・ヨハンソン)。理解不能な日本語や、一向に慣れない文化の壁に憂鬱を隠せないふたりは、いつしか滞在先のホテルで偶然に出会い、またたく間に意気投合する。カラオケ、雑踏、パチンコ屋…いつしか笑顔で東京の街を駆け抜けていく彼ら。ふたりの感情には、互いに“安らぎ”を通り越して、徐々に強い絆のようなものが芽生え始めていた。

進学や就職・転職などで新しい生活を始めた人。ひとり旅や海外留学の経験がある人。これらのピン・ポイントな想い出を抱えた観客には、この作品がかけがえのない友人のようにも感じられるかもしれない。はじめのうちはどこかぎこちなかった生活も、ふとしたきっかけで憂鬱な雲の切れ目からにサッと晴れ間が射していく。ラブ・ストーリーのようでも、単なるコメディのようでもある本作だが、この映画がとびきりの応援歌のように感じられる瞬間がある。ヴェネツィアでもアカデミー賞でも常に話題を独占し続けたのは、そういった些細な共感が誰の心の奥底にも“大事な思い出”としてしまわれているからなのではないか。普段は恥ずかしくて取り出せないようなその青臭い記憶の扉を、他でもないあのビル・マーレイが解き開いてくれるのだ。こんなにも贅沢なことはない。

sofia ソフィア・コッポラは本作の後に新作『マリー・アントワネット』に着手(全米での公開はいまのところ2006年10月13日)。タイトル・ロール役は『ヴァージン・スーサイズ』でも主演したキルスティン・ダンスト。共演にはソフィアの従兄弟でもあり、『天才マックスの世界』でも驚異的な新人として注目を集めたジェイソン・シュワルツマン。

コッポラ・ファミリーといえばニコラス・ケイジもそれに含まれることは有名だが(フランシス・フォード・コッポラは叔父にあたる)、彼の本名が“ニコラス・コッポラ”であることはあまり知られていない。

ちなみに下のAmazon.comのリンクにはキャストとして藤井隆の名が掲げてあるが、実は公開の時、マスコミ各社に対して「本編中にはあくまで藤井ではなく、マシュー南として出演しております」との注意書きが配布されていた。

そして毎度のごとくソフィア・コッポラの作品は選曲のセンスも抜群にいい。今回は日本が舞台ということで、幾人かの日本のミュージシャンにもアドバイスを貰ったそうなのだが、その中には「コーネリアス」(つまりは小山田くんのことなんだろう)の名前もあった。つまり本作の中で冴え渡る『風をあつめて』(byはっぴいえんど)などの曲は彼による推薦ということになるのだろう。このサントラを聴きながら東京の街をめぐると、いつもとはまた別の顔が見えてくるようでなんだかくすぐったいやらおかしいやら、である。


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『10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス』で、巨匠を囲い込んだパトロン風情を味わう。

「“時間”というテーマで10分間のショート・ムービーを」とのオファーに、恐れ多くも巨匠クラスの映画監督15人が快諾。それそれに平等な予算と時間とが与えられ、ここにかつてない短編映画プロジェクトがスタートした。各作品はそれぞれのテイストにより2作品へと配分され劇場公開されたが、DVD発売にあたってはどうやら当初の“競作”という理念を尊重して15本がすべてコンプリートされている。

ちなみに劇場公開時の「人生のメビウス」編には、これらの経緯で完成した作品中、アイディア満載で奇想天外な7作品を収録。たった10分間とあなどることなかれ。そこにはハマり出したら止まらない、まるで無限の宇宙のような創作空間が贅沢に拡がっている。(なお、もう一方の「イデアの森編」では“時間”についてもっと哲学チックに掘り下げた作品集になっている)

「人生のメビウス」編では、7人の監督が様々な“人生の瞬間”をピックアップ。『過去のない男』がカンヌで絶賛されたアキ・カウリスマキは、10分後に出発するロシア行きの列車にフィアンセと一緒に乗り込むべくプロポース作戦を展開する男を独特の乾いたユーモアで描き、10年に1作しか撮らないという伝説の監督ビクトル・エリセは、詩情溢れる感覚でなんとも温かい味わいの作品を綴り、鬼才ヴェルナー・ヘルツォークは、アマゾン奥地に住むとある民族についてドキュメンタリー・タッチで考察を重ねる。プロジェクトの発起人ともいうべきジム・ジャームッシュは、女優に与えられた10分間の休息時間をリアルタイムで描写し、ヴィム・ヴェンダースは、砂漠のど真ん中でバッド・トリップに襲われる男の悪夢をROCKな映像感覚に乗せ爆発させる。スパイク・リーは、ゴアVSブッシュの大統領選挙に劇的変化をもたらした“運命の10分”を再現すべく数々のインタビューを抜群の切れ味で紡ぎ、ラストを飾るチェン・カイコーは、大規模な変貌を遂げる北京を舞台にファンタジックでユーモラスな寓話を展開している。

ショート・ムービーというと、日本では「世にも奇妙な物語」のような“オチ付きミステリー"ばかりが蔓延していて、その作品数がある程度にまで達すると、観客も食傷気味にもなってしまうわけだが、それでも本作に「ガツン!」と持っていかれてしまう理由は、まず、その発想の“自由自在”にある。たった10分間の中にいったいどれだけのことが詰められるというのか。誰もが頭を抱え込みそうなこの難題に、参加した監督達は確実に楽しんで取り組んでいる。『過去のない男』に代表されるようなおなじみのテイストをそのままに持ち込んだカウリスマキの手法もOKだし、そのカウンターとしてのヘルツォークやスパイク・リーの「10分間ドキュメンタリー」ってのもお手軽にいろんなことが学べて面白い。これはもはや、観客と監督の知恵比べのようなものなのかもしれない。次はどの監督がいったいどんな手で来るのか、それが次第に楽しみで仕方がなくなる。

ちなみに個人的に特に気に入ったのは、2本目のビクトル・エリセの作品。モノクロ映像がまるで詩のように胸にスッと入り込んできて、思わず涙ぐんでしまうじゃないか。男の子が自分の腕にペンで描いた時計にそっと耳を近づけるシーンなんか、もう神の領域としか考い。

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『10ミニッツ・オールダー イデアの森』で、巨匠の奏でる8つの哲学世界を目撃する。

「“時間”というテーマで10分間のショート・ムービーを」とのオファーに、恐れ多くも巨匠クラスの映画監督15人がこれを快諾。それそれに平等な予算と時間とが与えられ、ここにかつてないプロジェクトが始動した。劇場公開時にはこれらが2編へと分かれ、この「イデアの森」編には、“時間の謎”についてより深く、より濃密に迫った8作品が編纂された。そしてアンカーを努めるのがなんとあのゴダールだというのだから、これはとにかく凄い事態である。

ベルトルッチは白黒の映像美で巧みに寓話を語り、フィッギスはスクリーンを4分割してそれぞれに10分間ワンカット同時進行の視点を注ぎ込む。イジー・メンツェルは“と