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2005/09/13

『ドッグヴィル』で精神的に追い詰められるキャスト、そして観客。

果たしてここは舞台上か、それとも巨大なスタジオか。床はチョークによってそれぞれの敷地が割り振られ、住民すべてがまるで子供の“ままごと”のように何もない空間で生を営む町、ドッグヴィル。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でカンヌ・パルムドールを受賞したデンマークの巨匠ラース・フォン・トリアーが、まだ一度も見たことのない地“アメリカ”(監督自身、飛行機恐怖症であり、海外旅行を避けたがる傾向にあるらしい)を奇想天外なイマジネーションのもとに描き上げる。出演は、リメイク版『奥様は魔女』のニコール・キッドマン、『マスター・アンド・コマンダー』のポール・ベタニー、『ブラウン・バニー』のクロエ・セヴィニー。

ロッキー山脈にある平和な村ドッグヴィル。ある夜、そこにギャングに追われた見知らぬ女が逃げ込んでくる。村人たちはそのグレース(N.キッドマン)と名乗るその女性をとりあえずはかくまうことにしたものの、その働きぶりが功を奏し、次第に彼女は村人に受け入れられるようになる。だが、どういうわけか村人の“善意”はいつしかエスカレートし、弱みに付け込み、彼女をまるで奴隷のように扱わうようになる。グレースは今や、村の“害悪”として見られるまでになり、彼女をいっそのことギャングに売りとばす案すら浮上するのだが、村人達はこの後自分達にどのような運命が待ち構えているのか知る由もなかった・・・。

この映画の挑発的な存在感には観ていてヒリヒリするものがある。人間の深層心理に対してこれほどまでに執拗で変質的なアプローチを施してしまっていいものか。まるでハリウッドが誇る特殊技術をあざ笑うかのような“空間的な何もなさ”。そして、技術や金などでは決して描くことのできない“実験的コミュニケーション”という発想。ラース・フォン・トリアーの怪物のごときその創造性には恐れ入って言葉も出ない。まるで人形をもてあそぶかのように、主人公をいとも簡単に地獄へと突き落とす変質的な描写がいたるところに驚き共に立ち現れてくる。その境地へといざなわれたこと自体、僕には初めての体験だったのだし、この味を一度試してみたのなら、この先にいかなる「衝撃作!」の類が登場したとしても、僕にはそれがとうてい楽しめそうにない。いまのところもっぱらの懸念はそれくらいであり、もしも本作をご覧になった誰かが不快感を露にして怒鳴り散らしていらっしゃったとしても、本作が傑作であるとそう確信している僕にとってはまったく影響がないことというか、そうした反応も含めた“問題作”として、ますますこの映画の目指すべき境地へとたどり着いたものとみなしてホッと胸をなでおろしさえするかもしれない。

ちなみに本作の撮影中、スタジオのすぐ近くには「告白室」なるプレハブが建てられていた。そこには休憩の度に俳優やスタッフがひとりずつ人目を忍ぶようにやってきて、カメラの回っている中でひとり撮影についての愚痴をこぼし続けていたのだという。トリアー監督はそもそも役者を極限にまで追い込むことに関しては右に出るものがいないほどの変質的な人で、そのことでノイローゼ気味にすらなって告白室の扉を叩く者の姿も見受けられた・・・という舞台裏の風景が収められたドキュメンタリー『ドッグヴィルの告白』も本作の上映に併せてレイトショー公開され話題を呼んだ。

実は物語はこれで終わりというわけではない。『ドッグヴィル』を発表した2003年のカンヌ映画祭で、トリアーはこれが「アメリカ3部作」となることを宣言しており、そのことを証明するかのように2005年のカンヌでは続編『Manderlay』を発表。主役を降板してしまったニコール・キッドマンの代わりには『ヴィレッジ』の透明感溢れる演技が絶賛されたブライス・ダラス・ハワード(ロン・ハワードの娘さんですね)が登板している。

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