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2005/09/21

『アビエイター』をどう見るよ!?

「・・・で、何が言いたかったの?」

アカデミー賞最多4部門受賞を果たした本作だが、実際に日本でこれを観た人の中にはこう呟く人も意外と多いことかと思う。

たとえば我々が幼い頃、図書館で体験したような記憶に思いを馳せるならば、そこには伝記コーナーの前で何かしら「聞いたことのある名前」を手に取る自分の姿が浮かび上がるだろう。そこに「ヴィトゲンシュタイン」という名前があったとして恐らくその幼子は早口言葉の練習材料以上としての興味は何も沸かないだろうしだろうし、もしかすると成人した今でさえ「ヴィトゲンシュタイン」への興味はむしろゼロに近いと思うのだ。

それで、長々と何が言いたいのかというと、「ハワード・ヒューズ」って人、知ってますか?興味ありますか?ってことなのだ。このたび製作をも手がけたという主演のレオナルド・ディカプリオを10代の頃から魅了し続けたこの実在の富豪、飛行家、映画監督に関する伝記映画が本作なのである。アメリカ人にとってはきっと有名な人物なのだろう。もちろん「ヴィトゲンシュタイン」よりは浸透度が高いに違いない(もういいって)。

本作について言えば、少なくとも日本人にとっては照準の絞り方が困難だ。3時間近い長丁場の推進力は、開発不可能と言われた飛行輸送機が一度きりの試験飛行に成功するという“ストーリー・ライン”によるものではなく、きわめて年表的な時間軸のように思える。1978年に死去したヒューズの黄金期20代~30代にスポットを当て、そこで巻き起こったハワード・ヒューズに関する事件を時系列に挿入させていく。まあ、ストーリーは公式サイトを見ていただくとしよう。いや、むしろ彼の人生をきちんと頭に入れてから臨まれたほうが、それが少なからず楽しみにつながるであろうことは絶対に保証する。

もちろん、『ギャング~』から始まり『アビエイター』を経て次回作「Departure」(『インファナル・アフェア』のリメイク)に至る「スコセッシ&ディカプリオ」コンビは、互いにカリスマ的俳優の「若さ」と巨匠の「巧さ」とがガッチリと手を結んだシリーズではある。観客の集中力が続くかどうかは別として、本作が見せる、カメラの枠を越えて1930~40年代の風景がどこまでもどこまでも続いていくような映像世界には、作品を細かく観れば観るほど湧き上がる圧倒感を禁じえないし、社交界シーンと飛行シーン(特に「アルマゲドン」を超える勢いの墜落シーンは必見)のスケール、終始額にスジを刻みながらまるで飛行機のエンジンのようにフルスロットルで回転を続けるディカプリオにも人物的な魅力ではないが、演技的には成長を感じる。

そしてたった一人の存在感でその場のイメージをガラリと自分色に変えてしまえるケイト・ブランシェット扮するキャサリン・ヘプバーンには、その出演シーンのすべてにおいてハッとさせられる魅力に満ちている。僕はキャサリンの出演作品をそんなにたくさん見ているわけではないが、僕が『アビエイター』を鑑賞する前日にたまたまNHK-BSで放送されていた作品を見た分には、彼女のイントネーションと気取りのない活舌の良さは、本作においてそのままケイトに乗り移ったかのような印象さえあった。もちろん映画がただのそっくりさん自慢になってしまってはしょうがないわけではあるが、彼女を見ていて僕は、むしろこのまま突然字幕が登場し、「アビエイターの途中ですが、事情によりキャサリン・ヘプバーンの話に変更させていただきます」って趣旨変更されたほうがよっぽど良かった気がした。それは結局、観客としていかにたやすくキャラクターに入り込めるか、という至極単純な問題なのだ。

その点、ハワード・ヒューズという人物はあまりにも謎に満ちている。本作を観ても謎は一向に解消されないし、むしろ本作の狙いは“謎を謎として提示する”ことにもあったと思う。そこに特別な結論を付け加えるでもなく、そのあまりに広大なディテールをブワッと一挙に提示してみせた、その点において製作者とスコセッシともに職人的な仕事ぶりを讃えられるべきだと思う。しかもそれが3時間近くも息切らせずに続くのだから、その精力の持続ぶりは人知を超えたところにある。

だって映画の中のハワード・ヒューズでさえ時々自分のことがわからなくなるのだ。ディカプリオが気が狂ったように手を洗ったり、ミルクを所望したり、同じフレーズを口ずさむのがとまらなくなったり。それでそういう兆候が現れ始めた自分に恐れおののいたりもする。それだけ「ハワード・ヒューズ」という人物は本人さえも超越してどっかの次元へと羽ばたいてしまっている。コミカルに見せていたこの手の描写がいつしかどうしようもなく本人を襲いはじめる切実さといったらない。

つまり、本作は、ハワード・ヒューズのあまりにも広大な人生模様を圧倒的でパワフルな手腕のもとで3時間という尺に詰め込んだものの、結果として観客(特に日本人の)はその人生の入り口にようやく立てたかどうか、という地点で終幕を迎えるにとどまる。 それはむしろ当然のことかもしれないし、それがスコセッシの目論見なのだとしたらそれはそれで凄いことだろう。事実、アカデミー賞効果も手伝って、今回ハワード・ヒューズを知らない世界中の人々の間で一気に彼の知名度は上がった。これは映画というメディア以外には到底成しえない偉業だと思うのだ。

スコセッシの作品に関して「何がいいとは一口では言い切れないが、とにかくすべての描写が深くて素晴らしい」という記述をネット上のどこかで見つけたのだが、僕にももちろんそんな風に特別な感情を抱く映画監督はいるし、その気持ちはよく分かる。しかし、どうにもスピルバーグ世代という時期を成長してきた僕にはそんな気持ちになれないのが悲劇といえる。

それで僕はいよいよ迎えるクライマックスに向けて心の準備などしつつ、席に座りなおしたりしながら、ひとつの“締め”の描写を目の当たりにする。そこで気が付いたのは、結局この人物が、冒頭とラスト(詳しくは述べないが)において母親の記憶に包まれて描かれていたということだ。

僕は映画を観るときに必ず、どうしてこの作品がそこに生まれ出でたか、について一番興味関心を惹かれるのだが、その地点に至って、本作に関するようやくひとつの答えを得られたような気がした。つまり、この父性全快の時代に、いかに国家が潜在的に母性を求めているか、という解釈だ。それはなんともフロイト的な解釈になりかねないのだが、たとえば、ブッシュ批判の極みだった『華氏911』がクライマックスにかけてジャーナリズムというよりは感情的な反戦歌のようになっていった事実にも何か故郷で息子の帰りを待ち続ける母性的なものを感じてしまうように、つまり、何かこのアメリカという遠い国がどうしようもなく行き詰まりを迎えているような気がしたのだった。

そう考えたときに、眉間にしわのハワード・ヒューズの姿はジョージ・ブッシュを主人公としたアメリカ現代史にも重なりあうように思え、その父性の象徴的存在が最後に「母性」を求めていた、というあまりに涙ぐましい告白(僕にはこう見えた、というだけだが)に、ああ、とうとうこんな映画が作られるまでにこの国は追い詰められているのか、とただ身を切るような気持ちに襲われた。

最後になるが、最近めっきり出番が多くなっているジョン・C・ライリーがいい味を出している。というか出演してくれるだけでこっちが嬉しくなる。彼の役どころは芸術だとか技術に関してはいっさい理解できない男。しかし何故かヒューズには何か希望を見出しているというフツーの男だ。ヒューズの監督作『地獄の天使』のプレミアで観客が大喝采を贈った時、彼はキョロキョロとあたりを見回し、それで「・・・ああ、いい映画だったのか」と初めて気が付いて拍手を始める。そんな小ワザがいい。多分、この映画にはそんな細かさが他にもたくさん詰まっているんじゃないか。それは2度や3度見ただけでは決して理解できるものではなく、先にも書いたが、もちろんそれこそが人の伝記、ハワード・ヒューズの人生と思われるのである。

「で、何が言いたかったの・・・?」

そこに答えがあっては人の人生としてどうなんだろう。否定的に思われるこの言葉が、時として肯定的に響くことだってある。特に人間の人生に関しては、そう易々と答えなど出てたまるものか。

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