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2005/09/12

『ヴィタール』で、死後の世界を肉体的に解釈せよ。

主人公のモデルはレオナルド・ダ・ヴィンチだという。そんな大それたことを耳にしたので、つい笑ってしまった。いったいどんな荒唐無稽な作品が飛び出すのだろうと身構えていたら、これがこれまで観てきたどの系譜にも属さない作品だったので驚いた。

浅野の役柄は、死の淵から蘇った医学生。車の運転中に事故を起こし隣に座っていた彼女を亡くしたらしいのだが、その記憶のいっさいを失ってしまっている。

浅野はいつもながらの透明感溢れる演技を基調としながらも、時に、何か魂の乗り移ったかのような“憑依系”の表情をちらつかせ、その一瞬に何か鬼気迫るものを感じながらも、しかし観客の気持ち的には決して苦痛や不安でなく、いざなわれるのは安らぎの方向だ。その奇妙な心地よさはきっと彼の演技が人の心の深いところにまで介入している結果なのだろうと思う。

随所に生なましい解剖シーンが散りばめられているものの、映像は決して刺激狙いのグロテスクには傾かない。これにも浅野の醸し出す解毒作用がかなり働いていると思うのだ。彼のピュアなイメージがすべてのグロ要素を浄化していく。

徐々に取り戻しはじめる記憶、そして目の前に置かれた一体の検体(解剖用の遺体)。主人公は徐々に何かを捜し求めるかのように鬼気迫る勢いで解剖に没入していく。

そもそもダヴィンチや杉田玄白が医学へ、そして体内の不思議へと没入していった原因はなんだろう。もしかすると彼らは主人公と同じく、検体の中に何か“答え”が隠されているような精神状態へといざなわれていったのではないか。没入したその先に何かが見えるような気がして、それで無心になってスケッチを続けていたんじゃないか。

僕は前に主人公のモデルがダヴィンチと聞いて笑いそうになったが、実際にここまで来ると、これはフィクションの名を借りた“人間の身体に関する崇高な哲学”のようにも感じられ、それがダヴィンチに代表される先人たちにも共通するものと考えても不思議は無くなっていった。

そして一方で、塚本は人間の身体性を極限まで表現するにあたってコンテンポラリー・ダンスを起用し、バレリーナであるヒロインに砂浜で突拍子もなく身体をくねらせ、高く軽やかに弾ませる。同時に、映像もそれに対抗するかのようにねじれ、ふくらみ、移動し、鼓動し、そして爆音でがなりたてる。

それを目にして、僕はふと「あ、映像も踊っている」という印象を受けた。それは以前に「人間の体内」展に衝撃を受けたという塚本がごく率直にそのときの思いを吐露した映像のようにも感じられた。飛び跳ねる身体、そして医学生の目の前で体内のすべてをさらす身体。どちらもが紛れもなく人間の身体。だが、一方には魂が宿っていて、一方には魂が抜け落ちている。でもその決定的な違いとはなんだろう。例えば、こうしていまPCに向かっている僕と、いつか死んで抜け殻となる僕、どちらも同じ僕であることには変わりないんじゃないか。

なんだか頭がおかしくなりそうな命題がグルグルと頭の中を駆け巡る。だが、これに「映画」として答えを賦与しようと塚本なりの格闘が感じられてますます興味深いのだった。

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