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2005/10/26

トミー・リー・ジョーンズがやってきた!

tom01 

▲六本木ヒルズでトミー・リー教授の講義が始まった。
遅刻は厳禁。質問に答えられないとこんな風ににらまれます。
(ウソ)


東京国際映画祭にトミー・リー・ジョーンズがやってきました。
初監督作『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』を引っさげて。

映画祭の公式上映では舞台挨拶をした後もその場に残り、
観客と一緒に鑑賞していったそうです。

写真は記者会見の様子です。
お疲れなのかちょっとご機嫌がよろしくなかったような…

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2005/10/24

テリー・ギリアムがやってきた!

現在、東京国際映画祭が開催中。
いつもとはちょっと違った具合に華やぐ六本木ヒルズに
とうとうこの男がやってきた・・・! terry06

そう、彼の名はテリー・ギリアム。
7年ぶりの新作『ブラザーズ・グリム』を携えての堂々たる来場。

野外での行われた記者会見は運の悪いことに右翼の街宣カーの騒音に見舞われ中盤から曇天ムード。しかしテリーのことだからそんな境遇もとことん楽しんでいるご様子で、最初は「なんだい、あれ?」ってな感じでソワソワしてたのが、最後はとうとう奴らに負けてらんないとマイクを握り締め、

「ハンダガジャバダラダー!!!!」

と意味不明の雄叫びでやり返す始末。

関係者が「あ、ちょっと、それ、マズいかも!」っと慌ててる様子が傍から見てて超面白かったです。

観客は一瞬何が起こったのか分からずボーゼンとしていたが、次の瞬間には彼の無軌道ぶりに心打たれて自然と拍手が贈られていた。

さすがギリアム!

『ブラザーズ・グリム』は11月3日から全国ロードショーです。

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2005/10/23

『IZO』

いやもう、なんだか、頭が痛い・・・いっそのこと、このコメント欄に「うぎゃー!」とか「あへー!」とだけ記しておきたい衝動に駆られている。脳内にはまだ混乱が残っているし、もう一度観たいかと問われればもちろん否、と答える、かな、と見せかけて、実はもう一回くらいいけるかもと踏んでいるのだった。

幕末を駆け抜けた殺人剣の達人・岡田以蔵は、死罪執行の瞬間にその魂をあらゆる次元へと放出させる。現代で、過去で、あるいはその両者が混濁した空間で、いまや怨霊となった“IZO”がとにかく斬って斬って斬りまくる。

IZOによって斬られる人達・・・
SAT隊員、新撰組、高僧、ヤンキー、剣客、岡っ引き、PTA、ボブ・サップ、ビートたけし、片岡鶴太郎、岡田真澄、普通の平和そうな家族、道行く人・・・などなど。

単に斬るだけならまだしも、不条理でワケの分からないストーリーがまるで前衛芸術のようにのた打ち回る。そうだ、僕はこれを観ながらずっとあの映画のことを思い出していた。

『石井輝男の地獄』。

東京ファンタでこの作品を観た時のとんでもなさ、というより、俺なんでこんなところに来たんだろう、という後悔、無情、そして意識が落ちるところまで落ちたところで生まれるある種の感動、やけっぱち、再生、復活、その他もろもろ。

間違いない、『石井輝夫の地獄』の予算がもうちょっとだけ高かったら、ちょうど『IZO』のようになっていたはずだ。むろん、三池でなければ金は集まらなかったのだが…。

三池崇の国際的な評価が高まっている今だからこそ極限までに意味不明のことを詰め込んで、あぶない橋さえ意外と冷静に渡れてしまう三池の計算高さ(しかもコレでヴェネツィアに行ってるし)、彼を突き動かす周りのしたたかさに恐れ入った。

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東京国際映画祭が開幕

10月22日より第18回東京国際映画祭が開幕。

昨年まではオープニング、クロージング作品にハリウッドの大作を持ってくることが多かったのだが(昨年は、オープニングが『隠し剣 鬼の爪』でクロージングが『ターミナル』)、今年はそのあたりのコンセプトを一変。これまで映画祭としてのステイタスをなかなか築けず、国際映画祭としての知名度は早くも釜山映画祭に追い抜かれてしまったと評する人も多いこのイベント、今年はいっそのこと「アジア!」を前面に押し出そうということで、これはおそらく昨今の韓流ブームだとかにうまいこと乗っかってしまおう&近場だったらゲストもやってきてくれるだろう(昨年はスピルバーグが『宇宙戦争』の撮影に入ってしまいドタキャン)という事情があるのではないだろうか。

というわけで本年のオープニングは、コンペティション部門の審査委員長を務めるチャン・イーモウ監督による最新作『単騎、千里を走る』。作品紹介は上記にあるリンクより映画祭の作品紹介をご覧いただくとして、まあ端的に「高倉健さんが中国の巨匠映画に主演したぜ!いえい!」というわけである。クロージングには韓国映画『力道山』。これは2時間半もある大作なのだが、タイトルロールを『シルミド』のソル・ギョング、そして共演に中谷美紀。どちらも日本とアジア諸国がボーダレスに手を結んで完成した作品である。

もちろん前売りは早々と売り切れているらしいが、どうやら今年はすべてのスクリーニングにつき当日券を販売するらしいので、ガッツのある方はダメもとで六本木を訪れてみてはどうだろうか。

さて、もう一本、クロージング・ナイトというスクリーニング枠も用意されている。本作に選定されたのは『大停電の夜に』。11月に公開予定のこの邦画は、クリスマス・イブに東京で大停電が発生し、そこは阿鼻叫喚の大パニックに!・・・という混乱劇ではなく、十数人の登場人物がいつしかほのかに暖かい心の灯火を寄せ合うという、誰にでも安心な群像劇となっている。こちらの作品、とにかく出演者が半端じゃなくすごい。田口トモロヲ、豊川悦司、原田知世、田畑智子、宇津井健、井川遥、寺島しのぶ、吉川晃司などなど。おそらく今回の映画祭で最も豪華なゲストラインナップはこの作品となることだろう。

まあ、10月29日から劇場公開の『春の雪』は妻夫木聡、竹内結子主演ということで、こちらも映画のプロモーションも兼ねて盛り上がりを見せることと思うが、実はいまのところ映画祭サイトには詳細なゲスト情報が掲載されておらず(厳密にはコンペティション、アジアの風という部門のゲストはアナウンスされているのだが)、どうやら映画祭側としては相当な争奪戦を繰り広げてチケットを手に入れた観客にも何ら「妻夫木&竹内」の保証をしていないことになる。なんとバブルな争奪戦だと思いませんか(もちろん来場の可能性は高いんだろうけれど100パーセントじゃないってことなんだろう)?その点、『大停電の夜』はとにかく大勢出演者がいるので、きっと「誰か」が来るだろうし、ゲストの量的なお徳感があることだろう。

●あと、僕の知っている情報として「確定」のものとしては23日の『ブラザー・グリム』にはあの鬼才テリー・ギリアム監督がやってくる。なんと彼の来日は7年ぶり。マット・デイモンやヒース・レジャーが来なくて残念と地団駄踏む人もいるだろうが、ギリアムをじかに目撃するなんてファンにはたまらない大事件となることだろう。とくにモンティ・パイソンのファンには!

●そしてカンヌで最優秀男優賞&脚本賞を受賞した話題作『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』では、これが長編映画初監督作となる名優トミー・リー・ジョーンズが来日。彼から発せられる後光を拝むのもまさに映画祭らしい特別な思い出として刻まれるはずだ。

●『ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!』ではもちろん監督&クリエイターのニック・パークが来日。人気キャラクターの生みの親ということもありファンにとってはたまらないイベントとなりそうだが、これよりもっと話題になりそうなのが先日急遽セッティングされた重大イベント『ニック・パーク×宮崎駿スペシャル・トークショー』だ。このふたりの大物クリエーターが顔をあわせることは滅多にない。これぞ映画祭というべき、もしかしたら本映画祭中で最重要のイベントとなりうる(*ただし、このイベントに限っては当日券の販売は行わないとのことです。ご注意ください。→おそらくマスコミの殺到が予想されるためかと思われる)。

コンペやアジアの風部門で上映される作品はどれもが「この機会を逃すと二度と観れなくなるかもしれない」作品ばかり。こちらはゲストの来場も多いので(もちろん無名の人ばかりだが)、上映後の質疑応答などで直接的に意見交換を行うなどゲストと観客の距離の近さを実感することができるだろう。というわけで、駆け足で紹介してきましたが、今年も皆さんがたくさんの映画たちで素敵な出会いを果たされますように!

ちなみにこれまでの東京グランプリ受賞作は当ブログ内のこちらの記事でご確認ください。

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2005/10/20

『バットマン・ビギンズ』は、史上最もクラシック音楽の似合うヒーロー・ムービーだ。

『バットマン&ロビンMr.フリーズの逆襲』の誰の目にも明らかな不作を受けて長らくプロジェクトの硬直状態が続いていたこのシリーズがようやく息を吹き返した。バットマン・ビギンズの誕生である。

僕らはなんの心配もいらなかった。運命はホントいいようにできている。やがて『メメント』『インソムニア』のクリストファー・ノーランの監督起用が決まり、若き日の主人公ブルース・ウェインには『マシニスト』のクリスチャン・ベール。これがもう、傑作の域を遥かに超えた仕上がりになっている。ティム・バートン風のマジカルでファンタスティックなヒーローでもなく、ジョエル・シュマッカーのロックなバットマンでもなく、ここに登場するのは極めてノワール色の強い、それでいて荘厳なクラシックがよく似合う上級志向のバットマンだ。何か奇をてらうでもなく、正真正銘のフルコースのストーリーライン、そしてラストにはメインディッシュの盛り上がりがきちんと供される。

もちろんバットマン特有のアクションも盛り込みながら、本作ではとりわけ「彼がなぜバットマンになったのか」というエピソード1的な内容に焦点が置かれる。ブルース・ウェインのヒーローへの志しにしても、数々の秘密道具にしても、すべてがまだ未熟でプロトタイプに過ぎない。しかしだからこその“洗練される途上の楽しみ”がある。だって、ブルース・ウェインは執事アルフレッドと共に毎晩頭を寄せ合って、「これでいいかなぁ?」なんて秘密道具の開発に余念がないんだもの。マイケル・ケインの飄々たる演技もあいまってまるで武士が内職にでも精を出しているかのように可笑しい。

そして本ストーリーの根本を司るのは「なぜ彼は戦うのか」というテーマであり、更には「正義とは何か、善とはなにか」に集約されていく。ここにはシリーズものであると同時に、現代という時代に投げかけられた奥深い問いかけとしても機能している。まさにこの映画を生み出したアメリカ自身に突きつけられた映画と言えるだろう。

そういえば『スパイダーマン』でもそのあたりの描写には事欠かなかった。しかしバットマンはそれよりもかなりリアルだ。そもそもブルースが冒頭、強くなりたいが為に戸を叩いた秘密結社は、自ら「善である」と主張しながらも蓋を開けてみるとかなり原理主義的なものであり、彼は少なからず衝撃を受ける。いまの世界情勢を鑑みるならばそれはタリバンのような組織と重なるのかもしれないし、はたまたその裏をかいてアメリカのような自らを正義と称して疑わない存在を視野に入れたメタファーですらあるのかもしれない。その首領役には渡辺謙。イントネーションの違いこそあれ、迫力のある風貌、そして威厳のある活舌で他を圧倒する。ただ、僕が本作を試写した段階ではまだ字幕の調整がまだ済んでいなかったらしく、「こいつを組織に加えてはいけん!」などと、なぜか九州弁の渡辺謙がそこには存在していた。

その秘密結社の参謀役には、“指導する者”を演じさせたら右に出る者がいないと言われるリーアム・ニーソン(本人は「もうこの類の役はやめる」と言っている)、ブルースの父が創設した会社で昔は敏腕だったものの、いまや窓際族へと追いやられ悶々と兵器開発を続ける年配社員役にモーガン・フリーマン、ゴッサム・シティを恐怖に陥れる謎の怪人“スケアクロウ”には『28日後』でブレイクした英国人俳優キリアン・マーフィ、ブルース・ウェインの幼なじみで今では弁護士としてゴッサムの敵に果敢に闘いを挑む女性をケイティ・ホームズ(本作よりも、トム・クルーズと婚約したことで一気に名前がメジャーに・・・)、バットマンと協力体制を結び不正のはびこるゴッサムを内側から変えようと努める警部役にはこれまで極端な悪役の多かったゲイリー・オールドマン(彼の意表を突いた善人役はサイコーです!)、そして主人公を温かく、そしてコミカルに見つめ続ける執事には名優マイケル・ケイン。

さあ、どうですか!こんな名優ぞろいで面白くない映画を作る方が逆にハードル高いよ。

もちろんバットマンに対する興味関心は皆無であるよりも少しでもあったほうが楽しめるだろう。しかしそうでなくともある程度映画を観ている人にとっては“そのまま”で充分楽しめる内容に仕上がっていると思う。少なくとも本作の大成功によりバットマン・シリーズという洗練された金鉱脈に再びスポットが当たり始めたのは間違いない。

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2005/10/12

『いま、会いにゆきます』を観てて思ったこと。

ガラにもなくこのような純愛映画を観てしまい、そういや主演の中村獅童と竹内結子が婚約したニュースのことを思い出した。どうやらこの映画が取り持った縁らしい。

僕は、中村獅童がいまだに竹内結子のことを幽霊だと思い込んでいたらいいな、と思った。それを許容しての婚約なら素晴らしい。いまだに小日向文世の扮するお医者さんに「彼女との結婚生活は順調です」なんて報告しにいったりもする。

だから記者会見など開いてもみんなに竹内のことが見えているなんて思いもしないのだ。彼女のことに触れられそうになったら必死に話題をそらしたりする。すべてそれは彼女のことが守りたいがため。そしてちょっと頑張りすぎてまたもや雑踏の中で意識を失ったりもしてしまう。まだ竹内のお腹の中にいる子供が思わず「たっくん!」と駆け寄ってくる。

そんなリアルライフも含めて純愛を貫けばいい。世の中、夢から覚めるのがあまりにも早すぎるのだ。

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『69 sixty-nine』で村上龍の原点に迫る。

村上龍が自らの高校時代をハイ・テンションで疾走させた青春小説が、『木更津キャッツアイ』『ゼブラーマン』の宮藤官九郎の脚本で完全映画化。主演には『春の雪』の公開を控える妻夫木聡、『バトル・ロワイアル』の安藤政信。監督にはこれがメジャー初挑戦となる『BORDER LINE』の李相日(リ・サンイル)が大抜擢されている。

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『ミリオンダラー・ベイビー』で、若者に誇れる“老い方”を学ぶ。

アカデミー賞では、監督、助演男優、主演女優に続き、まさかの作品賞をも獲得した本作。作品の内容については公開直後より社会論争にすら発展しているが、それをものともしない重厚な語り口は、むしろ鑑賞後もずっと客席にもたれかかっていたいという観客の本能的な感覚にこそ、その真価を直接的に訴えかけてくることだろう。『ボーイズ・ドント・クライ』のヒラリー・スワンクが身体を張った演技で若さと情熱を体言すれば、モーガン・フリーマンは暗闇の中からふと浮かび上がり、まるで精霊のような存在感で彼女を優しく見守り続ける。そしてイーストウッドの貢献度についてはまた別格だ。監督・主演は言うまでもなく、彼は前作に引き続き本作の音楽をも担当。ピアノやギターで奏でられたシンプルで繊細なメロディーに少しずつオーケストレーションが重ねられていく展開がとても胸に迫る。

ロサンゼルスのダウンタウンにそのボクシング・ジムはあった。そこのトレーナーとして数々の名ボクサーを育ててきたフランキー(クリント・イーストウッド)のもとに「あなたの弟子にしてください!」という女性が現れる。彼女の名はマギー(ヒラリー・スワンク)。はじめは「女性には指導しない」と相手にもされなかった彼女だったが、それでも必死に食い下がり練習を続ける姿に、初めは住み込み雑用係のスクラップ(モーガン・フリーマン)が折れ、元ボクサーの経験と知識で彼女にいくつかのコツを伝授する。そして、ウェイトレスとして日銭を稼ぎ、そして寝る間を惜しんでボクシングの練習に打ち込むマギーの根気強さに遂にフランキーも折れ、頑なに拒んでいた弟子入りを認めることになる。「弱音を吐くな、俺の指導に質問はするな」。フランキーの下でメキメキと頭角を現すマギーは、数々のタイトル・マッチで勝利を納める。互いを厚く信頼しあい見事なコンビネーションを見せる彼らには、誰の目にも明るい未来が輝いているように見えた。しかし現実には、思わぬ運命が待ち構えていたのだった。

イーストウッドに「老い」という言葉はあるのだろうか。ゴールデン・グローブ賞での彼のマイクパフォーマンスは格別だった。ステージに登ってマイクの前に立ち、とりあえずの受賞コメントを並び立てる。そしてふっと笑って一言、「サンクス!」。その瞬間、彼は「映画製作者」ではなく、半世紀も身を浸してきた「銀幕の中の人」となった。観客にとってイーストウッドという崇高な存在が一瞬だけスクリーンから飛び出し、そして最後には再び中へと戻っていった、そんな夢か幻をみているかのひと時だった。翻って、本作にもその「夢か幻を見ているような感覚」は存在する。それは既に老境を迎えて久しいイーストウッドとモーガン・フリーマンにとってのヒラリー・スワンクの存在であり、映画の中で女性ボクサーとして大活躍を納める彼女の勇姿は、ふたりにまるで幻想を目の当たりにしたかのような味わい深い表情をもたらすのだ。中盤には激しいファイトシーンとあいまって映画の高揚も最高潮を迎えるが、それとは対照的に、序盤とクライマックスには身を切るような寂しさと暗闇が横たわっている。しかし、どんなに重苦しくなろうとも、そこには僅かな一本の光が常に力強く挿し込んでいるように思えるのはなぜだろう。きっとイーストウッドにとっての映画作りとは、この一本の光の筋を大事にコーティングしていく作業なのだろうと、そのあまりの深さに感銘を受けた。

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2005/10/09

『オペラ座の怪人』の映画的豪華絢爛に酔う。

世界に名高い傑作ミュージカルが、その産みの親、ロイド=ウェバーの手により映画化された。実はこの構想は15年も前から温められ続けてきたのだそうで、キャスティングの問題などを含めてようやく実現に至ったその感慨といったら計り知れないものがある。この製作者の熱き想いを映像的な煌びやかさを加味してダイナミックに露わにしたのは監督のジョエル・シュマッカー。『セント・エルモス・ファイアー』(85)から『評決のとき』(96)、更には『9デイズ』(02)や『フォン・ブース』(02)といった作品群でも名高い、つまりはどんなジャンルでも引き受ける職人監督な彼だけに、その原作の高名性だけに縛られない、とにかく“盛りだくさん”な描写力で期待通りの充実感・満足感を堪能させてくれる。

ストーリーの鍵を握る“ファントム”には、ジェラード・バトラーによるダークで哀しげな歌声や立ち振る舞いと共に、シュマッカーが『バットマン』シリーズで獲得したスタイリッシュな演出が彷彿とさせられ、この監督の更なる奥深さを垣間見せられる。

前言を撤回するようだが、実はこの監督、とにかく多くの作品をリリースしてきた中には、それほど褒められたものでもない作品だってある。だが本来、映画製作とは予算と実際とのせめぎあい。彼だってこれまで数々の試みを苦渋の思いで断念してきたはずなのだ。その点、今回は違う。なにしろ製作者に力強い味方(オリジナルの生みの親)がいるのだから。とにかく「これでもか!」というほどの、決して妥協のない絢爛豪華な絵作りには目を見張るものがある。

もちろん、『デイ・アフター・トゥモロー』や『ミスティック・リバー』にも出演している主演女優、エミー・ロッサムの可憐な歌声も素晴らしいと、とりあえず書いておく一方で、脇役に徹しているミニ・ドライバーのパワフルでコミカルな脇役ぶりについても書き記しておきたい。惜しくもゴールデン・グローブ賞(助演部門)は逃したものの、有名俳優の憎まれ役ほど見ていて楽しいものはないのだし、それは演じている本人だって強く感じていたことに違いない。彼女にもぜひ注目していただきたい。

ひとつの芸術作品として観賞するのもいいが、早くも常識となりつつあるこのストーリーを知らない方にとっても、本作はきっと素晴らしい入門編となるはず。いや、なによりもまず、ロイド=ウェバーの目論みはきっとそこにあると思うのだ。

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『キングダム・オブ・ヘブン』は『グラディエーター』並に面白いか?

既に本作をご覧の方はこちらの超ロングバージョンをご覧ください。

リドリー・スコットといえば猛々しいストーリーを芸術的なまでの描写力をもって繊細に表現する監督として名高いが、それにしては最新作『キングダム・オブ・ヘブン』への評価は段違いに低かった。しかし正直言って僕はこの映画に圧倒された。もちろん史実をベースとしたにもかかわらず本作のストーリーは『グラディエーター』に似ているとされてもいささか仕方のないものではあったが、それでもエルサレムを舞台にイスラム教徒とキリスト教徒が束の間の平和なときを保ち、いつしか狂信的な人間によってそれがもろくも崩れ去るときの儚さは胸に染みてやまない。過去と現代とは1ミリの成長も見られないのだ。その無力感に息が出来なくなりそうだった。

イスラムの指導者は、主人公を演じるオーランド・ブルームの問いかけにこう答える。「エルサレムは我々にとって“無”であり、そして“すべて”である」。

リドリー・スコットは本作『キングダム・オブ・ヘブン』のアメリカ国内での興行収入において制作費すらも回収できなかったと聞く。それこそ彼にとって本作とは“無”であり“すべて”ということになるのだろう。

オーランドの周りを取り囲んだリーアム・ニーソン、デビッド・シューリス、ジェレミー・アイアンズといったベテラン俳優陣がとにかくカッコいい。そして忘れてはいけないのがキリスト教側の指導者を演じたボードワン3世。病気のために鉄仮面をかぶって登場する彼を演じるのはエドワード・ノートンだ。彼が素顔をさらすことは一度もないが、それでもあの“なで肩”と落ち着いた声のトーンですぐに彼だと察しがつく。いや、何よりもその神聖なまでの存在感は注目に値する。

そういえばリドリー・スコット作品『ハンニバル』ではあのゲイリー・オールドマンがこれまた素顔を見せない演技にて特別出演を果たしていた。エドワード・ノートンはこれまでリドリー作品への出演はなかったものの、この“ハンニバル・レクター”シリーズ最新作の『レッド・ドラゴン』(ブラッド・ラトナー監督作)にて主人公を演じている。思えばその頃からハリウッドの“ヒットを保証するための豪華キャスト揃い踏み”作戦は受け継がれてきたような気がする。『レッド・ドラゴン』はおなじみアンソニー・ホプキンスにノートンを加え、レイフ・ファインズ、エミリー・ワトソン、ハーヴェイ・カイテルなどいかにも映画ファン受けしそうな(彼らさえ出演すればある程度の評価は確保できたも同然というような)キャスティングになっている。

昨今におけるリーアム・ニーソンの多用(しかも何かと師匠役として)はこの役者としての納得材料として機能しているの思うのだが、『バットマン・ビギンズ』におけるインタビューで彼は「もうこんな師匠役はやらないよ」とも答えていて興味深い。

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2005/10/08

『キングダム・ヘブン』を忘れないで!

『キングダム・オブ・ヘブン』をご覧でない方、時間がない方はこちらのショート・バージョンをご覧ください。以下の感想文はすごく長いですよ。果たして耐えられるか?

確か、『グラディエーター』の時もおんなじだった。僕はたまたま映画館でこの予告編に触れ、「なんだか『ベン・ハー』っぽい大作が来るんだな」とぼんやり受け止めていた。どんな映画雑誌に掲げられた新作ラインナップにも「リドリー・スコット最新作~月公開!」などとは並んでいなかったように思うし、あるいはそのときの僕の映画に関する知識といえば、リドリー・スコットすら認知できないくらいのものだったのかもしれない。

『キングダム・オブ・ヘブン』は、今後とも『グラディエーター』と比較される作品となるだろう。片やフィクション、片や史実を基にした大河ドラマであるにも関わらず、僕の中ではこの2作、前評判もなしに突如我々の前に舞い降りたという点、そして少なからず我々の心を鷲づかみにしてくれる点において似通っているように思える。それはきっと大河ドラマとしての語り方、描写による功績なのかもしれず、リドリーが切り取って見せるカットはそれだけで一枚の淡い色彩の芸術的絵画のようであり、また両者ともに主人公が相当な距離を移動する一種のロード・ムービーでもあることから、それらの芸術的絵画は絵巻物のように移動を繰り返し、およそとどまることを知らない。光と砂塵による芸術はここでもやはり健在なのだ。

それでいて不思議なのは、その絵画の連続性は観客の視覚を魅了するどころか、とりわけ嗅覚を刺激する。たった3時間弱の歴史絵巻は歴史的事実のほんのダイジェスト程度でしかないけれど、そこには現代にいながらにしてあらゆる感覚を刺激されることで多くの同時代性を獲得しているといえるだろう。しかしテーマに関しては別だ。我々はあらゆるディテールによって過去へとタイムスリップさせらる一方で、そのストーリーラインには今だからこそ伝えられるテーマを読み取ることができる。それは同時に、なぜこれらの作品がこの時代に生まれ出でたるかについての存在証明ともなる。

言うまでもなく上記の特権性については、ドイツ出身のヴォルフガング・ピーターゼンがブラッド・ピットを擁して撮った『トロイ』がまったくのハリウッド臭しか放出できていなかった事実、そして、あの『クレオパトラ』にも匹敵するほどの駄作と評された『アレキサンダー』が、生みの親オリバー・ストーンによれば実は「ヨーロッパ人には理解可能」な深遠で難解なテーマを織り込んでいるらしいこと(あるいはクリエイターがそれを口で喋ってしまうほど斬新な表現方法はこの世に他に存在しないこと)を例にとって比較すると一目瞭然なのである。

『キングダム・オブ・ヘブン』で描かれるのは、歴史絵巻といえども教科書的な知識で読み解くならば「十字軍」というキーワードに集約される。エルサレムをめぐってのキリスト教徒とイスラム教徒との攻防は今に至っても途切れることがないが、過去にさかのぼって第3次十字軍が発生する直前において、ここにはつかの間の平和が訪れていたというのだ。エルサレムの王ボードワン4世、イスラムの伝説的指導者サラディンといったそれぞれに聡明な頭を抱え、武力と武力とは互いに抑制しあい、そこには理性的な交渉の場が設けられていた。しかし狂信的陣営の暴挙によってこの平和は破られる。物語はこの戦いが終わり、エルサレムがイスラムの占領下に落ちるまでを描く。しかしこのとき、イスラム側はかつてキリスト教側が同地を奪い取ったときに犯したような異教徒虐殺は行わない。

驚くべきはこの“サラディン”という指導者の描き方である。この人物、ハッサン・マスードというシリアで大きな人気と名誉を勝ち得た俳優が演じているのだが、まさしく名君の何ふさわしい知恵と良識とカリスマ性を兼ね備えているのが一瞬にして見て取れ、彼がスクリーンに現れた際の安定感がすさまじい。イスラム側にはもうひとりの俳優がフィーチャーされているのだが、彼もまたこの時代にふさわしい強烈なエピソードを刻んでくれる。かつてメル・ギブソン主演のベトナム戦争映画『ワンス・アンド・フォーエバー』でベトナム軍の司令官を演じたドン・ズオンは、その描写がベトナム人を馬鹿にしているとして自国で批判を浴びた。確かこの作品は「ベトナム兵を等身大の人間として描いた始めての作品」として宣伝されていたはずであり、それでもなお理解が得られないのは他者を描いた映画にありがちなジレンマであり、皮肉である。しかし本作に関していえば、その点の演出にはかなりの配慮を尽くしてあるのだし、そこからはじめなければ成立しなかった映画であるともいえる。

映画の中での「キリストVSイスラム」は、当然そのまま俳優たちによる演技合戦とも受け取れる。もちろん主体としてのキリスト教側はイスラム陣営の鮮烈なイメージに対抗すべく更なるキャスティングの妙を狙う必要がある。そしてその成果はあった。

まず、鍛冶屋だったのに突然に騎士である実父が現れてエルサレムへの旅に同伴させられることとなる主人公にはオーランド・ブルーム。彼についてはその清廉な佇まい意外にはあまり取り立てて絶賛する気にはなれないのだが、無口なオーランドは好感が持てるし、彼が恋愛沙汰に身を投じると一国が未曾有の危機に陥ってしまうことは『トロイ』で実証済みなので、彼は常にストイックであった方が観るほうとして安心できる。

彼の父親役にはリーアム・ニーソン。旅の途中で息子に剣術の手ほどきをするシーンがあるのだが、『バットマン・ビギンズ』といい『スター・ウォーズエピソード1』といい、彼は何かと人に“教えを施しがち”だ。あるいは作中で彼があらゆる人から指導者として慕われていた経緯を示されると、『マイケル・コリンズ』『ギャング・オブ・ニューヨーク』なども思い出され、リーアム・ニーソンはフィルモグラフィの中で常に“上司にしたい俳優ナンバー1”だったらしいことに改めて気づかされる。

さらには父親が率いる十字軍において“戦う聖職者”を演じるのが『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』におけるルーピン先生ことデヴィッド・シューリス。また、エルサレムにおける軍事顧問としてストイックな思考に余念のない大物にはジェレミー・アイアンズ。

そして、中でもいちばん注目すべきは、名君とうたわれたボードワン4世を演じるエドワード・ノートンの存在である。なんとこのたび、彼は一度たりともその素顔をあらわにすることがない。というのもこの王、らい病を患っているとの設定で登場し、手には包帯を巻き、素顔は銀の仮面で覆われている。しかしながらノートンに違いないと気がつくのは、やはりあの“なで肩”であるのだし、穏やかな中に聡明さを秘めた声の響きを耳にするや、エンドクレジットを見るまでもなく、観客は仮面の向こうのただならぬ存在に魅了されることだろう。言ってみれば“サプライズ”。そういえばリドリー・スコットは『ハンニバル』でもサプライズとしてゲイリー・オールドマンを登場させていた。ちなみに監督は違えど、レクターシリーズの3作目『レッド・ドラゴン』でアンソニー・ホプキンスと相対して主役を演じていたのがエドワード・ノートンだった。まったく、偶然は必然である。

本作で描かれる束の間の平和。しかしキリスト、イスラム両陣営には緊張が持続し、それは危うげな平和でしかなかった。両者ともに相手を叩き潰してしまおうとする気持ちが萎えているわけではなく、そうさせないために外交努力を用いて互いに牽制しあっていたのだ。しかしそこへ現れる狂信的な思想の数々により歴史は歯車を狂わしていく。

主人公はいつしか騎士となり、最後まで己の信念に従ってエルサレムを守ろうとする。サラディンはエルサレムについて「そこは“無”であり、“すべて”でもある」と語る。彼と対等に渡り合ったボールドワン4世はそのことを理解していたのだが、進行していた病により死にいたる。彼の意思を引き継ぎ、主人公は絶対絶命の砦の中で、宗教でなく、まずこの民衆を救わなければと考える。つまり、守るべき民衆なくしての宗教など何が宗教だと行動で示すのである。その意味における「ナッシング・オア・オール」。指導者たちがその意味を忘れるとき、また悲劇は繰り返されていく。それは過去の話ではなく、いま現在でも続いているごくありふれた話なのだ。

戦いの場面で、エルサレム軍が巨大な十字架を掲げて現れる荘厳な描写が興味深い。おそらくどれだけ軍が乱れても十字架は支えられ続けるのだろう。そして戦士たちはそれに何かしらパワーを与えられながら異教徒を殺し続ける。繰り返すようだが、大義名分を掲げた迫害や殺し合いは現在もいくらでも見られる光景だ。人々はいまだにボーダーを飛び越えて世界を俯瞰することを知らない。史実かどうか明らかではないが、本作の中では主人公だけがその境地へとたどり着く。そして激しい戦闘後、イスラム軍に負けはしたが、交渉によりエルサレムの無血開城を実現させる。

物語のラストで、主人公は故郷の村へと帰り平穏な生活を送っている。そこへ、冒頭に父が率いる十字軍が来村したのとまったく同じ状況で今度はイギリスからの十字軍がやってくる。主人公はすかさず彼らの後を追って再びエルサレムを目ざそうとする。歴史の流転を刻み込んだラスト、彼らは血に飢えた戦士たちであったかもしれないが、しかし主人公は昔と明らかに違う。そこには魂の充実といったものがあり、『グラディエーター』のエンディングでマキシマスが旅の果てに手に入れたもの(それはたとえば作中に現れる“開いた扉”といったイメージ)と同様のものだったかもしれない。

この作品の締めくくり方に「永遠」を連想させるものを結びつけるのもリドリー・スコットのお家芸のような気がする。観客としてもありがたい。われわれは劇場を後にしても意識の中で、何度となくそれを再現できるのだ。

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パク・チャヌク最新作『親切なクムジャさん』は残虐ファンタジーの秀作だ。

親切なクムジャさん』が11月に公開されるのを前に、監督のパク・チャヌクが来日した。僕はかねてより2004の劇場公開作の中で『オールド・ボーイ』を堂々の1位に上げているので本作への期待も否応なしに高まる。

冒頭、NHKで放送されている『宮廷女官チャングムの誓い』でもお馴染みのイ・ヨンエ扮する受刑囚が、10年の刑期を終えて出所するところから始まる。この人、塀の中では天使のごとき“親切さ”で仲間の信頼を獲得し、塀を出てからはその“親切さ”をドブに捨て壮絶な復讐の鬼と化す。塀の中で築き上げたコネクションを最大限に生かし、一方でオーストラリアへと養子に出された自分の娘を奪還し、いろんなところを駆け巡りながらかつて自分を陥れた男(これを演じるのは『オールド・ボーイ』で主演を務めたチェ・ミンシク!)への包囲網を狭めていく。もちろん後半は物凄い血流が・・・。

受刑期間がもたらす空白といい、過剰なまでのバイオレンスといい、『オールド・ボーイ』との共通性もいくらかあるのだが、前作を100点満点とすると今回は60点くらいか。それだけ前作が完璧過ぎた。それに比べると、本作はクムジャさんがどうして裏切った男を憎むのか、その“裏切り”のほどがよく描かれていない。前作がその“復讐される理由”にこそ真相が隠されていたことと比較してもその点は物足りなさを禁じえない。そのすべてを“チェ・ミンシク”というキャラクターひとりに負わせようとすることである種の“底知れなさ”は獲得しえているとは思うのだが。

しかし、親切やら不親切やら宗教心やら、この世で一概に“コモンセンス”と呼ばれるものにあらゆる幅を持たせ、そこに残虐性を加味し、観客に対して「これは許される?」「これは許されない?」「じゃあ、これは?」という具合に“価値観の線引き”をあざ笑うかのごとくに追い詰めている視点は相変わらず健在だ。

そして主演のイ・ヨンエの佇まいがいい。同じくパク・チャヌク作『JSA』のときはただ毅然として美しいだけの存在感だったのが、本作は監督自身「もっとしっかり演出して違う魅力を引き出す余地があると思った」と振り返っているだけに、ただの“美しさ”とは違った“寂しさ”を兼ね備えたキャラクターを築き上げている。復讐を達成に近づくごとに寂しさの増す彼女の表情とはいったい何なのだろうか。

そして生き別れとなっていた娘の存在。オーストラリアで育ち、英語しか喋れない彼女は母親との意思疎通に四苦八苦する。韓国語はもちろん英語すら入り乱れ、そして主人公の働くパン屋の店長は「日本で修行した」との設定になっておりちょっとだけ日本語を披露してみせる。この国籍を飛び越えた混沌とした状況。先のコモンセンスの境界が国籍、人種、宗教をも飛び越えてアッパーカットのような残虐性でもって観客に襲ってくる。

『オールド・ボーイ』のときも感じたことなのだが、本作を観た後にも同じ想いが心に到来した。「きっとパク・チャヌクという人間は礼儀正しい常識人なんだろう」と。昨日の記者会見でもそうだったように。

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2005/10/07

トニー・スコット最新作『ドミノ』にみなぎるパワーに圧倒される。

トニー・スコットといえば世界で最もカッコイイ映画を作り出す監督のひとり。その力量はアカデミック色を追い求める兄・リドリーよりも上と思われる瞬間も多い。

そんなトニーの最新作『ドミノ』が10月22日より公開。さっそく試写に行ってきた。

キーラ・ナイトレイが演じるタイトル・ロールは実在した女バウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)“ドミノ・ハーヴェイ”なのだが、この女性、実はトニー・スコットと親交の深い人でもあった。彼はかねてより彼女の波乱に満ちた半生について映画を作ろうと画策してはいたものの、なかなかいい脚本が上がってこない。数年の歳月を経てようやく納得のいく脚本、納得のいくスタッフ、キャストを集められ、いよいよ撮影がスタート。

しかしこの待望の瞬間に肝心のドミノはもうこの世にいなかった。危険を顧みない性格が災いを招いたのか、ある日突然に原因不明の死を遂げてしまったのだという。

この映画では主人公の「死」までは描かない。恐らく本作はトニーによるドミノのための「弔い合戦」のようなものでもあると思うのだが、そこに発露してきたものは「死」をイメージさせるというよりは、むしろ意外なほどに「生」に満ち溢れ生き生きしたものだった。

ここにトニーの作家性が現われる。ドミノという女性をとにかくカッコ良くフィルムに収めてしまうところに彼のフィルモグラフィーに連なる真摯な姿勢が伝わってくる。そして本作はどういうわけか『Shaft』のようなブラック・ムービーにその形態を借り、そこに広がる複雑な相関図の中に“ファミリー”以上の関係性を築き上げることで、トニー自身もこの映画づくりをとことん楽しんでいるような雰囲気を伝えてくる。エンディングで登場人物のフラッシュバックと共に「Keira(キーラ・ナイトレイ)」「Mickey(ミッキー・ローク)」とそれぞれの名前が名字を省かれた状態で添えられる。その手法にはまさに家族的な雰囲気のよさを感じ取ることができ、その最後を飾る人物に我々は注目せずにいられないだろう。

僕はそのとき、是枝裕和の『ワンダフルライフ』という映画を思い出していた。人が死んで天国へ行くとき、その人の一生の中でいちばん幸福な瞬間を映像化して鑑賞するというストーリーだった。この『ドミノ』もおんなじだ。ドミノ・ハーヴェイにまつわる最もカッコイイ映像をトニー・スコットが手がけたというわけだ。それが彼なりの弔い方ということなのだ。

画面はいつも以上にチャカチャカと動き、ほとんどすべての場面に特殊効果が施される。そしていつもどおりの文字情報(字幕)の多用。バウンティ・ハンターの映画らしくその文字もレジスターで金を精算するときの「キャシャーン!」という音と共に飛び出し、「This fim is based on true story」と表示された直後、再び「キャシャーン!」と鳴り響いて「a sort of・・・」とくる。このカッコ良さといったらない。

試写が終わって立ちくらみがするほどの視神経の疲労を感じた。その分、脳はこれでもかってくらいに活性化。アドレナリン過剰放出。2時間7分、決して立ち止まらないし、立ち止まれない。トニー・スコット。この60を過ぎたばかりのオッサンはいったい何者なんだろう。『エネミー・オブ・アメリカ』『スパイ・ゲーム』『マイ・ボディガード』『ドミノ』と連続する大作にハズレなしだ。今後も『Emma's War』『The Warriors』『Deja Vu』と新作予定が次々と待機中。トニーのこの骨太さ、愚直なまでの繊細さを絶対にスクリーンで体感して欲しい。これは全身で浴びる映画だ。しかし目が痛いよ、トニーのやつめ。

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2005/10/04

『ほえる犬は噛まない』はどちらかというと日本人の感性に近い傑作ガールズ・ムービーだ。

これが「韓国に伝わる古いことわざです」と言われたら「はあ、そうですか」と信じてしまいそうだ。この飄々として他人事なタイトルに心惹かれる。いまや『リンダリンダリンダ』で日本映画にまで進出したぺ・ドゥナ主演のこれまでにない新感覚ムービー。

マンション内の犬をハライセに処分して回る危ない男と、それら行方不明の犬を必死に捜しまわる女の子(けれど成人女性)の物語。こうして書くと善悪ははっきりしているけれど、それが映画の中でユーモアたっぷりに描かれると、どちらがいい、悪いかなんてそう簡単には判別つかなくなってしまう。テレビのニュースで勇敢な女性が市民栄誉賞をもらうのを見て「ああ、私もあんなふうになれたら!」なんて思い浮かべてしまう女の子の冴えない日常のあらましに「ああ、分かる分かる」と素直に共感。そして、彼女にいつもそっと寄り添う親友の太っちょさんの存在も優しい。彼らは決してレズビアンなどではないけれど、異性には絶対に分からない信頼関係でしっかりと結ばれている。

飲んだくれて酔っ払えば電車の連結部分で介抱してやり、女の子を背中におんぶして家まで連れ帰っていた太っちょさん。はたまた、その太っちょさんが怒って蹴り壊した車のバックミラーを大事な戦利品のように抱えて回る女の子。そういう些細な描写の積み重ねが、「あれ、本題の“犬が行方不明”って話はどこいっちゃったの?」と一瞬不安にさせもするけれど、彼女達の友情はそんな右往左往でヘコタレはしないのだ。

そして、最重要アイテム、黄色いレインコート。女の子がついに勇気を振り絞って境界線を踏み越えるとき、「とりゃあ!」という踏ん張りと同時に、そこかしこのマンションの屋上からおんなじレインコートを着た大観衆の歓声が鳴り響く。辺りに飛び散る黄色い紙吹雪。もちろんこれは紛れもない心理描写なのだが、こんな漫画のごとくにくだらない描写がなんだかとても泣けてしまうのはなぜだろう。

それは女の子のリアルな感情を我々が既に察していて、彼女がこんなにもいろんな思いを詰め込んで行動している切なさに、バカバカしくも心底胸を打たれるからなのだろう。そして女の子がピンチに陥るとやっぱり親友の太っちょさんが飛んできてくれる。女の子にとって彼女はスーパーマン以上の存在だ。なんだろう、この信頼関係。可笑しくもやっぱり涙ぐんでしまうのだった。

劇場で本作を観た当時、僕はこの監督を女性とばかり思っていて、ポン・ジュノという名前を見ても「ああ、やっぱり女性か」と間違った納得を繰り返していたのだが、その実際は歴然たる男性監督だった。そして彼は、この後の長編2作目で『メモリー・オブ・マーダー/殺人の記憶』という韓国映画史に残る傑作を生み出してしまった。

ちなみにポン・ジュノは日本通の監督としても知られている。世界中で絶賛された『オールド・ボーイ』の原作漫画をパク・チャヌク監督に紹介したのも彼だったし、日本の映画祭で『リンダリンダリンダ』の山下敦弘監督と出会い、後にぺ・ドゥナを紹介したのも彼だった。いろんな意味で日韓映画界の橋渡し役を果たしている重要な人材でもある。そうそう、極秘裏に新作『怪物』も準備中だ。公開は2006年の夏。ぺ・ドゥナもソン・ガンホも揃い踏みするモンスター・ムービーとなるらしい・・・。

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『コン・エアー』の中で知ってる悪役何人見つけた?

妻を守る為に人を殺してしまったキャメロン・ポー(ニコラス・ケイジ)は、鍛えぬかれた軍人であった為に殺人罪を宣告される。 それから8年、仮釈放される身となったポーは、彼の妻と、そしてこれから初対面となる娘とが待つ故郷アラバマへ向かう為に、囚人移送機”コン・エアー”に乗り込む。同乗するのは、獄中で11人もの囚人を殺害し、一方で2つの学位を取得している冷酷知能犯、”猛毒”サイラス(ジョン・マルコビッチ!)ら犯罪史上最悪の面々。
離陸後しばらくして事件は勃発する。一瞬の隙を突いて、サイラス一味は巧妙に機内を占拠。中継所では新たに凶悪サイコ犯(スティーブ・ブシェミ!!)が追加され、機内は一気に緊張感が増す。地上で事件に気づいた連邦保安官ラーキン(ジョン・キューザック)は、追跡する内に機内に味方がいることを察知。それは紛れもないポーだった。彼は、糖尿病を患う同乗の友人を介抱しながら、連続女性暴行犯ジョニー23に狙われた女性護送官の身をも守るべく、脱出する機会を捨ててまで機内に留まっていたのだ。ポーは思う、愛する娘に胸を張って対面する為にも彼ら二人を絶対に見捨てることはできない、と。

「この世に神がいるってことを教えてやる。」

遂にポーの大反撃が始まろうとしていた。

「ザ・ロック」の製作・主演コンビが再び手を組んだ、とことんまでに男臭いアクション大作。人によって“好き”“嫌い”がこれほどまでにはっきりと分かれる作品も極めて稀である。だが、主役をはじめ、美形男優が皆無という絶妙な悪顔キャスティングには心から拍手を贈りたい。何故かロン毛のニコラス・ケイジも意味不明で素直に可笑しい。ジェリー・ブラッカイマー印ではあるが最高に荒唐無稽なアクション大作。こんな珍作も生み出すのだからブラッカイマーも捨て置けない。

↑実はこれ、僕が8年くらい前に書いた映画レビューだ。・・・言葉の使い方が何だかぎくしゃくしているが、ついさきほどネットでたまたま発見したので消滅しないうちに拾って干しておくことにする。ニコラス・ケイジの長髪について触れているところが素晴らしい着眼点だ。なにしろあの映画のよさはただそのことに尽きるのだから。そこで笑えなければ全部つまんなく思えることだろう。

あと、この頃はブラッカイマーのプロダクション・ロゴが出て来るだけで興奮したものだった。そう、あの延々と伸びる道路の傍らにある木に稲妻が落ちるやつ。映画の最初と最後に必ず登場するよね。

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2005/10/03

『ホテル・ルワンダ』がついに公開決定!!

アカデミー賞3部門にノミネートされたにも関わらず日本でのお蔵入りすらささやかれていた秀作『ホテル・ルワンダ』の公開が決定した。

で、そんな「映画公開の決定」くらいで何の騒ぎなの?という方もきっとおられるだろうから、ざっと事の経緯をご説明しよう。

本作の舞台は1994年のアフリカ、ルワンダ。大統領暗殺をきっかけに多数派のフツ族がツチ族を次々と虐殺しはじめ3ヶ月で約100万人が殺されていく中、ドン・チードル演じるホテル・マネージャーは成り行きで自分の勤務先に大勢のツチ族をかくまこととなり、この行動で結果的に1200人もの人々が命を救われることとなる。いわばアフリカ版『シンドラーのリスト』といった内容だ。

事件当時、国際社会が「アフリカで起きてる事件なんて」と全く関心を示さなかったことが虐殺を助長した。本作で叫ばれるのはその「無関心」への抵抗でもある。歴史は繰り返されるもの。10年を隔てた今でもアフリカ・ダルフールでは同様の虐殺が続いている。いまこのときに『ホテル・ルワンダ』が製作されたことの意味は大きい。本作はアメリカをはじめ多くの国々で絶賛され、その頃から注目していた日本の映画ファンには「いつ公開されるんだろう」とずっと気を揉んでいた方も少なくないだろう。

しかし日本の映画業界が下した判断は予想もつかないものだった。アフリカが舞台、虐殺というテーマ、そして無名の黒人俳優、この3要素が災いして「日本では商売にならない」と結論付けられ、一気に「お蔵入り」の道へと追いやられてしまうという異常事態が巻き起こった。しかし1994年のルワンダ虐殺、そして今でも続く無関心の連鎖を断ち切ろうとして生まれた映画がまぎれもない『ホテル・ルワンダ』であり、それをこの日本で拒否しようとする「無関心」は、もしかするとアフリカ以上の問題をはらんでいるのかもしれない。これは日本という国が陥った深刻な病なのだ。

もちろんこれにはアメリカの配給会社が提示した巨額の権料も大きく要因している。海外ではシネコンのような劇場でも多数公開されていた作品だ。もちろんそれだけの国際的評価も勝ち得ているのだし、そもそもアカデミー賞にノミネートされることは配給権の高騰につながりかねない。その意味で本作が日本で公開される道は初めから茨で埋め尽くされていたのかもしれない。『ホテル・ルワンダ』の商業的価値に言及するとき、誰もが口を閉ざさずにはいられない状況が訪れていた。「秀作ではあるが商売にはならない。」多くの関係者がそのような閉塞感を胸に抱いていた。

そこを映画ファンの手によって打開しようとしたところがこの映画の脱出口だった。日ごろ誰もがハリウッドハリウッドした一辺倒パターンの映画に辟易している。「そんな秀作なんだったら見たい!」とインターネットで口コミが広がり、同じネットを通じて映画ファンが集い署名運動にまで発展した。狙いはまさしく米配給会社と国内配給会社との中間領域だ。つまり、時期が長引くほど本作の配給権料は下がり、映画ファンが「この映画が見たい!」と口コミを拡げることで日本国内の本作に対する需要率は高まる。そして両者の数字が合致するタイミングが早く訪れるほど、日本で公開される時期も早まるという構想である。もちろんその中央には“作品の質”がすえられる。誰もが納得しうる作品であるからこそ公開運動は順調に展開し、集められた署名は「日本国内の関心」のバロメータ、あるいは口コミを加速させるためのツールとして機能した。結果的に今日にいたるまでに多くのメディアにも露出し、公開というスタートラインに立つ以前より本作は「騒がれる作品」としての価値を獲得していった。

そして本日、『ホテル・ルワンダ』日本公開を求める会HPにて「緊急報告」が行われた。

ついに劇場公開が決定である。配給はメディア・スーツ。現在のところ正月第二弾公開に向けて調整中だという。決定している上映館は渋谷にあるユーロスペース。まもなくリニューアルに入り、渋谷シアターN。同社としては、ここでの興行成績などを基にして徐々に全国へと展開していきたい構えだ。

“映画ファンが従事した公開運動”としては、まさに『ゴッド・アンド・モンスター』に続く規模のものといえるだろう。そして中心となったメンバーがインターネットにおけるSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を利用して集結したこともこの時代性と合致する。

世界中にはまだまだ多くの名作が埋もれている。本活動が成功か否かはまだまだ国内での興行成績を踏まえなければ分からないが、少なくとも未公開作が公開されるためには何が必要かを本活動は教えてくれる。多くの者が公開を求め、それがやがて沸点に達しさえすれば、その映画は公開されるのである。

世界が、そして日本が「無関心」の連鎖を打開するタイミングはどこかしこに溢れているのである。

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2005/10/02

こんなに楽しい『天才マックスの世界』が公開されなかった日本の映画界って不思議。

『天才マックスの世界』といえば、『ライフ・アクアティック』や『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』などの独特の作風で知られるウェス・アンダーソン監督の初期の作品。日本では劇場未公開となっているまぼろしの作品としても有名だ。

主人公のマックスときたら、頭が良すぎて学校の成績はガタ落ち。とにかく多くの部活動を両立することに意欲的で、自ら率いる演劇部による新作の評価も上場。しかしそんなマックスがとある美人先生に恋心を抱いてしまったことでとんだ騒動が勃発する。ややこしいことに、そこにはマックスの親友にして(大人なのに)工場長のブルーム(ビル・マーレイ)も複雑に絡まりあって、まったく大人なんだか子供なんだかよく分からない展開が続いていく。なかなか出口の見えないがグタグタの状態が続いていくけれども、やがてそんな混沌にも温かな光が差し込んでくる・・・本作はそんな具合に素敵な作品。

何十も歳の離れた親友でありながら、美人先生をめぐって熾烈な争いを繰り広げるマックス(M)とブルーム(B)は、後半このようなセリフでもってめでたく仲直りを果たす。ブルームを演じるビル・マーレイのあの飄々とした雰囲気をイメージしながら次のやり取りをご覧ください。

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M: I was gonna try and have that tree over there fall on you.

(僕はあそこの木をあなたの上にぶっ倒してやりたかった)

B:That big one? It would have flattened me like a pancake.

(あの木かい?パンケーキみたいにぺしゃんこになっちゃっただろうな)

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おかしみの中にちょっぴりほろ苦さを感じさせるとても素敵なシーン。

ビル・マーレイの芸達者さはもちろんながら、しかし何より主演のジェイソン・シュワルツマンが最高にうまい。経歴を紐解くと、1980年生まれで本作が米公開されたのは98年だから、撮影中はまさしく役どおりの“高校生”だったってことになる。「いったい何者なんだ?シュワルツマン」と思ってたら、なんと母親は『ゴッドファーザー』にも出演していたタリア・シャイア(コッポラの妹)だった。ということは、彼にとってフランシス・フォード・コッポラは叔父にあたり、共に映画監督のソフィア・コッポラとロマン・コッポラ、更にニコラス・ケイジに至るまでがぜーんぶ“従兄弟”ということになる。うーん、さすが血は争えない。名家の出だったのだ。(ちなみにニコラス・ケイジの本名って“ニコラス・コッポラ”だって知ってました?)

ジェイソン・シュワルツマンは、最近では『ハッカビーズ』にてジュード・ロウ、マーク・ウォルバーグ、ナオミ・ワッツ、ダスティン・ホフマンらと豪華共演を果たし、ソフィア・コッポラの新作『マリー・アントワネット』にも出演している。

あの歳であの存在感はありえない。その奇跡の第一歩を『天才マックスの世界』でぜひ確認していただきたい。

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