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2005/12/23

『誰も知らない』

80年代に巣鴨で起きた子供置き去り事件をモチーフに、しかし決して暗ーい作風になるわけでもなく、子供達の素の部分から引き出されるとてもリアルな演技で散りばめられている。

まずもって諸悪の根源ともいうべき母親役がYOUなのだから驚きだ。 彼女の飄々とした存在感は、その事件の当事者であるというかなり酷な立場をスルリとかわしてしまう。出演シーンでは子供達に優しく接し、それで突然フイと居なくなってしまうので、彼女に対する憎しみが沸いてくる暇がない。なんと不思議な人だろう。 そしてなんと絶妙なキャスティングだろう。

子供達も素晴らしい。それ、ぜったい演技じゃないだろう、というような意味不明の言動が宝石のように詰まっているし、彼らがもっと大人になってだんだんと理性が備わることで逆に失っていくものがあるのかと思うと、願わくばこの貴重な時間が少しでも長めに止まってくれればいいのに、と思ってしまう。

もちろんストーリーだけを追えば、それは子供達にとって地獄に等しい。にもかかわらず、彼らの日常の中にいくつもの奇跡のような場面が存在したことが俄かには信じられなかった。なるほど、絶望を絶望として捉えるだけでは意味がないのだ。そこに別次元の肌触りを取り入れることによって、幸福も絶望もより鮮明に浮かび上がるようになる。そしてこの是枝マジックの凄さは、そこに仄かに神秘的な空気が現れるまで綿密な下準備を行い、そしてひたすら待つことにあるのだと思う。ドキュメンタリー出身ならではの忍耐強さがここにはある。

社会一般にとっての“傑作”かどうかは、人によって感じ方が異なるだろう。 だが、是枝作品の文脈からするとそのスタイルがまた幅を広げてきたことは明らかで、彼の方法論が日本の映画界に与える影響は今後ますます大きくなるに違いない。

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2005/12/17

『SAYURI』を楽しむためには?

そもそもハリウッド映画の中には、主人公の名前をそのままタイトル化してしまうものも多く、もちろんそういった場合、日本公開に際しては映画の内容に沿った邦題があてがわれることがほとんどである。だがこの日本文化逆輸入とも言える本作に関してはその傾向とまったく逆のことが発生しており、つまりは「SAYURI」などと意味ありげにローマ字表記してみせたところで、原題は「Memoirs of a Geisha」なのであって、そこには日本で出版済みの原作本のタイトルを尊重した以上の、奇妙で不可解なトリックが潜んでいるような気がしてならない。

そのように首を斜め30度ばかし傾げた状態で幕を開けた本作。肝心の日本描写にまるで地面から3センチばかり浮遊したような現実離れ感があるのは宮崎アニメでいう『千と千尋の神隠し』のような幻想的世界観ということで何とか納得はできるとしても、例えば主人公が神社で賽銭を投げて頭上の鈴を鳴らそうとすると「ゴーン」などと間違った音響が挿入されてしまっている不思議には笑みこそこぼれ、果てには観客がいちばん活気づくのは相撲観戦において舞の海が登場するシーンであり、辺りに腰掛けた年配のオジサマ、オバサマたちが「あ…ほらほら!」とコソコソ伝え合っている姿に触れるとなんだか微笑ましくすらなってしまうのだから、やはり映画館という場所にはそれなりの愉快な神様が住んでいるとしか言いようがない。

もちろん、チャン・ツイィー、ミシェル・ヨー、コン・リーによる相関図トライアングルが巧妙に織り成されるのを見ていると日本人としていくらか嫉妬心を禁じずにはいられないが、「オネエサン…」とはきちんと発音できても「オカアサン…」の発音はラストまでどこかおかしいツイィーの可愛らしさと、彼女の幼い頃より鍛えられた舞踏のキレを目にするや、ちょっとした文化の違和感が「そういうものなんだ」と気にならなくなってしまうし、劇中で役所広司の英語がそれなりのサマになっていたり、桃井かおりの全身から香るたくましさが映画の中でも相変わらず光を放っていたりするだけで、日本人として何か見ごたえのある2時間ドラマを見たような達成感に陥ってしまう。さらに付け加えるならば、この映画でいちばん最初にセリフを発する人物はあのマコ・イワマツさんであり、日本人俳優として長らくハリウッドで活躍してきた彼のまるで濡れネズミのようなたたずまいにこそ真の役者魂を感じるべきである。

このように本作はメインを外国人(日本を基準にしたところの)が占め、その周りを日本人が囲むカタチで成立している。海外旅行をすると、見慣れた日本メーカーの製品を目にしてもそれが海外工場を経由しているだけでなんだか別物に感じてしまうことも少なくないが、きっと本作でも同じことが言えるはずで、違和感にこだわる人は最後までこだわりを捨てきれないのだと思う。

しかし「逆輸入」だからこそ気づかされることがある。海外の映画祭で受賞したからこそ日本で注目を集める邦画だっていくらでもある。本作の主演が日本の有名女優などで占められていたならば、もしかすると僕はなんだか気恥ずかしくなってそれらを直視できなかったかもしれないし、100歩譲っても最後まで「邦画」としての感覚のままで接してしまっただろう。

言うまでもなく、本作はアメリカ映画であり、いまさらこの映画が全編英語で成立し得ていることへの説明は必要ないだろう。だからこそ、この映画を観たいと劇場に足を運ぶ人たちは、思い切ってこの「洋画」というフィルターを通した日本へのトリップ感覚をぜひ楽しんでいただきたい。そんな「ボーダーレスへの難着陸」を日本にいながらにして味わえるなんて、なんと稀有で有意義なことだろう。

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