« 2005年12月 | トップページ | 2006年2月 »

『やさしい嘘』

母子家庭に生きる親子三世代(おばあちゃん、娘、孫娘)の心の交流の物語。

ストーリーは、『グッバイ、レーニン』といささか似てないこともない。 つまり、心臓の悪いおばあさんに息子の死を伝えまいと周りが躍起になって嘘を散りばめるのだ。タイトルに「やさしい」という言葉を持ってきたのはとても巧いと思った。国家体制の変移に翻弄され続けた人々にとって、「やさしさ」の定義は世代ごとに大きく異なるものなのだ。そこからドラマが生まれていく。

チラシだけを見て偽善的な映画だと誤解するのは避けるべきだ。スターリニズムを生活の励みにしながら生き続けてきた世代と、それを否定してきた世代との狭間にある“壁”は、まるで『グッバイ、レーニン』のベルリンの壁を彷彿とさせるようでもある。それに気付いた瞬間、“福祉映画”のように見えていた作品は、それだけでは終わらせない深みへと大きく昇華していく。

一般的に「やさしさ」と呼ばれるものは、常に強者から弱者に向けて差し伸べられるものと考えられがちだ。つまり「施されるもの」として。共産主義を脱した現代であればなおさらのことそう考えるだろう。 映画の中の“三世代の親子”はとても大きな愛に包まれている。しかし三者三様にそれぞれの世代の壁を持っていることも確かだ。そして、この映画で何より気付かされるのは、三世代という家族構成は、更に「二組の母娘」という単位へと分けれらるっていうことだ。彼らの手によって、やさしさの総意とはどのように決着がつけられていくのか。あっと驚いて泣かされる結末がそこには待っている。

グルジアとは生きている生活環境も違うが、しかし“高齢化社会”という難問に突き進んでいる日本人にとっても、この映画は実にきもちのいい裏切られ方となって心に染みてくる。

映画で滅多に泣かない僕も久々に泣いた。 おばあちゃんの笑顔が記憶の中に蘇るだけで今でも涙が滲んでくる。 まだ若い女性監督がこしらえた周到なトリックに完敗である。

| | トラックバック (0)

『オーシャンズ12』

“ワビ&サビ”を基本に何かとせせこましく生きている日本人にとって、前作『オーシャンズ11』で体験したとびきりゴージャスな作風にはいまいち乗り切れない部分があったのは確かだ。ただ、大スター様たちにとってはこれが何よりの楽しいひと時だったようで、いつのまにか続編の製作が決定。しかもまたもや彼らは格安のギャラで出演を快諾、更には前作以上にキャストの面でもパワーアップを果たして帰還を遂げたのである。

今回はアムステルダムやパリやらヨーロッパの雰囲気がいっぱい。ヨーロッパ仕込みの貴族風ライバルだって登場する。演じるのはフランスを代表する俳優ヴァンサン・カッセル。彼とオーシャン一味の華麗な頭脳戦もあり、他にもキャサリン・ゼタ・ジョーンズ演じるユーロポール(欧州警察)による裏をかいた包囲網や、まさかのジュリア・ロバーツのセルフ・パロディ、更にはあっと驚くサプライズ・ゲストもありで、『オーシャンズ11』で見られたクライム・ムービーの王道からはちょっと方向性を異にした、とにかく遊び心満載の作品として仕上がっている。

中でもやはり、ソダーバーグのこだわりが前作よりも多めに発揮されているのがポイントで、シリーズ2作目にしてようやく豪華キャストが“よき材料”として機能させられ始めた印象だ。まるでライブ・セッションを見ているかのように、役者どうしが現場で影響しあうことによって醸しだされる臨場感が伝わってきて、そのオーガナイザーとしてソダーバーグがいる。なんと濃密な関係だろう。確かにストーリーや仕掛けの巧妙さといった部分ではやや物足りなさも残るが、そこに香り立つ雰囲気を味わうことにこそ、本作に身を浸す本当の意味が現れるのではないかと思う。

| | トラックバック (0)

『ヴェラ・ドレイク』

ひどく悲しかったり、時には必要以上に残酷だったり、そういう映画に触れていると、「あれ、なんでこんなもの見せられてんだろう」と一瞬クールになってしまうときがある。

事実の告発モノでない以上、映画にはお客さんに悲しくなって帰ってもらったり、腕が引きちぎられたくらいの痛みを伴って帰ってもらったり、そういった権限はないように思う。むしろ、そういう映画は「マニアック」と評されて然るべきだ。

『ヴェラ・ドレイク』には上記に挙げた悲しみや痛みが存分に詰まってはいる。しかしながら、マイク・リーが観客を導こうとしているのはその感覚にとどまった領域では決してなく、それがあたかも羽が生えたかのごとくに軽やかに昇華されていく境地だ。

だいたい、市原悦子似の、人が良くって何ともかわいらしいおばちゃんが、娘の婚約祝いのさなかで警察に連行されていくわけだ。家族には内緒で、街で悩みにくれる娘たちに非合法の堕胎処置を施してあげていたヴェラには、自分の罪は重々分かっていたはず。しかし困った人を見ると放っては置けない性分なのだ。もしかしたら彼女もいつかはこんなときが来るんじゃないかと予想くらいはしていたかもしれない。しかし神様、よりによって人生でいちばん喜ばしいこの瞬間に連行なんて…

ヴェラはそのとき1分間も瞬きひとつせずに凍りつく。その様子をカメラも、固唾を呑んでじっと見守り続ける。

「なんとサディスティックな演出!」と人は罵るかもしれない。しかしここからの彼女の没落に反比例して、どういうわけだか本作は観客を解放へと導いていく。

本作はフィクションでありながらも過去の歴史が辿ってきた事実を織り交ぜながら作られているのだから、上記の例で言うと「告発モノ」としても有効なのかもしれない。つまり泣き叫んだり、痛みを伴うものを“それそのもの”として提示することが許された映画である。

しかしながらマイク・リーはここで、そのようなありふれたものとは全く違う演出を選び取った。すでに巨匠と呼ばれて久しい彼は、観客が独力で簡単にたどり着けるようなごく簡単な境地へ仰々しくガイドして差し上げるような野暮な真似は決してしないし、それほど感性が衰えてもいない。いや、むしろ絶好調のようでもある。

こんなにも悲しい映画なのに、どうして自分の心はこんなにも満足感でいっぱいなのだろう。心は泣いている。しかし涙の理由は悲しみだけということでもなさそう。これは不思議だ。自分の身体にいったい何が起こってしまったというのか。

そのような思いで一週間ほど悩んでしまいそうなくらいに不思議な映像演出が、観る者を優しく取り込んでくれる。どちらかというと、そういった不思議な不思議な見世物小屋を切り盛りする頑固オヤジといった表現が、いまのマイク・リーには意外と合っているのかもしれない。

そう、巨匠が巨匠らしく振舞うことこそ、この世のいちばんの野暮ってもんなのだ。

主演のおばちゃん、イメルダ・スタウントンは、『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』にてアンブリッジ先生を小憎たらしく熱演。ヴェラ・ドレイクの滲み出る優しさといい、アンブリッジの憎らしさといい、その演技の幅広さにおばちゃん俳優の実力を感じずにいられません。

| | トラックバック (0)

『珈琲時光』

現代にいきることのちょっとした複雑性、そして昔から変わらぬごく単純な想い。

ホウ・シャオシェンが見つめたポイントはそこにあるような気がする。“小津のオマージュ”と聞いて誰もが思い描きそうな下卑たパロディはいっさいない。写真では単なるオッサンにしかみえないのに、この人かなりアーティストだなあ、なんて感心してしまった。こういうオマージュの捧げ方ってこの人にしかできないものだと思う。いや、もしも北村龍平なんかに仕事が回ってきても無難にこなしちゃうんだろうけど、「東京にはゴジラがやってきたんだそうな、ばあさん」というセリフだけでいっさいゴジラは登場してこないSF版「東京物語」であるとか、そういう発想しか浮かばないに決まっている。

タイトルが示すように、ここには一杯の珈琲を味わう時のような、さりげないがとても濃密なひとときが詰まっている。それをグイと飲み干した後には、不思議と気力が充満しているものだ。思い切って日影から日なたへと踏み出せそうな気がする。

人生とはきっとこの繰り返しで、止まっては休み、止まっては休みしながら、なんとかやり過ごせていくもんなんだと思う。

自分なりの目的地へ向かう電車にサッと乗り込み、時にはその車窓から異なる目的地を目指す仲間、家族の姿を眺めやる。そこからは、各々がまるで並走するいくつもの路線に乗り込んでいるような感覚さえ生まれ、その様子は、人が寄せては返すように互いに交差しあい、影響しあって生きているという人生のメタファーとしてさえ捉えうる。

互いの交差が自分を少しでも日なたへと導くものであってほしい、という想いは昔も今も変わらない。きっとそれは小津さんの生まれるずっとずっと前から不変の、とても切なる願いに違いないのだ。

ちなみに、この映画のエンドクレジットで「蓮実重彦」という名があるので驚いた。後で関係者の人に「どこに出てました?」と聞くと、

「はい、えーっと・・・カットされました(笑)!」

と答えてくれた。これがきっと蓮見流のオマージュの捧げ方なのだ。

| | トラックバック (0)

« 2005年12月 | トップページ | 2006年2月 »