« 『珈琲時光』 | トップページ | 『オーシャンズ12』 »

2006/01/23

『ヴェラ・ドレイク』

ひどく悲しかったり、時には必要以上に残酷だったり、そういう映画に触れていると、「あれ、なんでこんなもの見せられてんだろう」と一瞬クールになってしまうときがある。

事実の告発モノでない以上、映画にはお客さんに悲しくなって帰ってもらったり、腕が引きちぎられたくらいの痛みを伴って帰ってもらったり、そういった権限はないように思う。むしろ、そういう映画は「マニアック」と評されて然るべきだ。

『ヴェラ・ドレイク』には上記に挙げた悲しみや痛みが存分に詰まってはいる。しかしながら、マイク・リーが観客を導こうとしているのはその感覚にとどまった領域では決してなく、それがあたかも羽が生えたかのごとくに軽やかに昇華されていく境地だ。

だいたい、市原悦子似の、人が良くって何ともかわいらしいおばちゃんが、娘の婚約祝いのさなかで警察に連行されていくわけだ。家族には内緒で、街で悩みにくれる娘たちに非合法の堕胎処置を施してあげていたヴェラには、自分の罪は重々分かっていたはず。しかし困った人を見ると放っては置けない性分なのだ。もしかしたら彼女もいつかはこんなときが来るんじゃないかと予想くらいはしていたかもしれない。しかし神様、よりによって人生でいちばん喜ばしいこの瞬間に連行なんて…

ヴェラはそのとき1分間も瞬きひとつせずに凍りつく。その様子をカメラも、固唾を呑んでじっと見守り続ける。

「なんとサディスティックな演出!」と人は罵るかもしれない。しかしここからの彼女の没落に反比例して、どういうわけだか本作は観客を解放へと導いていく。

本作はフィクションでありながらも過去の歴史が辿ってきた事実を織り交ぜながら作られているのだから、上記の例で言うと「告発モノ」としても有効なのかもしれない。つまり泣き叫んだり、痛みを伴うものを“それそのもの”として提示することが許された映画である。

しかしながらマイク・リーはここで、そのようなありふれたものとは全く違う演出を選び取った。すでに巨匠と呼ばれて久しい彼は、観客が独力で簡単にたどり着けるようなごく簡単な境地へ仰々しくガイドして差し上げるような野暮な真似は決してしないし、それほど感性が衰えてもいない。いや、むしろ絶好調のようでもある。

こんなにも悲しい映画なのに、どうして自分の心はこんなにも満足感でいっぱいなのだろう。心は泣いている。しかし涙の理由は悲しみだけということでもなさそう。これは不思議だ。自分の身体にいったい何が起こってしまったというのか。

そのような思いで一週間ほど悩んでしまいそうなくらいに不思議な映像演出が、観る者を優しく取り込んでくれる。どちらかというと、そういった不思議な不思議な見世物小屋を切り盛りする頑固オヤジといった表現が、いまのマイク・リーには意外と合っているのかもしれない。

そう、巨匠が巨匠らしく振舞うことこそ、この世のいちばんの野暮ってもんなのだ。

主演のおばちゃん、イメルダ・スタウントンは、『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』にてアンブリッジ先生を小憎たらしく熱演。ヴェラ・ドレイクの滲み出る優しさといい、アンブリッジの憎らしさといい、その演技の幅広さにおばちゃん俳優の実力を感じずにいられません。

|

« 『珈琲時光』 | トップページ | 『オーシャンズ12』 »

【地域:英国発】」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/137483/15858178

この記事へのトラックバック一覧です: 『ヴェラ・ドレイク』:

« 『珈琲時光』 | トップページ | 『オーシャンズ12』 »