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2006/01/23

『珈琲時光』

現代にいきることのちょっとした複雑性、そして昔から変わらぬごく単純な想い。

ホウ・シャオシェンが見つめたポイントはそこにあるような気がする。“小津のオマージュ”と聞いて誰もが思い描きそうな下卑たパロディはいっさいない。写真では単なるオッサンにしかみえないのに、この人かなりアーティストだなあ、なんて感心してしまった。こういうオマージュの捧げ方ってこの人にしかできないものだと思う。いや、もしも北村龍平なんかに仕事が回ってきても無難にこなしちゃうんだろうけど、「東京にはゴジラがやってきたんだそうな、ばあさん」というセリフだけでいっさいゴジラは登場してこないSF版「東京物語」であるとか、そういう発想しか浮かばないに決まっている。

タイトルが示すように、ここには一杯の珈琲を味わう時のような、さりげないがとても濃密なひとときが詰まっている。それをグイと飲み干した後には、不思議と気力が充満しているものだ。思い切って日影から日なたへと踏み出せそうな気がする。

人生とはきっとこの繰り返しで、止まっては休み、止まっては休みしながら、なんとかやり過ごせていくもんなんだと思う。

自分なりの目的地へ向かう電車にサッと乗り込み、時にはその車窓から異なる目的地を目指す仲間、家族の姿を眺めやる。そこからは、各々がまるで並走するいくつもの路線に乗り込んでいるような感覚さえ生まれ、その様子は、人が寄せては返すように互いに交差しあい、影響しあって生きているという人生のメタファーとしてさえ捉えうる。

互いの交差が自分を少しでも日なたへと導くものであってほしい、という想いは昔も今も変わらない。きっとそれは小津さんの生まれるずっとずっと前から不変の、とても切なる願いに違いないのだ。

ちなみに、この映画のエンドクレジットで「蓮実重彦」という名があるので驚いた。後で関係者の人に「どこに出てました?」と聞くと、

「はい、えーっと・・・カットされました(笑)!」

と答えてくれた。これがきっと蓮見流のオマージュの捧げ方なのだ。

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