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2006/03/30

全速力海岸!!

友人のWEB日記で「こんな突風の中を全力疾走したら、気持ちがいいだろうなあ」という記述を見つけて、「彼らしいなあ」とちょっと笑ってしまった。生まれてからこのかた、暦(こよみ)や天気予報の告げる「春」なんてものがちっともピンと来なかった僕だけど、結局はその「なんだかとっても走り出したい気分」ってヤツが感覚的に春の到来を告げていることにようやく気がついた。どこまでが冬で、どこからが春かなんて、人それぞれの持つ“感覚的30センチ定規”で測ればすぐに事足りることなのだ。

そんな折、『サムライフィクション』(’98)、『ステレオフューチャー』(’00)、『RED SHADOW 赤影』(’01)、あ、あと「ピース」という言葉とテンガロハットがトレードマークになっている中野裕之監督が、インターネット上でこんなにもダイナミックで、爽やかで、クレイジーで、やっぱりピースフルなショートムービーを発表してしまった。

タイトルは、まさに直球、『全速力海岸』!

Dash

最近では、愛・地球博で上映されたショートムービー『RE:サイクル』や、現在大量オンエア中のドリカムが歌い踊る東芝の音楽ケイタイCMなどを手がけていて、長編映画からは距離を置いているようにも見えた中野監督だが、一方では自身の映像制作スタジオを完成させ、短編作品『アイロン』を撮り上げ、またそれとは別に8年前から温めている長編構想もあるらしい。恐らくこの2006年は、映画ファンの目にもその活躍が充分届けられることになるだろう。

まだ寒さの厳しい2月の九十九里浜で撮影されたという『全速力海岸』。配信元の「短編.jp」については前にも一度紹介したことがあるが、ここで発表される短編作品には、参加クリエイターの参加条件を揃えるべく、「撮影期間は1日」という規約が設けられている。もちろんその条件は名高き中野裕之を招聘したところで何ら変わりはない。むしろ本作は、出演の村上淳、森下能幸、綾野剛らの身体的な“勢い”も相俟って、この逆境を全く意識させない、極めて豪快なテイストとなって視聴者の全身を貫くことになる。

たった11分の作品だ。ここで多くは語るまい。ただ、本作を通じてまず最初に襲い来る衝動は・・・

「とにかく海に行きてえ!そして、千本ダッシュ!」

ガキの頃にあんなに苦痛だった部活動の走りこみも、今は不思議と気分爽快にこなせそうな気がする。映像のチカラとはかくも偉大なり。少なくとも僕にとっての「春」は、この『全速力海岸』と共に到来した。

遥かむかしに与えられたはずの生存本能が、声高に語りかけてくる。

「人間は、ダッシュする生き物である」

僕らはもっと、人目をはばからず、全力でダッシュしていいのかもしれない。

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2006/03/29

三谷歌舞伎『決闘!高田馬場』と、是枝時代劇『花よりもなほ』

一、時は元禄、犬公方「綱吉」の治世

一、主人公はめっぽう喧嘩が弱い

一、長屋に住む人々に彩られた人情モノ

一、そして、まもなく赤穂浪士の討ち入りが起こる

三谷幸喜による新作歌舞伎『決闘!高田馬場』(パルコ劇場にて公演中)と『花よりもなをほ』(是枝裕和監督/6月公開)。このジャンルの全く違うと思われていた二人の同世代(三谷:44歳、是枝:43歳)作家が、ほぼ同じ時期にこれまでのテリトリーを飛び越えるかのような果敢な企画に挑み、それが上記のようにいくつかの点で共通項を持っていたことは非常に興味深いことだった。

■『決闘!高田馬場』は、市川染五郎よりラブコールを受けた三谷が「歌舞伎座は恐れ多いから、パルコ劇場で」と言って書き下ろした初の歌舞伎作品。これまで野田秀樹、渡辺えり子、蜷川幸雄、串田和美といったそうそうたる顔ぶれが次々と歌舞伎座に乗り込んで成功を納める中、まるでバトンを渡されるかのような満を持しての三谷の登板である。過去を振り返ると、かつて『野田版 鼠小僧』(at歌舞伎座)のカーテンコールで勘三郎が舞台上から客席の三谷を見つけ、「次は一緒にやりましょうよ!」的なジェスチャーを送ってきたというエピソードも新鮮に響くが、結果的に三谷は、自身の舞台『バイ・マイ・セルフ』の折に染五郎と交わした約束に応える形で、新テリトリーの第一歩を踏みしめることとなった。

さて、そうして繰り広げられる新作は、後に赤穂四十七士に数えられることとなる中山安兵衛の物語。元禄七年、自分の叔父が大勢を相手にした決闘に挑まねばならなくなったことを知った安兵衛は、長屋で共に暮らす仲間たちの協力を経て自堕落な生活から立ち直り、いざ助太刀せんと、八丁堀から決闘場の高田馬場まで全速力で走り抜ける。

歌舞伎と言えば、当然“ケレン”。果たしてこの三谷版ではいかなるケレンを創造することができるのか。このようなストーリーだと、ここは獅子が髪を振り乱して舞うがごとく、やはり「走る」動作こそが注目を集めることになるだろう。そしてその期待に応えるべく、三谷はクライマックスの30分で美術セットを完全排除するという勝負に打って出る。そして、ここでは詳しく書かないが、極めて前衛的とも取れる手法を駆使しながらこの疾走シーンを紡ぎだしていく。

もちろん実際の「八丁堀から高田馬場まで」はかなりの距離がある。しかしながら汗水垂らしてヘトヘトになって走る安兵衛をよそに、舞台場面は驚くべき手法でもって「安兵衛の現在地」と「高田馬場」との間を何度も何度も軽々と往復して見せるのである。

それはまるで映画における“モンタージュ”をも想起させるものである。観客は、数々の映画製作を経た三谷がこのように斬新な演出で歌舞伎における空間移動を可能にしたことに対して、深い畏怖の念すら覚えるかもしれない。まさに映像的な演出であり、しかし紛れもなく舞台上でしか到達しようのないカタルシス溢れる場転の数々。

しかし、よく考えてみると、そもそも歌舞伎俳優から「新作を書いてくれ」とラブコールを贈られたと言っても、贈られた本人としてはこれは喧嘩を挑まれたも同然のことだったかもしれない。いくら人気絶頂の脚本家とはいえ、相手は数百年の伝統を誇る“歌舞伎”である。そのプレッシャーは相当なものだったろう。ある意味、高田馬場にも勝る決闘。この場に及んでも自らのオリジナリティを模索しようとする三谷の心意気は、結果的に見事なまでに花開いた。まさに歴史を背負ったエンターテイナー、そして語り部としての面目躍如である。

■さて、もう一作が、6月公開の新作映画『花よりもなほ』。カンヌにおける『誰も知らない』の快挙により、その才能を世界が共通認識するところとなった是枝裕和が、これまで自身の持ち味だったドキュメンタリー・タッチを完全排除して、100パーセント劇映画として臨んだ時代劇、しかも信じ難いことに“コメディ”である。

時は元禄十五年(『決闘!高田馬場』の8年後にして、いよいよ赤穂浪士の討ち入り前夜)。父の仇打ちを誓い、故郷を後にした宗左衛門(岡田准一)は、江戸にある貧乏長屋で悶々と毎日を送っている。そこの住人は、リストカッターならぬ“切腹癖”のある浪人(香川照之)だったり、働く気のないぐうたら親父(平泉成…まるで是枝のプロデュース作『蛇イチゴ』のリストラ親父が飛び出してきたような趣もあり)、他には古田新太、宮沢りえ、田畑智子、加瀬亮、それに上島竜平、千原靖史、木村祐一(これらお笑い芸人の起用が、抜群の異色ハーモニーをもたらしている。特にキム兄の純朴さは出色。)といった、まあ、とにかく一癖も二癖もある者ばかり。そして、宗左衛門にいたっては、実は当のむかしに仇を見つけているものの、この男、喧嘩ごとにはめっぽう弱く、さらには「本当に仇を取ることが正しいことのなのか」などと、次第に深い悩みに陥ってしまう。

『誰も知らない』を作りながらずっと考えていたのは、「次は楽しい嘘をついてみたい」ということでした。ミュージカルにしようか、時代劇にしようか・・・悩んだ末にブームにあやかって(笑)、時代劇を選んでみました。 (プレス記事より抜粋)

このように語る是枝監督だが、もちろん上記のストーリーラインから分かるように、時代設定は過去であっても、テーマは確実に「現代」を向いている。これまで現実をリアルに臭わせる作風(しかも、脚本があまり重視されていなかったり、俳優には自分のセリフだけを与えてあとは即興で演じさせてみたり)で極めてオリジナルな映画作りを進めてきた是枝。

本作に触れた観客はその流れから「あっ、ブッシュ批判だ!」などと指摘するかもしれない。しかしながら本作を前にしてそのような声をあげることは、全く野暮な行為のようにも思われる。言葉に出さずに胸のうちにしまっておく想いこそ、深く余韻をもたらすものなのだ。その点、本作はまったくその素振りを見せず、「楽しい嘘」は完璧に突き通されている。そして、ドキュメンタリストの森達也の言葉を借りれば、「ドキュメンタリーは嘘をつく」ものでもあるらしい。是枝が同じドキュメンタリストとしてキャリアをスタートさせていることを考えると、ここで語られる「楽しい嘘」とは、いくつもの深い意味を兼ね備えたテーマであると思われるし、その様相は本作のストーリーにも見え隠れしている。

■『決闘!高田馬場』と『花よりもなほ』。奇しくもこの2作は同時期に創作され、同時期に世に出ることとなった。どちらも時代背景はほぼ同じであり、どちらも観客が心から楽しめる傑作エンターテインメント作品。それでいて、一方では、伝統文化に決闘を挑まれた男がひとり飄々と大仕事をやってのけ、また一方では、ドキュメンタリストの潮流を組む映画作家が「楽しい嘘」へと挑戦し、そこで語られるテーマを我々の同時代性へと流し込むことに成功した。

どちらも舞台は“戦のない平和な世の中”である。それが現代の“写し世”のような気がするのは、決して僕だけではないはずだ。舞台を全速力で駆け抜けるのは、まさに僕らなのかもしれないし、仇討ちの是非をめぐってつい悶々と思い悩んでしまうのも、他ならぬ僕らなのかもしれない。だからこそ、それぞれのラストシーンには熱く胸にこみ上げるものがあるのだろう。

この出発点の全く違うふたつの作品が元禄時代において華麗に交錯する様を、不思議な運命のめぐり合わせとして、手に汗握りながら瞠目していただきたい次第である。

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2006/03/21

ナイロビの蜂

今年のアカデミー賞でレイチェル・ワイズが助演女優賞を獲得した『ナイロビの蜂』。

この映画は『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』のクライマックスで悪の化身“ヴォルデモート卿”として遂に姿を現わしたものの、入念な特殊メイクのおかげでいったい誰が演じているんだかちっとも訳が分からなくなっていたレイフ・ファインズが、「実は僕、ちゃんとした俳優なんですよ」と言わんばかりにちゃんとした芝居を見せる作品でもある。

と同時に、実際自分のお腹に赤ちゃんを抱えたレイチェル・ワイズがその体型のままにほぼ全裸を露にする、役者根性丸出しの、いやそれだけでは到底達し得ない凄みの境地へ手を触れた作品でもある。

彼らふたりは夫婦役を演じている。夫は妻にキスしながら、大きくなったお腹を大事に愛でてこうおどけてみせる。

「君の子供だから、“チェ”っていう名前はどうだろう?」

冒頭、大勢の前で英国のイラク政策を敢然と否定してみせた彼女の姿が、目の奥に煌々と蘇ってくる。 それに比べて、外務省一等書記官の夫は、極めて事なかれ主義の男。唯一の趣味はガーデニング(ゆえに本作の原題は“The Constant Gardener”)。

「“チェ”ですって!?そんなの嫌よ(笑)!」

それはまだ事件が悲劇的な局面を迎える前の、束の間の幸せなひと時だった…

*************

映画に伏線はつきものだ。
ここからは僕の日常に関するつまらぬ記録だが、まさか上記の映画の伏線がまさか個人の日常生活にまで及んでくるとは想像もしてなかった。

母のお使いでスーパーに卵を買いに行った。

空気の抜けたタイヤをベコベコ言わせながら愛車(自転車)を走らせる。走行距離10分。駐輪場の警備員が「何の要件だ、このベコベコ野郎め」という意味不明なまでに辛らつな視線を投げかけてくる。だからこそ、あてつけのように彼の真横に駐輪する。神よ、これから彼が几帳面に整えた自転車の列をドミノのごとく故意になぎ倒すことを、なにとぞ許したもう。

そこに聞き覚えのあるフレーズがこだました。

「チェ!」

すぐ側で、若いお母さんがまるで知恵の輪を外すかのように荷台から子供を下ろそうと格闘中だった。

子供の意思がそれと逆ベクトルに作用しているのか、3歳児くらいかと思われるその子供はなかなか荷台から外れない。回り込んだ母親は捜査官のごとくその原因を探る。どうやら子供が荷台から手を離してくれないらしい。子供ながらの意思の固さに軌道修正を促すべく、眉間に皺を寄せた母親が、もう一度、咆哮を決める。

「チェ!!」

それが紛れもなく「手!」と発音されていることは、頭ではなんとなく分かっている。しかし僕の耳ではもはや「チェ」としか聞き届けられない。そのような状況を作り出したのも、やはり先の『ナイロビの蜂』が僕にそれだけ重く圧し掛かってきていたからなのだろう。

どうやら3歳児はまだ頑張っているらしい。その抵抗にはよほどの信念が貫かれているようだ。母親はこれから強行策も辞さないような姿勢で、今度は極めて冷静な口調で最後勧告を口にする。

「チェ…」

母親のモード・チェンジを切実に感じたのか、3度目の要請で遂に子供は折れた。何か偉大な巨星がひとつ堕ちたような落胆が僕の身を激しく包み込む。まだまだ“チェ”は“チェ”になりきれなかったようだ。あるいは彼が精神的“チェ”を獲得するには、一度モーターバイクでガッツリ旅するくらいの経験が必要不可欠となるのかもしれなかった。

「このベコベコ野郎め」

再び警備員の蔑んだ目線が頭をもたげてくる。いくつか買い物しながら、本当にドミノ計画を実施してやろうかと、想像の中で3回くらい「アホ」と叫びながらシミュレーションを繰り返す。

帰り際、再び駐輪場に向かう。交代時間が訪れたのか、あの警備員が解放感に満ち溢れた幸福そうな表情で、僕を僕だと気づかず通り過ぎていく。

もうここには、あの蔑んだ目も、そして3歳児の“チェ”さえもが、とうに存在しなくなった。幾ばくかの寂寥感に襲われながら、僕はそれまで気付きもしなかった重大な事実に直面し、涙を流さんばかりに愕然とする。

しまった、卵を買うのを忘れていた。

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2006/03/20

タイムマシンに乗って

サマータイムマシン・ブルース』を観た後で頭に浮かんだのは、「さて、自分ならどこに行こうか?」という素朴な疑問だった。

たとえばひょんなことから有名企業の新作発表会に招かれる。

そこでのハイライトとして披露されるのが、なんと「タイムマシン」。「それではいよいよ…」とアナウンサーの段取りに従って、怪しげなヒゲの社長は「では、あなた!」と最前列に座っていた僕を指差す。会場内に歓声が沸き起こる。遂に我々人間がタイムトラベルの歴史に一歩踏み出す瞬間がやってきたのだ。

ゴーグル、抗菌用の手袋、長靴、サスペンダー

用意されたアイテムはどれも独特だった。暑がりの僕が困惑して「どうしてもですか?」と尋ねると、博士っぽい白衣の男が「どうしてもです」と答えた。

いよいよショータイムが始まる。僕は先ほどのヒゲ面の社長から「どこでも、好きな時代にどうぞ!」と促され、うーん、どれにしようか、とまるでスイーツ・バイキングで10分間くらい悩み続けるオジサンのような表情になる。

緊張の瞬間。そこに立ち会った誰もが、その歴史的重要性を噛み締めていた。いまから人類の新しい1ページが切り開かれる。僕はその栄えある、史上初めてのタイムトラベラーというわけだ。

しかし、後から考えてみれば分かることだが、僕のような謙虚な人間がこういう場に立たされると、かえって最悪の選択肢を引き寄せてしまいかねない。それは大舞台には決してふさわしからぬ選択だった。僕は緊張で手が震え、思考回路が麻痺し、おびただしいほどある地球の歴史の中から、あろうことか「現代」のボタンをセレクトしてしまう。

一瞬、光が膨れ上がったように見え、マシンとゴーグル姿の僕がその中へボワンと姿を消す。会場中が割れんばかりの歓声に包まれる。そしてその直後、またボワンと音を立てて、そこにはまったく同じタイムマシンが現われる。あたりに蒸気が充満する。駆けつけた作業員が手際よくコックピットを外す。いっせいに多くのマイクとカメラが向けられ、僕は勢い余ってこう答える。

「現代のみなさん、はじめまして」

人類の第一歩とは、いつもこのように、どこかスケール感に欠ける。よって2回目以降が正史とされることが実に多く、この点の配慮に関しては、僕も全く同感なのだった。

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2006/03/17

ドラマ版「東京タワー」の行方

J-WAVEの深夜番組「リリー・フランキーのNIGHT STORIES」も今月いっぱいで終了することとなった。「大貫妙子のNIGHT STORIES」と共にずっと楽しみにして聞いていたものだから残念でならないのだが、それにしてはパーソナリティたちは至って平然としている。彼らに共通しているのは共にある程度年齢を重ねた大人であるということ。きっといろんな精神的な障壁もあったことだろうが、「決まったことはしょうがない」という具合にうまいこと気持ちを切り替えている。彼らのそういう一面を垣間見られるだけでも、これらの番組を聴き続けていて良かったなと思った(といってもまだ終了したわけではないのだが)。

多くの人に薦められているリリーさんの『東京タワー』、僕は相変わらずの活字嫌いなのでなかなか読み出せずにいるのだが、既に方々のメディアが報じているようにフジテレビでのドラマ化が決定している。本来ならば久世光彦氏がメガホンを取る予定だったが、「亡くなる一週間前に会ったばかりだった」とリリーさんも驚くほどの急去。一時プロジェクトは暗礁に乗り上げたかと思われていたが、『県庁の星』で劇場映画デビューを果たしたばかりの西谷弘が後を引き継ぐ形で久世さんの想いは継続されることとなった。

脚色を担当しているのは、京都の劇団MONOを主宰する土田英夫氏。関西系劇団といえば最近では『サマータイムマシン・ブルース』でフィーチャーされたヨーロッパ企画が一気に全国的知名度を高めたが、MONOの土田氏といえばその一足前に自身の戯曲『約三十の嘘』が映画化されて注目を集めた(映画の方は想ったよりも爆発はしなかったわけだが)。文化庁の研修制度で一年間渡英してからというもの、活動の幅が一気に拡がったような気がする。

もちろん「東京タワー」で綴られたエピソードがすべてそのまま脚色されているわけではなく、脚本に目を通したリリーさん曰く「へえ、こんな風になってるんだ~」。久世さんからは「直したい所があったらドンドン言ってください」と言われていたらしいのだが、「久世作品としてどのような仕上がるのか、口を出すなんて恐れ多いというか、昔からのファンとしてとにかく楽しみにしてます」と答えたそうだ。「原作者としてではなく、いち視聴者として楽しみに待っている、と言った感じですね」とも。

ちなみにオカン役を田中裕子が演じることについては、「全然あんなじゃないですからね。ババアも草葉の陰で喜んでいることでしょう」。

ドラマの放送は「夏ごろ」とのこと。連ドラではなく、2時間単発ドラマという形での放送のようだ。

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マンモス

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興奮すると日に何度も「マンモス!マンモス!」と叫んでしまう少年がいた。叫んでいる本人はまだいいが、家族としてはなんともいたたまれない話である。放っておくと症状はみるみる悪化し、一度につき「マンモス×3」になった。見かねた母親が「どうしても引かぬ」という態度で泣いて医者に行けと懇願するので、ようやく少年も折れて通院することにした。

これまで「風邪」くらいの症状でしか対峙したことのない筋肉質の町医者は、優しそうに微笑みながら「いまはどうですか?」と問診する。少年は自分のことを冷静に分析した結果、「いまはどうやら、そういう気分ではないらしい」という主旨のことを、たどたどしい日本語で答える。

「俺じゃ興奮しないってか?」

医者は外面的には微笑みを絶やさなかったものの、カルテに専門用語をスラスラ記入しながら、思わずドイツ語で「ちぇっ…」と付け加えてしまう。後でそれを目にした看護婦も、最近の先生、そういう走り書きが増えたなあ、くらいのボンヤリとした認識しか示すことはない。

「マンモス」は偉大である。とにかくその語感の醸し出す威力が凄い。トラクターを軽々と持ち上げる圧倒的なパワー。それに「古いぜ!400万年前の生き物だもの!」的な歴史ポイントさえも過剰に稼ぎ込むことができる。

「そういう病気です」

医者は相変わらず微笑んだままでそう答えた。そして、もちろん自分だって、興奮すれば「オー、イエー」や「ファック・ミー」などと口にすることはあるけれど、「マンモス」と言うのはありえない、異常です、と図解を用いて分かりやすく教えてくれたのだった。

少年は自分が異常であることを受け入れ、それから先、一切の興奮を拒絶するようになった。家族のためにも自分のためにも、その方法がいちばん良いように思われた。

そして数ヵ月後、親に連れられて初めて観に行った洋画の中で、外人が興奮しながら激しくこう叫ぶのを目の当たりにする。

「ゴッド!」

それはかつて自分が「マンモス」と叫んでいたのと極めてよく似た光景だった。

「自分の方は史実なのだから、まだちょっとだけ救い甲斐があるな」

そう考えると少年はちょっとだけ気分が高揚し、すぐ隣にいる親に気付かれぬくらいの小さな声で、こっそり「マンモス…」と呟いた。

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2006/03/15

SHORT MOVIE 最前線!

banner_goo その名も「短編.jp」という映像配信サイトがある。これまでのショートムービーに対する固定観念でこれらの作品に触れてみると、思いがけない手ごたえがあったので驚いた。もちろん初めは「視聴する」をクリックする作業さえ面倒くさく思えたのだが(最近では、その作業を排除して、アクセスすると同時に映像をスタートさせる某メーカーのやや強引な宣伝戦略にお目にかかる機会も多いが)、ひとつの手ごたえは、またもうひとつの手ごたえへの欲求や原動力となり、その継続化は軽い中毒性を醸成していくこともあるのだと、この新メディアに対して仄かな期待を抱いている。

日本で“ショートフィルム”と聞けば、数年前まで「世にも奇妙な物語」に代表される「そういうオチでしたか!」的な不思議ストーリーを想起することが多かった。頭の中にイメージされるのは、そのどこかテレビ的な画面作り。アップが多用され、分かりやすいセリフ、過剰なテンションの演技が隊列を組んで並んでいる。ある程度それらを見続けていれば、いつしか拒絶反応が芽生えてもしょうがない。日本ではその程度の文化だった。この国で“不思議ショート”の分野に永住権を主張できるのは、星新一くらいで充分だった。

それが海外から伝播してきた、一瞬目にしただけで重度のカルチャーショックを覚えるような秀作群との出会いにより、その概念を大きく覆されることとなる。それは技術力もさることながら、ビジョンの差異が圧倒的だった。世界で名だたるサッカー選手のほんの短いドリブル・プレイの中に目の覚めるような創造性が垣間見れるかのごとく、与えられた持ち時間の中でどれだけクリエイティビティの羽根を広げられるか。それは新人作家による「売り込み履歴書」的なシロモノから、CMや映画界の巨人による企業広報との実験的蜜月に至るまで、雑多なジャンルで彩られた言わばフリースタイル文化と呼ぶべきものだった。

そういう国とまともに闘っても勝てやしない。巨人に子供が挑んでいくようなものだ。恐らくこの時期あたりから多少のあきらめと共に、日本のショートフィルムにおける黎明期が始まっていったのだろう。もちろんそこにはブロードバンドの普及、そしてと日本における「デジタル放送」の開始が大きな役目を果たすことになる。それ以前にはショートフィルムもあらゆるメディアからコンテンツ対象外と目されていたものの、それ以降になると思いがけないコンテンツ不足の波が押し寄せてきた。

各メディアはこぞってショートフィルムの類を寄せ集める。もちろん、聞いたことがないような映画祭の受賞作と銘打たれた、その実、全く面白みの見出せない独りよがりな作品が「傑作選」と称して垂れ流されることもしばしばあった。もちろんそれぞれの作品にはそれぞれのバックグラウンドがあり、予算も人員も全く異なる。一概に粗製濫造的な見方をするのは携わったクリエイターにとって失礼な話だ。しかしながら、一般の視聴者にとってみればCMもテレビドラマもそれこそいっぱしの長編映画もショートフィルムと変わりはしない。同じメディアから流れるのであれば、それに対抗する確固たる意思が必要となる。いまから考えるとその潮流には「クリエイターの卵だからお手柔らかに」といった感覚が少なからず存在していたように思う。そうした姿勢ではマイナー文化が育たない。軟弱なマイナー文化は決してメジャーに足をかけることができない。

ではメジャーの観点でショートフィルムを作り出すことは可能なのか?CM一本で何千万の金額が動く有名な俳優を起用するならばその存在も一気にメジャー化しそうだが、初期段階においてそれは不可能な話だ。だからこそ、ここで“メジャー”と位置づけるのは、これまでプロフェッショナルとしてそのオリジナリティを勝負の舞台に預けてきたクリエイターたちだ。甘えは許されない。前述した「短編.jp」に参加表明しているのは、「ショートフィルムだから」という言い訳が通用しないことを知っている気鋭のクリエイターたちだ。

「撮影期間は24時間。本編時間は約10分。」

まさに真剣で斬り合うかのような壮絶な企画!!

・・・と思いきや、そこには冒頭で述べた、日本における旧石器時代のショートムービー概念から大きく羽ばたいた映像世界がのびのびと展開していることに驚いた、というか晴れ晴れとした気持ちになった。「金、金、金」だとかプロデューサーの指示だとかに翻弄されて「ああ、もう自分の作品だか、何なんだか・・・」という悲鳴も一切聞こえてこない(むしろ昨今の劇場映画で、まさにその悲鳴の聞こえそうな瞬間に何度立ち会ったことだろう)。

『モル』が「ぴあフィルムフェスティバル」のグランプリを受賞し、その後、奇しくも『タカダワタル的』で名シンガーの命の果てる直前の様子をフィルムという“永遠”に刻み込んだタナダユキ監督は、この「短編.jp」プロジェクトに携わるにあたり以下のように発言している。

「オチがあるような短篇じゃない方がいい気がする。きっとそんな作品が増えてくるから、私はゆる〜い10分間を」 (短編.jp内の製作日誌ブログより)

実際その作品を拝見したところ、宣言どおり、本当にゆる~い10分だった。正直に告白するならば、僕個人の満足度は低かった。しかしその後、同サイト内の他の作品、たとえば筧昌也監督の『35度の彼女』や矢崎仁司監督の『大安吉日』を拝見してかなりの手ごたえを感じた後にタナダ作品『世田谷リンダちゃん』を振り返るとき、その異色な存在感がとてもいとおしくなってしまう瞬間があった。

また、各作品の製作ノートと言うべきブログが充実している。ここで“充実”と言うのは、「言葉」の充実、そして「気持ち」の充実だ。クリエイターたちがこの厳しいプロジェクトでいかに悩み、それを飛び越えたところでいかにして自作を具現化する「喜び」を勝ち取っていくのかが詳細に綴られていて、とにかく読ませる。彼らの心理状態をこのような形でフォローアップする試みもこれまでにあまり目にしたことがなかっただけに心打たれるものがある。

まだまだ試行錯誤の多いプロジェクトではあると思うが、こういうショートムービーにまつわる動きが活発化していくことで、日本における独自のフリースタイル文化も成長して行くのではないかと期待せずにはいられない。

「日本人は1から10を作ることには長けている。しかし、0から1を作り出すことには慣れていない」

フリースタイルで手ごたえを獲得することとは、つまり、「0から1を作り出す」行為ということになるだろう。こんな乾いたネガティブ国際認識なんて木っ端微塵に粉砕してしまえばいい。これからのアートを支える多くの新進気鋭クリエイターたちがこの創造力の極限プロジェクトへ参戦してくれるのなら、その土壌が一気に拡がりを見せることは間違いない。

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短編.jp ・・・映画・テレビ・CM・PV・演劇・アニメーションなど各界クリエイターとの連携で製作したコンテンツを提供する映像配信サイト。プロデューサーから「監督、一日で映画を撮れませんか?」とのラブコールを受けて、既に各界で地位を確立している新鋭からベテランまでのクリエイターたちが、同じ条件下でこの無謀なるミッションに手を染める。テーマは“一日”、ルールは“24時間”。 

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2006/03/12

ブロークバック・マウンテン

たとえばアダムとイブがどちらも男だったなら、キリスト教徒の掲げる聖書もあんなに分厚くはならなかったのだろうか。

たとえば僕の乗っている船が突然難破して、僕と見ず知らずの男と、そのたったふたりだけが無人島に打ち上げられて助かったなら、しばらく生活を(あるいは生涯に渡って)続ける中でいつしか怪しいムードがふたりを包み込み、ついぞ何の保証もない愛に身を投じることだってありうるのだろうか

もちろん映画『ブロークバック・マウンテン』にはこのような断り書きなど出てきやしない。これはあくまで本作について語る僕のスタンスなのであって、しかしながらこれは僕に関する衝撃的カミングアウトとしての効力もなければ、ここであえて断り書きにコメントを付け加えることで同性愛について何かしらの異論を唱えたいというわけでもない。

夕食の席―。

「なんかね、男どうしが恋に落ちて、それが20年も続く映画なんだ」

僕がその日の試写作品についてこう簡単に説明すると、父がまず「うへえ」と驚き、母はそれを「ありゃあ」とフォローし、祖母はすごすごとコップを差し出し「わたしはお茶をもう一杯…」と口にした。

『ブロークバック・マウンテン』の魅力について語ることは、本当に難しい。

試写の席―。主人公となるふたりが初めて身体を重ねるとき、そこではやはり笑いが起こった(誤解を恐れずに言えば、僕も笑った)。でもきっと最初にこんな先入観があるからこそ、本作でゆったりと流れる時間は登場人物だけでなく観客の心さえも静かに溶かし去ってゆくのだろう。

あるいは2時間14分の上映時間が僕らに教えてくれるのは、この映画がとくに同性愛にのみスポットを当ててるわけでもないという事実だ。

映画の中には主に4人の男女(彼らはそれぞれに様々な映画レースの候補となっている)が登場するが、彼らはそれぞれに何らかの後悔や言葉にできない想いを胸に秘めながら生きている。それらは我々の日常と比べてそれほど突出したものでもない。

人はある程度せっぱ詰まると「たら」「れば」を使って精神的に苦悩しはじめる。「あのとき~だったら…」「~していれば…」。それらは常に何かしらの輝かしい理想と現実とが表裏となって提示された瞬間である。そう、我々にだってそれくらいのことは日常茶飯事。僕だっていつもブログの「作成ボタン」を押した後で、「こんなん書かなきゃよかった…」だなんて苦悩することばかりなのだ(まあ、そんな悩みは犬にでも食わせておけ、と言ったところで当の犬が食ってさえくれないのが関の山なのだが)。

先日のゴールデングローブ賞、本作で監督賞を獲得したアン・リーは受賞スピーチを次のように締めくくった。

「前にこのステージに立ったとき、私は多くの人に“ありがとう”の言葉を伝え忘れました。きっと今回も私は同じ過ちを繰り返し、後で激しく後悔するのでしょう。そして『ブロークバック・マウンテン』はまさにそんな映画です」

奇しくも“同性愛”の映画として浸透し、日記の冒頭に「たとえば船が難破して…」なんて断り書きをしてしまう自分が腹立たしく思われもするのだが、そんな小難しいシチュエーションを想像する以前に、僕らはすでに“伝え忘れた想い”を背一杯に抱えながら生きている。目の前ですごすごとコップを差し出し「お茶…」と呟く祖母は、2年前に先立った夫のことを毎日のように想い出しているのだと言うし、午前中に母と大ゲンカした妹に関しては、きっと性格上、一週間くらい「ごめんなさい」が言えずに悶々と過ごしてしまうのだろう。

『ブロークバック・マウンテン』はそんな思いに気付かせてくれるとても優しい映画だ。本作に触れた後だと、ずっと気になっていたあの言葉を、ほんのさりげなくあの人に伝えられるかもしれない。

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