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2006/03/21

ナイロビの蜂

今年のアカデミー賞でレイチェル・ワイズが助演女優賞を獲得した『ナイロビの蜂』。

この映画は『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』のクライマックスで悪の化身“ヴォルデモート卿”として遂に姿を現わしたものの、入念な特殊メイクのおかげでいったい誰が演じているんだかちっとも訳が分からなくなっていたレイフ・ファインズが、「実は僕、ちゃんとした俳優なんですよ」と言わんばかりにちゃんとした芝居を見せる作品でもある。

と同時に、実際自分のお腹に赤ちゃんを抱えたレイチェル・ワイズがその体型のままにほぼ全裸を露にする、役者根性丸出しの、いやそれだけでは到底達し得ない凄みの境地へ手を触れた作品でもある。

彼らふたりは夫婦役を演じている。夫は妻にキスしながら、大きくなったお腹を大事に愛でてこうおどけてみせる。

「君の子供だから、“チェ”っていう名前はどうだろう?」

冒頭、大勢の前で英国のイラク政策を敢然と否定してみせた彼女の姿が、目の奥に煌々と蘇ってくる。 それに比べて、外務省一等書記官の夫は、極めて事なかれ主義の男。唯一の趣味はガーデニング(ゆえに本作の原題は“The Constant Gardener”)。

「“チェ”ですって!?そんなの嫌よ(笑)!」

それはまだ事件が悲劇的な局面を迎える前の、束の間の幸せなひと時だった…

*************

映画に伏線はつきものだ。
ここからは僕の日常に関するつまらぬ記録だが、まさか上記の映画の伏線がまさか個人の日常生活にまで及んでくるとは想像もしてなかった。

母のお使いでスーパーに卵を買いに行った。

空気の抜けたタイヤをベコベコ言わせながら愛車(自転車)を走らせる。走行距離10分。駐輪場の警備員が「何の要件だ、このベコベコ野郎め」という意味不明なまでに辛らつな視線を投げかけてくる。だからこそ、あてつけのように彼の真横に駐輪する。神よ、これから彼が几帳面に整えた自転車の列をドミノのごとく故意になぎ倒すことを、なにとぞ許したもう。

そこに聞き覚えのあるフレーズがこだました。

「チェ!」

すぐ側で、若いお母さんがまるで知恵の輪を外すかのように荷台から子供を下ろそうと格闘中だった。

子供の意思がそれと逆ベクトルに作用しているのか、3歳児くらいかと思われるその子供はなかなか荷台から外れない。回り込んだ母親は捜査官のごとくその原因を探る。どうやら子供が荷台から手を離してくれないらしい。子供ながらの意思の固さに軌道修正を促すべく、眉間に皺を寄せた母親が、もう一度、咆哮を決める。

「チェ!!」

それが紛れもなく「手!」と発音されていることは、頭ではなんとなく分かっている。しかし僕の耳ではもはや「チェ」としか聞き届けられない。そのような状況を作り出したのも、やはり先の『ナイロビの蜂』が僕にそれだけ重く圧し掛かってきていたからなのだろう。

どうやら3歳児はまだ頑張っているらしい。その抵抗にはよほどの信念が貫かれているようだ。母親はこれから強行策も辞さないような姿勢で、今度は極めて冷静な口調で最後勧告を口にする。

「チェ…」

母親のモード・チェンジを切実に感じたのか、3度目の要請で遂に子供は折れた。何か偉大な巨星がひとつ堕ちたような落胆が僕の身を激しく包み込む。まだまだ“チェ”は“チェ”になりきれなかったようだ。あるいは彼が精神的“チェ”を獲得するには、一度モーターバイクでガッツリ旅するくらいの経験が必要不可欠となるのかもしれなかった。

「このベコベコ野郎め」

再び警備員の蔑んだ目線が頭をもたげてくる。いくつか買い物しながら、本当にドミノ計画を実施してやろうかと、想像の中で3回くらい「アホ」と叫びながらシミュレーションを繰り返す。

帰り際、再び駐輪場に向かう。交代時間が訪れたのか、あの警備員が解放感に満ち溢れた幸福そうな表情で、僕を僕だと気づかず通り過ぎていく。

もうここには、あの蔑んだ目も、そして3歳児の“チェ”さえもが、とうに存在しなくなった。幾ばくかの寂寥感に襲われながら、僕はそれまで気付きもしなかった重大な事実に直面し、涙を流さんばかりに愕然とする。

しまった、卵を買うのを忘れていた。

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