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2006/04/30

二周目からの風景

果たして二周目の世界は、一周目とどのように違っているか?パクリだとかなんだとかそういう次元の低い話題は横に置いておいて(さらにはこの「YouTube」というサイトの合法性についても、この際、目をつむってしまうとして)、表現上の「反復」と「ズレ」は、あの小津安二郎でさえ好んでよく取り入れた手法である。それぞれの映像作家によって語られるその深遠な世界観は、同じ「反復」と「ズレ」でも大きく異なりを見せるのだから面白い。

と、そんな感じでイマサラ感も強いものの、以下のPVを比較してみよう。「Circle」が無機質で透明感あふれる世界観で展開していくのに対し、「Come into my World」は現象的にはカオス、しかし表現上はミシェル・ゴンドリー特有の温かみのある眼差しが更に上の次元から静かに見つめているような安心感が漂っている。

木村カエラ/Circle


カイリー・ミノーグ/Come into my World


あなたの二周目は、いったいどんな深遠な輪を描く?

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2006/04/20

『Vフォー・ヴェンデッタ』は土曜日から公開

V01

今週末から全国の映画館で封切される『Vフォー・ヴェンデッタ』のプロモーションのため、製作のジョエル・シルバー、監督のジェイムズ・マクティーグ、そして『プリシラ』のドラッグクィーン、それに『マトリックス』シリーズの“エージェント・スミス”で一気に有名になったヒューゴ・ウィービングが3者揃って来日した。普段はそういうお知らせが届いてもあんまり反応しない僕なのだが(人込みが苦手なこともあって)、やはり実物のヒューゴをこの目でしかと確認しなければならん、と妙な気合が入り、会場のパークハイアット東京へ。

本作は、ただのテロリストかヒーローか判別の付かない仮面の男“V”と、彼に導かれる女性が、全体主義に陥った架空の英国政府に対してレジスタンスを起こす物語。「なぜ気づかない?」的なテーマは、ジョエル・シルバーが製作した『マトリックス』そのものだし、何しろ本作の脚本を担当したのはウォシャウスキー兄弟。80年代にリリースされ、カルト的な人気を誇ったアラン・ムーア&デイビッド・ロイドによる同名コミックが原作となっている。

ジョエル・シルバーの腹のでかさにも驚いたが(しかもシューズはBathing Apesだって!)、もっと驚いたのはヒューゴの胸板の厚さだった。その狭間に立っているジェイムズは今回が初監督作という立場上の問題も相俟って、まるで「恐縮」を絵に描いたように見劣りする存在だったわけだが・・・。

あ、ちなみに断っておくが、ヒューゴの顔を指差して「おい、こんな役者、映画で見かけなかったぜ!」などと批難しないでいただきたい。今回彼は、“エージェント・スミス”としてあまりに知られたその顔面を全編に渡って完全封印し、とどのつまり、全シーンを仮面付きで演じている。これが俳優にとって旨味なのか苦味なのか。そこんところはまあ、彼の心の中にしか答えは存在しないのだろうが、間違いなくヒューゴのキャリアの中ではかなり特殊な色を帯びたものとなった。

会見終盤には花束贈呈役として“エロ・テロリスト”インリン・オブ・ジョイトイが登場。3人のメインゲストの地味さを吹き飛ばすような鮮烈な赤ドレスでやってきたインリン様は、「今日の私は背中が“V”なんですよ」なんつって茶を濁していた。

9.11以降、たとえば『ゴジラ』シリーズのように「馴染みのランドマークをぶっ壊すという愛情表現」が無期限停止のようになっていたエンターテインメント界だが、本作では舞台が舞台だけに、ロンドン好きにはたまらない名所が破壊される。これで「うぉーっ!」って盛り上がることには未だに抵抗感があることは否めないが、だからと言ってその感情が異常というわけではない。さしあたって劇場では、決して声をあげたりせずに、静かにコブシを握り締め、小声で「よし…」などと呟いてみてはいかがだろうか。

というわけで、『Vフォー・ヴェンデッタ』は4月22日より全国ロードショー

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2006/04/19

おお、METALの使者よ!

Metal02

その昔、英会話学校に通っていた僕の隣に巨漢の大学生が腰を下ろした。彼はぎこちない笑顔で「nice to meet you」と言い、聴かれてもいないのに「I like Death Metal」と答えた。

初対面の相手に「Death」だなんて…

「何しろメタルは北欧で栄えているんすよ。ほら、あそこ寒いじゃないすか。外でフラストレーション発散できない分だけ、こう、体内で蓄積されたものが、ああいう音楽になるんじゃないんすかね」 (テキトー和訳)

なるほど。文化的にも奥深いんだね。でも、君、さっきからぜんぜん僕の目を見て喋ってないよ…

音楽ドキュメンタリー『METAL ヘッドバンガーズ・ジャーニー』(6月公開)を試写しながら、ふと彼のことを思い出した。というのも、インタビューされる若者の中に彼とソックリの巨漢がいたのだ。彼もまたカメラ目線で喋ることはなく、言葉に行き詰まるとただ無言でギター・リフを披露するのだった。

そんなわけで、僕はこの映画を「かつての大学生からの手紙」として受け取ることにした。奇しくも作品のテーマは「誤解されがちなメタルのルーツを検証する」というもの。これはきっと、僕と彼とが心の中できちんと目線をあわせ語り合うための映画なのかもしれない。

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2006/04/13

『インサイド・マン』の低温ヤケドに注意!

スパイク・リー監督作『インサイドマン』を試写。

Inside_2 オープニングのクレジットでは、まず「SPIKE LEE joint」と映し出され、次に「DENZEL WASHINGTON」「CLIVE OWEN」、そして最後に「and JODIE FOSTER」と締めくくられる。あたかも“4人が企てた大コラボレーション!”って感じ。この高揚感、そしてヒヤッとするほどに透明色に統一された映像に、本筋が始まる前からドキドキしてしまう。

「アフリカン・アメリカンの立場から撮られたアメリカ」などと言うビジョンは、もうスパイク・リーの映画の作風にはあてはまらないのかもしれない。だが、それは平均的なアメリカ人監督(あるいは平均的ハリウッド映画)と同質化してしまったというわけではなく、その遥か頭上を跳び行く感覚。

たとえば『25時』は、9.11テロを彷彿とさせる未だ生々しいニューヨークの爪あとを描写しながらも、そこからイマジネーションを爆発させながら再起動しようとする人間の生理的な再生願望のようなものを活写していて、落ち着いた佇まいながらも胸にズシンと迫り来る裏テーマに押し潰されそうにもなった。

それに比べ『インサイドマン』は実にエンターテインメントな作品だ。マンハッタンにある銀行が強盗団に襲われ、多くの人質が取られる。すぐに捜査官が急行し犯人との接触を試みるが、事態は膠着するどころか、相手側が一枚上手なこともありまったく進展を見せない。それと同時刻、ターゲットとなった銀行の会長は敏腕の女性弁護士を呼び出し、彼女にひとつの使命を託して現場に送り込む。果たして犯人側の狙いは何なのか。そしてこの銀行には、いったい何が隠されているのか。

『25時』と同じニューヨークを舞台にはしているが、そこはもはや9.11の爪あとなどもはや覗かせない。しかしながら、豪華キャスト3者が揃い踏みしているせいか、あるいは「極太」と「超軽」のテイストを器用に往復してみせる神業的な演出設計のせいか、それが単なるエンタテインメントに留まらないような、やはりどこか胸にズシンと来るような重みが立ち上がっている。

たとえばここ。強盗団は人質に彼らとまったく同じジャンプスーツを着せて、もはや誰にとっても誰が人質で誰が強盗なのか判別が付かない状態を作り出す。もちろんそこには肌の色、職業、年代がまったく違う人ばかりが大勢いるわけだが、そんな彼らが同じ衣装を身にまとうことによって、そこには何の差異も存在しない、不思議な世界が生れてくる。この緊張状態を逆手に取った地点で起きる“妙な手ごたえ”は何なのだろう。

冒頭、クライブ・オーウェンが観客に語りかける。

「私の名前はダルトン・ラッセル。一度しか言わないからようく覚えておけ。」

そう語られたとき、我々はここから彼の仕掛けたゲームが始まっていたのだと知らされる以上に、彼の言葉が何か根源的な真意を含ませながら我々の魂に向けて発せられたものであるかのように響いてくる(そう思わせるのが、オーウェンの巧さなのだろう)。

謎の銀行強盗団、事件を担当する敏腕捜査官、それに途中介入して取引を持ちかける女性弁護士。

まったく別の現場で自分の役目を淡々とこなす3人。それぞれにとても頭が切れ、しかしながら彼らの行動は「完璧」として描かれるというよりは、そこかクスクスと「ファニー」な挙動なども随所に差込みながら、そこに3人への愛着と人間性を沸き立たせる仕組みがとられている。観客は次第にニヤニヤが止まらなくなり、そして映画が終わってからは逆に何か熱いものがこみ上げてくる。それはシーン的にはあまり絡むことのない主演3人のキャラクターが、後に観客の脳内でガッチリと手を組んで見せているイメージが浮かんでくるからなのかもしれない。彼らはそれほど、状況や役柄を越えて、作品にとっての『インサイド・マン』、つまり映画の中の純然たる機能と化していたことに気が付くのだ。

クライブ・オーウェンに敬意を表して、僕も“もうあと一度しか言わない”。これはまったくのエンターテインメント作品である。にもかかわらず、見終わった後にはそれを裏返して、実は深いテーマが隠されていたかのような“有り余る手ごたえ”を感じる。ピッチャーの剛速球を受けて、気が付くとキャッチャーの手が赤く腫れ上がっている感覚とちょうど似ているかもしれない。

まったく、舐めてかかるととんでもない返り討ちを食らいかねない。

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2006/04/12

あれ、知らなかったの、俺だけ?

ハリウッド・ゴシップの類はまったく興味がないのだけれど(アンジェリーナ・ジョリー&ブラッド・ピットの属性が現在までにどのようになっているかすら知らない)、ピーター・サースガードとマギー・ギレンホール、このふたりにだけはいつもスクリーン上で惹き付けられてきただけに気になっていた。といっても、ふたり一緒に、ではなくて、それぞれについて“気になっていた”わけで、まさか今日になってこんなニュースが飛び込んでくるとは思いも寄らなかった。

Magie_1 ピーター・サースガード(『ジャーヘッド』『フライトプラン』)とマギー・ギレンホール(『セクレタリー』『ドニー・ダーコ』)は11日、ふたりが婚約し、さらにはマギーのお腹にはふたりの赤ちゃんが宿っていることを公表した。

ふたりは4年前から交際していたらしいのだが、僕は何も知らなかった。マギーの弟のジェイクが『ジャーヘッド』でサースガードと共演していたときも、何一つピンと来ないままにスクリーンをボーっと眺めていただけだ。そこから数年さかのぼると、マギーとジェイクが『ドニー・ダーコ』で姉弟共演を果たしていた記憶にも行き着き、何やら今回のふたりの婚約には、ジェイク・ギレンホールが天使のような扮装をして辺りをキラキラ徘徊している様子が目に浮かんでくるかのようだ(彼にピッタリのキャスティングだとは思うのだが)。

ついでに言うと、海外のニュースで“Gyllenhaal, Sarsgaard Engaged”という見出しを目の当たりにしたとき、『ブロークバック・マウンテン』の件もあってか、僕は「なるほど、ジェイク・ギレンホールとサースガードが・・・かぁ・・・」と変に納得すらしてしまった。

ともあれ、ふたりの門出を祝福しているのは事実だ。

********

ちなみに、リベラリストとしても有名なマギーは、以前、「9.11テロを招いたのはアメリカ政府の責任だ」と発言して国民の反感を買ったことがある。その後、パブリシストを通じて「真意とは違う」と訂正を求めたが、一連の出来事は彼女がオリバー・ストーンの最新作『World Trade Center』に出演したことに端を発するもので、ニコラス・ケイジ主演の本作は全米で8月11日に公開となる。個人的には最も頭の切れ、才能ある若手女優のひとりだと確信しているので、母になってからも、なおいっそう女優業に精を出してがんばってほしい。

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2006/04/10

『アンジェラ』を批判してはいけない

映画ファンにとって、「リュック・ベッソン」という名前はいまだどれほどの効力を持ちうるだろう?はっきり言って世間の風当たりは厳しい。監督作の不敗神話が語り継がれる一方で、仏映画界のハリウッド化を推し進めた立役者として批難もされ、歓迎もされる。彼の新作だからといってもいまさら期待度はイマイチ、といった現状が正直なところだろう。そんな彼が『ジャンヌ・ダルク』('99)以来となる監督作を発表した。

Angela 昨年暮れの12月21日、この封切日まで一切の内容が謎とされてきた極秘プロジェクト『アンジェラ』。これまでの9本の監督作がどんどん大作化していき、ベッソン自身も観客の期待に応えるべくプレッシャーが増大していたであろうことは容易に想像はつくが(ミラ・ジョヴォヴィッチとの離婚など プライベートの混乱もいまだ記憶に新しいが)、そんな彼がこの日にベールを剥ぎ取った最新作は、大作主義から自由に解き放たれたかのようなチカラの抜け具合が嬉しい、極めてアーティスティックなものだった。その特徴として最も顕著なのは、デビュー作『最後の戦い』('83)を思わせるようなモノクロームで描かれているところだろう。

借金まみれでもう後がなくない主人公アンドレ。いっそのことアレクサンドル3世橋からセーヌ河に飛び込んでこの世にウェアウェル!とばかりに身を乗り出したとき、一瞬はやく先客の女性が河へダイブ。驚きのあまり、アンドレは自分の境遇も忘れて救助に飛び込む。一命を取り留めた彼女の名前はアンジェラ。長身で美形のその魅力に惹かれながら、アンドレはもう一度だけ自分の人生をもがいてみたいと奔走しはじめる…。

アンドレを演じるのは『アメリ』で野菜売りを演じ、本国でコメディアンとしても人気の高いジャメル・ドゥブーズ。そしてアンジェラ役には、グッチの専属モデルであり、身長180センチのスーパーボディを誇るリー・ラスムッセン。この凸凹コンビは、どちらもそれが本作の原動力を担うようなカリスマ性はないように思える。むしろここで“主人公”として挙げるべきなのは「パリの街」ということになるのだろう。

モノクロームで切り取られたこの街の景色は、どれもが息を呑むほどに美しく、早朝と夕方にほんの少数で移動しながら撮られたという各シーンは、エッフェル塔、ノートルダム大聖堂、コンコルド広場といった誰にでもお馴染みの観光名所を随所に配しながらも、しかしそれがガイドブックにも写真集にも載っていない、『ベルリン 天使の詩』や『ラ・ジュテ』をも思わせる極めて幻想的な世界観を立ち上がらせている。

そして、90分という上映時間に必要なのは、ほんのシンプルなストーリーラインだった。贅肉が削ぎ落とされていればいるほど、バックの街並みが際立ってくる。その点では大きく成功していると言っていい。

ただ、シンプルさは時として予定調和にも転じうる。ドゥブーズの情けないキャラクターは、それを越える魅力を生み出すにはもう一枚何かが足りない。それはどこか冷たい感じを醸し出すラスムッセンにしても同じだ。彼女の外見が完璧なのは理解できるが、演出上それを乗り越えて、観客を彼女の内面へと導かなければ意味はない。ストーリー上、アンドレはどんどんアンジェラに惹かれていくが、観客には彼女の魅力がいまいちピンとこないという乖離感が仄かに漂い続ける。

そうしているうちに物語はあっさりと幕を下ろす。ベッソン6年ぶりの新作の上映時間はたったの90分。本作のシンプルさは、観客の意見になど微塵も耳を傾けていない風にも見えるほどだ。

実はリュック・ベッソン、2006年には自身のファンタジー小説『Arthur and Minimoys』(既に刊行されている原作本の邦題は『アーサーとミニモイたち』)の映画化を予定している。昨今のファンタジー・ブームに真っ向から殴りこみをかける前に、ベッソンはこの『アンジェラ』を撮った。それはまるで“閑話休題”的な取り組みでもあり、さらには久々の監督作に向けて、アーティストとしての触れ幅をいったんリセットする行為ですらあったのではないかと思われる。そこにはいつものエリック・セラの音楽すら存在しないのだから。(今回の音楽はノルウェーのアーティスト、アンニャ・ガバルレクが担当)

結局、これは観客にための、というよりもむしろ、ベッソンにための作品だったのだ。たとえ本作がヒットしなかったとしてもそれほど莫大な製作費が組まれているわけではないのだし、ベッソンが「私には必要だったのだ」とコメントを残せば事足りることだ。まさに最初から逃げ場の用意された作品。アーティストは時としてこの類の作品を欲することがある。

だからこそ、我々は『アンジェラ』の出来をああだこうだと批判すべきではない。 それはベッソンの一部ではあるが、決してすべてではないのだ。

それはいくつものヒットソングを収録したアルバムの2曲目(それほど注目されてはいないが、アクセントとして設けられた曲)の存在とも似ている。ささやかではあるが、アーティストにとっては非常に大切な存在。もしくはある観客にとっては、「そのチカラの抜け具合がむしろ好きだ」と共感をもたらすものかもしれない。

ちなみに先述したベッソン最新作“Arthur and Minimoys”は、主人公アーサーをフレディ・ハイモア(『チャーリーとチョコレート工場』『ネバーランド』)が演じることが決定しているほか、デヴィッド・ボウイ、マドンナ、スヌープ・ドッグらが声の出演を果たす。音楽はもちろんエリック・セラが担当する。ベッソンはこの次回作で映画監督を引退すると表明しているが・・・果たしてどうなるものか。

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2006/04/08

『ジャケット』における斬新タイムトラベル

一口に「タイムスリップ」といってもいろいろある。

H.G.ウェルズの原作を曾孫サイモン・ウェルズが映画化した『タイムマシン』(2002)のように大掛かりなメカを用いて過去・未来を往復するものもあれば(この映画はメカニックよりも特殊メイクに力を入れすぎた面においてバランス感覚がよくわからないことになっていたが)、クリストファー・リーヴ主演の『ある日どこかで』(1980)では主人公が古硬貨を見つめてその時代に想いを馳せることでいつの間にかタイムスリップが完了しているという驚きの理論を構築していた。

Thejacket 一方、『ジャケット』の主人公のテリトリーは、なんと精神病院オンリー。湾岸戦争で頭に銃弾を受け、一度は死んだはずだった兵士(エイドリアン・ブロディ)は、よく分からぬうちに蘇生し、そしてよく分からぬうちに殺人犯として投獄、精神判定により病院送りの措置が取られる。

そして肝心のタイムスリップだ。でも、どうやって?

実はこの病院では深夜になると新薬の投与試験が行われていた。主人公もまたその対象となり、拘束具(ジャケット)を着せられ、腕に注射され、死体安置用のロッカーに放り込まれる。混濁していく意識。これまで体験したあらゆる恐怖の思い出が蘇ってくる。思わず叫び声があがる。「はやくここから出してくれ!」

と、そこはもう未来だった。

彼はこの未来(2007年)で、精神病院送りになる前(1992年)に出逢った幼い少女と再会を果たす。そして彼は、その未来世界において自分が既に故人となっている事実を知る。

これはなんと言うか…タイムスリップと呼べるのだろうか…?けれど主演のエイドリアン・ブロディはインタビューでこう答えている。

僕はすべて実際に彼の身に起きたことだと信じている

そりゃ、信じるのは勝手なんだがよ…。

ここではっきりさせておきたいのは、“タイムスリップ”という概念がいまだフィクションの産物でしか機能しないという事実だ。

そして我々“現代に生きる者たち”にとって、「未来」という感覚も便宜上の産物に過ぎない。「過去」には自らがその足で通ってきた確かな手ごたえがあるが、「未来」はいつまで経っても到達することがない。それは掴み取った瞬間にすぐに過去となってしまう。我々にとっての「未来」とは、ひとつの過程を通したひとつの可能性にしか過ぎないのである。

つまりアインシュタインが相対性理論の中で証明しているとはいえ、いまだリアル社会では“タイムスリップ”はフィクションの中の絵空事。とすると、同じフィクションの中においてそれがどのように設定されようと、そのスタイルは作り手の自由ということになる。絵空事について観客が「つじつまが合わない!」と騒ぎ立てたところで、その騒ぎ立てる“つじつま”自体の根拠こそ、どこにも存在しない。

作り手が「これはタイムスリップなんです!」と主張すれば、それはその通りに受け止められるのだし、もしそうでないとするなら、そこには観客にある種の“解釈の自由”が委ねられたということになるのだろう。

その決断をくだす要素として忘れてはいけないのは、本作がスティーブン・ソダーバーグ&ジョージ・クルーニーが共同設立したプロダクション「セクション・エイト(この言葉には”兵役不適格者”という意味がある)」によるものだということだ。

この、“何が現実で何が幻想なのかまどろんでしまう感覚”は、セクションエイトが過去に送り出した『インソムニア』(2002)とも共通するものがある。あるいは依頼されるがままに暗殺を実行する内に、誰が味方か敵か判別がつかなくなっていく『コンフェッション』(2002)の存在も気になるところだし、『エデンより彼方に』(2002)は、50年代のアメリカにおいてすべて現実が“偽り”のように感じ、ひとり信念を貫こうとする女性の物語だ。

言うまでもないが、この「2002年」という年は、2001年の同時多発テロ、それに2003年3月のイラクとの開戦のちょうど狭間にあたる年だった。すべての創作物は何らかの時代の影響を受ける。現に米テロ以降、過激なアクション映画は激減し、その代わりに「メタ・フィクション」「精神世界」に関する映画が増えた。

そして2005年。セクション・エイトはこの『ジャケット』と、他にも『シリアナ』そして『グッドナイト&グッドラック』を世に贈り出した。もっとも『ジャケット』以外は、その描き方がかなり直接的なものとなっているが(その意味で『シリアナ』はどちらかというと“2002年チーム”に含まれるのかもしれない)。

斬新なタイムトラベル原理に軽く驚かされるこの『ジャケット』。それを変則的なSFとだけ捉えるのはあまりに浅すぎる。僕にはこの映画が提示した“夢か幻か判別がつきにくい現実、そして未来”もまた、時代の影響を大いに受けているような気がしてならない。

果たして光の向こうに待つものは何なのか。ブライアン・イーノの奏でる音楽に彩られながら、幾方向にも延びゆく真実の可能性について想いを馳せながらご覧いただきたい。

ちなみに『007 カジノ・ロワイヤル』で新ボンドとして登板を果たしたダニエル・クレイグも、そのボンド像からは予想もできない奇妙な役で登場している。さらにクレイグは、『ジャケット』の監督、ジョン・メイブリーの前作『愛の悪魔』にも出演しており、その中ではもっとボンドからはかけ離れた姿をさらしている。

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2006/04/02

『愛より強く』

言っておくが、不細工な映画である。映像スタイル、演技、構成、どれをとっても目を見張るようなスマートさがない。だけど人間はおかしなものだ。人生の一度や二度、誰もが不細工な異性を愛してしまうことがあるように、不細工な映画をたまらなく愛してしまうことだってある。

Head_on
このトルコ系ドイツ人たちが繰り広げる激しすぎるラブストーリー『愛より強く』を、僕はイギリスの小さな映画館で観た。周りは様々な人種で溢れていた。

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2006/04/01

4月1日は、マーヴィン・ゲイの命日。

マーヴィン・ゲイがこの世を去って22年が経過しようとしている。自分の父親に射殺されるという、あまりに衝撃的な最期を迎えた彼。その翌日は自身の45回目のバースデーだった。

そもそも僕がマーヴィン・ゲイを初めて知ったとき、既に彼はこの世の人ではなかった。僕はSPEECHの「Like Marvin Gaye said(What's going on?)」という曲のサビ部分でサンプリングされたマーヴィンのシャウトを何度も聴いた。「What's going on!?」と問いかける彼の歌声が、圧倒的なパワーと慈愛を帯びて腹にズシンと沁み渡ってきた。

その後、吉祥寺のCDショップでオリジナルの楽曲を買い求め、それを何度となく耳にした。もちろん、田舎から上京したばかりのバカ大学生にその歌詞の意味なんて分かるはずもなく、優しいメロディに乗せ「What's going on!?」と問いかけるマーヴィンの歌声に、僕は「そうだよな~、バイトも勉強もしないで、ほんと俺、何やってんだろう~」と勝手に反省を決め込んでいた。それがベトナム戦争や環境のことやら全部をひっくるめたこの世界の先行きを案じた歌だって知ったのは、それから随分経ってのことだった。

エイプリル・フールの軽いジョークが飛び交う中、今年もマーヴィン・ゲイの命日が巡ってくる。さすがに22年も経てばそのニュースもかなり色褪せてきた。しかし今年は少しだけ違った面持ちで、彼に想いを馳せられそうな気がする。というのも昨年末、彼の伝記映画の製作が発表されたからだ。本格的な製作は今年5月に始まり、順調に行けば2007年に劇場公開される見通しだ。タイトルは83年に発表されたグラミー賞受賞ナンバーにちなんで、『Sexual Healing』。

Midnight_love_1 現時点で発表されているストーリーラインによると、本作はマーヴィンがモータウンと決別しベルギーへ移り住むあたりからスタート。その後の経済的破綻やドラッグ中毒といった私生活での苦悩を乗り越え、コロンビア移籍後の82年に発表した大ヒットアルバム「Midnight Love」(収録曲の“Sexual Healing”は83年にシングルカットされる)で奇跡的カムバックを果たすまでを、プロモーターのフレディ・クルサートとの友情を織り交ぜながら描くことになるらしい。

こうして文字で紹介すると、それは『Ray』や『ウォーク・ザ・ライン』と同系列の音楽伝記モノ、あるいは「伝説的ミュージシャンが幼少期の精神的トラウマを中年期になってようやく乗り越えるまでを描いた感動ストーリー」といった構成となることが推測され、それは一抹の不安(3匹目のドジョウを狙っているような商売的な危なっかしさ)を感じさせもするが、いまはただ、これにマーヴィン・ゲイのパワフルで慈愛に満ちた歌声が加味されることで珠玉の名作が誕生することを心から祈りたい(しかしながら、製作に関しては随分と遅れが生じているようです。このまま立ち消え、なんてこともあるかもしれませんので、まあ、気長に待ちましょう)。

本作の監督と脚本を担当するのはローレン・グッドマン。これまでの実績がほとんどないだけに、彼の実力のほどは未知数に近い。一方、主演に加えて製作者の一人としても名を連ねるのが、ジェシー・L・マーティン。「…誰?」という声も聞こえてきそうだが、「ロー&オーダー」や「アリーmyラブ」といったTVドラマで名を広める一方、96年にオフ・ブロードウェイで生まれた傑作ミュージカル「RENT」で主演のひとり“コリンズ”を演じてその人気を確固たるものとした。

Jesse_l_martin_2 …とここまで説明しても「…誰?」と呟く人(ひと月ほど前までは僕もそうでした)に朗報。実はこのミュージカルが、このたびクリス・コロンバス監督(「ハリー・ポッター」シリーズ)によって映画化され、4月29日より全国ロードショーとなる。主演のほとんどがブロードウェイのオリジナルキャストで占められたこの映画版では、もちろんジェシーも“コリンズ”として登板。そのパワフルさと繊細さを兼ね備えた名演&歌声の魅力を余すところなく披露している。劇場に足を運ばれる方は、この映画に魅了されると共に、時々ふと我に返って「こいつがマーヴィン・ゲイかあ…」と品定めしていただきたい。

何はともあれ、今日はマーヴィン・ゲイの命日である。

ご自宅に彼の音源をお持ちの方は、早起きがてら彼の歌声にちょっと耳を傾けてみてはいかがだろうか。そういう僕も先ほどからオリジナルの「What's going on?」を10回くらいリピートさせている有様だ。何度聴いても腹にズシンと来る感覚は変わらない。肉体が死んでも魂(ソウル)が残るとは、きっとこういうことを言うのだろう。

*J-WAVEで2006年11月15日にオンエアされた小林克也さんの番組で、マーヴィン・ゲイが特集されてました(リンク先のバックナンバーをチェックしてみてください)。

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