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2006/05/19

『ダ・ヴィンチ コード』に潜む、魅力と罠

誰がそう決めたのか、映画の上映時間は「2時間」がひとつの基準である。それを越えると子供はグズり出すし、大人だってトイレが近くなりもする。それに劇場側の回転数の問題にも関わってくる。『ロード・オブ・ザ・リング』のように3時間もある映画だと、よっぽどの人気作とならない限りは歓迎されないのだ(ちなみに記憶に新しい3時間モノ、『キング・コング』はたいしたクオリティだったと思うが、それでも上映時間がネックとなり、予想したよりもはやく上映期間が狭められる結果となった)。

このたび『ダ・ヴィンチ コード』のように世界中で5000万部が売れるほどの大ベストセラー作品が映画化されるということは、つまりハードカバーだと上・下巻のスケールを「2時間(実際の上映時間は2時間30分)」へと記号化する行為に他ならない。

だからこそ、映画を見る者としてはそれに多少の“諦め”と“期待”とを共存させて臨むのがちょうどよい。カンヌで冷笑されたとか、そんなウワサに振り回されるようじゃダメだ。マスコミは物事を面白おかしく書き記すものと相場が決まっている。情報に振り回される前に、自分の足で情報を掴み取りに行くくらいの覚悟がなければ、このメディア過多の時代は到底乗り越えられない。

さて、既に原作本を読み終えている筆者による、映画版『ダ・ヴィンチ コード』の雑感をここに書き記して置くことにしよう。上に“諦め”と“期待”と書いたが、ここで中心となる話題は「この映画をどのように楽しむか」である。その観点において“諦め”も楽しみのひとつ、と捉えることが出来れば、なお素晴らしいと思う。

まず、原作をご覧になっていない方が抱いているであろうひとつの誤解から指摘しなければならない。

STEP1「映画のポスターに騙されてはいけない」

Thedavincicode 原作本、映画版ともにメイン・ビジュアルは「モナ・リザ」。彼女の顔面が剥がれ、それが記号として零れ落ちているなんともミステリアスな内容である。しかし、だからと言って、「モナ・リザに描かれているのはいったい誰だったか?」という言及は一切行われないし、「左右の風景がズレている」という指摘についても、一行程度のセリフで語られるのみだ。つまり、メイン・ビジュアルは「ダ・ヴィンチはモナリザみたいに微笑んでいたのかもしれませんね(微笑)」というひとつの象徴物として提示されているだけであって、そこには何ら具体性は含まれていない。

STEP2「映画と文学は、そもそも語り口が違う」

映画はセリフ中心。文学は状況描写が中心。ただし映画には観客がちゃんとついてこようが遅れようが厳格なる制限時間が設けてある。一方、原作ではラングトン教授の内面描写も盛りだくさん。読者は時間を気にすることなく、細かなトリビアを散りばめたひとつひとつの描写を楽しむことが可能だ。むしろその湯水のごとく知識の出し惜しみのない語り口こそ「ダ・ヴィンチ コード」最大の魅力と言っていい。

映画版の辿る運命は決まっていた。その展開軸は、ルーブル美術館長ソニエールの残したダイイング・メッセージを読み解くという「一本線」にのみ集約され、そこから派生するダ・ヴィンチをはじめとする雑学の宝庫は、いくつかの点においてフラッシュバック映像化されるものの、ほとんどがデリートされてしまっている。となると、リアルタイムで進行する「暗号解読」の場面にこそ優先して時間が裂かれることとなり、本作は「知的エンタテインメント」から“知的”を剥ぎ取った、平均的サスペンス作品として稼動し始めるわけである。

しかし、その弱点はクリエイター側にも分かっていたはずだ。だからこそ、脚本のアキヴァ・ゴールドマンと監督のロン・ハワードらは、その“謎解き”の場面を独自の演出で映像化した。そのあたりは多少陳腐ではあるながらも彼らの努力を素直に認めてあげたいところだ。断っておくが、ゴールドマンも決して才能のない脚本家ではないし、ハワードだって本当に巧い監督なのだ。しかし今回は本当に題材のハードルが高すぎた。このストーリー、そして見所を映画の文体へ解体して詰めなおす作業は、本当に途方に暮れるものだったろうと思う。

STEP3 「映画的簡略化の罠」

ストーリーを2時間に押し込めるべく、映画版は原作版の描写がずいぶん簡略化されており、逆に、映画的な見せ場と思えるシーンでは充分に時間を引き伸ばして見せている。それはちょうど、全編に渡って蛇腹を都合よく伸び縮みさせた状態と似ているかもしれない。

だが、この映画版を見ていると、原作から引き継がれたキャラクター動線の脆さが浮かび上がってくる。いくら国際色豊かなキャストを揃えてみても、人物関係がどこか噛みあっていないというか、魅力に欠ける。ファーシュ警部役のジャン・レノでさえ印象が薄く感じられるのである。そこから明らかになるのは、この原作の魅力が、“動線”ではなく、むしろ“行間”にこそ詰められていたという事実である。

STEP 4「“絶対”を疑うリベラルな主張」

最後に、本作に関してキリスト教会側の強い憤りが存在するようだが、これは一概に、現代国際社会が陥っている“許容性のなさ”を如実に表すものである(もちろん私達は世の中にそのような保守的な人たちも大多数存在するのだと言う事実を“許容”する必要がある)。もしもキリスト教が揺ぎ無い信念をもった教えなのだとしたら、これが完全なるフィクションであったとしても、それを黙って見つめる姿勢、隣人を愛する姿勢を貫いてもらいたいものだし、聖書で語られるとおりのキリストならば、迷わずその愛を貫いたことだろう。

結局、『ダ・ヴィンチ コード』が提示する究極のテーマは、「“絶対”と信じるものをいったん疑ってかかる勇気」に尽きる。そして、知的好奇心はいつしか“絶対”を越える、のである。たかがエンタテインメントに対して罵詈雑言を浴びせる諸行為は、我々が経てきた過去の歴史の傷痕を見せられるようで痛々しい。さらには「カンヌでの上映後、口笛が鳴り響いた」などと面白おかしく伝えるメディアも「絶対」ではないのだし、こうやってくだらないブログを夜中に書き連ねる自分も「絶対」どころか正常だとさえ思えない。

かつてイギリスで日本人の研究者の方とお話する機会があったのだが、彼は古い版の聖書について調べ物をされていて、「グーテンベルグ以前は、信徒が聖書を持ち歩くことはほとんど許されてなかったんですよ」と語った。代わりに教会側だけが写本を持つことを許され、礼拝ごとに訪れる信徒に恭しく読み聞かせていたのだという。それは意図的であれ、無意識的であれ、結果的に「聖書」を独占することで教会の神秘性を守ることに繋がったことは言うまでもない。なんと戦略的なメディア・コントロールであることか。

しかし、どれほど「ダ・ヴィンチ コード」がバカ売れしたからといって、歴史を見渡せば「聖書」に並ぶベストセラーは存在しないわけだ。そして、その聖書とは、二ケーア公会議でおびただしい数の宗派の代表が集まり、「どれを収録するか、しないか」と喧々諤々の議論を経た末に内容が成立したものであるという。

書店に立ち寄れば、そこには「ダ・ヴィンチ コード」の関連本コーナーもかなり充実しているご時世だ。もしも貴方が「こんな本(映画)、信用できんわい」と投げ出したいのえあれば、他のダ・ヴィンチ本を手にすることもできる。身の回りにはいくらでも手段はある。いずれかの手段であなたなりの「二ケーア公会議」を開催してみればよいのである。

長くなった(ちなみにこちらは朝になった)。それでは皆さんが、20日から全世界同時に封切られる『ダ・ヴィンチ コード』と充分に格闘できるよう、心から検討を祈っている。

なお、私が試写した時にはエンドクレジット終了直前に「この物語に登場する団体、個人はフィクションに基づいています」というような取って付けたような「但し書き」が現われたのだが、20日からの本公開バージョンでそれがどのようになっているかは分からない。

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