« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »

2006/05/29

弟59回カンヌ国際映画祭

つい先ほど、第59回カンヌ映画祭の授賞式が閉幕しました。ありがたいことにムービープラスで生中継していたので、メモ代わりに記録を残します。間違っているところがあれば徐々に修正・加筆していきたいと思いますが、しないかもしれません(気まぐれなので)。少なくとも受賞内容だけは確実です。

●司会のヴァンサン・カッセルの紹介により、審査員長のウォン・カーウァイをはじめ、モニカ・ベルッチ、ティム・ロス、サミュエル・L・ジャクソン、チャン・ツィイー、ヘレナ・ボナム・カーター、パトリス・ルコント、エリア・スレイマン、ルクレシア・マルテルらが登場。カーウァイは「私は普段、脚本というものを一切使わないが、今日のセレモニーだけは別」と切り出し、「今年は“抑圧”を描いた力強い作品が多かった。私達はそれぞれに“新しい展望”を見出すことに努めました。それにしても、審査することに比べれば、映画を作ることなんて本当に簡単なものですね」。

パルムドール

カーウァイが「私達は温かい感動に包まれ、全会一致で決定した」と発表したのは、ケン・ローチ監督作『THE WIND THAT SHAKES THE BARLEY』。しばらく仏語で挨拶した後に「それでは英語で…」と仕切りなおしたローチは、「本作は小さな一歩ではあるが、過去を問い直すことで現代を問い直すことにも繋がると思っている」。本作は1920年代のアイルランド独立運動を舞台にした物語。キリアン・マーフィー主演。

グランプリ

ブルノ・デュモン監督作『Flandres(フランドル)』が受賞。戦争のもたらした恋人達の精神的影響について描いた物語。これが4作目となるデュモン監督は、過去に『ユマニテ』でカンヌ審査員賞を受賞したことがある。「フランス映画に名誉を与えてくれて感謝します。この賞を何より主演のふたり(アデライデ・ルルー、ジャン=ピエール・アンギエール)に捧げたい」とスピーチ。

監督賞

『バベル』アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督が受賞。メキシコ、アメリカ、日本など、3つの大陸をめぐる多重構造の物語ということで、同様のスタイルを持つ『アモーレス・ぺロス』『21グラム』に連なる3部作の最終章(物語的には連続性はない)として製作された。出演にはケイト・ブランシェット、ガエル・ガルシア・ベルナル、ブラッド・ピット、役所広司ら。「世界中がこのプロジェクトに参加してくれたことに感謝すると共に、それに伴っていろんな国を彷徨って生活することを余儀なくされた私の子供たちにも心から感謝したい」。

女優賞

ペドロ・アルモドバル監督作『Volver(ヴォルベール)』に主演したペネロペ・クルス、カルメン・マウラをはじめとする女優全員が受賞。ステージに立った女優陣からは、それぞれにペドロへの深い感謝の言葉が表明された。最後を飾ったペネロペ・クルスも「この賞は本当はペドロのためのものです。あなたは偉大で、勇敢で、そして私達の人生に多くの魔法をもたらしてくれた。あなたが世界中の女性達にもたらした功績に感謝します」。

男優賞

第二次大戦期、フランスによって戦争に駆り出された植民地の原住民部隊について描いたラシッド・ブシャール監督作『Indigenes』の男優全員が受賞。その中のひとりジャメル・ドゥブーズは最近だとリュック・ベッソン監督作『アンジェラ』に主演している。コメディアンとしても有名な彼は「審査員に感謝したい。特にモニカ・ベルッチに」と言い、審査員席にいる彼女のもとへ走っていき、すかさずキス。また中央マイクに戻っては、「あ、サミュエルにもね!」と再び審査員席まで走ってサミュエル・L・ジャクソンと手をパチンとやりあっていた。数人に及ぶスピーチは「原住民部隊の歌を歌いたい」との出演者全員の斉唱によって締めくくられた。

脚本賞

『ヴォルベール』ペドロ・アルモドバルが受賞。今年の授賞式ははじめから終わりまでアルモドバルに惜しみない賞賛が寄せられていた。その象徴が主演女優賞とこの脚本賞に集約されている。「これまで私はひとりで脚本を書いていたが、今回は姉妹たちに囲まれながら執筆した。彼女たちに心から感謝したい」。

審査員賞

アンドレア・アーノルド監督作による初の長編作『Red Road(レッド・ロード)』。カンヌでの正式上映後に英国に帰っていたものの突然呼び戻されたという。「5時間前までイギリスにいたなんて信じられない…」。スコットランド人の彼女は、2005年のアカデミー賞で『WASP』という作品が短篇賞を受賞した経験を持つ。

カメラドール『2:37』・・・Murali K. Thalluri

短篇賞『Sniffer』

| | トラックバック (0)

2006/05/23

『LOVERS』

いやあ、今回はやたらとモノが飛ぶ。矢やら竹槍やらが空中を飛び交い、それをカメラが執拗なまでに追い駆けていく。そんなシーンばっかり。ジェット・リーやドニー・イェンといったカンフーアクション専門の俳優がいないものだから、そういった特殊効果を使って映像のメリハリを出す必要があったのだろう。唯一、生身の身体で魅せるのは“舞踏シーン”。ここでは驚くほどの美しさと、マーシャルアーツに負けじ劣らずのダイナミックさが、観客をすっかり陶酔させる。さすが、チャン・ツィイー。かつては舞踏家を目指していただけのことはある。彼女の見事な身のこなしは、本作で一番の見どころと言っていい。カンフーだけではない、舞踏だって立派なアクションになりうるのだ。

ただ、冒頭の豪華絢爛たる盛り上がりにくらべると後半が落ち込み気味。騙し、騙され、騙されられ、といったお決まりのパターンにはもう付き合いきれなくなった。いや、待てよ、この映画ってアンディ・ラウが主演する『インファナル・アフェア』の展開によく似てるんだよな・・・。

ちなみに英題の「House of Flying Daggers」は、その語感からアヒル(正しいつづりは“duck”)が飛び回っているような楽しい情景を思い浮かべがちなのだが、正確には“飛刀門”と呼ばれる唐代の反政府組織の英語訳である。

| | トラックバック (0)

2006/05/19

『ダ・ヴィンチ コード』に潜む、魅力と罠

誰がそう決めたのか、映画の上映時間は「2時間」がひとつの基準である。それを越えると子供はグズり出すし、大人だってトイレが近くなりもする。それに劇場側の回転数の問題にも関わってくる。『ロード・オブ・ザ・リング』のように3時間もある映画だと、よっぽどの人気作とならない限りは歓迎されないのだ(ちなみに記憶に新しい3時間モノ、『キング・コング』はたいしたクオリティだったと思うが、それでも上映時間がネックとなり、予想したよりもはやく上映期間が狭められる結果となった)。

このたび『ダ・ヴィンチ コード』のように世界中で5000万部が売れるほどの大ベストセラー作品が映画化されるということは、つまりハードカバーだと上・下巻のスケールを「2時間(実際の上映時間は2時間30分)」へと記号化する行為に他ならない。

だからこそ、映画を見る者としてはそれに多少の“諦め”と“期待”とを共存させて臨むのがちょうどよい。カンヌで冷笑されたとか、そんなウワサに振り回されるようじゃダメだ。マスコミは物事を面白おかしく書き記すものと相場が決まっている。情報に振り回される前に、自分の足で情報を掴み取りに行くくらいの覚悟がなければ、このメディア過多の時代は到底乗り越えられない。

さて、既に原作本を読み終えている筆者による、映画版『ダ・ヴィンチ コード』の雑感をここに書き記して置くことにしよう。上に“諦め”と“期待”と書いたが、ここで中心となる話題は「この映画をどのように楽しむか」である。その観点において“諦め”も楽しみのひとつ、と捉えることが出来れば、なお素晴らしいと思う。

まず、原作をご覧になっていない方が抱いているであろうひとつの誤解から指摘しなければならない。

STEP1「映画のポスターに騙されてはいけない」

Thedavincicode 原作本、映画版ともにメイン・ビジュアルは「モナ・リザ」。彼女の顔面が剥がれ、それが記号として零れ落ちているなんともミステリアスな内容である。しかし、だからと言って、「モナ・リザに描かれているのはいったい誰だったか?」という言及は一切行われないし、「左右の風景がズレている」という指摘についても、一行程度のセリフで語られるのみだ。つまり、メイン・ビジュアルは「ダ・ヴィンチはモナリザみたいに微笑んでいたのかもしれませんね(微笑)」というひとつの象徴物として提示されているだけであって、そこには何ら具体性は含まれていない。

STEP2「映画と文学は、そもそも語り口が違う」

映画はセリフ中心。文学は状況描写が中心。ただし映画には観客がちゃんとついてこようが遅れようが厳格なる制限時間が設けてある。一方、原作ではラングトン教授の内面描写も盛りだくさん。読者は時間を気にすることなく、細かなトリビアを散りばめたひとつひとつの描写を楽しむことが可能だ。むしろその湯水のごとく知識の出し惜しみのない語り口こそ「ダ・ヴィンチ コード」最大の魅力と言っていい。

映画版の辿る運命は決まっていた。その展開軸は、ルーブル美術館長ソニエールの残したダイイング・メッセージを読み解くという「一本線」にのみ集約され、そこから派生するダ・ヴィンチをはじめとする雑学の宝庫は、いくつかの点においてフラッシュバック映像化されるものの、ほとんどがデリートされてしまっている。となると、リアルタイムで進行する「暗号解読」の場面にこそ優先して時間が裂かれることとなり、本作は「知的エンタテインメント」から“知的”を剥ぎ取った、平均的サスペンス作品として稼動し始めるわけである。

しかし、その弱点はクリエイター側にも分かっていたはずだ。だからこそ、脚本のアキヴァ・ゴールドマンと監督のロン・ハワードらは、その“謎解き”の場面を独自の演出で映像化した。そのあたりは多少陳腐ではあるながらも彼らの努力を素直に認めてあげたいところだ。断っておくが、ゴールドマンも決して才能のない脚本家ではないし、ハワードだって本当に巧い監督なのだ。しかし今回は本当に題材のハードルが高すぎた。このストーリー、そして見所を映画の文体へ解体して詰めなおす作業は、本当に途方に暮れるものだったろうと思う。

STEP3 「映画的簡略化の罠」

ストーリーを2時間に押し込めるべく、映画版は原作版の描写がずいぶん簡略化されており、逆に、映画的な見せ場と思えるシーンでは充分に時間を引き伸ばして見せている。それはちょうど、全編に渡って蛇腹を都合よく伸び縮みさせた状態と似ているかもしれない。

だが、この映画版を見ていると、原作から引き継がれたキャラクター動線の脆さが浮かび上がってくる。いくら国際色豊かなキャストを揃えてみても、人物関係がどこか噛みあっていないというか、魅力に欠ける。ファーシュ警部役のジャン・レノでさえ印象が薄く感じられるのである。そこから明らかになるのは、この原作の魅力が、“動線”ではなく、むしろ“行間”にこそ詰められていたという事実である。

STEP 4「“絶対”を疑うリベラルな主張」

最後に、本作に関してキリスト教会側の強い憤りが存在するようだが、これは一概に、現代国際社会が陥っている“許容性のなさ”を如実に表すものである(もちろん私達は世の中にそのような保守的な人たちも大多数存在するのだと言う事実を“許容”する必要がある)。もしもキリスト教が揺ぎ無い信念をもった教えなのだとしたら、これが完全なるフィクションであったとしても、それを黙って見つめる姿勢、隣人を愛する姿勢を貫いてもらいたいものだし、聖書で語られるとおりのキリストならば、迷わずその愛を貫いたことだろう。

結局、『ダ・ヴィンチ コード』が提示する究極のテーマは、「“絶対”と信じるものをいったん疑ってかかる勇気」に尽きる。そして、知的好奇心はいつしか“絶対”を越える、のである。たかがエンタテインメントに対して罵詈雑言を浴びせる諸行為は、我々が経てきた過去の歴史の傷痕を見せられるようで痛々しい。さらには「カンヌでの上映後、口笛が鳴り響いた」などと面白おかしく伝えるメディアも「絶対」ではないのだし、こうやってくだらないブログを夜中に書き連ねる自分も「絶対」どころか正常だとさえ思えない。

かつてイギリスで日本人の研究者の方とお話する機会があったのだが、彼は古い版の聖書について調べ物をされていて、「グーテンベルグ以前は、信徒が聖書を持ち歩くことはほとんど許されてなかったんですよ」と語った。代わりに教会側だけが写本を持つことを許され、礼拝ごとに訪れる信徒に恭しく読み聞かせていたのだという。それは意図的であれ、無意識的であれ、結果的に「聖書」を独占することで教会の神秘性を守ることに繋がったことは言うまでもない。なんと戦略的なメディア・コントロールであることか。

しかし、どれほど「ダ・ヴィンチ コード」がバカ売れしたからといって、歴史を見渡せば「聖書」に並ぶベストセラーは存在しないわけだ。そして、その聖書とは、二ケーア公会議でおびただしい数の宗派の代表が集まり、「どれを収録するか、しないか」と喧々諤々の議論を経た末に内容が成立したものであるという。

書店に立ち寄れば、そこには「ダ・ヴィンチ コード」の関連本コーナーもかなり充実しているご時世だ。もしも貴方が「こんな本(映画)、信用できんわい」と投げ出したいのえあれば、他のダ・ヴィンチ本を手にすることもできる。身の回りにはいくらでも手段はある。いずれかの手段であなたなりの「二ケーア公会議」を開催してみればよいのである。

長くなった(ちなみにこちらは朝になった)。それでは皆さんが、20日から全世界同時に封切られる『ダ・ヴィンチ コード』と充分に格闘できるよう、心から検討を祈っている。

なお、私が試写した時にはエンドクレジット終了直前に「この物語に登場する団体、個人はフィクションに基づいています」というような取って付けたような「但し書き」が現われたのだが、20日からの本公開バージョンでそれがどのようになっているかは分からない。

| | トラックバック (0)

2006/05/18

『GOAL!』でサッカー知識を一夜漬け

サッカーが好きな人にも嫌いな人にも、誰にだって平等に訪れるこのワールドカップ・イヤー。これを記念して、サッカー界と映画界が強力なコラボを組み、常識を覆すスケールで贈る珠玉のサッカー・ムービー3部作が始動した。それが『GOAL!』である。このたび公開を迎えるのはその第1弾となる「イングランド・プレミアリーグ編」。続編には「チャンピオンズ・リーグ編」、「ワールド・カップ編」が待機している。

メキシコ生まれのサンディエゴは、アメリカで移民生活を送りながらも地元のチームで活躍するエース・ストライカー。裕福ではないゆえに現実的な生活を余儀なくされる彼には、プロへの夢なんて持てるはずもなかった。そんな彼がある日偶然にもスカウトの目に留まり、一生に一度のチャンスを掴みとることに。やがて渡英し、英国名門チームの門を叩くサンディエゴ。いまここに、壮大なサッカー伝説の1ページが切り開かれる!

これから伝説のプレーヤーの道を歩む(であろう)主人公には、3ヶ国語を操れる能力とその容姿の端麗さが買われ異例の大抜擢となったクノ・ベッカー。共演には『キング・アーサー』(04年)のステーヴン・ディレイン、『恋の骨折り損』(99年)のアレッサンドロ・ニヴォラ。個人的には、『リトル・ダンサー』(00年)で印象的な父親役を演じたゲイリー・ルイスが主任コーチ役で登場するのも注目して欲しいところ。また、サウンドトラックには、OASISやHAPPY MONDAYSといったサッカー大好きの超大物アーティスト達が大挙して参加しているので、音楽ファンはこちらも絶対に見逃せない。

普段のサッカー人気に遅れを取った筆者のような人間に、その複雑な構造を分かりやすく俯瞰させてくれる最高のスポーツ・エンターテインメント。あらゆる映画の“息つかせぬ手法”を巧みに取り入れながら、それをサッカー独自の神話として昇華させている点は見事というしかない。また、おいしいシーンにはピンポイントで本作スポンサーの「addidas」の名が踊るなど、サッカーがいかにスポーツ産業とガッチリ手を握って成り立っているか、その商業的な側面を多角的に描いているのも見所。そのすべてが調和して最高潮の盛り上がりを見せるクライマックスには、あなたもきっとジョン・カビラばりに「GOAL!!!」と叫ばずにはいられないはず!

| | トラックバック (0)

2006/05/03

大学生の頃の自分へ

大学生になって東京に出てきた頃、全国ロードショー作品と単館作品の違いが分かりませんでした。「つまるところ、長崎では劇場にかからず、直でレンタル店に並んでお目見えするのが単館映画なんでしょ?」。入学当時の僕は真顔でそう尋ねるくらいに何も知らない人間でした。

そんな自分が、ゴールデンウィークになって初めてミニシアターを訪れました。忘れもしません。銀座にある「銀座テアトル西友」。作品名は言いませんが、いまではかなり伝説化したサスペンスで、出演者のひとりの冴えない男優は今ではオスカー俳優になってしまいました。いま考えると、まだ「地下鉄マップ」も頭に入っていないのに(銀座という概念もよく分かっていなかった)、よくもまあ、テアトル西友までたどり着けたなあ、と思います。「あっちかこっちか、ふたつにひとつだ」と心に決めて「あっち」を目指したのを覚えています。映画を観るということはこんなにギャンブルなことだったんでしょうか(もっと下調べしておけよ)。

そうやって半ば全身を心臓の音でバクバク言わせながら訪れたミニシアターだったものですから、いざ映画が始まると何だか無性に疲れがこみ上げてきてかなりの時間をウトウトしながら過ごしてしまいました。ただ劇場を後にする時はどういうわけか満足感でいっぱいで、トイレの鏡に映った自分は実に清々しい表情をしていました。僕にとってそこに足を踏み入れるだけでもキャパいっぱいだったんですね。まさに人生で一度きりのことだったから、いまだに新鮮に響くのでしょうね。

あの頃の自分を思い出す度に、彼はGW、ミニシアターへと向かいます。

そんな彼に今の僕は何がしてやれるでしょうか。きっと感覚的には今でもあまり成長していないはずだから、僕が面白いと思えるものは彼も面白がってくれるでしょう。というわけで、このGWオススメの3本を紹介しておきます。気が向いたら是非観にいってください。おっと、ミニシアターに赴く際にはきちんと下準備をするように。でも、映画を観ることはいわゆるギャンブルでもあるのだと、今の僕はそのようにも考えています。

君とボクの虹色の人生』・・・ブログ記事はこちら

愛より強く』・・・ブログ記事はこちら

隠された記憶』・・・ブログ記事はこちら

それでは、月並みな言い方ですが、素敵なGWを。

| | トラックバック (0)

2006/05/02

『隠された記憶』でハネケと遊ぶ。

Cache

続きを読む "『隠された記憶』でハネケと遊ぶ。"

| | トラックバック (0)

柄にもなく、美術館にて

思い切って打ち明けると、先日、足を運んだ原美術館はなんだかよく分からなかった。

多くの人々が語るこの美術館は、そこに足を踏み入れるだけで何かしら神秘的な体験ができたかのような感慨に満ちたものだったが、結局のところ僕が手にしたのは、赤い布目がけて思い切り突進したものの闘牛士がその布をヒョイとあげると途端に目標がなくなり、ただただ壁にぶつかるしか術のなかった闘牛と同じか、それ以下のものであった。

品川駅から歩いて20分。御殿山の脇にある住宅街にひっそりと建つ美術館。展示物には一切キャプションがなく、予習もなしにそれに触れると、意味不明のうちに心の奥底へパアッと電光掲示板のメッセージが注ぎ込むか、あるいは不感症のようにただ立ち尽くすか、ふたつにひとつだろう。まったく“コンテンポラリー・アート”ってやつはその発音も難しければ、概念もことさら難しいときている。

「いや、本当に難しいのか? 」

もうひとりの自分がすかさず問いかけてくる。

「ってかさ、そもそも僕らが普段接しがちな、アカデミックなキャプション盛りだくさんで、学芸員がエントランスに横並びで『お待ちしてまーす!』と手をこまねいてるような美術館ってのは、それは果たしてスタンダードと言えるのかよ? 」

そうだなあ。まあ、その疑問に答えを出すのが僕の役目ではないことは知っている。ただ、この原美術館でいちばんの驚きだったのは、僕が門より敷地内へ足を踏み入れた瞬間に、草むしり中のおじさんがヒョイと顔を上げ、「いらっしゃいませ」と声をかけてきたことだった。

美術館内の中庭にはカフェテラスが拡がっており、そこにも野外アートが設置されている。よく分からない形態のそれには、重ねてよく分からないタイトルが付けられており、僕は「へえ」とか「ほう」とかでなく、思わず「キャシャーン」などと、とりわけ意味不明の咆哮を決め込んでみたくなったりもしたものの、その隣に奇跡的な美しさで横たえられたホウキとチリトリを目撃したとき、まさしく目からウロコが落ちたような心持ちに陥った。

無意識か、意図的か。それはただ奇跡的な角度と風向きとで取り残された、ただのホウキとチリトリだった。

「こういうアートなんだろうか?」

いつになく真剣な表情でその光景をじっと眺めやっておったところ、先ほどのおじさんがどこからともなく現われ、手際よく「ほいほい」とそれらを持ち去っていった。

「こういうアートなんだろうか?」

更なる衝撃が足元にグラグラと振動をもたらしてくる。可能性の話をひとつするならば、そのおじさんの一挙手一投足に瞠目する僕の姿を、更にその後ろで誰かが息を凝らして眺めやっていたとしても、ここではまったく不思議ではない。

「こういうアートなんだろうか?」

カプチーノの並々と注ぎ込まれたカップを手に、鑑賞者がそう呟いたかどうかは不明だが、逆に自分で言うのも何なのだが、「それがアートではない」と証明できる人など、世界中どこを探しても存在しないのである。

「こういうアートなんだろうか?」

それ以来、いつ何時、どこにいてもあらゆるものに同じフレーズを賦与したくなる。世界のあらゆる局面はまるで額縁のないコンテンポラリー・アートだ(相変わらず舌を噛みそうになるのだが)。

仮に鑑賞者にそういう精神状態をもたらすことこそ原さんの真の目的だったとするならば、その目論見はとりわけたいしたものだと感心せざるを得ない状況にいま現在立たされている。

| | トラックバック (0)

« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »