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2006/05/02

『隠された記憶』でハネケと遊ぶ。

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だいたい5年かそこらくらいの周期で、とんでもない映画に出会うことがある。文章で生計を立てる者としてその“とんでもない”という表現はちょっとどうなんだろうか、と頭の片隅で思いもするが、それをもっと突き詰めると「怪物のような」などと更に幼稚めいた表現に陥ってしまいそうな気もするのであえて深追いはやめておく。とにかく、相当なほどに映像不感症に陥っているにも関わらず、5年に1度、そんな怪物との対面を余儀なくされることがある。もちろんそれほどの恐怖を前にして、顔は俄かにほころぶわけである。

Haneke01_2 ミヒャエル・ハネケ。その名前を知っている者は、彼の作品を前に誰もが身構えしかねない。衝撃的な描写はないにしろ、ほんの些細な表現で人間の平常心に根底から揺さぶりをかける映画人である。 それはお客様を神様と据えたときに現われる“純粋なエンタテインメント”としての主従関係とは一線を画し、監督と観客とはまるで“女王様”と“奴隷”の関係に堕ちて行く。もちろんこちらはギャグ・ボールをくわえ、涎をダラダラと垂れ流しながら次の仕掛けを待ち続け、ハネケはそんな観客の上に馬乗りになって、表情も変えずにその様子を眺めている。

そんな彼を多くの人は「変態ハネケ」と呼ぶが、その是非を問われれば僕も声高に「異議なし!」と唱えたところで、あ、ちょっと待って、と相手を遮り、ついでに「合法的変態」という称号すら付け加えるかもしれない。いまや観客だって、恋人にだって触れられたことのない心の恥部に触れられることを快感とし、涙を流さんばかりにそれを欲していたりもするからだ。

隠された記憶』はそんなハネケのフィルモグラフィーの中でも最高傑作と呼ぶべき猥雑な趣向をはらんだものとなった(あくまでこのブログ記事を書いた2006年時点において)。そして驚くべきことに、その外見たるや、全くもって写真写りのいい優等生のような佇まいなのである。

ダニエル・オトゥイユ、ジュリエット・ビノシュ、このふたりのフランス映画界の重鎮の起用は、スクリーンに極めてフォトジェニックな調和をもたらしてくれる。そして、ある日、彼ら演じる夫婦のもとに一本のビデオテープが送り付けられることから、調和の歯車は少しずつ狂い始めていく。

そのビデオテープとは、彼らの住居をストーカーのごとくにただじっと見つめ続けたものだった。「いったい誰が?何の目的で?」。テープは次々と届き、その内容は少しずつパーソナルなものへと変容していく。同時に夫の胸の内には幼い頃の記憶が押し寄せていた。かつて自分の些細な嘘によって施設送りとなってしまったアルジェリア人孤児の記憶。もしや数十年の歳月を隔てて復讐に打って出たというのか?

多くの人々が忘れ去ろうとしている記憶。かつてフランスの植民地だったアルジェリア。その独立運動のさなかで激しい衝突が続き、多くの者達が命を落とした。

歴史にはふたつの側面が存在する。加害者の歴史と、被害者の歴史。被害者はそれを決して忘れることなく心に刻み続けるが、一方の加害者はそれを瞬く間に忘れ去る。つまり「正史」とは、まるで甲子園のトーナメント方式のように被害者の歴史を巧妙に消し去ることで編纂されたものである。

『隠された記憶』はフランス人がもはや忘れ去ろうとしているアルジェリア人との関係性をひとつの側面としてフィーチャーしている。だがそれは表層的な歴史問題をどうこう言おうとしているわけでは決してなく、どの国でも(日本にだって)起こりうる、どの社会、日常でも起こりうる「加害者と被害者との関係性」を、極めて生理学的に匂わせている。

だが、もちろん相手はハネケである。物語がその程度で押し留まるはずがない。やがて観客は更に奥深い、人間の心のドロドロとマグマ化した部分にまで手を伸ばしていくことになる。

そして、本作を実際に観たいと思われている方への実践編(この先にはストーリーに関する記述があるわけではありませんが、作品を真っ白な状態でご覧になりたい方は、用心に用心を重ねて読まないでください)。

ラストシーンには、謎解きなのか、更なる謎かけなのか、判別の付きにくい重要なシーンが用意されている。ここで僕がひとつ、アドバイスを投げかけるとするならば、

「ラスト(エンドクレジット直前)は、左上あたりに注目しながら、スクリーンを俯瞰せよ!」

学校のシーンが訪れたら、「さあ、来い!」とばかりにこの言葉を思い出して欲しい。

一方でハネケは、流行の宣伝文句のように「この結末は決して明かさないでください」などとは口にしない。しかし仮に僕がこのブログで結末について書き綴ったとしても、恐らくハネケはそれが人間の弱さであるとばかりにニヤッと笑い、それを許容するだろう。

そんな役回りはあまりに情けないので、やはり僕はハネケの側に回ることにする。多くの鑑賞済みの観客もきっと同じ行動を取るだろう。この“怪物”と共犯関係を結び、より多くの観客を劇場へといざなうこと。これこそ鑑賞後の自分の気持ちを偽らない、最も効果的なやり方であるような気がしてならないのだ。

この精神状態はある意味、勧誘活動に余念のない宗教にも似ている。あまり深く足を踏み入れると、そこに帰り道はもうないかもしれない。その危険性を充分踏まえてからこの門をくぐって欲しい。何しろ相手はミヒャエル・ハネケなのだから。

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