柄にもなく、美術館にて
思い切って打ち明けると、先日、足を運んだ原美術館はなんだかよく分からなかった。
多くの人々が語るこの美術館は、そこに足を踏み入れるだけで何かしら神秘的な体験ができたかのような感慨に満ちたものだったが、結局のところ僕が手にしたのは、赤い布目がけて思い切り突進したものの闘牛士がその布をヒョイとあげると途端に目標がなくなり、ただただ壁にぶつかるしか術のなかった闘牛と同じか、それ以下のものであった。
品川駅から歩いて20分。御殿山の脇にある住宅街にひっそりと建つ美術館。展示物には一切キャプションがなく、予習もなしにそれに触れると、意味不明のうちに心の奥底へパアッと電光掲示板のメッセージが注ぎ込むか、あるいは不感症のようにただ立ち尽くすか、ふたつにひとつだろう。まったく“コンテンポラリー・アート”ってやつはその発音も難しければ、概念もことさら難しいときている。
「いや、本当に難しいのか? 」
もうひとりの自分がすかさず問いかけてくる。
「ってかさ、そもそも僕らが普段接しがちな、アカデミックなキャプション盛りだくさんで、学芸員がエントランスに横並びで『お待ちしてまーす!』と手をこまねいてるような美術館ってのは、それは果たしてスタンダードと言えるのかよ? 」
そうだなあ。まあ、その疑問に答えを出すのが僕の役目ではないことは知っている。ただ、この原美術館でいちばんの驚きだったのは、僕が門より敷地内へ足を踏み入れた瞬間に、草むしり中のおじさんがヒョイと顔を上げ、「いらっしゃいませ」と声をかけてきたことだった。
美術館内の中庭にはカフェテラスが拡がっており、そこにも野外アートが設置されている。よく分からない形態のそれには、重ねてよく分からないタイトルが付けられており、僕は「へえ」とか「ほう」とかでなく、思わず「キャシャーン」などと、とりわけ意味不明の咆哮を決め込んでみたくなったりもしたものの、その隣に奇跡的な美しさで横たえられたホウキとチリトリを目撃したとき、まさしく目からウロコが落ちたような心持ちに陥った。
無意識か、意図的か。それはただ奇跡的な角度と風向きとで取り残された、ただのホウキとチリトリだった。
「こういうアートなんだろうか?」
いつになく真剣な表情でその光景をじっと眺めやっておったところ、先ほどのおじさんがどこからともなく現われ、手際よく「ほいほい」とそれらを持ち去っていった。
「こういうアートなんだろうか?」
更なる衝撃が足元にグラグラと振動をもたらしてくる。可能性の話をひとつするならば、そのおじさんの一挙手一投足に瞠目する僕の姿を、更にその後ろで誰かが息を凝らして眺めやっていたとしても、ここではまったく不思議ではない。
「こういうアートなんだろうか?」
カプチーノの並々と注ぎ込まれたカップを手に、鑑賞者がそう呟いたかどうかは不明だが、逆に自分で言うのも何なのだが、「それがアートではない」と証明できる人など、世界中どこを探しても存在しないのである。
「こういうアートなんだろうか?」
それ以来、いつ何時、どこにいてもあらゆるものに同じフレーズを賦与したくなる。世界のあらゆる局面はまるで額縁のないコンテンポラリー・アートだ(相変わらず舌を噛みそうになるのだが)。
仮に鑑賞者にそういう精神状態をもたらすことこそ原さんの真の目的だったとするならば、その目論見はとりわけたいしたものだと感心せざるを得ない状況にいま現在立たされている。
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