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『時をかける少女』(2006)

2006年の初夏。とある試写室で誰かが「今年のアニメはどう?」って話題を持ち出していた。その年の夏はアニメの激戦区。ジブリが『ゲド戦記』を送り出し、ワーナーは『ブレイブストーリー』、そして角川は『時をかける少女』。アニメが苦手な僕はそのどれも見てはいなかったが、寝たフリをしながらその話に耳だけは傾けていた。頭の中ではとっくに「ゲドかブレイブでしょ。だって宣伝費が違うもん」と勝手な結論を思い描きながら。しかし3本とも鑑賞済みの彼らはその予想をことごとく裏切り、「やっぱり、『時かけ』で決まりでしょう!」という結論で合意したのだった。

季節は本格的な夏になり、とある喫茶店で僕は友人と映画の話をしていた。もちろん人よりも映画は早く見ているので、「そうだね、お薦め作品は…」などと調子に乗ってしゃべっていると、友人は「違う、違う」と思い切りかぶりを振り、「この夏の収穫は間違いなく『時をかける少女』でしょう!」と断言したのだった。これが試写室での一件に続いての二度目のビックリ。既に「時かけ」は公開中で、ウワサがウワサを呼び、劇場はとんでもないことになっていたらしい(その友人も早くから整理券を貰って観たんだそうだ)。

こんな具合に「時かけ」に関していえば、普段のように僕が情報をリリースするのではなく、むしろ周りからキャッチさせられた部分が大きかった。で、ようやく先日、フジテレビの放送でその本編と対面したというわけだ。

もちろんタイミング悪くCM入るし、いい場面で「お得な情報」が下部に流れるし、エンディングの余韻も充分には味わえやしない。でもきっと試写室の人や僕の友人が話してくれたその素晴らしさの100分の1程度は受け止めることが出来たように思う。彼らがいなかったら、多分またスルーしていたことだろう。いまさらながらお礼を言います。ありがとう。

で、『時をかける少女』に触れて真っ先に頭に浮かんだのは、「なぜ僕らはこれほどすんなりと本作を受け止められるのだろう?」という疑問だった。まるでこの映画を享受する遺伝子を前もって組み込まれていたかのような馴染みの深さがここには充満していた。端的にこう表現してしまうのは気が引けるが、どこか80年代のジブリ作品を再度スクリーンで目の当たりにしているかのような手ごたえ。特に主人公も『魔女の宅急便』のキキや『となりのトトロ』のサツキを思わせるところがあり、そのテンポ感といい、ストーリーの膨らませ方といい、キャラクターの配置といい、まるで『時かけ』こそがジブリ作品の正当な後継者なのだ、と認印を押したくなってしまったのは僕だけではないはずだ。本作ではそんな映画と僕らとが同じ遺伝子レベルで共鳴する瞬間が神業といっていいほどに数多く刻まれていた。

そして、こんなところも僕の心を捉えた。本作は“タイムループ”という超常的な現象をフィーチャーしながらも、実際のところそのストーリー構造は極めてオーソドックス。「過去」「現在」「未来」の存在をちらつかせながらも、タイムループで移動する範囲は「現在」の範疇から脱しない。だが、過去のエピソード(主人公の叔母が体験した20年前の出来事)については、決して多くは語られないものの、僕らは一枚の写真を目にすることで瞬時に何かを感じ取ってしまう。同じく、未来のエピソードにしたって、具体的にはほとんど了解を得ないのだが、あの青年が「どうしても絵が見たかった」と真剣なまなざしで口にすることで、僕らはあの絵の描かれた過去の出来事を思い出し、それを未来の置かれた実態に照射することができる。

つまり本作では「過去」「未来」を具体的には描かなくとも、すべては「現在」に答えがある。それも、セリフが説明責任を負うのではなく、むしろ様々な手がかりを観客の想像力に託することで、僕らはそこにいながらにして主人公と共に「時をかける」わけである。

ちなみに、一般的に物語の中で2つの世代が登場するとき、それらはひとりの人物の“過去”と“未来”である、との構造的見方ができることがある。

本作で登場する主人公・真琴と“魔女おばさん”こと叔母の和子の関係もその例外ではない。彼女が20年前に初代「時かけ」少女だったエピソードを背負っていることは誰もが知っているが、彼女がずっと言葉少なめに“絵画”を修復し続けている姿は、それがそのまま真琴が辿るかもしれない“未来”としても効力を発し、観客の心に仄かな後日談を去来させる要素となる。仮にそういう見方で2度目に臨むと、真琴が和子に成長して、また新たな高校生(3代目)と対峙しているように思えないこともない。そうやって鑑賞するたびに何度も何度も世代が入れ替わって歴史がループしていく感覚を抱いてしまうのも、本作があえて「続編」という立場を取っているからなのだろう。おそらく作り手はこういう意味も込めて、あえて原作のリメイクではなく、「続編」という曖昧さを志したのだと思う。

また、過去、現在、未来という“不可逆”な要素と共に、この映画には(それこそ本作が映画であるという性質から)、縦列に規則的に並んだ“フィルムのコマ”という時の刻み方がある。本作の心打たれる場面は百人の観客がいれば百通りあるだろうが、あえて筆者の嗜好に限定するならば、その感動の瞬間は、クライマックスで主人公が全力で走り出し、それをカメラが地道に追い続けるところにこそあった。いったんはカメラが速すぎて半分見切れてしまう真琴。しかしそれに負けじとぐんぐんスピードを増した彼女は、やがてカメラを追い抜き、追い越してしまう。つまり、彼女はここで「時をかける」能力は失ったものの、この瞬間、初めて自分の力でフィルムのコマという不可逆性さえも飛び越えて、彼に想いを伝えに走り続けるわけである。

蛇足ながら、ストーリー的にはここで真琴が走る意味なんてサラサラない。誰かに追いかけられているわけでもなければ、タイムリミットが迫っているわけでもない。けれど、彼女はその意志を表現する手段として走らずにはいられなかったのである。若いなあ!この意味のないところにパワーを注ぎ込めるところが青春だよなあ!おじさんにはもう無理だよ!無理、無理。監督に「走れ!」って言われても「なんで?」って聞き返すもん。って、別に役者じゃないし、誰からもそう言われる機会すらないんだけど。

・・・取り乱しました。で、ずっと映画ウォッチャーをやっとる筆者としましては、このカメラを追い抜く、コマを飛び越えるという表現方法が極めて斬新に思えたんですね。で、最後に若い男女が「未来で待ってる」「うん、走っていく」とやりとりを交わすわけなんですが、ここで「もうタイムリープできねえじゃん!」と突っ込みを入れる人は読みが甘いです。彼女は一度、映画における常識を飛び越えているわけですよ。ということはもう、過去とか未来とか、もうそんなことはどうでもいい次元にまで達している。そして、それこそ、筒井康隆が原作に込めた想いのように「記憶の中では何度でもタイムリープできる。しかし大人になると記憶は薄れ、大事な人のことも忘れてしまう」という基本精神を踏襲すると同時に、真琴のあの表情には、その運命にさえ真っ向から挑もうとしているようにも感じられました。またその「逢う」という意味を決して限定していないところにも、“未来”をあらゆる意味で観客の想像力に託そうとする作り手の強靭な意志を感じずにはいられませんでした。

実は原田知世主演の実写版ではもうちょっと“運命の皮肉”的な終わり方が待っているのだけれど。ご興味ある方はぜひいつかご覧になってみてください。

以上、ちょっと長めで乱雑な『時をかける少女』覚え書きでした。

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