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2006/07/21

『弓』は武器であり、同時に楽器でもある。

キム・ギドク12番目の作品『弓』(9月9日よりBunkamuraル・シネマほかにて全国順次公開)は、まるで一遍の詩を90分の映像へと翻案したかのような幻想的な寓話だった。

そこは海の上にプカプカと浮かぶ船。一日に数人の釣り人がボートで乗り付けるその海上の孤島には、老人と少女がずっと一緒に住んでいる。老人は少女の成長を待っていずれ結婚の儀を上げる気らしく、少女もそれがごく当然の運命として抗う様子もない。しかしそこで芽生えるほんの些細な感情の変化が、やがてふたりに、そして海上の孤島に思わぬ運命を賦与することとなる。

いつからだろう、ギドク作品のラストには、監督によるほんの僅かなコメントが記されるようになった。それがまたいつもながら全体の質感をギュッと引き締め、僕らにギドクの語る映像であるならまた、いつ、どこでだって向かい合いたい、という素直な想いに浸らせる。

本作はこれまでに比べて衝撃度が薄れてはいるが、たとえば「愛する」ことが同時に激しく「憎む」ことでもあるように、人間の直面するあらゆる物事、感情が常に相反する二つの意味を兼ね備えていることをまざまざと突きつける。それは本作において、争いでは人を傷つけ、同時に胡弓のように美しい音を奏でもする“弓”に象徴されているものでもある(ちなみに、ギドク作品『春夏秋冬、そして春』では御経をナイフで彫り続ける男の姿が描かれるが、その“ナイフ”というアイテムにはここで言う“弓”と同じく、物事に対するふたつの側面が投影されていたように思える。さらにもうひとつ『春夏秋冬~』との共通点を挙げるならば、中心となる映画の舞台が水上を自在に動き回る存在だったということだろう)。

物事のふたつの側面。我々が生きている“常識に囚われた世界”がいかにその片方にのみ焦点を当て、片方を闇に葬り去っているか(またそうすることで人々は安心し、世界の均衡は保たれているわけであるが)、そしてこれが映画の世界だからこそ、そのもう片方の意味にまでグイと踏み込んで、果敢にその真意を問うていこうとする行為は、異端、異端と呼ばれながらも、これこそ「芸術」という領域の真髄を極めていると思える。

クライマックスには、手法的に『サマリア』を踏襲した「旅立ち」というテーマをも盛り込み、作風的には『うつせみ』に続いて観客をどんどん幻想の森へと誘い出しているようなニュアンスがある。この先、果たしてギドクはどのような世界を用意しているというのか。霧の先にあるかもしれない落とし穴に恐怖する前に、今はまだ、僕はギドクの手招きする方向へ、ただ歩を進めてみたい気持ちで一杯なのだ。

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