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2006/08/09

『ユナイテッド93』という名の、追体験ワークショップ

世界中のあらゆる悲劇をコレクトし、またリリースするといった傾向を持つ映画メディアは、その存在性から常に「エンタテインメント」という名のジレンマを抱えており、たとえばこの映画『ユナイテッド93』に関しても、まだ5年しか経過していないあまりに生々しい記憶を「映画」として対象化していいものかどうか、という議論は常に付きまとうものだし、それはむしろ付きまとうべきものだと思う。

もちろん映画はビジネスである。本作に関しても100%の善意で作られているわけではなく、もちろん被害者家族への寄付というかたちで製作会社に莫大な興行収入がペイされる可能性はないが、基本的にはあらゆる商業映画は「利益」が想定されることで初めて企画がスタートしていることを我々は念頭におかなければならない。そして本作をポール・グリーングラスという才能が手がけることは、その映画にまつわるジレンマを乗り越えるための数少ない手段のひとつだった。『ブラッディ・サンデー』、『ボーン・スプレマシー』という代表作を持つグリーングラス監督は、映像に極めてストイックなドキュメンタリー・タッチを刻み込むことで評価された名匠だからだ。

日本ではDVDスルーとなった『ブラディ・サンデー』(北アイルランド独立運動におけるターニングポイント“血の日曜日事件”をドキュメンタリータッチで描いた作品)は、ベルリン国際映画祭にて金熊賞を受賞し、世界中にその名を知らしめた。そしてご存知のとおり、彼のドキュメンタリー的手法は「ジェイソン・ボーン」シリーズ第2作『ボーン・スプレマシー』にも引き継がれる。その臨場感みなぎる映画作りには主役のマット・デイモンも「彼のアイディアは凄い。通常の劇映画からは想像できないような箇所にカメラを置いて、とにかくリアルな映像を作り出そうとする」と絶賛している。

『スプレマシー』のDVD特典映像によれば、その一例として挙げられるのは自動車のクラッシュ・シーンである。通常なら「迫力のある映像」として観客はなるだけ外部へと視線を注ぎがちだが、グリーングラスは車の内部へとカメラを持ち込み、観客にクラッシュを外観させるのでなく、よりドライバーや同乗者に近い形でその衝撃を体感させようとする。『ボーン・スプレマシー』は間違いなくブロックバスター系の商業映画ではあるが、そこには『ブラッディー・サンデー』で確立された硬派なドキュメンタリー的アプローチが実に効果的に機能していたわけだ。

話がそれた。再び『ユナイテッド93』の話。

本作にはマット・デイモンのようなスター級俳優はいっさい存在しない。だからこそ、観客の目線は誰か一点に集中することはなく常に右往左往し、我々が知りえなかった「事実(と思われるもの)」を追体験していくことになる。

野球帽を被った男がいる。ガッシリした体育会系の男がいる。ひ弱そうなビジネスマンもいる。上品そうな貴婦人がいる。アラブ系の男たちがソワソワと落ち着きがない。あれ、日本人風の若者もいる。フライトアテンダントが客席の様子を見て最終確認に余念がない。2人のパイロットが他愛もない言葉を交し合う。そして、今日も機のエンジンが始動する。

どの描写も、我々がこのあと「大事件」が発生するのだと知らなければ実にありふれたものばかり。だが、これから始まる1時間51分のリアルタイムのフライトを経て、搭乗者と機内スタッフは確実に命を落とすわけである。そう考えた瞬間に頭の中が物凄い速さで逆算をはじめる。あらゆる描写が貴重な足跡のように思えてくる。ほんの些細な乗客の笑顔が観客の胸を締め付ける。

もちろんポール・グリーングラスのことだ、普通の「お涙頂戴」モノの形態は踏襲していないし、それから逸脱して方法論を模索することにこそ彼が映画化を決意した真意がある。各々の描写はいつも以上に限りなくストイック。そして機内で起こったであろう残虐行為に関してはその生々しさが極力控えてある。リアルなのはそういう残虐性や血糊の多さではなく、乗客らが陥った恐怖、不安、驚き、哀しみ、それらすべてを複雑に混在した臨場感の方にこそ向けられる。グリーングラスはキャスティングしたほぼ無名の俳優たちと共に、時には即興性を交えながら乗客の心理状態へのアプローチを試みる。だが同時に、観客がそれにシンクロし過ぎて客観性を失わないように(スピルバーグの『プライベート・ライアン』ではそれを観て卒倒した高齢者が続出したというし)管制官、アメリカ空軍、記録映像といった様々なビジョンを挿入しつつ、決してセンセーショナルに陥らない「淡々とした映画」のスタンスを適温でキープし続けてもいる。

それは映画作りというよりは、むしろ「9・11に関するワークショップ」のようですらあったかもしれないし、やがて我々にもその単なる目撃者ではなく、観客という名の参加者として意識せざるを得ない状況が生まれてくる。だからこそこの映画に触れた後は「感動した」とか「テロは許せない」とかそういう感想よりも、ユナイテッド93便の乗客たちがやがて意を決してテロリストに立ち向かっていくまでの「心の流れ」のようなものが極めてリアルに受け止められる。 本作の質感は、そうして観客ひとりひとりが介在することにより永遠に変化していくだろうし、それはひとつの映画という名の記憶保管装置として極めて有効な形態だと思うのだ。

最後に断っておくが、実際には「ユナイテッド93便」の中でどのようなことが起こったかは皆目わからない(この映画を丸々事実として飲み込むのは危険なことだ)。これはあくまで、いくつもの事実(と思われる状況)と、そして“想定しうる範囲内でのフィクション”に注ぎ込まれた創造性とを柱に、これまで我々がこの手の題材にとって不可侵としてきた領域に果敢に実験性を導入した作品と捉えることができるだろう。

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アカデミー賞に絡ませるには公開が早すぎた感もある『ユナイテッド93』ですが、ニューヨーク批評家協会賞では最優秀作品賞を受賞、その後もアカデミー賞に監督&編集部門でノミネートされるなど、再び評価が高まってきています。一方、同時期に公開された『ワールド・トレード・センター』はそれほど評価されてないところが興味深いところです。その原因はつまり、5年前に起こった悲劇を「劇映画タッチ」で観るか「ドキュメンタリータッチ」で観るかの違いにあるような気がします。観客の精神状態は、まだこの事件を「劇映画」にまで引き離して客観視することを許さなかった。我々はこの2本の映画から、“カメラと被写体の距離感”と“時間の経過”について学ぶことができるのかもしれません。

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