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2006/08/17

『グエムル 漢江の怪物』は、怪獣映画を超えた壮大なるミクスチャーだ。

グエムル 漢江の怪物』をただの怪獣映画と捉えるのは、大海を前にしてその手前にあるほんの僅かな水溜りに歓喜するようなものだ。

『ほえる犬は噛まない』『殺人の追憶』で次々と新ジャンル、新テイストを開拓し、また『オールド・ボーイ』の原作漫画をパク・チャヌク監督に紹介し、ぺ・ドゥナを山下敦弘監督と引き合わせ『リンダリンダリンダ』のお膳立てをしたりと、映画界における数々のフィクサー的活躍も目覚しいポン・ジュノ監督が、その長編第3作目となる本作で挑んだ映画世界とは、入り口は「怪獣小屋」であったとしても、その出口はちょっと想像できないような不思議な手ごたえを残す、前人未到のミクスチャー映画、つまりそれそのものが怪物のようないでたちを誇る異様な作品だった。

その名もなき怪物は、ソウルを流れる河川・漢江から突如として現われる。仮にハリウッド映画のメソッドならば、この怪物がその全形を露にするまでには少なくとも30分を要するだろう。そうすることで「怪獣映画」の構成バランスが保たれるからだ。

だがポン・ジュノはそれを逆手にとって、その決まりきった構造をくつがえす。つまり、怪物は冒頭からそのリアルで緻密な造形を惜しげもなくさらし、ほんの15分ほどで周囲を阿鼻叫喚の地獄絵図へと変えるのである。勿体ぶる様子など微塵も見せず、ただあっさりと。

その惨事の中で、主人公(ソン・ガンホ)の一人娘がその身体をスッポリと飲み込まれ、犠牲者のひとりとなる。やがて体育館のような場所で催される合同通夜。この時、主人公の家族は初めて全員が顔をあわせ、その場に崩れ落ちて数分間に渡り泣きじゃくる(会場には一人娘の写真が飾ってあるから、それを含めて「家族」は全員が揃うわけである。ここで黒沢清『ニンゲン合格』のあるシーンを思い出す人もいるかもしれない)。それは全員が地べたをのた打ち回り、泣き叫ぶ、なんとも悲痛なシーン。しかしながらこれが数分間も続くと“可笑しみ”が生じてくるのだから不思議なものだ。

悲劇を突き詰めたところから零れ落ちてくる喜劇性。このオルターナティブとしての感覚が生じるまで、ポン・ジュノはカメラを回し続け、役者間で起こる化学変化を刻銘に記録する。

先に「ハリウッドの怪獣映画ならば30分はもたせる」ということを書いたが、奇しくも本作においてそれと同じくらいの時間配分で達成されたのがこの「家族の再会」だった。その瞬間、最新のVFXで手間暇掛けて緻密に描かれた怪獣描写は完全に映画の背景(ディテール)に追いやられる。新たなメインとして頭角を現すことになるこの一家は、『ほえる犬は噛まない』&『殺人の追憶』といったポン・ジュノ作品に出演しすでに気心知れたキャストばかり。怪獣VFXにも負けないほどに入念なリハーサル&テイクを重ねて緻密に刻まれた役者どうしのアンサンブルは(来日会見では「そのことは思い出したくない」と皆が苦痛の表情を浮かべる一幕もあった)、この先、観客の触れたこともないような感情を刺激する数々の名シーンを抽出・提示していくこととなる。

その後、漢江での惨劇に立ち会った人々は政府により「ウィルス感染の危険あり」として隔離される。家族も同様に病院に軟禁状態に。そんな折、死んだはずの娘から携帯電話に着信が入る。電波の状態が悪い中で聴こえてきたその声に、まだ娘が生きていると確信する主人公。逆に「頭がおかしくなった」として真面目には請合ってくれない政府。このままでは埒が明かないと判断した彼らは、この厳戒態勢が敷かれた中、次々と包囲網を突破し娘の救出へと走り続ける。

その折に流れるバック・ミュージックがとりわけ興味深い。それは勇壮でも、悲壮でもなく、エミール・クストリッツァの映画を一度でも見たことのある人ならば「んんん!」と感じるほどに民族的で、狂騒的な音楽なのだ。世界中の映画シーンに詳しいポン・ジュノのことだ。これをオリジナルの発想と確信して導入している可能性は極めて低いように思えるし、恐らくは「エミール・クストリッツァみたいな音楽を」とリクエストした上で、それと全く方向性の違うストーリーラインに掛け合わせることによって新しいエモーションが生まれることを目論んだのだろう(そしてこの試みは極めて奇妙な感触で見事に結実している)。

そして忘れてはいけないのが、彼らが背を向けて逃げる相手は「怪物」なのではなく(彼らはむしろ怪物には果敢に立ち向かっていくのである)、韓国政府であり、駐留アメリカ軍である。通常ならば彼ら家族を守ってくれるはずの存在から逃げなければならないという矛盾。これが本作のテーマをより複雑で広域なものに仕立て上げていく。

このタイミングで、すでにソウル市内にはデマゴーグのようなものが浸透しはじめている。政府によって掌握されたあらゆる情報は、ひどく奇妙な形へと姿を変えて広範囲に流布されていく。これは「怪物」「家族」に続く「第3の存在」として本作に大きく関わってくる。カンヌで上映された際には、これらの政府(主に科学者連中)の狂気を取り上げて「キューブリック的(『博士の異常な愛情』的ということなのだろう)!」と称した批評家もいるらしいが、確かにそう受け取れないこともない。

いくつもの単色が現われては既存色と身体を重ね、次々と本作のオリジナリティを更新させ続ける。まるで両手に試験官を握り締め、互いを巧妙に掛け合わせるように続くこの壮大なミクスチャー作業は、さらに後半、ポン・ジュノがファンだと告白する浦沢直樹の「20世紀少年」テイストまでもが混合されることで、いよいよ佳境を迎える。

ポン・ジュノにとって必要だったのは、「怪獣映画」という『ゴジラ』から脈々と連なる系譜を早々と脱構築し、観客を別次元へいざなっていこうとするクリエイト作業だった。そこには彼らしい膨大な映画的知識を基盤とした瞬間演算能力さえも起動させながら、最終的には『ほえる犬は噛まない』『殺人の追憶』でも感じたような、“何か得体の知れない存在を前にして何らかのリアクションを返さずにはいられない人間の姿”を、とてもリアルに浮き彫りにしていく。その人間の本能的な回答が、我々の手を離れてどんどん遠くに行ってしまうのではなく、常に我々の隣に寄り添い、日常性と近似値を保った地点に帰結しているのも、ポン・ジュノの才能を改めて畏怖するに足る要因である。

まだわずか3作しか存在しない彼の長編ではあるが、そこに読み取れる文脈は「恐ろしい存在というものは、必ずしも恐ろしい形態をしたものではない」といったもののように感じられる。何よりミス・ディレクションを大切にするジュノにとって、文字通りの恐ろしい形態をした「怪物」がどれほど「恐ろしさに欠けた存在」であることか想像にかたくない。

本作に登場する「怪物」とは、リアルな造形の「一匹」だけではない。それは時として、予想もしない形で現われ、我々にはその脅威を知る術もない。この緻密なミクスチャー作業を通して浮かび上がってくるいくつもの「怪物のごとき存在」を、果たしてあなたは何匹、認識することが出来るだろうか。その正体にふと気が付いたとき、観客は「怪獣映画」の領域を軽やかに飛び越え、本作の真の姿と初めて真向かうことになるのである。

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