« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »

2006/10/30

『オーロラ』

『オーロラ』を観た。

監督は前に『エトワール』という喫茶店のようなタイトルのドキュメンタリー映画を撮ったニルス・タヴェルニエ。パリ・オペラ座の全面協力を得たバレエ映画ということで、どうせ出演者がピョンピョン飛び跳ねる映画だろうと高を括っていた。そんな程度でこちらが驚かされるわけがない。それくらい俺だってできるさ、ピョンピョン(飛び跳ねながら)。ところが、ここから僕の想像の範疇とは360度裏返って、何やら得体の知れない世界が僕を迎え入れることとなる。

最初の設定からして凄い。「その王国では“踊ること”が禁止されている」という。そして次のシーンに登場するのは、なんと、踊る王女。なんだよお嬢さん、我慢できなかったのか・・・。身内ですら守れないその法令が効力を発揮するわけがない。その様子を苦虫を噛み潰したような表情で見つめる王様。しかし何かを躊躇して、なかなか厳しいことを言い出せずにいる。

そもそも何で踊ってはいけないのか。それは“贅沢すること”の象徴なのか、それとも“何らかの自己表現”の象徴か。いろんなことを考えてはみたものの、僕にはさっぱり答えは出ない。つまり、“踊る才能に恵まれた者”をキャストに据えるにあたり、彼らの最も優れた技能を(物語上)封じることで、その行為をはかなげに表現しようとする狙いなのか。本作では結局、何も語られることがない。

事態は急展開を見せる。財源に乏しいこの王国が存続するためには、もはや美しい王女を政略結婚させるしか手はない、という。そうすれば国民も救われる。国王の申し出を受けて、様々な国の王子が来訪し、ご当地の求婚舞踏を披露する。インド風の国からやってきた王子はベリーダンスを思わせる集団舞踏、フランス風の国からやってきた王子は正統派のバレエダンス、そして僕がこの日もっとも驚かされたのは、ジャポング国(?)からやってきた着物姿の王子が「さあ、ご覧あれ」と披露した珠玉のお家芸舞踏だった。

・・・それがなぜに暗黒舞踏であったのか。

白塗りの男たちが這い回り、その中心には石膏で固められた半裸の女性がいる。彼女は小刻みにブルブル振るえ始め、その振動で石膏がボロボロとはがれ落ちていく。バックには奇天烈な音が鳴り響き、中心部の女性も含めて舞台は得体の知れない雰囲気に包まれていく。これはまさしく「声のない“叫び”」だ。もちろん観てる方にも言い分はある。

披露が終わり、王子は自信たっぷりに王女に尋ねる。

「どうでしたか?」

「どうでしたか?」という話ではない。王女はすぐに「中座します」とばかりに逃げ出し、母親の胸で泣く。そのときの彼女の言葉を僕は忘れない。

「あの王子さまったら、ひどいのよ・・・」

自分のバレエについての素養のなさは知っている。しかしここで見た“バレエらしき世界”は僕の想像の範疇をはるかに超えており、うっかり間違えると、僕はみんなに「これは絶対に見るべきだ!」などと絶賛してしまうのではないか、と今ではそれがいちばん怖い。

『オーロラ』は、12月16日よりBunkamuraル・シネマ、シャンテシネほか全国順次ロードショー。

このブログ筆者の日記はこちら

その他の最新レビューは倉庫で探してみてください

| | トラックバック (0)

『ハヴァ、ナイスデー』

28日よりスタートした『ハヴァ、ナイスデー SIDE B』ユーロスペースにて鑑賞した。

実はユーロが円山町に移動してから初めとなる来館。夜21時からの上映ということで、劇場付近はホテルのネオンが眩しい。劇場まで全力ダッシュで走るさなか、ふと前方のカップルが喫茶店にでも寄るかのようにさりげなくホテルに消えた。その様子は、まるで胡散臭いマジックでも見ているように僕をすこぶる落ち着かなくさせたものだった。

さて、肝心なのは映画の方だ。本作『ハヴァ、ナイスデー』はもともと「短篇.jp」というネット配信ショートムービーが劇場版となって公開されるに至ったもの。『美女缶』の筧昌也監督が『35度の彼女』という作品でこのプロジェクトに参加されていることもあり、ネット版の頃から新作がアップされるたびに視聴していた。そこで18本製作されたショートムービーが、結果的に「SIDE A」と「SIDE B」とに別れてめでたく劇場公開されることになった。

それらは、すべての作品が“たった一日で撮影する”という「ドグマ95」も真っ青の基本ルールにのっとって製作されているという。監督には若手からベテランまで、プロデューサーに組んでみたいと思わせた18人が選ばれた。ネット配信時には僕の全く存じ上げない監督さんもいた。しかしその後、新作映画の製作ニュースを目にするたびに「短篇.jp」の参加者が名を連ねていることが続いたので驚いた。この業界には、僕ら観客が「おっ、この監督いいじゃん!」とか思ってツバをつけるレベルを超えて、本当に素人には判別つかないような段階で「これはいける!」と青田買いのゴーサインを出すプロデューサーの存在があることをまざまざと見せ付けられた。これは実に当たり前のことにも思えるが、当たり前のことが自分の興味の対象内で起こることほど心動かされることはない。

加えて、前々からネットで視聴していた僕としては、アウトプットの違いでこんなにも印象が変わるのか、とも驚かされた。たとえば劇場のスクリーンで見た映画でボロボロ泣いた自分が、次のタイミングでレンタルDVDを家庭のAV機器でその作品と合間見えると「なんぼのもんじゃい」とあっけにとられることがある。それと逆のことが劇場版『ハヴァ、ナイスデー』では起こっていた。パソコンの画面で“小さ目のテレビ感覚”で視聴していた時には面白さがよく分からなかった作品が、ユーロスペースのスクリーンで見ると「おっ!」と軽い手ごたえと共にキャッチできたりする。

もちろん9つも作品が並べば(この日に劇場で見たのは「SIDE B」だったので)そこに自ずと好き嫌いが別れるのは当然のこと。しかしアウトプットの違いによる印象の変化はすべての作品について起こった。デカイ被写体はやはりスクリーンで見るに限る。すばやい動き、ダイナミックな動きもやはりスクリーンで見たい。あとPC画面ではうまく伝わらなかったセリフがスクリーンでは至極すんなりと入ってくる。時間軸における繊細な感情の起伏が手に取るように理解できる。小さい画面を目で見ることと、スクリーンで全身で浴びることとは受け手にこんな差異をもたらすのか。これからは「劇場作品」の定義を改めよう。これすなわち、「五感を使って見る映画」ということなのだ。

**********

『35度の彼女』 …『美女缶』の筧監督による最新作。バスで見かけたあの娘は同級生?人違い?ほんの些細な日常の取っ掛かりが、ミシェル・ゴンドリーを思わせる創造的文体で淀みなく展開する。たった10分間に200カットも用いた映像世界はその手作り感覚を逆手に取っているところで魅力が倍増している。『美女缶』の主役だった藤川俊生のブリーフ姿には脱帽。

『WAITER』 …バレンタイン・デーのひとコマ。喫茶店を訪ねてくるふたりの客。かつて男からラブレターを受け取ったことがあるというウェイター。最初から最後までフォトジェニックな松尾敏伸の横顔を喫茶店の薄明かりが仄暗く照らす。そこに飛び込んでくる小山田サユリの存在感はこの作品でもやはり健在。

『プリーズ、ウェイクアップ』 …CM界の奇才、山内監督がやってくれた。最近ひそかに大注目と謳われる怪優、古館寛治のひとり舞台を阻止しようと、深浦加奈子、初音映莉子が負けじと演技合戦を挑む!という物語ではないのだが、そういう舞台裏の心理を感じさせるほどに俳優の魅力&奇妙なシチュエーションにゾクゾクする作品。観客にぜったい尾をつかまれない山内テイストに最後まで見事に持っていかれる。

『初恋のてんまつ』 …先日、新作『LITTLE DJ ~小さな恋の物語~』製作が発表されたばかりの永田琴監督。恐らく少女にしか分からんであろう、すごくガーリーなストーリーにきちんと男の子目線も入れながら、「やっぱり男はダメなんだから」を少年少女レベルで描いている。余談だが、上映中に隣の席の女性がずっとクスクスと笑っていた。何か彼女の大事な記憶にでも触れたのだろうか?

『バリガー』 …僕の中で9本中いちばん印象が変わった作品。やっぱり東京タワーの陰影はスクリーンで見るに限る。ザラついた映像へのこだわりや、洞窟内の窮屈感から生まれる面白い縮尺変化など、柿本ケンサク作品はやっぱりスクリーン向きのスケール感を持っているんだなあ、と実感。

『世田谷リンダちゃん』 …『タカダワタル的』(監督)や『さくらん』(脚本)や『怪奇!幽霊スナック殴りこみ!』(杉作J太郎による男の墓場プロダクション作品に出演)という輝かしい経歴を持つ女性クリエイター・タナダユキが手がける、ゆるくてミニマルな“ウェスト・ミーツ・イースト”。ムーンライダースの鈴木慶一と『松ヶ根乱射事件』の山下監督とが役者として共演だなんて奇跡に近い。

『世界でいちばん身体にいいこと』 …いぶし銀の職人作品だと思う。本当に小さな作品ながら、その世界を完全に制御してリズムを刻み、最後にポンと次の段階へと昇華させる。上手いなあ、と溜息。

『ピンポンッ』 …自宅に92歳の祖母と住む身としては、いつかその日が来るのかもと不覚にも泣いてしまった。そんな重大事が携帯メールでごくシンプルに知らされるという仕掛け。文面の淡白さが、実は人間の感情の深いところに繋がっていることに、映画が終わってから気づかされる。

『全速力海岸』 …最近さっぱり劇場映画のない中野裕之監督だが、短篇作品『アイロン』がカンヌで受賞するなど映像にかけてはやっぱり最高の仕事をする。ファーストカットから見事に中野印。ネット配信で元気をくれた本作は、劇場でもやっぱり元気をくれた。

このブログ筆者の日記はこちら

その他の最新レビューは倉庫で探してみてください

Google

| | トラックバック (0)

2006/10/23

『父親たちの星条旗』

そもそも人間にとって「戦争」とは紛れもなくただごとならぬ事態である。たとえ映画がエンターテインメントであるとしても、そのテーマとして「戦争」を描くということは、これもまた“ただごとならぬ事態”であるに違いない。

そして戦争映画がそれぞれに歴史に名を残すためには、作り手の「いま、作らなければいけない」という強靭な意思が必要不可欠であり、その主張と時代性とがガッチリと噛みあった瞬間に、その映画は奇跡を起こすことになる。

逆を言うと、そのタイミングを逸した作品は観客によってあまりにぞんざいな扱いをされることが多い。『ワンス・アンド・フォーエバー』しかり『ウインドトーカーズ』しかり。それは作品のクオリティはともかく、“時代に愛されなかった映画”ということができるかもしれない。

『父親たちの星条旗』にはひとつのモニュメントが登場する。それは太平洋戦争における最も有名な記念碑的瞬間のひとつ。6人の兵士たちによって掲げられようとする星条旗の写真である。撮られた戦場は硫黄島の摺鉢山。日米両軍が死闘を繰り広げたこの激戦地において、アメリカ軍は6821人の兵士の命を失い、対する日本軍兵はおよそ2万2千人の兵士のうち、生き残ったのはたったの1000人ほどだった。

兵士たちのあずかり知らぬところでこの写真は“勝利の象徴”としてアメリカ全土に広がっていく。長引く戦況に国民の戦意が甚だしく落ち込んでいた当時、政府にとってはまさしく格好のモニュメントが飛び込んできたというわけだ。星条旗を掲げた6人のうち3人は戦死し、残りの3人は戦場から本国へと送り届けられ、彼らはわけも分からぬうちに「英雄」として祭り上げられる。そして今なお戦地で命を賭ける仲間たちのために戦時国債を売るべしと、彼らはあらゆる政治的なキャンペーンに駆り出される。

しかし肝心の星条旗の写真にはひとつの秘密が隠されていた。その秘密は彼らの心に重く圧し掛かり、「英雄」という言葉の重みは彼らの記憶の傷痕を生涯に渡って生々しく押し広げた。

彼らが硫黄島で体験したひとつの地獄。そして本国に帰還してからの英雄待遇というもうひとつの地獄。

本作は3人の中のひとり、“ジョン・ブラッドレー”の息子(ジェイムズ・ブラッドリー)による原作ルポルタージュ「硫黄島の星条旗」(文集文庫)を基に構築されており、『ミリオンダラー・ベイビー』でイーストウッドと組み、『クラッシュ』ではアカデミー作品賞を受賞したポール・ハギスらによるチームが脚色を担当した。

まずもって度肝を抜かれるのは、戦場のあまりに過酷なリアリティである。『プライベート・ライアン』でスピルバーグが示したような映画的(視覚的、身体的な)な手法とは一線を画するような、目の前に拡がる地獄をじっくり理性的に訴えようとする描写の数々。それは、銃弾が飛び交う“動きのあるシーン”よりは、むしろ“動かないシーン”の方が地獄を感じる、といった極めて不思議な映像体験だった。

そして、イーストウッド作品にはよく“身体の傷痕”が付き物だといわれるが、本作におけるこの生々しさは尋常じゃない。思わず息を飲み込んでしまうようなものがいくつも、またいくつも。それも決してセンセーショナルな描写ではなく、観客の目をそれにじっと向かわせるような、しごく理性的なまなざしなのだ。まるで直視することが“儀式”であるかのような実に冷静なまなざしだった。その時点でイーストウッドのただ事ならぬ覚悟のほどがうかがえ、僕はその強靭な意志に畏怖の念を抱くと共に、目の前で描かれる戦場の様子に心の底から恐怖した。

そして、こうしてストイックな描写が積み重ねられていく中で、やがて一瞬だけ、信じられないくらいに無邪気で、美しいシーンが織り込まれていたことに驚かされる。それはイーストウッド作品にも関わらずどういうわけかその極北、ゴダールの『アワー・ミュージック』におけるラストシーンを思い出してしまいもする、光に満ちた、本当に心洗われる一瞬だった。

**********

戦時中の政府によって利用された“象徴”。それは戦場とはまったく違ったレベルの世界で人々の注目を集め、「さあ、みなさん、勝利までもう少しです!」「ほら、彼らを見てください!国家のために傷つき、倒れていった英雄たちです!」といったような喧伝に多くの国民が涙し、歓喜し、そして熱狂した。そして現代を生きる私達にはこのような疑問が浮かび上がる。

「果たしてこれは、単なる過去の物語だろうか?」

どうしていま、この映画が信じられないくらいの急ピッチで製作され、公開を迎えるのか。しかも硫黄島の戦闘を日本兵の立場から描いた『硫黄島からの手紙』(12月公開)とほぼ時期を同じくして。60年前の状況は、形を変えて、いまこの現代にも深く拡がってはいないだろうか。我々はこの60年のうちに、何かを学ぶことができたのだろうか。

もちろんイーストウッドはそのようなことになどいっさい言及しない。理由は簡単。それは彼の美学に反するからだ。このスタイルをイーストウッドのフィルモグラフィーと重ねるのはかなり強引ではあるが、誤解を恐れずに言うならば、僕の目にはこれが「敵に後姿を見せながらも、最後は確実に撃つ」という西部劇特有の方法論のようにも感じられた。この賢い老人は、現代と激しく殴りあいのケンカを繰り広げることよりも、観客にいくつかの昔話を聞かせることで、僕らが何かに気付き、その先の扉を自分たちの手で押し開けることを促しているのかもしれない。

あの硫黄島の摺鉢山に翻った星条旗を見つめながら、現代における戦意高揚のモニュメントはいったい何なのだろうかと考えてみる。その担ぎ上げられたモニュメントによって誰かが涙を流し、争いごとは絶えず、我々は未来の行く末を激しく混乱させてはいないだろうか。そして、今も昔も、戦場にはただ地獄だけが存在し、そこには正義も悪もないことを理性で受け止めたい。

同時に、映画において戦争を描くということはこれほどまでに強靭な覚悟を必要とするものだということを、イーストウッドの姿勢から改めて感じ取りたい。何千冊の政治本や哲学本などにも増して、たった一本の映画がそのすべてを凌駕した地点にまで我々をいざなってくれるこの奇跡を、決して忘れてはならない。

父親たちの星条旗』は、2006年10月28日より丸の内ピカデリー1ほか全国松竹・東急系にてロードショー。

このブログ筆者の日記はこちら

その他の最新レビューは倉庫で探してみてください

| | トラックバック (0)

2006/10/22

『デート・ウィズ・ドリュー』

かのモーガン・スパーロック氏が、マック・メニューだけで食生活を送るという無謀な行為をSHOW化(『スーパーサイズ・ミー』)してみたり、アラブ人嫌いな青年にムスリム地区に放り込んで共同生活させてみたり(『モーガン・スパーロックの30デイズ』)と、ドキュメンタリーの分野にあらゆる革命を起こしたのは記憶に新しいが、それと同一の方向性としてまたとんでもない映画が誕生した。

Datewith

続きを読む "『デート・ウィズ・ドリュー』"

| | トラックバック (0)

2006/10/20

『長い散歩』

緒形拳が走る映画である。来年70歳になろうという彼がとにかく走る。奥田瑛二も酷なことするもんだと思って見ていると、今度は緒形、なんと本番の一発勝負で髪の毛を剃り上げた。それも『Vフォー・ヴェンデッタ』のナタリー・ポートマンとは比べ物にならないくらいに、躊躇なく、あっさりと。

覚悟を決めた緒形は、隣の部屋で親に虐待されている少女を救い出し、「青い空と、白い雲を見に行こう」と言って旅に出る。それは少女を救う旅でもあり、かつて道を誤った自分自身を救う旅でもある。彼にはその旅の代償が何であるか分かっている。しかし、今、やらなければならない。いま、この「長い散歩」に出なければならないのだ。

2006年のモントリオール映画祭にてグランプリ、国際批評家連盟賞、エキュメニック賞に輝いたこの『長い散歩(a long walk)』は、奥田瑛二による3度目となる監督作だ。その視線は見事なまでに成熟してすべてを見通したかのような神聖な域にまで達し、登場人物のほんの僅かな動きにすら愛と哀しみとを注ぎ込む。

かつて妻を失い、今なお娘から拒絶され続ける父親。親に虐待されてきた幼い少女。不思議と他人の心に入り込んでくる家出青年。

彼ら血の繋がらない3人は、いつしか擬似家族となって歩を進めていく。緒形にとっては過去の贖罪の旅、また少女にとっては愛を見つける旅となり、それはあたかも“巡礼”のような光景を作り出していく。

この巡礼は「子供」と「老人」とで構成され、そこには「中年」の姿が存在しない。本作に登場する中年世代はみんな逃げている。そしてかつて中年時代に“逃げた”結果として、いま老齢となった緒形の演じる主人公には、もう決して、逃げ道が残されていない。だからこそ人間の本能として、前に進むしかない。そこからみなぎる“力強さ”、というよりはあくまで“自然体”の姿に圧倒される。人間、間違いを重ねることで、そして歳を重ねることで、こんなにも安らかな表情を手にできるものなのか、と畏怖の念すら湧き上がってくる。

そしてクライマックスに向けて、また緒形拳が走る。

ひたすら走る。

連れの少女も同様に走り、刑事役の奥田瑛二も、その部下も全力で走る。腕と足とをがむしゃらに動かし、空気を吸っては吐き、泥にまみれ、草木の緑素にまみれ、汗がしたたる。その服に付着した匂いまでもが伝わってきそうな描写が、生きることの懸命さを全身の力をこめて讃えているかのようだ。

それは我々がこの無色透明な現代社会で忘れかけていた感覚、忘れかけていた“愛の形”であったことを、まさに魂のレベルで気付かせてくれる。

2008年10月5日、緒形拳さんが死去されました。

心よりご冥福をお祈り致します。

このブログ筆者の日記はこちら

その他の最新レビューは倉庫で探してみてください

| | トラックバック (0)

2006/10/18

『サンキュー・スモーキング』

 なにもこんなタイトルで愛煙家を皮肉ろうというわけではないし、狙いはむしろその逆にある。弱冠28歳の新鋭監督にして『ゴースト・バスターズ』のアイヴァン・ライトマンの息子、ジェイソン・ライトマンによる初メジャー作『サンキュー・スモーキング』は、「タバコは悪」とする社会常識をいったんニュートラルに戻すことで、そこにうごめく業界・政界のキーパーソンたちの怒りに歪んだ表情を格段に見えやすくしたスマートな社会派コメディだ。

 その中心に立つのがこの人、タバコ会社の敏腕スポークスマン。テレビの討論番組などにも率先して参加し、論客からの一斉砲撃も何のその。常に爽やかな笑顔と明快なトークで世論を巧みに操作する。嘘はつかない。でも聞かれてないことは明かさない。法的には何の問題点も発生しない。必要ならばハリウッドの大物プロデューサーに喫煙シーンを盛り込んでくれるよう直談判だってする。タバコのイメージ向上のためならば何だってやる。それが彼の使命だ。

 そんな彼にも心休まるときはある。夕食時には馴染みの店でいつものメンバーが集結。銃製造、アルコール、タバコといった三大“極悪”企業のスポークスマンたちが世間話に花を咲かせながら情報交換する。ついポロリと飛び出す本音にみんな「わかる、わかる」と妙に納得。彼らは互いにかけがえのない理解者なのだ。

 また彼も家庭に帰ればひとりの親だ。父の仕事のせいで肩身の狭い思いをしている息子に対して得意の「議論のすり替え」で接するわけにもいかない。息子は論敵ではないのだ。じゃあ、家庭と仕事とで表情を使い分ける俺の主張って一体何なの?っつうか、タバコって本当に世間で言われるように悪なの?

やがて天の啓示を受けた彼がひとりの人間としてゆっくり思考をめぐらすとき、役職を超えた新たなビジョンが対立の向こうを明るく照らし出す。

時として人は必要以上に目くじらを立て、その先にある大きな問題を見えなくしてしまうが、本作が目指すのはその「思考停止」からの大いなる脱却だ。これは愛煙家と禁煙家の魂をそろって健康にする映画であり、現代に生きるあらゆる人たちへ贈る最良の処方箋といえるだろう。

■この記事が参考になったら押してください→人気blogランキング

サンキュー・スモーキング
監督:ジェイソン・ライトマン
出演:アーロン・エッカート、マリア・ベロ、キャメロン・ブライト
(2006年/アメリカ)20世紀フォックス映画

------

TOP】【過去レビュー】【DIARY

| | トラックバック (0)

2006/10/16

EYESCREAM発売中

USENより出版されている月刊マガジン「EYESCREAM」の11月号が、ただいま全国の本屋さんやレコードショップで絶賛発売中です。今月の表紙はダフトパンク。僕ってば、あのヘルメットかぶったダフトパンクさんたちの中身はてっきりロボットかなんかだと思ってたんですが、あれってちゃんと人間が入ってるらしいですね。そんでもってちゃんとインタビューにも答えたり、フォトセッションでもきちんとポージングしてるし、自分にとっては衝撃的な特集でした(そもそもダフトパンクはこんな風にあんまりインタビュー受けたりしないらしいですしね)。

それで、この号の中で僕がインタビューさせてもらっているのが、『紀子の食卓』の園子温(その・しおん)監督。この映画がかなり凄いことになってます。そもそもプチョン国際ファンタスティック映画祭で観客賞&主演女優賞(吹石一恵さん)を受賞したりと、国際的評価を勝ち得た作品ではあるのですが、だからといって一概に「すばらしい!」と賞賛できる作品というわけではなく、なんだか観終わってから3時間くらいは口が聞けなくなるような、中学生未満とあとおじいちゃんおばあちゃんには決して見せられないような、そんな衝撃的度合いの高い作品です。それでいて、この現代社会のカオスの中をもがき、苦しみ、鏡に映った自分の姿と全力で対峙するかのような“覚悟”を秘めた作品であることも事実。インタビューしているときに監督が語った次の言葉がとりわけ印象的でした。

「最初っから“成功作”を撮ろうなんてさらさら思ってないですね。そんな綺麗な枠におさまるくらいなら、失敗して枠からおもいっきりハミ出した方がどれだけマシなことか。そんな映画をこれからも作っていきたいですね」

いやあ、『紀子の食卓』はまさにそんな作品なんです。この2時間半の超大作は、そんじょそこらのありふれた才能、そしてありふれた商業的エネルギーでは到底成しえない価値観、世界観を観客に突きつけます。そしてそこで提示したものをそのまま自己完結で閉じてじまうわけじゃなく、しっかりと観客の手に結論を委ねている。

つまり、この先、現代を生きていくのは観客自身なのだと覚醒させる。実際、あの吹石一恵さんがクライマックスでは本当に物凄くシュールで凄惨な事態に陥ってしまうのだけれど、そこを突き抜けた暁には嵐の去ったような爽やかな余韻が待っている。そんな映画です。現在、東京は新宿K's CINEMAにて公開中。

ちなみにこれから年末にかけて園作品が怒涛の公開ラッシュを迎えます。11月11日からはオダギリジョー主演『HAZARD』がシアターN渋谷にて公開。12月下旬からは『気球クラブ、その後』が公開予定。

他にもいくつか映画レビューを書かせてもらってます。

このブログ筆者の日記はこちら

| | トラックバック (0)

『敬愛なるベートーヴェン』

*以下の文章は筆者が勢い余ってしまったため作品の詳細に触れる部分があります。まだ本編をご覧になってらっしゃらない方は大人の判断でお読みください。

Copiengbeethoven_2  

続きを読む "『敬愛なるベートーヴェン』"

| | トラックバック (0)

2006/10/13

『マリー・アントワネット』

『マリー・アントワネット』を観た。パンを食べる経済力もない国民に対し「だったらお菓子を食べればいいじゃないの」と言った悪名高き王妃・・・というのが一般的な知識ではあるものの、もちろんソフィア・コッポラが示すのはそれとは180度視点の違う映像世界。それでこそソフィアが作る意味があるというもの。

18世紀中葉、オーストリア大公マリア・テレジアの政略は、国の生き残りを賭けて娘たちを近隣大国に嫁がせることにあった。末娘マリーにあてがわれたのは、フランス。1770年、ついにマリーが祖国を離れることになったその年、彼女はまだ14歳で、一方、彼女を迎える側のルイ16世にしてもまだ15歳の青年だった。

続きを読む "『マリー・アントワネット』"

| | トラックバック (0)

『人生は、奇跡の詩』

『人生は、奇跡の詩』について僕が『ライフ・イズ・ビューティフル』と共通した印象を持ってしまうのは、単に監督・主演がロベルト・ベニーニであるだけでなく、どちらも歴史に刻まれた悲劇の場所で主人公が愛する者を必死に守りぬくという映画だからだ。

元妻が危篤に陥ったとの報を受けた主人公が、緊急援助隊にもぐりこんで辿り着いたのは、イラク戦争真っ只中のバグダッド。医療物資の乏しいその地にて愛する者を救いたい一心で奔走する主人公の姿、そして戦場で巻き起こる悲劇とを、まさに『ライフ・イズ・ビューティフル』の精神を受け継いだ、笑いと感動とを織り交ぜたスタイルで描いている。

…だが、それにしてはいろんな事が多分に盛り込まれ過ぎて、すべてがとっちらかって終息している印象が強い。主人公が詩人であり、その友人(ジャン・レノ)も詩人なのに、戦場の地にてなんら言葉の力が発揮されないのは、構成上とても勿体ないことである。過去と現在、そして夢の中の出来事が交互に訪れ、観客になかなか全貌を明かさない仕掛けも、仕掛けといえば仕掛けだが、それにしては解き明かされたときのグッとくる手ごたえに欠ける。

しかしそれにしても鑑賞後の幸福感だけはしっかりと残るのが不思議なところだ。それはベニーニが抱く、この世のすべての争いごとが“愛”と“笑い”の前でだけは足をすくませ、これらの力は何にも勝る、という(かつてチャップリンが思い描いたものをしっかりと受け継いだ)かけがえのないビジョンを感じるからだ。

映画の中身は確かに“とっちらかって”いたけれども、世界の現状はなおのこととっちらかっており、いまだにイラク戦争の後始末もできず混乱が続いている。ベニーニは『ライフ・イズ・ビューティフル』で確かに大成功を納めたかもしれないが、そこで扱われたユダヤ人迫害という背景は公開当時すでに50年も前の出来事で、数多くのフィルムメーカーたちの被写体となっていたし、少なくともいまだ“とっちらかっている”という状況ではなかった(もちろん、“想い”を引きずる人はいまだ数多くいるだろうが)。とすると、『人生は、奇跡の詩』でベニーニがやりたかったことは、現在進行形の悲劇に“笑い”がいかに対抗しうるか、という挑戦に他ならないことになる。

映画の中でイラク戦争を描くということ。それも“コメディ”という枠組みで描くということ。

『ライフ・イズ・ビューティフル』に比べれば、達成感も躍動感も段違いに低いが、先に述べた“とっちらかりぶり”が実はベニーニの持つかけがえのない人間性(=持ち味)なのではないか、と考えてしまう。ここは観客がスマートな映画を強く求めるよりも、まずはベニーニ自身がそこから「物語る」ことをスタートするのを肯定すべきではないかだろうか。そう応援したい気持ちが湧き上がってくるのである。

なにしろ冒頭のシーンがあまりに美しいのだ。ミュージシャンのトム・ウェイツ本人がダミ声で奏でる優しいメロディーが心に沁みる。その中で抱擁を交わす男女、そして交わされる愛の言葉。このシーンに涙がこぼれそうになってしまうのは、ロベルト・ベニーニが再び映画の力を信じ始めた瞬間を強く感じるから、かもしれない。

この映画を観た10人に3人くらいは、その可能性に賭けてみたいと、そう思うかもしれない。

■この記事が参考になったら押してください→人気ブログランキング

このブログ筆者の日記はこちら

その他の最新レビューは倉庫で探してみてください

| | トラックバック (0)

『世界最速のインディアン』

主演はアンソニー・ホプキンス。

といっても彼が人肉を食らったり、人を皮肉ってニヒルに笑ってみせたりするような映画ではなく、その正反対。本当にいますぐギュッと抱きしめたくなるような“ジイさまロードムービー”なのだ。同じジイ様でも、デヴィッド・リンチの『ストレイト・ストーリー』のようにトラクターで目的地へ向かうスロー・ライフじいさんではなく、こっちのアントニーじいさんはなんとバイク乗り。外見は小太りで、頭の中身も相当ガンコ。けれど、ひとたびそのゴッドハンズがエンジンに触れると、それはまるで新車のようにブロンブロンと息を吹き返し、いざバイクに跨れば最初はヨロヨロでもラストは根性でブンブンぶっちぎる。

実はバイクのことはよく分からないので、タイトルを見た途端「差別用語じゃねえか!」と飛び上がってしまったのだが、後でそういうバイクの車種(インディアン・スカウト)だと知って納得した。ニュージーランドで320キロという自己記録の更新を夢見て暮らすこのジイ様は、やがて人生のラストチャンスとばかりにアメリカへ渡航し、多くの人々との出会いに支えられながら、ユタ州のソルトフラッツで行われるスピード記録測定会“スピードウィーク”を目指す。

ロードムービーというジャンルは“出会い”がキーになる。そもそも乗り物といえば馬車からスペースシャトルに至るまで、とにかく人と人とを繋ぐために進化してきたといっても過言ではなく、それは同時に数多くの“出会い”をもたらすものである。ホプキンス演じる主人公は、それこそレクター博士ならば血を一滴も流さずひと刺しであの世に送還させてしまうかもしれないほど小馬鹿にされながらも、それを意にも介さず、自分なりのペースでバイクへの熱い想いを相手に語り続ける。そして別れの時には堅い握手。結果的に握手の数ほど笑顔が生まれ、そこで出逢った人々はみんな彼のことを好きにならずにはいられない。こんなに可愛らしいホプキンスは初めて見たし、そこで出会う素敵な人々それぞれの背景に1962年という時代が息づいているのが素晴らしい。

特にこれといったヒネリもなく、あまりに実直過ぎるといえばそうなのだが、こんなにも気長で、微笑ましい感情を抱ける映画も久しぶりだった。アメリカがベトナム戦争に明け暮れている時代に、まったく別の次元でガハハハと朗らかに声をあげて笑っている奴がいる。ソイツは今日も愛車に跨って、顔の皺をブルンブルン揺らしながらスピードの限界に挑戦する。それはどこか『紅の豚』のポルコ・ロッソのようでもある。そういえばホプキンスもどう弁解させたところで明らかな“太め”であることには変わりなく、彼が乗るインディアンは“真っ赤”だ。

やっぱり『紅の豚』の精神が、この映画のどこかに潜んでいるとしか思えない。

■この記事が参考になったら押してください→人気ブログランキング

このブログ筆者の日記はこちら

その他の最新レビューは倉庫で探してみてください

| | トラックバック (0)

« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »