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2006/10/23

『父親たちの星条旗』

そもそも人間にとって「戦争」とは紛れもなくただごとならぬ事態である。たとえ映画がエンターテインメントであるとしても、そのテーマとして「戦争」を描くということは、これもまた“ただごとならぬ事態”であるに違いない。

そして戦争映画がそれぞれに歴史に名を残すためには、作り手の「いま、作らなければいけない」という強靭な意思が必要不可欠であり、その主張と時代性とがガッチリと噛みあった瞬間に、その映画は奇跡を起こすことになる。

逆を言うと、そのタイミングを逸した作品は観客によってあまりにぞんざいな扱いをされることが多い。『ワンス・アンド・フォーエバー』しかり『ウインドトーカーズ』しかり。それは作品のクオリティはともかく、“時代に愛されなかった映画”ということができるかもしれない。

『父親たちの星条旗』にはひとつのモニュメントが登場する。それは太平洋戦争における最も有名な記念碑的瞬間のひとつ。6人の兵士たちによって掲げられようとする星条旗の写真である。撮られた戦場は硫黄島の摺鉢山。日米両軍が死闘を繰り広げたこの激戦地において、アメリカ軍は6821人の兵士の命を失い、対する日本軍兵はおよそ2万2千人の兵士のうち、生き残ったのはたったの1000人ほどだった。

兵士たちのあずかり知らぬところでこの写真は“勝利の象徴”としてアメリカ全土に広がっていく。長引く戦況に国民の戦意が甚だしく落ち込んでいた当時、政府にとってはまさしく格好のモニュメントが飛び込んできたというわけだ。星条旗を掲げた6人のうち3人は戦死し、残りの3人は戦場から本国へと送り届けられ、彼らはわけも分からぬうちに「英雄」として祭り上げられる。そして今なお戦地で命を賭ける仲間たちのために戦時国債を売るべしと、彼らはあらゆる政治的なキャンペーンに駆り出される。

しかし肝心の星条旗の写真にはひとつの秘密が隠されていた。その秘密は彼らの心に重く圧し掛かり、「英雄」という言葉の重みは彼らの記憶の傷痕を生涯に渡って生々しく押し広げた。

彼らが硫黄島で体験したひとつの地獄。そして本国に帰還してからの英雄待遇というもうひとつの地獄。

本作は3人の中のひとり、“ジョン・ブラッドレー”の息子(ジェイムズ・ブラッドリー)による原作ルポルタージュ「硫黄島の星条旗」(文集文庫)を基に構築されており、『ミリオンダラー・ベイビー』でイーストウッドと組み、『クラッシュ』ではアカデミー作品賞を受賞したポール・ハギスらによるチームが脚色を担当した。

まずもって度肝を抜かれるのは、戦場のあまりに過酷なリアリティである。『プライベート・ライアン』でスピルバーグが示したような映画的(視覚的、身体的な)な手法とは一線を画するような、目の前に拡がる地獄をじっくり理性的に訴えようとする描写の数々。それは、銃弾が飛び交う“動きのあるシーン”よりは、むしろ“動かないシーン”の方が地獄を感じる、といった極めて不思議な映像体験だった。

そして、イーストウッド作品にはよく“身体の傷痕”が付き物だといわれるが、本作におけるこの生々しさは尋常じゃない。思わず息を飲み込んでしまうようなものがいくつも、またいくつも。それも決してセンセーショナルな描写ではなく、観客の目をそれにじっと向かわせるような、しごく理性的なまなざしなのだ。まるで直視することが“儀式”であるかのような実に冷静なまなざしだった。その時点でイーストウッドのただ事ならぬ覚悟のほどがうかがえ、僕はその強靭な意志に畏怖の念を抱くと共に、目の前で描かれる戦場の様子に心の底から恐怖した。

そして、こうしてストイックな描写が積み重ねられていく中で、やがて一瞬だけ、信じられないくらいに無邪気で、美しいシーンが織り込まれていたことに驚かされる。それはイーストウッド作品にも関わらずどういうわけかその極北、ゴダールの『アワー・ミュージック』におけるラストシーンを思い出してしまいもする、光に満ちた、本当に心洗われる一瞬だった。

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戦時中の政府によって利用された“象徴”。それは戦場とはまったく違ったレベルの世界で人々の注目を集め、「さあ、みなさん、勝利までもう少しです!」「ほら、彼らを見てください!国家のために傷つき、倒れていった英雄たちです!」といったような喧伝に多くの国民が涙し、歓喜し、そして熱狂した。そして現代を生きる私達にはこのような疑問が浮かび上がる。

「果たしてこれは、単なる過去の物語だろうか?」

どうしていま、この映画が信じられないくらいの急ピッチで製作され、公開を迎えるのか。しかも硫黄島の戦闘を日本兵の立場から描いた『硫黄島からの手紙』(12月公開)とほぼ時期を同じくして。60年前の状況は、形を変えて、いまこの現代にも深く拡がってはいないだろうか。我々はこの60年のうちに、何かを学ぶことができたのだろうか。

もちろんイーストウッドはそのようなことになどいっさい言及しない。理由は簡単。それは彼の美学に反するからだ。このスタイルをイーストウッドのフィルモグラフィーと重ねるのはかなり強引ではあるが、誤解を恐れずに言うならば、僕の目にはこれが「敵に後姿を見せながらも、最後は確実に撃つ」という西部劇特有の方法論のようにも感じられた。この賢い老人は、現代と激しく殴りあいのケンカを繰り広げることよりも、観客にいくつかの昔話を聞かせることで、僕らが何かに気付き、その先の扉を自分たちの手で押し開けることを促しているのかもしれない。

あの硫黄島の摺鉢山に翻った星条旗を見つめながら、現代における戦意高揚のモニュメントはいったい何なのだろうかと考えてみる。その担ぎ上げられたモニュメントによって誰かが涙を流し、争いごとは絶えず、我々は未来の行く末を激しく混乱させてはいないだろうか。そして、今も昔も、戦場にはただ地獄だけが存在し、そこには正義も悪もないことを理性で受け止めたい。

同時に、映画において戦争を描くということはこれほどまでに強靭な覚悟を必要とするものだということを、イーストウッドの姿勢から改めて感じ取りたい。何千冊の政治本や哲学本などにも増して、たった一本の映画がそのすべてを凌駕した地点にまで我々をいざなってくれるこの奇跡を、決して忘れてはならない。

父親たちの星条旗』は、2006年10月28日より丸の内ピカデリー1ほか全国松竹・東急系にてロードショー。

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