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『007 カジノ・ロワイヤル』

9.11以降、アクション映画のあり方は大きく変わった。あらゆる意味で現実がフィクションを凌駕し、歴史的裏づけのない大量殺戮、一般人を巻き込んだ大爆破などはタブー視されるようになった。エンターテインメントとは時代の産物なのだとあらためて思う。爽快感の定義は時代によって大きく変わるのだ。

そんな中、老舗007本舗がその方向転換に生き残りを賭けたことは懸命な判断だったといえる。原作小説はとうに底を突き、あのまま加速していたら、それこそ次の相手は火星人とかになっていたに違いない。そして20世紀のロミオとジュリエットとまで呼ばれ(僕がそう呼んでいるだけだが)決して結ばれることはないと思われていた「007」ブランド(MGM)と「カジノ・ロワイヤル」映画化権(ソニー)とが、製作会社の統合により運命の再会を果たしたことも、この流れをいっそう加速化させる原動力となった。

というわけで、007シリーズ最新作の土台となるのは、原作の第一作目にあたる「カジノ・ロワイヤル」(イアン・フレミング作)。そこでは殺しのライセンスを得てまだ日の浅いボンドが“洗練”とは程遠い無骨さで危険に立ち向かう。まさに前任のブロスナン時代とは180度違った世界観。気になる時代背景は、原作の「冷戦初期」から「現代」へと華麗にスイッチング。つまり今回の作品を外観すると、こういうことになる。

「突然ですが、前のボンド(ボンド像)は事実上リストラされました。でもどうかご安心を。当シリーズはいったんリセットされ、007誕生の瞬間からもう一度、歩き出します」

とは言うものの、すべてが心機一転というわけでもなく、ジュディ・デンチは直属の上司M役を続投し、一方で秘密道具開発担当のR(Qを演じていたデスモンド・リュウェリンが死去したのち、モンティ・パイソンのメンバー、ジョン・クリースがその後任者Rを担っていたのだが)は姿を消した。監督にはピアース・ブロスナンが007役に初登板した『ゴールデンアイ』(95)でメガホンを取ったマーティン・キャンベル。その後、『マスク・オブ・ゾロ』でも評価を得るが、続編『レジェンド・オブ・ゾロ』(05)では見事に失速し、今回は汚名挽回をかけた登板となった。そして何より、新ボンドに任命されたダニエル・クレイグにとってみれば、まさに世の審判を仰ぐかのような複雑な心境だったに違いない。

だがフタを開けてみれば、万事快調。全英、全米ともに大ヒット。この調子で日本でもそれなりにヒットするだろうから、僕としてはこれで安心。好きなことが書ける。

この映画はとある陰謀を追っかけたリレー形式で話が進む。前半部には2段構えの息の長いアクションが組まれ、次に訪れるハイライトにはなんとカジノでのポーカー対決が据えられる。カードをめぐるやりとりの狭間に踏んだり蹴ったりの分刻みの小イベントをこなしつつ、基本的には各出演者の演技合戦がメインを占める。ここまでの流れはポール・ハギスによる脚本の筆致もあってか、実に見事な腕前。というか、なんだか不思議な新食感。

特に鏡の前で自らを叱咤激励するボンドの思わぬ素顔や、聡明なボンド・ガールを演じるエヴァ・グリーンがふと見せる哀しい表情は、まさにハギス起用の成功を確信させる名シーンだ。

しかし、この最大の見せ場を脱して残り時間を確認したときに、かすかな不安がよぎった。ここから007チームが全身全霊を込めてお贈りする大どんでん返しショーとなるはずが、「~週間後」という時間経過と、いくつかの言葉だけの説明による小ビックリとが詰め込まれ、これまで順調に観客をリードしていたリレーがプツンと事切れる。そしていざストーリーが大きな波に到達しようとするとき、そのタイミングが極めて散漫になる。プロットの複雑性をストイックに追い求めた結果、作品が観客をリードする立場から逆にリードされる立場へと転落してしまったように、少なくとも僕にはそう感じられた。

今回の日本公開で見守りたいのは次の2つ(これを書いているのは日本公開の前日です)。

①果たしてボンドの路線転換が観客にどれだけ理解されるのか(原作シリーズの弟一作目『カジノ・ロワイヤル』を現代版に描くということ、またこれまでのボンド像がリセットされるということ、あるいは「ジェームズ・ボンドが007になるまでの物語」というキャッチは、幾ばくか観客を混乱させることがないかどうか)。②クライマックスのプロットを観客がどう観るか(クライマックスをリードするのは製作側か、それとも易々と先を読んだ観客か)?

あとは③として「ダニエル・クレイグは受け入れられるか?」としたいところだが、すでに答えは出ているようだ。本作で世界中の多くの観客がダニエル・クレイグ大好きっ子と化しているように、僕も今のところ彼の佇まいが大好きである。日本人にしてみれば、あの青い眼はこれまでの現実離れしたボンドにも増して宇宙人的に見えるんだけど、そんな何考えてるんだか分からない男がふとした瞬間に物凄く人間くさい仕草を決め込んで、観客の側にズズズッと譲歩してきたりする。そのギャップ作りの巧さがこの俳優の特権性を感じさせる。来年にはニコール・キッドマンとの共演作が2本も待機しているが、2006年10月に公開された主演作『レイヤー・ケーキ』は小品ながら拾い物の快作なので機会あらばぜひご覧あれ。

次回の007『BOND22』(仮題→007シリーズは正式なタイトルが決まるまでこのような仮題で制作進行される。ちなみに、この順番に1967年版『カジノ・ロワイヤル』と1983年の『ネバー・セイ、ネバー・アゲイン』は含まれていない)は2008年に公開予定。再び原作から離れオリジナルの脚本が展開することとなるが、果たして今回のようなストイック路線の継続で行くのか、それともかつてのSF路線に舞い戻って火星探索でもやらかそうというのか、不安は募るばかりだ。けれど、少なくともクレイグならば火星においても健さんばりの人間臭さで任務を遂行してくれるかもしれないなあと、朦朧とした頭で漠然とそう考えている。

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ダニエル・クレイグ版『カジノ・ロワイヤル』DVDが遂に5月23日に発売決定。ピーター・セラーズ主演の幻のコメディ映画『カジノ・ロワイヤル』とはくれぐれも間違われませんように。

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『華麗なる恋の舞台で』

2005年のアカデミー賞、主演女優賞を巡って『ミリオンダラー・ベイビー』のヒラリー・スワンクと『BEING JULIA』のアネット・ベニングが一騎打ちを果たしたとき、僕はたまたまイギリスにいて、帰国便の中で「SWANK WON」のニュースを知った。

勝負の世界とは無情なもので、『ミリオンダラー・ベイビー』が半年も待たずに日本公開されたのに比べ、『BEING JULIA』は公開まで2年近くも待たされた。そして2007年の新年、ようやく『華麗なる恋の舞台で』という邦題で劇場公開を迎えることとなる。

原作はサマセット・モームの「劇場」という作品(と偉そうに言っても、読んだこたぁないけどさ)。

時は1938年、自分の俳優人生に倦怠感を抱いていたベテラン女優のジュリアは、ある日「あなたのファンです」と言って現われた20ほど歳の離れた米国人男性と恋に落ちる。その男の若いエキスを吸い取るようにメキメキ女優として復活を見せるジュリアだったが、その後、アメリカ男は彼女をあっさりと裏切り、新進女優のもとへ去ってしまう。顔では強がって見せても、実はかなりの精神的痛手をこうむったジュリア。しかしここからが大女優の正念場。遂に幕が上がった舞台上で、彼女はとっておきのリベンジを用意していた…。

そもそも舞台が登場する映画といえば無数に存在するが、本作はオーソドックス&ウェルメイドなつくりと華麗な衣装とで観客を安心させながらも、その裏側には、①「原作モノ」で、②話の中で「舞台」を扱い、③しかもアウトプット形態としては「映画」、という3つのメディアのを巧みに横断した構造的な面白さを秘めている。

とりわけ示唆的なのが、死して劇場の精霊と成り果てたジュリアの師匠、マイケル・ガンボン(ハリー・ポッターのダンブルドア校長でお馴染み)のこのセリフだ。

「劇場の外はすべて偽りだ。真実は、舞台上にだけ現われるのだ!」

どうやら舞台の世界ではそのようなことになっているらしい。とりわけジュリアにいたっては、まさに「舞台」に立つことを運命づけられた人間なのであり、舞台こそが彼女を最大限に光り輝かせる聖域なのだ。つまり、精霊(ガンボン)の言葉に従うのならば、ジュリアは外の世界でどれだけ辛酸を舐めようとも、最後は舞台上でケリをつけることで、大いなる輝き(真実性)を手にできるのである。

この「現実」と「虚構」を行き来する感覚は、深く突き詰めると『マトリックス』的な世界にさえたどりつくのかもしれない。ジュリアの場合、観客の「舞台」=「偽りの世界(フィクション)」という観念が綺麗に逆転してしまっている。彼女にとって舞台とは、日常生活で身に着けていた仮面を剥ぎ取り、いざ素顔をさらして真剣勝負を挑む場所、なわけである。

だからこそ、彼女がその生き様を大いに体現するとき、舞台上でひとつの奇跡が巻き起こる。

その瞬間、劇場の客席に居合わせた観客は総立ちになって大女優ジュリアに拍手を贈る。観客は舞台上に現われた奇跡(=めったにお目にかかれない真実)に歓喜し、その真意を知ってか知らずか、いや、そんなことはどうでもいいのだとばかりに、ただただ無心に拍手を送る。彼らはこの奇跡の貴重な「目撃者」となったのである。

一方、我々(映画の観客)が目撃するのは、このコミカルな復讐劇の裏側でカメラをまわすイシュトバン・サボー監督の存在だ。

これほど舞台に充満する真実性について嬉々と賛美しておきながら、このフィルムメーカーったら、結局、最終的な語り口として飄々と「映画」を選択しているわけである。出演者に「舞台の上にこそ真実が宿る!」などと語らせながらも、カメラの裏側では「いいや、映画にこそ真実は宿るのさ」とニヤリ本音を漏らしている様子が目に浮かぶ。

本作で仮面をかぶっているのは、どうやら俳優だけではなかったようなのだ。

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『鉄コン筋クリート』

かつてスピリッツで連載されていた原作漫画を毎週のようにコンビニで立ち読みしていた。だが、当時の僕にはシロの言う「あんしん、あんしん」という言葉の響きが一向に分からずにいた。あれから十数年が経ったが、あの頃学生だった僕が実感した「あんしん」と、そして大人になったいま実感する「あんしん」とは色調がかなり異なるだろうし、それはあらゆる原作ファンにとっても同様のことだったろう。

しかし、3年半にわたる難産を経て生み落とされたこの映画版『鉄コン筋クリート』において、ひとたび蒼井優が「あんしん、あんしん」と発するや、すべてが瞬間的に一本の線で繋がったような衝撃を覚えた。

もちろん原作をどれだけ紐解いてみたところで、「シロの喋りはこんな感じ」などと詳述されてなどいない。その曖昧さこそが漫画の旨味であると同時に、それを映画化するとなるとあらゆるディテールをリクリエイトしなければならない必要性に見舞われる。それが映画の旨味であると同時に危険性ですらある。

そして多くの場合、原作者による「好きに作ってください」という言葉や、「映画には映画なりのアプローチが」などといった“逃げ道”が観客の期待を奈落の底に突き落としてしまう。

しかしマイケル・アリアスとSTUDIO4℃(『マインド・ゲーム』)の共同作業は初めからその落とし穴を埋める作業でもあったかのように思える。先の蒼井優の発した「あんしん」のひとことが巧みな演出によるものなのか、それとも蒼井の感性によって発露されたものなのかはっきりとは分からないが、この映画化の正当性はこのたった一言の訴えかける力に始まり、キャラクターの動きに受け継がれ、俯瞰から鳥の目線でその全貌を明らかにしていく宝町の街並み、喧騒、匂い、温度といったあらゆる細かい部分において原作ファンに信頼に足る“解釈”を提示するのである。

そして原作の1コマ1コマを絶対原則のカット割りと捉えるのでなく、その精神性を伝える上で時には大胆なアプローチをも取り入れつつ(とくに後半、クロとイタチが対峙するあたりの創造性の爆発は4℃の『マインドゲーム』を彷彿とさせるほどに圧巻)、人が始めて「鉄コン筋クリート」という原作漫画に出逢ったときに感じた想いの延長戦上にあるものをひたすらに目指し続ける。この挑戦に頭の下がる思いがした。

僕がこの映画を観た完成披露試写の際、監督のマイケル・アリアスはその名前からは想像もできないくらいの流暢な日本語でこう語った。

映画はひとりだけで作るものじゃなく、脚本を書く人がいて、絵コンテを描く人がいて、作画する人がいて、お金を集める人がいて…とにかく大勢の人が関わって生まれます。そんな中で、常に個々が100%以上の力を出してないと本領が発揮できないんですね。今回、長きに渡り本当に愛を込めて作りました。正直言って、何度見てもこの映画が良いか悪いか客観的には分からない状態なんですが、一緒に作ったスタッフのおかげでとにかく“面白い作品”になったと思ってます

威勢を張るわけでもなく、ひとりのクリエイターとして謙虚になりすぎるでもなく、彼はただ正直にそう口にし、実際に観客がこの作品に触れた後には、彼の正直さと“面白い作品”という言葉の意味を深く受け止めるかのような空気が流れていた。

そしてすべての象徴として、蒼井優(シロ)の発する「あんしん、あんしん」がある。この「鉄コン筋クリート」という青春時代のみならず人生の全過程において影響を及ぼす奥深い世界観を、まさにひとつの安心感で包み込むかのようなその声のトーンに、本作の映画化を危惧していたひとりとしては、なんだかとっても安心した。

『鉄コン筋クリート』は12月23日より全国ロードショー

鉄コンのDVDがいよいよ6月27日にリリース!

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『トゥモロー・ワールド』

『トゥモロー・ワールド』・・・。この大風呂敷を広げたような(あるいはちょっとディズニーランドっぽくもある)タイトルを目にして、「ああ、やばいなあ、いかにもB級の失敗作っぽいなあ」などと考える人もいるかもしれない。打ち明けるならば僕もまさしくその類の人間だった。映画を観る前から気合を入れずにはいられないこの心理状況。まあ、負け戦に挑むのも悪くはない。どんなにヒドイ映画だったか、後で友人に笑って話してやろうか。はっはっは。

しかしながら、これは上映開始たった5分で分かることだが、本作は紛れもない傑作である。

『天国の口、終わりの楽園』で若者の馬鹿騒ぎの奥に寂寥感をにじませ、『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』で前2作の教科書どおりの退屈な世界観を覆す極上のビジュアル感覚を導入したアルフォンソ・キュアロンは、2027年という現代から換算してみても“近からず遠からず”の未来世界を絶妙な距離感で視覚化してみせる。これほどの最新VFXを施された映像なのにも関わらず、この映画が観客に対して切り出すのは、「物語」ではなく「状況」だ。突如、能書きもなく幕が上がれば、そこはひたすら「状況」が横たわっている。ニュース映像、カフェ、淹れたてのコーヒーを受け取る、ふと立ち止まってカップにちょっとだけウイスキーを垂らす、そして…。

なんのことはなく1ショットで撮られるこのシークエンス。それも、これ見よがしな長回しではなく、後から気が付けばそうだった、というだけのことだ。さも、それが当たり前のように1ショット撮影=状況が展開する。この冒頭5分、我々は突如として何の説明書きもなく「状況」の中に放り込まれ、それは加速度的に展開していくのだ。

その精巧さを物語るために、僕はピエロ役を担うことにする。つまり、少しだけ本作の「状況」を紹介しておこう。

舞台は2027年の英国。人類が子供に恵まれなくなって久しい未来。最後に生まれた子供はもうすぐ成人、というくらいなので、もう20年近くもご無沙汰しているという状況だ。テロや暴動、それに移民問題なども手伝って、社会状況がカオスを呈している中で、主人公(クライヴ・オーウェン)はとある反政府組織の守護下にある移民少女の存在に触れる。彼女はひとつの秘密を抱いていた。このことが持つ政治的意味は大きい。だからこそ、反政府組織は来るべき時に備えて彼女の存在を隠し通そうとしている。その動向に気付き、主人公は彼女を連れ立って、一路、港を目指す。そこから出航する船に乗って、外の世界へと旅立つために。

と、これだけの内容が、本作では映像のみで伝わってくる。今ここで、これだけの能書きを垂れてしまった自分が何と気恥ずかしく感じられることか。

この「状況」を推し進めるべく、キュアロンは編集による効果を最小限度にとどめ、カメラを人間の目線に据えて映像を紡いでいく。よって普段の映像作品に観られるフィルム上を“縦一列”に縦断していく感覚はなりをひそめ、常に横に向けて滑らかに延長していくかのように自然な連なり見せる。その滑らかさが圧巻なのである。

そして回しっぱなしのカメラの前で、開きっぱなしのマブタの前で、次々にとんでもないことが起こっていく。暴徒に襲われ、車で逃走し、無限に広がる移民収容所でとめどなく歩き回る…そして激しい暴動、戦闘。とくにラストの8分間は壮絶過ぎて思わず息が乱れる。そして完全にカメラの存在を忘れてしまう。なるほど、カメラマンというものは、その存在を誇示する形で手腕を発揮することもあれば、その存在を完全に消す、といった主張もありうるのである。(その真価のほどは、『リアリティ・バイツ』『ニュー・ワールド』の撮影監督エマニュエル・ルベッキがヴェネツィア国際映画祭で技術貢献賞といった形で賞賛されたことでも明らかである)

壮絶さだけではない。この映画のラストには、この世で最も愛され、また憎まれもした書物のエピソードが形を変えて出現する。戦場で垣間見られるそのあまりにも神聖なワン・シーンが、まさに奇跡の定義を塗り替える瞬間として刻印されている。

これだけの「状況」を描きながら、上映時間は1時間49分。それもまた、ある種の奇跡といえるのかもしれない。

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●恐らく2006年公開作において最も評価の分かれた作品『トゥモロー・ワールド』が3月21日にDVDリリース。60分を超える特典映像には、あの驚くべき長回しの撮影の裏側に焦点を当てたドキュメント映像や未公開映像も収録されるなど、この映画の虜となった人々にとって満足のいく内容になっています。

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EYESCREAM発売中

今月も本屋さんに並んでます。月刊カルチャー・マガジン「EYESCREAM12月号」。

表紙はプライマル・スクリームのボビー・ギレスピー。メイン特集は“共鳴するクリエイティブ”と題して、ボビーとヒステリック・グラマーの北村信彦をはじめ、ジャンルを超えて親交を温めるアーティストたちを活写しています。

リラックスを超えた域で炸裂する、まさに友人同士だからこそ互いに紡ぎ出せる刺激的な言葉の数々を、ぜひぜひ貴方も目撃し、感じてください。他にも、NIGOとファレル・ウィリアムズ、藤原ヒロシと中村ヒロキをはじめ、ヴァイブ機能満載のコメントの数々を収録。

んでもって、今月も映画レビューのコーナーには拙文が掲載されております。

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