« 『鉄コン筋クリート』 | トップページ | 『007 カジノ・ロワイヤル』 »

2006/11/26

『華麗なる恋の舞台で』

2005年のアカデミー賞、主演女優賞を巡って『ミリオンダラー・ベイビー』のヒラリー・スワンクと『BEING JULIA』のアネット・ベニングが一騎打ちを果たしたとき、僕はたまたまイギリスにいて、帰国便の中で「SWANK WON」のニュースを知った。

勝負の世界とは無情なもので、『ミリオンダラー・ベイビー』が半年も待たずに日本公開されたのに比べ、『BEING JULIA』は公開まで2年近くも待たされた。そして2007年の新年、ようやく『華麗なる恋の舞台で』という邦題で劇場公開を迎えることとなる。

原作はサマセット・モームの「劇場」という作品(と偉そうに言っても、読んだこたぁないけどさ)。

時は1938年、自分の俳優人生に倦怠感を抱いていたベテラン女優のジュリアは、ある日「あなたのファンです」と言って現われた20ほど歳の離れた米国人男性と恋に落ちる。その男の若いエキスを吸い取るようにメキメキ女優として復活を見せるジュリアだったが、その後、アメリカ男は彼女をあっさりと裏切り、新進女優のもとへ去ってしまう。顔では強がって見せても、実はかなりの精神的痛手をこうむったジュリア。しかしここからが大女優の正念場。遂に幕が上がった舞台上で、彼女はとっておきのリベンジを用意していた…。

そもそも舞台が登場する映画といえば無数に存在するが、本作はオーソドックス&ウェルメイドなつくりと華麗な衣装とで観客を安心させながらも、その裏側には、①「原作モノ」で、②話の中で「舞台」を扱い、③しかもアウトプット形態としては「映画」、という3つのメディアのを巧みに横断した構造的な面白さを秘めている。

とりわけ示唆的なのが、死して劇場の精霊と成り果てたジュリアの師匠、マイケル・ガンボン(ハリー・ポッターのダンブルドア校長でお馴染み)のこのセリフだ。

「劇場の外はすべて偽りだ。真実は、舞台上にだけ現われるのだ!」

どうやら舞台の世界ではそのようなことになっているらしい。とりわけジュリアにいたっては、まさに「舞台」に立つことを運命づけられた人間なのであり、舞台こそが彼女を最大限に光り輝かせる聖域なのだ。つまり、精霊(ガンボン)の言葉に従うのならば、ジュリアは外の世界でどれだけ辛酸を舐めようとも、最後は舞台上でケリをつけることで、大いなる輝き(真実性)を手にできるのである。

この「現実」と「虚構」を行き来する感覚は、深く突き詰めると『マトリックス』的な世界にさえたどりつくのかもしれない。ジュリアの場合、観客の「舞台」=「偽りの世界(フィクション)」という観念が綺麗に逆転してしまっている。彼女にとって舞台とは、日常生活で身に着けていた仮面を剥ぎ取り、いざ素顔をさらして真剣勝負を挑む場所、なわけである。

だからこそ、彼女がその生き様を大いに体現するとき、舞台上でひとつの奇跡が巻き起こる。

その瞬間、劇場の客席に居合わせた観客は総立ちになって大女優ジュリアに拍手を贈る。観客は舞台上に現われた奇跡(=めったにお目にかかれない真実)に歓喜し、その真意を知ってか知らずか、いや、そんなことはどうでもいいのだとばかりに、ただただ無心に拍手を送る。彼らはこの奇跡の貴重な「目撃者」となったのである。

一方、我々(映画の観客)が目撃するのは、このコミカルな復讐劇の裏側でカメラをまわすイシュトバン・サボー監督の存在だ。

これほど舞台に充満する真実性について嬉々と賛美しておきながら、このフィルムメーカーったら、結局、最終的な語り口として飄々と「映画」を選択しているわけである。出演者に「舞台の上にこそ真実が宿る!」などと語らせながらも、カメラの裏側では「いいや、映画にこそ真実は宿るのさ」とニヤリ本音を漏らしている様子が目に浮かぶ。

本作で仮面をかぶっているのは、どうやら俳優だけではなかったようなのだ。

このブログ筆者の日記はこちら

その他の最新レビューは倉庫で探してみてください

|

« 『鉄コン筋クリート』 | トップページ | 『007 カジノ・ロワイヤル』 »

【地域:英国発】」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/137483/12827401

この記事へのトラックバック一覧です: 『華麗なる恋の舞台で』:

« 『鉄コン筋クリート』 | トップページ | 『007 カジノ・ロワイヤル』 »