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2006/12/31

さようなら2006~今年のベスト10~

毎年恒例、大晦日に実家の大掃除に勤しみながら、その休憩ついでに独断と偏見で2006年ベスト10を決定します(ちなみに昨年のベスト10はこちら)。もう、映画としてのクオリティとかいっさい関係なし。そこには好き、嫌い、の二元論しか存在しません。選定ルールは簡単。バトル・ロワイヤル方式。リング内の150タイトル(鑑賞済みの2006年劇場公開作品/DVD、ビデオ、映画祭上映作は含まず)を、時間の経過と共にガンガン振り落としていきます。最後に残った10タイトルがそのままベスト10。どうです?画期的でしょ?(どこがだ)

最終更新 22:20

ベスト10を選んでいるうちに気づかされたのは、結局、「映画の評価」なんて個人的なものだってこと。なので、誰かに「そうそう!」って共感を得られるものや「映画のクオリティ」とかいった曖昧な基準ではなく、自分にとっていかに大切な映画となったか、といういまだにサンタを信じる少年のような純粋な気持ちで選びました。

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ただいまの生き残り数 10タイトル

1、君とボクの虹色の世界 (映画的なクオリティうんぬんの前に、これまで触れたことのないこの不思議な触感に涙が止まりませんでした。)

2、グエムル-漢江の怪物-(怪獣映画にして怪獣映画にあらず。あらゆるジャンルのミクスチャーとして、見事に現代を集約した一作。)

3、ゆれる(公式HP(誰もが目をそむける人間の深層心理を、驚くべき手腕でエンターテインメントとして切り分けた秀作。)

4、硫黄島からの手紙 (戦争という絶望を題材に、観客の目を過去ではなく未来に向けさせた、恐るべき老人の力技)

5、父親たちの星条旗 (戦場の混沌を理性に訴えかけた、いまだからこそ作り得た絶望の映画)

6、サンキュー・スモーキング(大事なのは、価値を押し付け合うことでなく、個人が選びとること。)

7、インサイド・マン(あのスパイク・リーがむしろ白く見えてしまうほど<←失礼!>に研ぎ澄まされた、人類愛に満ちたクライム・サスペンス。)

8、トゥモロー・ワールド(我々の現実も、まず状況に飲み込まれ、溺れながら何かに気付き、そして自らの意志で動き出す、そんな世界なんだと思う。)

9、愛されるために、ここにいる(まるで映画の教科書と呼びたいほどに、その小さな世界に人生のすべてを投影させた秀作。)

10、紀子の食卓(公式HP(園子温という怪人の描く多重構造の現代絵巻に、とにかく驚愕。)

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<11→15>

愛より強く/カクタス・ジャック/隠された記憶/リトル・ミス・サンシャイン/クラッシュ

<15→20>

カポーティ/マーダーボール/ハッスル&フロウ /マッチポイント/トランスアメリカ

<21→30>

麦の穂をゆらす風/ニューワールド/ナイロビの蜂/ホテル・ルワンダ/ヒストリー・オブ・バイオレンス/うつせみ/美しき運命の傷痕/花よりもなほ/グッドナイト&グッドラック/ミュンヘン/

<31→150(順不同)>オーロラ/合唱ができるまで/エラゴン/遺志を継ぐ者/ナオミ・ワッツ プレイズ エリー・パーカー/unknown アンノウン/ファイナルデッドコースター/アキハバラ@DEEP/トランスポーター2/心霊写真/青いうた~のど自慢青春編/ダ・ヴィンチ・コード/トム・ヤム・クン!/Vフォー・ヴェンデッタ/ファイヤーウォール/マクダル パイナップルパン王子/ダイヤモンド・イン・パラダイス/レジェンド・オブ・ゾロ/銀色の髪のアギト/僕と未来とブエノスアイレス/恋は足手まとい/カーズ/ オーメン/サージェント・ペッパーぼくの友だち/アンジェラ/明日の記憶/太陽に恋して/RENT/レント/クライング・フィスト/ナイト・ウォッチ/NOCHNOI DOZOR/ラストデイズ/かもめ食堂/椿山課長の七日間/パプリカ/人生は、奇跡の詩/ヘンダーソン夫人の贈り物/夜のピクニック/ブラック・ダリア/Ruffn' Tuff ラフン・タフ/キャッチボール屋/手紙/HAZARDハザード/ワールド・トレード・センター/深海 Blue Cha-Cha/ゲド戦記/奇跡の朝/M:i:III/サイレントヒル/ジャケット/リバティーン/リトル・ランナー/ウォーク・ザ・ライン/君につづく道/ジャーヘッド/博士の愛した数式/オリバーツイスト/雪に願うこと/ミュージック・クバーナ/スーパーマン リターンズ/X-MEN:ファイナル・ディシジョン/あるいは裏切りという名の犬/スキャナー・ダークリー/記憶の棘/迷子/ローズ・イン・タイドランド/やわらかい生活/バッシング/デイジー/僕の大事なコレクション/スキージャンプ・ペア~Road to TORINO 2006~/メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬/ククーシュカ ラップランドの妖精/THE有頂天ホテル/僕のニューヨークライフ/ナルニア国物語 第1章ライオンと魔女/ステイ/母たちの村/美しい人/胡同のひまわり/サムサッカー /長い散歩/16ブロック/弓/キングス&クィーン/ニューヨーク・ドール/GOAL!/ダーウィンの悪夢/無花果の顔/ホステル/トンマッコルへようこそ/フラガール/楽日/ハイジ/キンキー・ブーツ/ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン/ブロークバック・マウンテン/シリアナ/ Rise/エリ・エリ・レマ・サバクタニ/エミリー・ローズ/ママが泣いた日/マイアミ・バイス/このすばらしきせかい/デート・ウィズ・ドリュー/ 武士の一分/レイヤー・ケーキ/アメリカ、家族のいる風景/カミュなんて知らない/007/カジノ・ロワイヤル/パビリオン山椒魚/40歳の童貞男/ブロークン・フラワーズ/鉄コン筋クリート/ユナイテッド93/マンダレイ/好きだ、/白バラの祈り - ゾフィー・ショル、最期の日/2番目のキス/プロデューサーズ/レディ・イン・ザ・ウォーター/イカとクジラ/敬愛なるベートーヴェン

<場外に落ちた映画タイトルの皆様、2006年は大変お世話になりました!>

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2006/12/28

EYESCREAM<アイスクリーム>発売中

12月28日に発売のカルチャー・マガジン「EYESCREAM」は、今月もエッジの効いた充実のラインナップになっています。表紙は2006年、エンターテインメント界に多大な貢献を果たした蒼井優さん。

ちなみにこのブログの筆者は、1月公開の新作映画『グアンタナモ、僕達が見た真実』でマイケル・ウィンターボトムと共に共同監督を務め、ベルリン国際映画祭では監督賞を受賞した新鋭マット・ホワイトクロスにインタビューしたり、あと新作映画レビューもいくつか書かせてもらってます。

お近くの本屋さんで目にした折には、ぜひ、お手にとってご覧ください。

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映画チャンネルで年越しを

映画専門チャンネルにとって、どのタイトルで年越しの瞬間を迎えるのかというのは編成部員の重要な腕の見せどころ。はたして2006年から2007年へのバトン・リレーの瞬間、視聴者にどんな年越しスタイルをプレゼントしてくれるのか、有名映画系チャンネル+αについて調べてみました。

WOWOW

22:10 陰謀のセオリー

→アニメあり、大作映画あり、格闘技ありの大晦日WOWOW。新年へのカウントダウンは『陰謀のセオリー』のちょうど大詰めか。年明け直後には『コンスタンティン』→『キャットウーマン』→『羊たちの沈黙』と、ひたすらダークな旧作ブロック・バスター系でおごそかに朝へと向かう。これも華やか一色の地上波との差別化か。

スター・チャンネル

23:30 ワイルド・ワイルド・ウェスト

→大晦日は新旧織り交ぜたブロックバスター系タイトルでパワー・プッシュ。カウントダウンでは1月公開のウィル・スミス主演作『幸せのちから』をしっかりタイアップ。『ワイルド・ワイルド・ウェスト』に続いては、『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』。さらに続いてまたもやウィル・スミスに舞い戻り『インデペンデンス・デイ』。

ムービープラス

22:45 オータム・イン・ニューヨーク

→年越しはシットリとリチャード・ギア特集。年明け後もギア様の『背徳の囁き』が待機。お祭り騒ぎの地上波との差別化をはかり、むしろ20:45~の米版『シャル・ウィ・ダンス』(これもギア様)をメインに据えた格好。

チャンネルneco

00:00 突入せよ!浅間山荘事件

→ちょうど紅白で中居クンが司会を務める時間帯に、necoでは密やかに『模倣犯』で中居のダークサイドを浮き彫りにするという、裏読みすると非常に興味深い編成内容。そして「2007年に突入せよ!」と絶叫せんばかりの年明け編成。この後も『TAKESHIS'』『いぬのえいが』と当月のイチオシ作品で新年を盛り上げる。

シネフィル・イマジカ

23:00 ストレンジ・デイズ/1999年12月31日

→大晦日の昼間はヴィスコンティ4本を一挙放送。そして年越しは「大晦日」を扱った定番作品で決める。元旦7時からは「世界の短編100本」を24時間放送。コアな映画ファンを唸らせる編成内容。

日本映画専門チャンネル

22:00 ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム

→日中は『交渉人 真下正義』『容疑者 室井慎次』の「踊る」スピンオフを連続放送。続いて『タカダワタル的』『不滅の男 エンケン対日本武道館』『ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム』というアルタミラ・ピクチャーズ作品並びで、1月公開の『それでもボクはやってない』タイアップ。

時代劇専門チャンネル

22:20 「暴れん坊将軍800回記念新春スペシャル」

00:00 春日局

→大晦日は午前中に放送する「春日局」を中断し、カウントダウンまで各種「暴れん坊将軍スペシャル」を連続放送。ちなみに22時~のサブタイトルは「江戸城乗っ取り!! 人質は百万人!? 危うし!八百八町が火の海に」。マツケン・サンバ気分で盛り上がった(オンエアで流れないことを祈るばかりだが)後は、姿勢を正したように、再び「春日局」へと戻る。これも『大奥』のタイアップか。

FOXチャンネル

0:00~「24 twenty four」

→大晦日の日中は「HUFF ドクターは中年症候群」全14話オンエア。そして23時からの1時間はダニエル・パウターのライブを放送。そして新年明けたと同時に、FOX伝家の宝刀「24 シーズン1」全24話マラソンに突入。まさに元旦はリアルタイムで進行する。

ディスカバリー・チャンネル

0:00 驚異の機械スペシャル「驚異の軍用機」

→飛行機が発明されてから100年。航空技術はどんどん改良され、特にこの20年のうちに軍用機も格段に進化を遂げた…ってな、別に年明けの瞬間にやらなくても…と思うような番組編成だが、北朝鮮の核問題が不穏な空気をもたらしている昨今、この編成に意味があるとしたら逆に怖い。なお、ディスカバリーチャンネルでは、「ベスト・オブ・ディスカバリー・チャンネルアワード2006」と称して、そのノミネート作品を1月2日、3日に一挙放送。

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2006/12/27

『不都合な真実』

かつてジョージ・ブッシュと大統領戦を争ったアル・ゴア元副大統領による「地球温暖化」についてのありがたい講義?いやいや、それだけではこの映画を説明したことにはならない。この映画の魔力はまず彼が自身の主催するスライド講演の壇上に現われ、聴衆にひとこと自己紹介するところで思い切り炸裂するのだ。

「こんばんは。かつて一瞬だけ大統領だった男です」

穏やかな笑顔、分かりやすい語り口、そして過去のトラウマをさり気なくネタに変えてしまう潔さ。我々はこの瞬間、ひとつの「IF」の世界へと引き込まれる。つまり、「もしもこの人が大統領になっていれば、世界は大きく変わったかもしれない」というひとつの輝かしい可能性(アナザー・ワールド)が、我々の頭の中に希望の種を撒き始めるのだ。

本作は、ゴアがアメリカ、ヨーロッパ、アジアを中心に1000回以上もドサ回りして続けてきた環境問題についてのスライド講演をそのまま主軸に据え、その合間に「何が彼を突き動かしたのか」について独白を交えたごくシンプルな構成になっている。というのも、このゴアのスライド講演自体があまりに見事なのだ。ユーモアあり、愛あり、アクション(とも取れるくらいに鋭く的を得た言及)もあり。そうか、これはゴアのショーを映画化したもの、というよりは、そもそもスライドショー自体が充分に映画的なつくりを成していたわけである。

しかし、ゴアは決して声を荒げたり、誰かを糾弾したり、また政治家のように「AとBのどちらを選択するのか!」といった二者択一の議論にすり替えたりもしない。そこには常に温厚で、分かりやすいゴアがいるだけだ。彼のその安定した口調がひとつの穏やかなバイオリズムを織り成していく。観客は知らず知らずのうちに、まるで昔からの友人の話に耳を傾けるかのように、地球環境の話題に聞き入ってしまう。

かつて『リバティ・バランスを撃った男』(ジョン・フォード監督)で、ジェイムズ・スチュアートは銃でなく法律本を手にして西部の無法地帯に乗り込んでいったが、その姿がゴアに重なって見えてくる。現代においてこの無法地帯(資本主義の暴走がもたらした環境問題)に乗り込んでいく男は、銃でも法律本でもなく、紛れもない“スライドショー”を手にしているわけである。

講演でのゴアは、資本主義の本質、そして一般国民の心理を知りぬいた上で、あえて我々の「知的好奇心」を試すかのように話を進めていく。そして私達が「知りたくもなかった事実」に直面する時、彼は人知の秘法たる“ユーモア”を使って聴衆を軽やかに乗り越えさせる。そもそもユーモアも好奇心も、人間が危機を乗り越えるための資質としてもともと兼ね備えたものなのかもしれない。時は満ちた。ゴアの口から飛び出す名言の数々が、満を持して、我々の“資質”を起動させていく。

特に「なるほど」と納得させられるのは、ゴアが「すぐに絶望してしまう病気」について言及するシーンだ。彼が言うには、恵まれた人間ほど何か障壁にぶつかると「ああ、もう駄目だあ」と過剰に絶望してしまう。環境問題に直面する人間しかり、自社が環境悪化の元凶であると認めたくない大企業の幹部しかり。そこを資金源にした政治家しかり。

「でも、実際、そんなこたぁない」

ゴアは絶望病に侵された患者達にやさしくそう諭す。いま目の前に提示されたいくつもの事実を受け止めた時点で、我々の前途にはいくつもの打開策が立ち現われる。断崖絶壁から踵を返し、そこから一歩一歩を前進していくことは決して絶望などではなく、とてつもない希望なのだ。

加えて、“環境問題”と“資本主義”とは相反する関係なんかじゃない。ちょっとしたアイディアが相互の両立を生み出していくこともいまや自明のこと。現に、この数年の間にどれだけの企業がこの問題の克服に努め、自社のイメージ・アップを遂げてきたか知れないし、エコに配慮した多くの製品が多額の利益を上げるようになってきた。障壁となるのはいつもこの思考力の限界、つまり“絶望病”なのだ。それはアメリカの抱えた最大の問題であり、ゴアが政治家ではなくひとりの人間としていまこうやって壇上に立ち続けているのは、その処方箋を提示するためなのではないかとすら思えてくる。

決して絶望はすまい。そして周囲の絶望を許すまい。

それは日本に住む私達の暮らしにだってあてはまる。環境だけじゃない。我々の抱えるどんな問題にだってあてはまる。私達がそれぞれに“不都合な真実”をしっかりと受け止めたならば、その時点で既にそれは大いなる一歩となる。もう決して絶望も、後退もすることはない。現にあなたはもうそうやって前に歩き始めているじゃないか。

『不都合な真実』は、2007年1月20日(土)よりTOHOシネマズ六本木ヒルズほか全国ロードショー

アカデミー賞2部門に輝いたこの画期的なドキュメンタリー作品が、7月6日、遂にDVDリリース。得点映像にはメイキングやコメンタリーのほかに「アップデート版・不都合な真実」なるものも収録されるとか。この映画で明かされる“真実”は、いたずらに観客を衝撃の渦に陥れるものではなく、観る者を新たなビジョンへと導いてくれるところが素晴らしいところ。これは何かしら勇気を持って踏み出そうとしている人すべての心に響く、とびきりの応援歌だと思います。

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2006/12/22

『リトル・ミス・サンシャイン』

ついにこの最強のインディペンデント映画、『リトル・ミス・サンシャイン』が日本にやってきた。カリフォルニアで開催される美少女コンテストに娘を出場させるべく、アリゾナに住む風変わりな家族がいざミニバスで旅へと繰り出すロード・ムービー。もちろん旅の途中でのトラブルやエピソードも満載なのだが、いや、その出発前からして、この映画はもう、その立ち上がりの時点でどうしようもない笑いがこみ上げてくる。

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『ディパーテッド』

香港映画『インファナル・アフェア』のハリウッド版リメイク、『ディパーテッド』

この二転三転するストーリーの持ち味を最大限に生かすためにはむしろマーティン・スコセッシではないほうが良かったのかもしれないが、製作陣はリメイク権を行使するにあたって“目くるめくテンポ感”を捨てて、むしろスコセッシという名の下に集まる豪華キャスト陣を選択するという手堅い戦法に出た。よって、マット・デイモン&ディカプリオといった主役の二人だけでなく、「州警察VSマフィア」として合わせ鏡のように広がる相関図の中で個々の見どころが満遍なく分散するような調整がなされてある。マーク・ウォルバーグしかり、マーティン・シーンしかり、アレック・ボードウィンしかり。彼らは個を主張するよりもまず、喜んでその身をスコセッシに捧げ、まずはこの肉厚なストーリーを伝えるための“部分”として機能している。

いやでも、ひとりだけ、それじゃあ済まない男がいた。

ジャック・ニコルソンである。

彼が現われた瞬間、この映画はオリジナルのあらゆる要素をかなぐり捨てて、むしろ彼のための作品なのではないかとさえ思えてくる。なにしろひとりだけ「演技の抑制など、なんぼのもんじゃい」とばかりに凄まじい存在感を見せ付けるのだ。どんなにシリアスなシーンであろうと彼の“顔芸”ひとつですべてが吹っ飛んでしまう。彼の一挙手一投足にいちいち爆笑してしまう。ニコルソンってこんなに面白かったっけ?っていうか、これって笑うシーンだっけ?ストーリーを飛び越えて、とにかくニコルソンを堪能した。とにかく大笑いした。

しかし、だからといって本作が破綻しているわけではない。ニコルソンがどれだけ暴走しようとも、どこかで周到にバランス作用が働いているのだ。

その要因は、もうひとつの映画の顔、ボストンの街並みにある。ブラッド・ピット率いるプランBが原案を買い取り、その脚色を手がけたウィリアム・モナハンは、あのオリジナルのどんどん無国籍化していく香港の街並み(古い建築物がどんどん消滅し、高層ビルが乱立するような)をアメリカ式にニューヨークに置き換えるわけでもなく、あえて自分の出身地、ボストンに息づかせた。冒頭にはまず、このダウンタウンがいかにしてアイルランド系マフィアに支配されたかについての“街の歴史”が語られる(その部分のドキュメンタリー的質感は圧巻だ)。つまりニコルソン演じる怪物のごときボスも、結局はそこから生まれ出たムジナというわけだ。彼がどれだけエキセントリックな存在感を誇示しようとも、お釈迦様の手の上の孫悟空のように、そのエキセントリックな存在感のすべてがこの街にすっかりと包摂、相殺されていくのである。そうやって全体的なバランスを調整させていくあたり、さすが映画界のマエストロたるマーティン・スコセッシ。ニコルソンを放し飼いにしているようで、実はしっかりと飼いならしていたのだ。

スコセッシはこの忠誠と裏切りの物語を、街の“クロニクル”に寄り添うことによって土台部分から抜本的に作り変えた。オリジナル版で最も印象に残るあの高層ビルの屋上のシーンも、このボストンのダウンタウンでは建築様式から空の色まで何もかもが違う。

プロットとして共通する部分は多いが、あらゆる意味でオリジナルと精神性を異にした本作は、つまり「ある街の物語」ということができるのかもしれない。これまでスコセッシが数多く手がけてきた過去の作品と同じように。

*タイトルの「ディパーテッド(The Departed)」とは「死者」という意味。全編を通して貫かれる「死のイメージ」からそう名づけられている。スコセッシはこの映画の多くの美術に“十字架”を取り入れているらしいので、余裕のある人はスクリーン上をくまなくチェックしてみよう。

『ディパーテッド』は、2007年1月20日より松竹・東急系にて全国ロードショー

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2006/12/20

『硫黄島からの手紙』受賞&ノミネート歴

受賞歴がすべて、というわけでもないけれど、きちんと整理しておかないと頭が混乱するので(僕はもう混乱してきた)、マイペースに『硫黄島からの手紙(Letters from Iwo Jima)』受賞&ノミネート情報を更新していきます。

アカデミー賞
・2007年1月23日ノミネート発表

作品賞、監督賞、オリジナル脚本賞、音響賞ノミネート

・2007年2月25日授賞式

ゴールデン・グローブ賞(2007年1月15日発表)
○外国語映画賞受賞

・監督賞ノミネート

*クリント・イーストウッドは『硫黄島からの手紙』、『父親たちの星条旗』両作品において監督賞ノミネート

*ゴールデン・グローブのルール上、日本語で物語られた『硫黄島からの手紙』には作品賞/ドラマ部門へのノミネート権利がない。

米放送映画批評家協会【BFCA】賞(2007年1月12日発表)

○外国語映画賞受賞
・監督賞ノミネート
・作品賞ノミネート

■全米批評家協会賞(2007年1月6日発表)

・作品賞は“Pan's Labyrinth”。(『硫黄島からの手紙』は作品賞部門で3位)

→詳しくはこちら

全米プロデューサー協会賞(2007年1月20日発表)

・『硫黄島からの手紙』はノミネートなし

劇映画ノミネート作品は、『バベル』『ディパーテッド』『リトル・ミス・サンシャイン』『ドリームガールズ』『The Queen』。

シカゴ映画批評家賞(2006年12月28日発表)
○外国語映画賞受賞

×監督賞(クリント・イーストウッド)ノミネート
×脚本賞(アイリス・ヤマシタ)ノミネート
*この骨太な脚本を書いたのはてっきり男性だと思ってたんですが、日系2世のアイリス・ヤマシタは女性なんですね(アイリスって名前から女性なのは明白なんですが、それでも信じられませんでした)。
×作曲賞(カイル・イーストウッド&マイケル・スティーブンス)ノミネート
*カイル・イーストウッドは、クリントの息子です。
×撮影賞(トム・スターン)ノミネート
*トム・スターンは、長年イーストウッド組に照明技師として参加し、『ブラッド・ワーク』(02年)以降の『ミスティック・リバー』(03)、『ミリオンダラー・ベイビー』(04)、『父親たちの星条旗』、『硫黄島からの手紙』(06)において撮影監督を担当している。

ダラス・フォース・ウォース映画批評家協会賞(2006年12月18日発表)
・作品賞部門/第6位(1位は『ユナイテッド93』))
・監督賞部門/第4位(1位は『ディパーテッド』のマーティン・スコセッシ監督)
○外国語映画賞部門/第1位

ナショナル・ボード・オブ・レビュー【全米映画批評会議/全米映画評論委員会賞】(2006年12月6日発表)
○作品賞受賞

ロサンゼルス映画批評家協会賞(2006年12月10日発表)
○作品賞受賞

ニューヨーク映画批評家協会賞(2006年12月11日発表)
・作品賞は『ユナイテッド93』

米映画協会【AFI】賞
・2006年度の10作品に選出(毎年10作品を選出)

『硫黄島からの手紙』レビュー

『父親たちの星条旗』レビュー

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『ハッスル&フロウ』

 2005年度アカデミー賞において主題歌賞受賞&主演男優賞(テレンス・ハワード)ノミネートを果たした快作ながら、日本ではものの見事にレイトショーへとスルーされたヒップ・ホップ・ムービー。あるいは、『8マイル』、『ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン』に続く、ラップで輝ける人生を掴み取ろうとする男の物語・第3章(そんなシリーズ物ではありません)。

 といっても、こちらの主人公は40手前のしがない男だ。

Hustleandflow_2 

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2006/12/18

『硫黄島からの手紙』

*以下の文章は筆者が勢い余ってしまいガンガンと映画の詳細に触れています。まだ本編をご覧になってらっしゃらない方はそれぞれの大人の判断でお読みください。

『硫黄島からの手紙』について感想を書くということは、それが途方もない“巨星”であるがゆえに、自分の矮小さを露呈する行為のようにも感じられる。それは『父親たちの星条旗』も同様だったかもしれないが、あれはまだアメリカ側の視点だったから日本人として心のゆとりがあったのも事実だ。そんなあらゆる葛藤を乗り越えて、本作について文章を綴っているすべての書き手の人々に畏敬の念を表したい。言わずもがな、文章とは「書き手」の傍らに「読み手」がいてこそ成立するものだ。

そして、手紙にも「送り手」と「受け手」が存在する。

しかし『硫黄島からの手紙』の中で登場人物たちの心の声と共に語られるのは、受け取り手のない文面の数々だ。つまり、この映画は硫黄島で戦死した兵士たちにもまして“届かなかった言霊”への慰霊という意味合いが強いのかもしれない。いや、届かなかったといえば御幣があるかもしれない。第一、いまこうして我々はこの映画を受け取っているのだから。

冒頭から、銀にも灰色にも近い色調で統制された映像が拡がっていく。これは「過去の物語を紐解く」という意味と、あたかも硫黄島の砂塵と硫黄の煙とが全てを覆いつくしているかのような状況、そして兵士達が抱える死と向かい合った精神状況をも象徴しているかのようだ(まるで全ての場面が遺影のようにさえ思えてしまう触感がある)。ちなみに本作の英題は“Letters from Iwo Jima”だが、製作時には“Red Sun, Black Sand”という英題が併用されていたという。本作のラストにはこの“もうひとつのタイトル”を象徴するかのようなショットが用意されており、この色調を読み解く一助を担っている。

そんな銀世界に、硫黄島に栗林中将の乗り込んだ輸送機が飛来してくる。機内で姿勢を正す中将の背後の窓に硫黄島の外観が映り込んでいる。本作には数多くの印象的な描写が連なっているが、このシークエンスはその中でも出色のものだ。それも当然である。本作の要である人物の登場シーンだからだ。

渡辺謙演じる栗林は、本作でだいたい3つの声質を使い分ける。ひとつは軍人として戦意高揚を促す怒声にも近い声、ふたつは部下に対して時折ジョークを交えて使う飄々とした声、そして三つには手紙の文面(心の声)として語られるとても平穏に満ちた声である。この機内で、彼は運命の戦場へと乗り込む前とは思わないほどの極めて穏やかな第一声を披露し、そのギャップに観客は渡辺の体現する栗林の深さに思わず引き込まれる。滑走路に颯爽と降りたつ機体。扉から顔を出し、今度は飄々とした声色でジョークを交えながら出迎えに応える栗林の姿がある。他の軍人の画一的な声質、動きと比較しても余りある“個性”が、その場の滞った空気に風を呼び寄せる。

その渡辺が『硫黄島からの手紙』におけるキャンペーン中、たびたび口にしていた言葉がある。

「クリントは、悲惨な場面でも心揺さぶられる場面でも、そこで盛り上げて観客をひきつけようとはしないんです。それらは突き放されたように淡々と織り成され、あくまで兵士の目線で起こったことが極めてリアリスティックに描かれていく。ここがこれまでの戦争映画とは根本的に違うところだと思いましたね」

これは本作を的確に表現した言葉だと全身を電流が貫くような思いがした。確かにこの映画には数多くの印象的なシーンがあるものの、そのシーンを「ここがハイライトだ」とガッシリ掴みとろうにも、まるで握り締めたこぶしの狭間から硫黄島の砂塵のように零れ落ちていくのだ。観客にとっては、エンターテインメントとしての映画の文法を超えた位置から次々と銃弾が打ち込まれているような切迫感が始終続くこととなる。

そういえば、『父親たちの星条旗』では場面がたびたびアメリカ本土の風景へとスイッチされて観客としてはホッとさせられた(しかしそこでもまたひとつの悲劇が巻き起こるわけだが)。しかし『硫黄島』ではそれも許されない。ここにいる兵士たちと同じく、我々観客はこの戦場から逃げ出すことは許されない。ただ唯一、兵士たちが書き綴る手紙の中でのみ、涸れた水分を補給するかのようにほんの一瞬だけ、心を潤すことができるのだ。

といっても戦闘が始まれば、もはや手紙など届くかどうかさえ分からない。文面なのか、心の声なのか分からない言葉の数々が、モノローグとなって観客の耳に響いてくる。切迫していく戦況。それは最初から分かっていたことだった。しかしその先に横たわるのは「敗北」ではなく、歴然とした「死」である。すべての兵士のもとに大義名分をかなぐり捨てた容赦の無い「死」が降り注いでくる。

そして本作では、『父親たちの星条旗』でも観客に冷静沈着に提示された自決した兵士たちの屍を、今度はその顛末から辿って、より詳細に物語ってみせる。上官の号令により手榴弾を頭で勢いよくコンコンと叩き、そのまま胸に抱いたまま破裂、そのまま人間が肉の破片と成り果てる異様な死の儀式を、観客に容赦なく現前させるのである。そして二宮和也演じる若き兵士は、この場所で、はじめての「死の否定=生の肯定」を行動に移す。それは61年前に生きる兵士と、観客としての我々とが初めて感情を同じくした革新的な瞬間だった。

このとき、僕の目には、兵士には「死ぬために生きようとする兵士」、「死ぬために死のうとする兵士」、「生きるために生きようとする兵士」とが混在しているように思えた。そしてイーストウッドは、この地獄の淵の戦場を描くにあたって、決して“彼らの都合”だとか“戦時中の思想”といった問題で兵士たちの心中を慮るような生煮えの優しさは断じて見せない。彼は二宮演じる若き兵士の目線に我々観客の価値観を放り込み、あくまで現代的な視点から当時の状況を見据え、「生きるために死に物狂いで生きよう」とする姿を全身全霊を込めて肯定するのである。

思い返せば『父親たちの星条旗』は、「戦場に善悪、そして特別な英雄など存在しない」といった価値観を謳っていたが、それと対になる『硫黄島からの手紙』は、ただ単純にその反対側の視点というだけではなく、やはり地続きの存在だった。前作で“戦争”というものを定義しなおしたイーストウッドは、本作で改めて(満を持して)個人の精神性へとスポットを当てなおしているかのようだ。それは英雄視とはまた別種の、あくまで「個人」への視点の還元である。

本作では栗林をはじめ、幾人かの“個人”を確立した兵士たちの横顔が描かれる。しかしイーストウッドは彼らの存在感を崇高に描きながらも、最終的には、いちばん下っ端の兵士に過ぎない二宮のただ「生きたい」という想いにこそ焦点を当てる。僕にはイーストウッドはこのことを伝えるために2作分の時間を使ったのではないかとさえ思えた。

それと双璧をなすのが「総攻撃して潔く散るべし」と唱える中村獅童の演じるキャラクターだ。彼のために用意されたあるひとつの運命が、これまた鈍器で頭を殴られたような衝撃を与える。これは映画史が刻んできたヒール役(このような言葉は適当ではないが)に対する残酷な末路の中でも記念碑的なものではないだろうか。(とても下世話な話で恐縮だが、僕は先ごろの中村獅童の不調には本作が少なからず影響しているのではないかと踏んでいる。いくらフィクション上の人間とはいえ、彼がこの役を得て、脚本に目を通したときに感じた衝撃は計り知れないものだったろう。弁護というわけでもないが、本作における彼の演技と存在感はさすがのものだった。)

結果的に、英雄と思われた栗林も、伊原剛志の演じる高官、バロン西も自ら死を選んで散っていく。しかしそこに高らかな音楽や観客の感情を煽る手法は何も存在しない。人間の目の前に、戦場での死はひたすら空しく横たわるだけだ。

ただ、激戦でもう後が無いかと思われるとき、この戦場で微かな奇跡が起きる。傷つき捕虜となったひとりの米兵が井原の命令での治療も空しく逝く。兵士たちにとって初めて間近で目にする敵兵。彼が死の淵で握り締めていた手紙を井原が翻訳しながら音読する。それは米兵の母親からの手紙だった。

それは書き出しから本当に他愛も無い文面だった。お隣との生垣がどうこうとか、その母親はきっとさり気なさを装おうと必死で悩んだあげく、こんな戦場に向けて書かれたとは思えぬくらいに他愛も無い文面をこしらえてしまったのだろう。しかしそれを聞いた日本兵たちはその文面に接するにあたり地べたに座ってなどいられなくなる。ハッとした表情で立ち上がって、その言葉にしきりと耳を傾ける。他人事のように音読されていたどこの犬とも分からぬ人間への文面が、兵士達の中で次第に目の前に景色が広がるかのような具象性を帯びてくる。その取り止めも無い手紙は、どの兵士も受け取った覚えのある内容のものだったのだ。

この米兵が握り締めた手紙は、地球上のあらゆる“母”という存在から“息子”たちへと送られた手紙と受け取ることもできるのかもしれない。その関係性に敵や味方など存在しない。激戦ゆえに手紙など送る手段も、受け取る手段も絶たれ、既に無用の産物と成り果てた状況の中、よりによって手負いの敵兵によって届けられた一通の「手紙」。これを奇跡といわずしてなんと呼ぼうか。

いや、奇跡はもうひとつ、私達の目の前で起きている。この映画は、我々とは肌の色も喋る言葉も全く違う人間の手によって作られ、いまこうして私達の元に届けられているのだ。

ラストで61年の歳月を経て大量の「届かなかった手紙」が掘り起こされるのと同時に、たくさんの言葉(声)がこぼれ落ちる。届かなかった手紙はこのとき、「届かなかった手紙」ではなくなった。その手紙を受け取った私達が次になすべきこと、それは手紙というメディアの構造上、紛れもなく「返事を書くこと」である。

その『硫黄島からの手紙』に宛てて、僕はいま、自己満足にしか過ぎないのかもしれないが、恥ずかしげも無くこの駄文を連ねている。この映画を末永く記憶にとどめるために。

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「玉砕指揮官の絵手紙」を見つけて驚きました。映画の中でたびたび登場するあのイラストは、本当に栗林忠道が描いたものだったんですね。イーストウッドは『父親たちの星条旗』の映画化を進める中でアメリカ側のエピソードだけでは不十分だと考えるようになり、この本と出会うことによって『硫黄島からの手紙』のビジョンが固まったのだそうです。一方の「父親たちの星条旗」は、映画にも登場する“ドク”の息子、ジェームズ・ブラッドレーによって書かれ、全米で100万部以上も売り上げたベストセラー。イーストウッドがこの原作に興味を持ったときには既にスピルバーグらドリームワークスの手により権利が買われており、その後の交渉の末に「イーストウッド×スピルバーグ」という夢のようなコラボレーションが実現へと動き出したわけです。

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2006/12/17

『エレクション』

 たとえば、アメリカ映画で「エレクション」というタイトルを目にしたとすれば、社会派映画かコメディ映画のどちらかだろう。まさか本作のように“ハード・ボイルド”というジャンルを選び取る映画作家など、世界を見渡したところでどのくらい存在するだろう。

 その予想外のジャンルを激しく融合させ、観客がこれまで感じたこともなかった境地に連れ去ってくれるのは、またしてもこの男、ジョニー・トーである。アンドリュー・ラウ(『インファナル・アフェア』シリーズの成功&最新作『The Flock』ではハリウッド・デビューを果たす)と共に香港映画界の双璧を成し、職人的な堅実さと爆発的な発想力とを併せ持つジョニー・トー。彼が本作で調理するのは、香港マフィアの大ボスを決める伝統的な“選挙”である。

 そこにはもちろん、前ボスによって推薦された候補者がいて、それに歯向かうべく実力行使(マフィアの実力行使ほど怖いものはない)に打って出る対抗馬がいて、それぞれがそれぞれの流儀で票集めに奔走し、組織が真っ二つに分裂しようかという状況に、地元警察までもが見かねて調停に乗り出してくるという果てしない迷走ぶり。

 だが、次々と場所を変え、人と人とがリレー形式で怒涛のごとく連なっていく迷走ぶりが爆発的に面白い。ジョニー・トーは今回も香港ノワールの中にほんの些細な状況から度肝を抜かれるような展開とアクションをひねり出し、「ただそこに何十人かが座っているだけ」という絵の中でも確実に緊張感を持続させる。そして任侠を扱っているからといって決して残虐性が過ぎるわけでもなく、むしろ真逆の“しなやかさ”と“上品さ”を伴った語り口で観客に向けて硬軟織り交ぜたアプローチをかけてくる。

 また、そこに伴う男臭さにも彼なりの美学がある。ただのオッサン俳優でも珠玉のキャラクターとしてきちんと輝かせるこの魔法は何なんだろう。彼は役者の持ち味を十二分に解き放つというよりもむしろストイックに引き締めることで、この放射状におびただしく展開する人物相関図の中で、集団だけでなく個人をも確実に輝かせている。しかもその旨味は、よくいう「化学変化」などではなく、全てがジョニー・トーの管理のもとで絶妙に配置されているかのようだ。

 銃撃や大爆発だけがハード・ボイルドではない。そこに何も存在しない状態でも、ほんの僅かな空気のうごめきがハードボイルドを生み落とすことは可能なのだ。この神がかり的な流儀によって貫かれたエンタテインメント&職人芸は、もはやその足をアートの境地にまで踏み入れているといっても過言ではないだろう。

監督:ジョニー・トー 出演:サイモン・ヤム、レオン・カーファイ、ルイス・クー(2005年/香港)東京テアトル

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『jackass number two』

★WARNING★

この映画のスタントマンはただのバカです。クソガキや幼稚な大人は絶対にマネしないように。

あのジャッカスが帰ってきた。もうなんていうか、「お前らホント馬鹿だけど、大好きだ!」と金八先生ばりに抱きしめたくなるほど恐れを知らない無邪気なメンバー達が、今回も突飛で無鉄砲で下品で下劣なスタントやドッキリ企画を延々と展開し、ネタが成功するたびにゲラゲラと馬鹿笑いを響かせる。

もちろん事前に「ジャッカス」シリーズをご存知の方ならば「待ってました!」といった感じなんだろうが、まったく知らない人にとってみれば「あいつらをやめさせろ!」だとか「どっか他所でやってくれ!」とかPTA役員のようにわめき散らして至極当然である。しかしそうやって目を覆っている間にも手を代え品を代え、彼らの馬鹿らしさは加速する一方だ。まったくなんて奴らなんだ。これで彼らの出会いのきっかけが西海岸のスケートボード・カルチャーだというのだから驚きだ(その関係であのスパイク・ジョーンズさえもがこの企画に参戦!)。

本シリーズは間違ってもスタンディング・オベーションなどが似合うシロモノではないが、牛に追われたり、頬に釣り針を突き刺してサメのエサになってみたり、焼きゴテでケツにチンポコ印を刻んでみたりと、おびただしい馬鹿企画が連なっていく狭間に、彼らメンバー同士で心からのリスペクトが交わされる瞬間が唯一の緩和材料となって映る。ミラクルを巻き起こしたスタントに拍手。とんでもない馬鹿オチをもたらしたメンバーにも拍手。殴られて拍手。ズッコケて拍手。挙句の果てにはカメラマンや音声マンさえもがゲラゲラと笑いが止まらなくなったり、あまりに酷い仕掛けゆえの本気ゲロ、失禁、脱糞その他であったりと、まあ、表向きにはスタンディング・オベーションと程遠いながらも、恐らく気持ち的にはそれとかなり似ているであろうジェスチャーの数々に、実際ちょっとだけ心が温かくなったりもする。つまり五感どころか五臓六腑をフル回転させた感情表現、とでも言うべきか。

といっても、見てる側もクライマックスでは相当感覚が麻痺してしまっているので、いまの僕ときたら、たとえ劇場から一歩外へ出たところで誰かが全裸で闊歩していたとしても、ちっとも驚きなどしないだろう。これはある意味、映像上の合法ドラッグなのだ。そんなこともあって、18歳未満はもちろん鑑賞禁止。

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「number two」がいよいよ4月27日にDVDリリース。90分を超える特典映像付きってことは、本編がだいたい90分くらいだから、トータル3時間超えの特大ドキュメントが出現してるってことになりますね。オエーッ。

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2006/12/16

『トニー滝谷』

村上春樹ほどに自作の映画化を拒み続ける人はいない。それは彼自身がすでに人気作家であり、映画化に伴う権料よりは自作の文学としてのオリジナリティを守ろうとする想いの方が強いからに他ならないし、もちろんかつて『風の歌を聴け』(大森一樹監督)の映画化において相当苦い思い出を背負ってしまったことも充分に考えられる。

そんな村上がめずらしくも自作の映画化に「OK」を出した。ベテラン監督の市川準は、『トニー滝谷』という短編を取り上げて「ぜひ映画化を了承してください」と村上に直接交渉したと言う。次の瞬間、長期戦を覚悟していた市川の耳に届いたのは、「短編ならOKですよ」という信じられない返事だった。それだけでなく村上は、これから製作される映画に関して「どうぞ好きに調理してやってください」と何ら注文は付けなかったという。

原作者から与えられた自由。もちろんこの「自由」はクリエイターにとってプレッシャーとなる場合も少なくない。しかしそこはベテラン、市川準。彼はこの「自由」を驚くべきキャスト、スタッフ、そして方法論でもって実践していく。集められたのは、イッセー尾形、宮沢りえ、西島秀俊、そして撮影に広川泰司、音楽に坂本龍一。

「村上文学に漂う透明感を浮き立たせるには、これくらいやらなければダメだと思いました」

市川監督は雑誌のインタビューで僕にこう語ってくれた。

さらには、村上文学の「地上から3センチくらい浮遊している感覚」を出すために、スタッフは横浜の高台のてっぺんにセットをこしらえ、つまり窓から隣の雑居ビルなどが見えないような広々とした空間を作り出した。窓の向こうの空はどんよりと曇っていたり、青く澄み渡っていたり。その灰色と青とが透明感に拍車をかける。

そして、ページをめくるようにして横へ横へと時系列にスライドしていくカット。「トニー滝谷の本当の名前は、トニー滝谷だった」と語られる幼少時代から、カメラはそっと横にスライドし、何か障害物を越えたかと思ったら、次には大学生になったトニーがそこにたたずんでいるわけである。そのように村上文学特有の「クロニクル」的様相を際立たせていることにも注目に値する。

そしてたった80分程度の本作を観終わった後に感じるのは、大作映画にワンワン泣かされた後に感じる「ああ、すっきりした!」というような満足感などではなく、それとは全く根本的に違う別次元の充実感なのだ。なんという命の洗浄。この手ごたえはやはり「透明感」によるものなのだろうか。

ストーリーやディテールにも増して、この「透明感」を伝えようと入念に形作られたこの映画。この余韻は本作に触れてほぼニ年が経過したいまでも、心の中になにやらぼんやりと留まり続けている。まるでイッセー尾形の演じる「トニー滝谷」というキャラクターが、僕の中ですっかり居座ってしまったかのようなのだ。

西島秀俊によるナレーションが淡々と言葉を並べる。

「トニーはひとりぼっちになってしまった」

とても悲しいラスト。原作では確かにそうだった。
しかし、市川準はこれに仄かな希望を付け加えた。

「あまりにかわいそうだと思ってね。宮沢りえさんの発する存在感に本作がそっと寄り添いたいと思ったんですよ」

市川監督はそう語っていた。「自由にやってください」と告げた村上春樹の言葉が思い出される。その権利を最後の最後で行使した市川準。しかし僕にはこの「文学→映像」の翻訳は“感性”の部分でしっかりと共鳴していると断言できる。何より、原作を読み終わったときの“透明感”と、本作を見終わったときの“透明感”とが全くの同一のものだったことに驚かされる。ああ、これか。多くのスタッフを集め、豪華なキャストを招き、ある種の実験的でさえある手法でカメラを回し、大の大人たちが汗水ながして、このたったひとつの“透明感”を掴みたかったのか、と気の遠くなるような感慨が流れ込んでくる。

映画は上映時間やカタストロフィによる力技などでは成立しない。
ましてや一本の映画で多くを伝える必要さえない。

伝えたいことは、たったひとつでいいのだ。

原作となった短編『トニー滝谷』は短編集『レキシントンの幽霊』に収録されてます。ファンとしては本編以外にDVD特典も気になるところだったんですが、70分弱にも渡るメイキング・ドキュメンタリー(この映画の特殊な撮影法が明かされます)、監督&主演二人の撮りおろしインタビュー、完成披露舞台挨拶、初日舞台挨拶、などの映像特典をバッチリ収録。「この映画が好き」という人って、「なんとなく好き」っていうよりは「完全に引き込まれた」っていう人の方が多いんですよね。まさにそういう人の愛蔵版に足る、充実した内容。

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『ヘンリー・フール』

以下の文章は筆者が勢い余ってしまったため、ガンガンと映画の詳細に触れております。皆様におかれましてはどうか大人の判断でお読みください。

Henryfool_2
生涯でいちばん好きな映画だし、せっかくだからレビューに残しておこうと検索したところ、DVDがリリースされてないためにあえなく断念(ビデオのみのリリースらしい)。

ご紹介したいのは1997年のハル・ハートリー監督作、『ヘンリー・フール』。日本での公開は1999年。六本木の開発のために泣く泣く幕を閉じた“六本木シネ・ヴィ・ヴァン”の閉館記念作品でした(実際にはこの映画はあまり客が入らず、閉館直前の1、2週間は急遽シネ・ヴィ・ヴァンで観客動員記録を樹立した『CUBE』がリバイバル上映されたことを覚えています)。僕は六本木ヒルズを見上げるたびにそのときのことを思い出して、いささか恨めしい気持ちになってしまう。

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2006/12/08

『あなたになら言える秘密のこと』

思い返せば『死ぬまでにしたい10のこと』は、哀しみにとらわれ過ぎない独自のタッチで、死へと向かうカウントダウンをゆっくりと温かく描いた作品だった。とすれば、イサベル・コイシェとサラ・ポーリーとが再び監督&主演コンビを組むこの新作は、もう一度、死から生に向かって歩き始める映画と言えるのかもしれない。

『あなたになら言える秘密のこと』(原題は“The Secret Life of Words”)はその邦題が示すとおり、秘密を抱えた映画である。ここで明かされる秘密は、少なからず観客を驚かせる内容なのだが、だからといってそこで世界観が180度変形してしまうような「断絶」は引き起こさない。それはとても滑らかな連続性のうちに訪れるもので、観客はその秘密が腰を下ろす場所を、知らず知らずのうちに大切に空けて待っていたかのような不思議な心の落ち着きを味わうこととなる。

Words2
主人公のハンナ(サラ・ポーリー)は製造工場で働くマジメで物静かな女性。耳が悪く補聴器をしているが、仕事への影響はない。今日も始業の合図と共に淡々と作業に浸り、誰とも付き合わず、言葉を交わすこともなく、一日はただ単調に過ぎていく。だが、そんな生活を逆に心配した上司は、半ばむりやり彼女に有給休暇を取らせる。

「どこか旅行でも行ってこい」

言われるままに訪れたのは、とある港町だった。ハンナはここで、海の真ん中にある油田掘削場で火災事故が発生したことを知る。そして、油田では火傷を負った男性がいまも看護を待っている、という話を聴きつけ、自らその役目を引き受ける。彼女はそのむかし、看護師だったのだ。さっそくヘリに乗り込み、ハンナは油田掘削場へと上陸。そこで、事故で一時的に視力を失った患者ジョゼフ(ティム・ロビンス)と出会う。寝たきりながらも陽気に言葉を交わそうとするこの男と、この海の孤島に住む不思議な住民達と一羽のアヒルとに挟まれながら、ハンナは少しずつ心を開き始めていく…。

全編を通して極力セリフを削ぎ落とした透明感あふれる語り口に魅了される。この不思議な世界観の中で、どうしてハンナの“秘密”が氷解の時を迎えたのか。彼女の心理にはいったいどんな作用が働いたのか。どうやらこの場所では僕ら観客には知覚しえない感情の対流が巻き起こっているらしいのだ。

その鍵を握るのは、油田掘削場というロケーションである。

なるほど、この『惑星ソラリス』を思わせるたたずまいの掘削場は、本作の中で“人間の深層心理”のメタファーとして機能している。その足元の鉄筋には日に何万もの波が打ち寄せる。気がつくとボーンボーンという機械の音が絶え間なく響き続け、毎分ごとにおびただしい量の海水が原油と共にくみ上げられ、再び海水へと循環されていく。この時間が止まったように浮世離れした場所で、ハンナはジョゼフとその仲間たちと出逢い、徐々に他人の言葉に耳を傾け、いつしか自らの胸のうちとも対話をしはじめる。世俗では決して払拭されることのなかったハンナの記憶。心の海底に沈めたはずのこの秘密が、浮力の作用に促されて少しずつ少しずつ海面へと上昇していく。

ちなみに、コイシェ監督はチリの油田掘削場にいたことがあり、そのときの経験が11年間も彼女の心を捉えて放さなかったという。「いつかこの場を舞台に映画を」との思いが、本作を結実させたのだそうだ。

特に過剰なセリフの応酬があるわけでもない。大きなドラマがあるわけでもない。しかし、穏やかなテンポで織り成される情緒豊かな描写、一瞬で過ぎ去る表情、波、風、嵐、そしてこの隔絶された海の孤島の食卓に並べられる多国籍料理の数々・・・。そのひとつひとつがとても愛しく思える。ここがどこなのかも分からず、いまが何時なのかすらわからない。この現実世界にいながらにしてお伽噺の世界にでも紛れ込んだかのようなシチュエーションが、これまで表情のなかったハンナに仄かな明かりを灯してくれる。

そして観客は気がつくだろう。コイシェ監督はこの映画で“秘密”と共にちょっとした“語りのマジック”を取り入れている。つまり、我々は多くの場合、映画が始まると同時に「誰に感情移入できるだろうか」と眼を泳がせる。そして大抵の場合は主人公に視点を定めて、「ふう」と安堵の溜息をつく。よかった、映画に取り残されずに済んだ。私はハンナだ。さあ、物語を進めていこう。

しかし、たとえばこうやって駄文を連ねる僕のことをあなたが一切知らない(知りたくもない)のと同様に、実際に観客はハンナのことなど何も知らない。私達は映画の後半でその現実をまざまざと知らされることになる。しかし何度も言うが、そこで決して「断絶」は起こらないのだ。

観客はそのことを受け止め、深く理解するだろう。そしてもうひとりのキーパーソンであるジョゼフと共に、ハンナの秘密を心から知りたいと純粋に願う。やがて“秘密”を“事実”として認めたハンナとジョゼフ、そして私達は、互いにその壁を乗り越えて、ゆっくりと次の一歩を踏み出しはじめるのだ。

その“結末”のみならず、やもすれば結末に引きずられ予定調和になりがちな“過程”の描写があまりに秀逸であることに驚かされる(つくづく映画は企画書的なプロットよりも、その一瞬一瞬の語り口にこそ力量が求められるのだ)。

ハンナだけではない。人は誰でも心の中にそれぞれの油田掘削場を抱えているのかもしれない。本作は、人がそうやって秘密を乗り越えて前に進もうと決意するときの心の流れを、詩人、あるいは芸術家のようなリリカルさでもって描き出した、稀に見る秀作である。

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2006/12/07

『ダークシティ』

ダークシティ』といえば、『クロウ 飛翔伝説』『アイ、ロボット』のアレックス・プロヤス監督の出世作。 この映画の成功があったからこそ、彼はビッグ・バジェットの『アイ、ロボット』を撮ることができたといっても過言ではない。実際、ハリウッドのお偉方を魅了するほどの独自の鬱屈&解放のビジュアルがとめどなく展開し、トータル的には驚くほど面白い世界観が構築されている。

ストーリーは、笑っちゃうくらいに『マトリックス』の世界に似ている。 「なんかこの世界、おかしくないか?」と危機意識を持った男が、いつしかこの世を覆うトンデモない真実に辿り着く。って、マトリックスそのまんまじゃん。

で、実のところ、ふたつのうち早く完成したのは『ダークシティ』なのだ。

この件に関しては逸話が残っている。 本作を試写したジョエル・シルバーが「こりゃあ、おもしれえ!」っつうことで、ちょうど『マトリックス』をプロデュースしている途中だったこともあり、「ちょっとお前ら、これすっげえ面白いから観てこいよ」とウォシャウスキー兄弟に薦めたそうな。で、シルバーは彼らがすっかり喜んで帰ってくるだろうと予想していたのに、試写後の彼らは気が狂ったように怒ってて、「あんた馬鹿じゃねえの!俺らの映画、作りにくくなるじゃねえか!」だって。

ジョエル・シルバーは良かれと思って薦めただけなのに。まあ、プロデューサーって案外こんなものなんでしょうか。

とにかく、ダークな色彩感覚といい、登場人物の荒唐無稽なキャラ設定といい、途中で出てくる奇妙なキョンシー的(あるいはミヒャエル・エンデ原作で映画化された『モモ』の“時間泥棒”的な)集団といい、すべてが寄せ鍋状態で絡まりあって、ほど良くマッタリ。良い意味でB級テイストが満載なのだ。 いやホントは“A級”に分類したいんだけれど、もうこの作品への愛情は僕だけの嗜好品として何度でも楽しみたいほど膨れ上がっているんだからしょうがない。

だから、大きな声では言いたくないけれど、ここだけで言っちゃう。

“傑作”です!

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『ダークシティ』のダーク・ビジュアルとは打って変わって、『ガレージ・デイズ』は同じアレックス・プロヤス監督が撮ったとは思えないくらいにカラフルなバンドムービーです。これがスピーディーで、ひねりが利いてて、かなり面白いです。

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