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2006/12/08

『あなたになら言える秘密のこと』

思い返せば『死ぬまでにしたい10のこと』は、哀しみにとらわれ過ぎない独自のタッチで、死へと向かうカウントダウンをゆっくりと温かく描いた作品だった。とすれば、イサベル・コイシェとサラ・ポーリーとが再び監督&主演コンビを組むこの新作は、もう一度、死から生に向かって歩き始める映画と言えるのかもしれない。

『あなたになら言える秘密のこと』(原題は“The Secret Life of Words”)はその邦題が示すとおり、秘密を抱えた映画である。ここで明かされる秘密は、少なからず観客を驚かせる内容なのだが、だからといってそこで世界観が180度変形してしまうような「断絶」は引き起こさない。それはとても滑らかな連続性のうちに訪れるもので、観客はその秘密が腰を下ろす場所を、知らず知らずのうちに大切に空けて待っていたかのような不思議な心の落ち着きを味わうこととなる。

Words2
主人公のハンナ(サラ・ポーリー)は製造工場で働くマジメで物静かな女性。耳が悪く補聴器をしているが、仕事への影響はない。今日も始業の合図と共に淡々と作業に浸り、誰とも付き合わず、言葉を交わすこともなく、一日はただ単調に過ぎていく。だが、そんな生活を逆に心配した上司は、半ばむりやり彼女に有給休暇を取らせる。

「どこか旅行でも行ってこい」

言われるままに訪れたのは、とある港町だった。ハンナはここで、海の真ん中にある油田掘削場で火災事故が発生したことを知る。そして、油田では火傷を負った男性がいまも看護を待っている、という話を聴きつけ、自らその役目を引き受ける。彼女はそのむかし、看護師だったのだ。さっそくヘリに乗り込み、ハンナは油田掘削場へと上陸。そこで、事故で一時的に視力を失った患者ジョゼフ(ティム・ロビンス)と出会う。寝たきりながらも陽気に言葉を交わそうとするこの男と、この海の孤島に住む不思議な住民達と一羽のアヒルとに挟まれながら、ハンナは少しずつ心を開き始めていく…。

全編を通して極力セリフを削ぎ落とした透明感あふれる語り口に魅了される。この不思議な世界観の中で、どうしてハンナの“秘密”が氷解の時を迎えたのか。彼女の心理にはいったいどんな作用が働いたのか。どうやらこの場所では僕ら観客には知覚しえない感情の対流が巻き起こっているらしいのだ。

その鍵を握るのは、油田掘削場というロケーションである。

なるほど、この『惑星ソラリス』を思わせるたたずまいの掘削場は、本作の中で“人間の深層心理”のメタファーとして機能している。その足元の鉄筋には日に何万もの波が打ち寄せる。気がつくとボーンボーンという機械の音が絶え間なく響き続け、毎分ごとにおびただしい量の海水が原油と共にくみ上げられ、再び海水へと循環されていく。この時間が止まったように浮世離れした場所で、ハンナはジョゼフとその仲間たちと出逢い、徐々に他人の言葉に耳を傾け、いつしか自らの胸のうちとも対話をしはじめる。世俗では決して払拭されることのなかったハンナの記憶。心の海底に沈めたはずのこの秘密が、浮力の作用に促されて少しずつ少しずつ海面へと上昇していく。

ちなみに、コイシェ監督はチリの油田掘削場にいたことがあり、そのときの経験が11年間も彼女の心を捉えて放さなかったという。「いつかこの場を舞台に映画を」との思いが、本作を結実させたのだそうだ。

特に過剰なセリフの応酬があるわけでもない。大きなドラマがあるわけでもない。しかし、穏やかなテンポで織り成される情緒豊かな描写、一瞬で過ぎ去る表情、波、風、嵐、そしてこの隔絶された海の孤島の食卓に並べられる多国籍料理の数々・・・。そのひとつひとつがとても愛しく思える。ここがどこなのかも分からず、いまが何時なのかすらわからない。この現実世界にいながらにしてお伽噺の世界にでも紛れ込んだかのようなシチュエーションが、これまで表情のなかったハンナに仄かな明かりを灯してくれる。

そして観客は気がつくだろう。コイシェ監督はこの映画で“秘密”と共にちょっとした“語りのマジック”を取り入れている。つまり、我々は多くの場合、映画が始まると同時に「誰に感情移入できるだろうか」と眼を泳がせる。そして大抵の場合は主人公に視点を定めて、「ふう」と安堵の溜息をつく。よかった、映画に取り残されずに済んだ。私はハンナだ。さあ、物語を進めていこう。

しかし、たとえばこうやって駄文を連ねる僕のことをあなたが一切知らない(知りたくもない)のと同様に、実際に観客はハンナのことなど何も知らない。私達は映画の後半でその現実をまざまざと知らされることになる。しかし何度も言うが、そこで決して「断絶」は起こらないのだ。

観客はそのことを受け止め、深く理解するだろう。そしてもうひとりのキーパーソンであるジョゼフと共に、ハンナの秘密を心から知りたいと純粋に願う。やがて“秘密”を“事実”として認めたハンナとジョゼフ、そして私達は、互いにその壁を乗り越えて、ゆっくりと次の一歩を踏み出しはじめるのだ。

その“結末”のみならず、やもすれば結末に引きずられ予定調和になりがちな“過程”の描写があまりに秀逸であることに驚かされる(つくづく映画は企画書的なプロットよりも、その一瞬一瞬の語り口にこそ力量が求められるのだ)。

ハンナだけではない。人は誰でも心の中にそれぞれの油田掘削場を抱えているのかもしれない。本作は、人がそうやって秘密を乗り越えて前に進もうと決意するときの心の流れを、詩人、あるいは芸術家のようなリリカルさでもって描き出した、稀に見る秀作である。

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