« 『ヘンリー・フール』 | トップページ | 『jackass number two』 »

2006/12/16

『トニー滝谷』

村上春樹ほどに自作の映画化を拒み続ける人はいない。それは彼自身がすでに人気作家であり、映画化に伴う権料よりは自作の文学としてのオリジナリティを守ろうとする想いの方が強いからに他ならないし、もちろんかつて『風の歌を聴け』(大森一樹監督)の映画化において相当苦い思い出を背負ってしまったことも充分に考えられる。

そんな村上がめずらしくも自作の映画化に「OK」を出した。ベテラン監督の市川準は、『トニー滝谷』という短編を取り上げて「ぜひ映画化を了承してください」と村上に直接交渉したと言う。次の瞬間、長期戦を覚悟していた市川の耳に届いたのは、「短編ならOKですよ」という信じられない返事だった。それだけでなく村上は、これから製作される映画に関して「どうぞ好きに調理してやってください」と何ら注文は付けなかったという。

原作者から与えられた自由。もちろんこの「自由」はクリエイターにとってプレッシャーとなる場合も少なくない。しかしそこはベテラン、市川準。彼はこの「自由」を驚くべきキャスト、スタッフ、そして方法論でもって実践していく。集められたのは、イッセー尾形、宮沢りえ、西島秀俊、そして撮影に広川泰司、音楽に坂本龍一。

「村上文学に漂う透明感を浮き立たせるには、これくらいやらなければダメだと思いました」

市川監督は雑誌のインタビューで僕にこう語ってくれた。

さらには、村上文学の「地上から3センチくらい浮遊している感覚」を出すために、スタッフは横浜の高台のてっぺんにセットをこしらえ、つまり窓から隣の雑居ビルなどが見えないような広々とした空間を作り出した。窓の向こうの空はどんよりと曇っていたり、青く澄み渡っていたり。その灰色と青とが透明感に拍車をかける。

そして、ページをめくるようにして横へ横へと時系列にスライドしていくカット。「トニー滝谷の本当の名前は、トニー滝谷だった」と語られる幼少時代から、カメラはそっと横にスライドし、何か障害物を越えたかと思ったら、次には大学生になったトニーがそこにたたずんでいるわけである。そのように村上文学特有の「クロニクル」的様相を際立たせていることにも注目に値する。

そしてたった80分程度の本作を観終わった後に感じるのは、大作映画にワンワン泣かされた後に感じる「ああ、すっきりした!」というような満足感などではなく、それとは全く根本的に違う別次元の充実感なのだ。なんという命の洗浄。この手ごたえはやはり「透明感」によるものなのだろうか。

ストーリーやディテールにも増して、この「透明感」を伝えようと入念に形作られたこの映画。この余韻は本作に触れてほぼニ年が経過したいまでも、心の中になにやらぼんやりと留まり続けている。まるでイッセー尾形の演じる「トニー滝谷」というキャラクターが、僕の中ですっかり居座ってしまったかのようなのだ。

西島秀俊によるナレーションが淡々と言葉を並べる。

「トニーはひとりぼっちになってしまった」

とても悲しいラスト。原作では確かにそうだった。
しかし、市川準はこれに仄かな希望を付け加えた。

「あまりにかわいそうだと思ってね。宮沢りえさんの発する存在感に本作がそっと寄り添いたいと思ったんですよ」

市川監督はそう語っていた。「自由にやってください」と告げた村上春樹の言葉が思い出される。その権利を最後の最後で行使した市川準。しかし僕にはこの「文学→映像」の翻訳は“感性”の部分でしっかりと共鳴していると断言できる。何より、原作を読み終わったときの“透明感”と、本作を見終わったときの“透明感”とが全くの同一のものだったことに驚かされる。ああ、これか。多くのスタッフを集め、豪華なキャストを招き、ある種の実験的でさえある手法でカメラを回し、大の大人たちが汗水ながして、このたったひとつの“透明感”を掴みたかったのか、と気の遠くなるような感慨が流れ込んでくる。

映画は上映時間やカタストロフィによる力技などでは成立しない。
ましてや一本の映画で多くを伝える必要さえない。

伝えたいことは、たったひとつでいいのだ。

原作となった短編『トニー滝谷』は短編集『レキシントンの幽霊』に収録されてます。ファンとしては本編以外にDVD特典も気になるところだったんですが、70分弱にも渡るメイキング・ドキュメンタリー(この映画の特殊な撮影法が明かされます)、監督&主演二人の撮りおろしインタビュー、完成披露舞台挨拶、初日舞台挨拶、などの映像特典をバッチリ収録。「この映画が好き」という人って、「なんとなく好き」っていうよりは「完全に引き込まれた」っていう人の方が多いんですよね。まさにそういう人の愛蔵版に足る、充実した内容。

|

« 『ヘンリー・フール』 | トップページ | 『jackass number two』 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/137483/13088835

この記事へのトラックバック一覧です: 『トニー滝谷』:

« 『ヘンリー・フール』 | トップページ | 『jackass number two』 »