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2007/01/30

『パリ、ジュテーム』

『セプテンバー11』『10ミニッツ・オールダー』『それでも生きる子供たちへ』などなど、長編一本分の時間を幾人もの有名監督で分割し、劇場を瞬く間に競作スタジアムに変貌させてしまうプロジェクトはこれまでにもいくつか見受けられてきた。これらの企画で重要なのは紛れもない「テーマ」であり、たとえば本作のように「パリ」というテーマで多くの有名監督が大集結している現状を考えると、これが「東京」であった場合や「ニューヨーク」であった場合にこれだけ賛同が得られたものだろうかと、その地の特権性にジェラシーを抱かずにはいられない。

ことの経緯にこそストーリーが詰まっている。この企画を思いついたプロデューサーらはまず初めにトム・テイクヴァに企画を持ち込み、2002年に彼がまず自身の製作会社で一本撮り上げた。『ラン・ローラ・ラン』を思わせる疾走感に満ちたこの作品を具体例として世界各国の有名監督へのプレゼンテーションが続けられ、次に快諾の意を示したのはコーエン兄弟。彼らのミューズ(?)、スティーブ・ブシェミを主演とした作品が2005年に撮られ、これでようやく2本。しかしこれはお釣りが出るほど豪華な2本だ。これらを並べられてこの企画に乗らない映画監督の気が知れない。案の定、次々に手が上がる。

結果的に『パリ、ジュテーム』には18人の監督が集まった。

上映時間を18分割して、ひとりあたりの持ち時間はだいたい5分。パリを舞台にたった5分の持ち時間で描く18本のラブストーリー集が、この『パリ、ジュテーム』なのである。

Q)以下のリストであなたの知ってる監督は?

・ブリュノ・ポダリデス
・グリンダ・チャーダ
・ガス・ヴァン・サント
・コーエン兄弟
・ウォルター・サレス
・クリストファー・ドイル
・イサベル・コイシェ
・諏訪敦彦
・シルヴァン・ショメ
・アルフォンソ・キュアロン
・オリヴィエ・アサヤス
・オリヴァー・シュミッツ
・リチャード・ラグラヴェネーズ
・ヴィンチェンゾ・ナタリ
・ウェス・クレイヴン
・トム・テイクヴァ
・ジェラール・ドパルデュー
・アレクサンダー・ペイン

(筆者は「14/18」でした。けれど面白いもので、全く知らない監督に限って予測しえないヒット作を提供してくれたりするんですよね)

もちろん、ここに挙げた監督にはそれぞれの得意な“時間の刻み方”がある。小刻みの演出が得意な者もいれば、気の長い演出が得意な者だっている。それに本人のあずかり知らない次元でプロデューサーが決定する“並びの問題”もあるので、観客にとってみれば安易に優劣付け難いものがある。

それを承知で個人的な“お気に入り”を挙げると、それは『ベルヴィル・ランデブー』のシルヴァン・ショメ監督が描くファンタジックな実写、「エッフェル塔」だった。まさにアニメーション経由の発想力だからこそ到達しえたキャラクターのディフォルメぶり&リアルから遠く離れた奇想天外さがとても心地いい。

他にも、アルフォンソ・キュアロンは『トゥモロー・ワールド』の映像作家ぶりを踏襲してワンカット撮影で挑んでくるし、ガス・ヴァン・サントになるとフッと時間が止まったようになり、映像の質感も灰褐色に見えてくる。ウォルター・サレスは世界の裏側からパリを見つめたような、まさに盲点を突いたテーマを持ってくるし、ウェス・クレイヴンが歴史的偉人の“墓場”でドラマを繰り広げたのには思わず笑った。そして、『サイドウェイ』のアレクサンダー・ペインがこの短尺の内にあってもマイペースの“ゆったりムービー”のスタンスを崩さなかったのにも感心した。

こうなるともう、「5分=短い」という常識はとっくに無効となり、時には5分の中に「永遠」さえもが見え隠れする。なるほど、それが映画の基本中の基本。たった5分といえども、いったん監督の座を担ったなら、その人間は神にさえなれるのだ。

いまパリの街に18人の神様たちが降り立った。そのとびきり優しい視点を、どうか心から堪能していただきたい。

パリ、ジュテーム』は2007年3月、シャンテシネ、恵比寿ガーデンシネマ、新宿武蔵野館ほか、全国ロードショー

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2007/01/29

『守護神』

世間的に「アンドリュー・デイヴィス」といえば、「ちょっと旬を過ぎた監督」といった位置づけではないだろうか。かつては『逃亡者』(93)などの手堅い演出で一世を風靡しながらも、近年では9.11後に公開延期を余儀なくされた『コラテラル・ダメージ』(爆弾テロで妻子を失った消防士がテロ殲滅を決意しその中枢まで乗り込んでいく、シュワルツェネッガー主演のどえらいアクション)がその後のアメリカの行く末とあまりに酷似していたために、その余りある先見性に周りの反応は“賞賛”を通り越して、ただひたすら“引いた”という経歴の持ち主である。

フィクションとはいえ、9.11を予見した男、デイヴィス。彼ほどのベテランであっても、この現実に先んじた創造過程は、後になって痛みすら呼び起こすものだったに違いない。

そんなデイヴィスが久々にアクションを撮った。原題は“ The Guardian”。邦題は『守護神』という胃もたれしそうな濃厚さながらも、そこにはかつての大風呂敷を広げたような荒唐無稽さは存在しない。

そして主演は、すっかり旬を過ぎた俳優、ケヴィン・コスナー。そして彼だけではキャスティング不足と製作陣が言ったかどうかは知らないが、もう一方の若手軸に据えられるのは、アシュトン・カッチャー。どうせならこっちを主演にしたほうが良かったくらいだ。

そんな崖っぷちのふたり(デイヴィス&コスナー)が手を組んだ本作は、コスナーの主演作としては久々の快作であり、そして同時に、彼にとって酷な映画にも仕上がった。

物語は二段構えで展開する。かつて英雄と崇められ、多くの人命を救ったアメリカ沿岸警備隊のレスキュー隊員の物語、そして彼の指導の下で育っていく新人隊員の物語である。海洋アクションは序盤と終盤にしか存在しない。中盤はひたすら『G.I.ジェーン』ばりの新人訓練がフィルムを埋める(ちなみに『G.I.ジェーン』の主演はアシュトン・カッチャーの妻、デミ・ムーア)。

“かつての英雄”としてまさに等身大のキャラクターを演じるケヴィン・コスナーがスパルタ教育で臨めば、アシュトン・カッチャーもそれに負けじとメキメキと頭角を現していく。アクションを封じて、ひたすら演技合戦に臨む中盤のコスナー&カッチャー。定型に陥りがちなこの種の展開だが、アンドリュー・デイヴィスは老熟した手堅い演出でじっくりと気を吐き続ける。彼が些細な描写にも職人技を注入しているのが分かるから、観客も逐一手ごたえを噛み締めながら、2時間20分の長尺に飽きを感じることもない。

だが、コスナーも別の意味で観客を惹きつける。彼のキャラクターがあまりにリアルなのだ。これを現実に投影するならば、本作はつまり、「ケヴィン・コスナーに引導を突きつける映画」ということになる。落ち目ながら細々と冴えない主演を続けるコスナーに、よりにもよってアシュトン・カッチャーが「あんたの時代は終わったんだぜ」と否応なしにフェイドアウトを迫る映画に見えてくるのである。

これは正直、あまりに酷だ。終盤にかけてその思いは加速する。かつてあれだけの全盛を誇ったコスナーとも、これでもうお別れかもしれない。いつになく力まず自然体で好演する彼が目に映り込むたびに、頭の中で本作は「サヨナラの映画」として色を帯び始める。そして、デイヴィスの演出も、あたかもコスナーに最高の花道を用意しようとしているかのように、いつになく骨太に念入りに織り成されていく。

そんな観客の確信にも近い予測に対し、はたして本作はどのようなクライマックスを用意するのか。レスキュー教官としてのコスナー、そして俳優としてのコスナー双方に、いかなる運命が用意されているのか。これらは最も重要な見所となるだろう。どうか目を見開いて見届けて欲しい。

もっとも、コスナー自身が高望みしなければ、たとえば『ママが泣いた日』のようにいくらでもハマリ役は回ってくるだろう。『守護神』のラストシーンが、のちに脇役俳優としてこれまでとは違った妙味を発揮するコスナーの未来像に繋がってくれればと願わずにいられない。そうすれば本作は、ある意味、伝説的な「別れの映画」として次世代にまで伝えられることだろう。

もう一度言う。これはコスナーの主演作としては久々の快作であり、そして同時に、彼にとって酷な映画だ。

だから、いまはただ、優しくこう呼びかけたい。

「おつかれ、ケヴィン・コスナー」

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2007/01/25

松本人志 第一回監督作品

秘密裏に巨大なプロジェクトが始動しているとのことで、東京タワーのすぐ近くにある東京プリンスホテル・パークタワーで開催された記者会見に行ってきました。

吉本と松竹がガッチリとタッグを組んでの映画企画。しかもその第一弾のメガホンを撮るのは、あの松本人志だというのだから驚きです。最初の企画会議が5年前。それから徐々に詰め、昨年8ヵ月に渡って(“四季”を追いたかったんだそうです)都内でロケを重ね、現在は編集作業中だという。本日明らかにされたタイトルは、『大日本人』。

松本監督は、おびただしいカメラとマスコミの数に「ふへえ!」と目をパチパチさせながら壇上に登場。しかし調子を掴むといつものように「ほんとうのこというと、全然面白くなりそうになかったら、今日の会見で“すみません”って言おうかなって思ってたんです。でも実際、自分でもかなりいい手ごたえなんで、楽しみにしてもらっていいと思います」と宣言。

しかし「どんなジャンルですか?」「どんなストーリーですか?」という質問に及ぶと、「ジャンルとか、ストーリーとか、ひとことでは言えないですね。多分、それは映画を観る前じゃなくて、見た後に、ああ、こんなジャンルかな、こんなストーリーかな、って言えるんじゃないですかね」と煙に巻く回答を繰り返し、そんな曖昧にしか返せない現状についても「もったいぶってると思われるかもわかりませんが、これが本当に簡単には説明できない内容なんですよ」と、とにかく本来我々が映画と捉えている枠組みすらも飛び超えた奇想天外な作品になりそうな予感をほのめかしていた。

しかしその後の質問のやり取りによってちょっとだけ中身が判明。『大日本人』というタイトルからも垣間見えるように、松本監督自身が日本について思うことをギュッと凝縮した作品(?)になっているようで、主演も務める彼の役どころは「まあ、ひとことで言えば、“ヒーロー”ですかね」。もちろんそれが世間一般で考えられる“ヒーロー”と同一であることは絶対に考えられない。

そしてこういうときには必ず引き合いに出される存在として「北野武」の存在があるわけだが、「タケシさんを意識はしますか?」の質問に「いや、タケシさんの場合はテレビと映画とで全くの別だと思うんですよね。でも僕の場合はテレビでやってることの延長だと思うんで、全く意識はしてないですね」と返すものの、その前に挨拶した松竹の映像本部長さんの口からは「本音を申しますと、北野武監督を超えていただきたい」と力強い要望が語られていた。

ちなみに「相方の浜田さんはなんておっしゃってますか?」の質問には、「浜田は…もしかしたら何も知らないかもわからんですね」と返答。でもでも、結局のところ、今日の会見で具体的にベールを脱いだのは「タイトル」と「公開規模」ぐらいなもので、キャストに関しても「主演 松本人志」とだけしか明らかにされていない。もしかすると完成版のどこかのシーンで浜田がぶらりと登場、なんてこともありうるのかもしれない。

なんて悶々と『大日本人』について考えてみたところで、「ダウンタウンDX」に出演中の松ちゃんがブラウン管の向こう側からそれに答えてくれるわけもなく、とにかく我々は無情にも6月の公開をジッと待ち続けなければならないようだ。

松本人志初監督作品『大日本人』は、2007年6月、全国松竹系にてロードショー。具体的には「200を超える劇場」での公開となる模様。25日の15時に解禁となった公式HPには、いまの心情を連ねた松本監督の手紙と、会見全文が掲載されています。

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2007/01/24

『ドリームガールズ』

1981年に初演を迎えたブロードウェイ・ミュージカル「ドリームガールズ」は、翌年のトニー賞に13部門ノミネート&6部門受賞し、4年間に渡り上演され、いわゆるひとつの伝説を築いた。全編を織り成すのはオリジナルのR&B楽曲群。ミュージカルの“舞台”は、ストーリーを物語る聖域のみならず、時として劇中ライブのステージにも早変わりする。主人公は女性3人のボーカル・グループ“ドリームガールズ”。シュープリームス(→詳しくはこのブログ記事の後部で紹介しています)をモデルとしたといわれる彼女たちが、人気の絶頂を勝ち取り、そして更なる変貌を遂げていく様子を、60年~70年代が放つ“時代の熱気”を散りばめながら描いていく。

Dreamgirls_2 

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2007/01/21

『パフューム ある人殺しの物語』

もしもX-MENのメンバーの中にすごい嗅覚の持ち主がいて、彼(彼女)を主役にスピンオフ映画を撮る機会が巡ってきたなら、その打ってつけの監督は間違いなくトム・テイクヴァだろう。いや、実際、X-MENなどどうでもいい。僕が言いたいのは、それほどまでにこの『パフューム』が魅せる嗅覚表現は画期的であり、発明だってことだ。

あらゆる映像が香る!香りが舞う!それを嗅覚が追いかける!匂いが混濁する!そして新たな香りが生まれる!

ややもすると「陰湿で陰惨」との烙印を押されかねない原作世界にこうした画期的なビジュアルを導入することによって、本作は「ある人殺しの物語」である以上に「香りの人類史」として、崇高な視点を構築している。

*****************

<ストーリーを簡単に知りたい方は、『パフューム』公式HPへ>

物語はある連続殺人犯の死刑直前で幕を開ける。おびただしい人々による「殺せ!殺せ!」の大合唱。そして牢獄の暗闇に浮かび上がる男の表情。そう、彼こそが本作の主人公であり嗅覚の天才、グルヌイユだった。

場面は一気に彼の誕生の瞬間へと飛ぶ。18世紀、パリ。そこには花や果物から汚物にいたるまであらゆる匂いが日常に充満している。その匂いのカオスたる“市場”で、その天才は産み落とされた。しかし母親はそのまま赤子を放置。生臭い魚以上には価値のないその生命を、遠くから野良犬が狙っている・・・と、この瞬間に最初の奇跡が起きる。少年は命を取救われ、孤児院へ。子捨ての母親は死刑台へ。

グルヌイユは数々の運命に恵まれながら、自分の嗅覚才能に目覚める。ほとんど言葉を口にしない彼と世界とを繋ぎとめる手段は「匂い」だけだった。匂いへの異様な執着は次第に加速。奇しくも当時の貴族界は匂いを液体化して調合し、身体に振りまき、嘔吐を催すほどの市井の匂いを更なる強烈匂でもって相殺していた。つまり「香水」の流行である。

やがてグルヌイユは香水調合師に弟子入りし、「匂いの抽出法」を執拗に追い求めるようになるのだが、実は彼の内側には恐ろしい狂気が育ち始めていた…。

*****************

匂いの混沌の中で生を受け、奇妙な人生を歩むことになるグルヌイユ。彼を演じたベン・ウィショーは、もともとイギリスの演劇人で、映画への出演は始めてだという。そんな観客にとってどのフレーバーにも属さない未知なる存在感が、名優ダスティン・ホフマン、アラン・リックマンをも向こうに回し、物語を不気味にグイグイと引っ張っていく。

だが、本作をとんでもない傑作に至らしめているのは紛れもなくクライマックスだ。冒頭の死刑執行シーンに舞い戻ったこの最終章。おびただしい観衆の前で一体何が起きるというのか。まるでブリューゲルの絵画のような村民たちが、あることをきっかけにとんでもない状態に陥ってしまうのだ。このシーンに触れたとき、特に原作を読んでいるわけでもなかった僕は腰が砕けそうになった。宗教、道徳、その他のあらゆる価値観を飛び越えて、ある種の超人的な力がこの映画を奇跡的なまでに掌握していく。

そして観客は、本作の中心たる「匂い」が無色透明であるがゆえに、それが記号的にあらゆる価値観にも応用できることに気付くだろう。この映画を見て、非道徳だとか、グロテスクだとか非難の声をあげる人も少なくない。しかし、本来、人間の生とは紛れもなく非道徳的&グロテスクなものであり、本作はその営みを「とある視点」によって編纂しなおし、寓話的世界観の中に封じ込めた、いわば「香水」のようなものなのだ。

また、それらの概念が煙のように「一時的」であることも重要なファクターだ。「匂い」をはじめ「食欲」、「権力」、「性欲」、「愛情」、「憎悪」、「財産」、「道徳」、「宗教」、その他のあらゆるレベルや観念を超えて、永遠なものなど存在しない。すべてはパフュームのごとく人々を一時的に魅了し、そしてフッと“消え失せる”のである。それはもちろん、我々の「生命」とて例外ではない。

ただ、僕の目には狂信的に匂いを追い求めるグルヌイユと同様、狂信的なまでに映像を追い求めるトム・テイクヴァの姿が見える。『ヘヴン』で魅せたクラシックなテイストに『ラン・ローラ・ラン』の奔放さが調合される。その薄気味悪くも格調高いストーリーを駆け抜けるのは、赤髪のローラではなく、自由自在に飛び交う映像(カメラ)なのだ。それを決して小手先の演出で終わらせないのがこの人の凄いところ。彼がラストで見せる恐ろしくも大胆な演出が、視覚や嗅覚という枠組みを超えて、脳裏に激しく刻印されていく。しかもそれがデジタルではなく、途方もないまでにアナログな演出であるところが心を揺さぶって余りある。

きっとこの映画は、あなたが劇場を後にしても、強烈な残り香が鼻腔を侵し続けるだろう。現に僕の場合、試写から3か月が経とうとする今でも、その香りは一向に消えそうにない。

パフューム ある人殺しの物語』は、3月3日よりサロンパス ルーブル丸の内ほか全国松竹・東急系にてロードショー

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パトリック・ジュースキントが36歳のときに原作を発表したのが1985年。その後、本作は45カ国語に翻訳され1500万部もの売り上げを記録。もちろんこれまでには幾度となく映画化のオファーが殺到し、その中にはスティーヴン・スピルバーグやマーティン・スコセッシの名前もあったというが、原作者は決して首を縦に振ることはなかった。しかし粘り強さの勝利というべきか、時間の経過が決着をつけたというべきか、『薔薇の名前』(86)の製作者、ベルント・アイヒンガーが権利を取得する。しかしこの機に及んでも、原作者は「自分は映画に関しては一切関わらない」という条件付きだった。これは「自由にやってよい」という許可である一方、「どんなサジェスチョンを求められても答えないよ」という断絶とも受け取れ、どっちにしろ製作者には悩ましい事態だったに違いないが、トム・テイクヴァの起用こそがすべてを解決に導く原動力だったものと思われる。

「文学か、映像か」という論議は原作モノでおなじみだが、『パフューム』は少なくとも『ダ・ヴィンチ・コード』のような不発弾ムービーではない。製作者、監督、脚本家がどの文学表現をどのような映像文法で表現しているのか、安心して比較分析してみてください。

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2007/01/19

きみに読む物語

00年代に入って映画のジャンルなど語り尽くされたものと高を括っていた。まさか高齢者の視点で綴られるラブストーリーが現れようなどとは思ってもみなかったのだ。

Thenotebook_2 

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2007/01/16

ゴールデン・グローブ賞

ゴールデン・グローブ賞、続々発表中!

【作品賞/ドラマ部門】
◎バベル
・ボビー
・ディパーテッド
・リトル・チルドレン
・クイーン

【主演女優賞/ドラマ部門】
・ペネロペ・クルス/『ボルベール<帰郷>』
・ジュディ・デンチ/『ノーツ・オン・ア・スキャンダル』
・マギー・ギレンホール/『sherrybaby』
◎ヘレン・ミレン/『クイーン』
・ケイト・ウィンスレット/『リトル・チルドレン』

【主演男優賞/ドラマ部門】
・レオナルド・ディカプリオ/『ブラッド・ダイアモンド』
・レオナルド・ディカプリオ/『ディパーテッド』
・ピーター・オトゥール/『Venus』
・ウィル・スミス/『幸せのちから』
◎フォレスト・ウィテカー/『ラスト・キング・オブ・スコットランド』

【作品賞/ミュージカル・コメディ部門】
・ボラット
・プラダを着た悪魔
◎ドリームガールズ
・リトル・ミス・サンシャイン
・サンキュー・スモーキング

【主演女優賞/ミュージカル・コメディ部門】
・アネット・ベニング/『Running With Scissors』
・トニー・コレット/『リトル・ミス・サンシャイン』
・ビヨンセ・ノウルズ/『ドリームガールズ』
◎メリル・ストリープ/『プラダを着た悪魔』
・レニー・ゼルウィガー/『ミス・ポター』

【主演男優賞/ミュージカル・コメディ部門】
◎サシャ・バロン・コーエン/『ボラット』
・ジョニー・デップ/『パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト』
・アーロン・エッカート/『サンキュー・スモーキング』
・キウェテル・イジフォー/『キンキー・ブーツ』

【助演女優賞/両部門共通】
・アドレアナ・バラッザ/『バベル』
・ケイト・ブランシェット/『ノーツ・オン・ア・スキャンダル』
・エミリー・ブラント/『プラダを着た悪魔』
◎ジェニファー・ハドソン/『ドリームガールズ』
・菊地凛子/『バベル』

【助演男優賞/両部門共通】
・ベン・アフレック/『ハリウッドランド』
◎エディ・マーフィー/『ドリームガールズ』
・ジャック・ニコルソン/『ディパーテッド』
・ブラッド・ピット/『バベル』
・マーク・ウォルバーグ/『ディパーテッド』

【長編アニメーション賞】
◎カーズ
・ハッピー・フィート
・モンスター・ハウス

【外国語映画賞】
・Apocalypto
◎Letters From Iwo Jima
・The Lives Of Others
・Pan's Labyrinth
・Volver

【監督賞】
・クリント・イーストウッド/『父親たちの星条旗』
・クリント・イーストウッド/『硫黄島からの手紙』
・スティーブン・フリアーズ/『クイーン』
・アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ/『バベル』
◎マーティン・スコセッシ/『ディパーテッド』

【脚本賞】
・『バベル』
・『ディパーテッド』
・『リトル・チルドレン』
・『ノーツ・オン・ア・スキャンダル』
◎『クイーン』 ピーター・モーガン

【オリジナル作曲賞】
◎『The Painted Veil』
・『ファウンテン』
・『バベル』
・『Nomad』
・『ダ・ヴィンチ・コード』

【主題歌賞】
・"A Father's Way"/『幸せのちから』
・"Listen"/『ドリームガールズ』
・"Never Gonna Break My Faith"/『ボビー』
◎"The Song Of The Heart"/『ハッピー・フィート』
・"Try Not To Remember"/『Home Of The Brave』

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2007/01/09

「ENGLISH JOURNAL」2月号

1月9日発売の「ENGLISH JOURNAL」という雑誌の中で登板しております。

今回のターゲットは、なんとベン・アフレック。このハリウッドで落ち目とも言われる俳優が新作『ハリウッドランド』で久々に脚光を浴びている状況を巻頭記事で紹介しています。映画通の方にとっては既にご存知の内容も多かろうとは思いますが、どうか筆者と共に温かい目でベンの再起を祝福してやっていただければ幸いです。

ちなみに12月末にサンプル本をいただいたのですが、いちばん驚いたのは表紙のベンの格好でした。まさか僕の名字に合わせてそんなことまでしてもらえるなんて…と勝手に感謝しています(詳しくは店頭で)。

書店にお立ち寄りの際は、是非、お手にとってご覧ください。

Google

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2007/01/08

『ルワンダの涙』

村上春樹の著作に『アンダーグラウンド』というルポルタージュがある。地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューを基にしたこの本は、あのとき、あの場所に存在した複数の被害者の目線を章ごとに交錯させ、そこで巻き起こった悲劇の重みを有無言わさぬリアリティとディテールで浮き彫りにした作品だった。

『ルワンダの涙』を見ながらこの村上作品を思い出していたのは、昨年、日本でも公開された『ホテル・ルワンダ』と共に、本作がルワンダ虐殺についての“複数の目”を形成しており、それが互いに交錯する生々しさに激しく胸がえぐられたからだ。

奇しくも昨年は『ユナイテッド93』と『ワールド・トレード・センター』といった9.11についての物語が公開された年でもあった。つまり世界の表舞台において、ひとつの悲劇から映画としての複数の目が生成されるのに「5年」といったタームが付与されたわけだ。

一方のルワンダ虐殺が起こったのは1994年。通常、歴史上のとある悲劇について“複数の目”を成すにはそれなりの時間が必要だとはいえ、両者のタームの差には歴然たる資本主義社会の注目の度合いが関係していることは言うまでもない。それでもここに、(たとえ十年以上の年月が必要だったとはいえ)『ホテル・ルワンダ』、『ルワンダの涙』のような作品がこの世に生まれ出たことは、我々の注意力を地球上のあらゆるところにまで拡げるための礎となることだろう。

時は1994年4月、舞台はルワンダの首都キガリにあるカトリック系の公立技術学校。英国から布教にやってきたクリストファー神父によって運営されるこの学校は、国連平和維持軍の駐留地でもある。この国では多数派フツ族による少数派ツチ族への憎悪が沸点に達しようとしていた。その矢先、大統領の乗った飛行機が爆撃されたことで国内情勢は一気に混沌化。フツ族はツチ族に対して大ナタを振り下ろしはじめる。逃げ惑うツチ族は次々と学校へ避難し、フツ族もその動きを察知しておびただしい人数で学校を取り囲む。神父と英語教師のジョーはこの緊急時に自分達が取りうる手段を求めて校内外を奔走し、キガリのあらゆるところで虐殺の現場を目の当たりにする。神父は国連軍に沈静化を懇願するが、彼らはそれが内政干渉に当たると介入を拒否するばかりか、やがて撤退命令を受け、ルワンダを見捨てる決断を下す…。

ご覧のとおり、本作は『ホテル・ルワンダ』とほとんど同じ時系列で展開する。この2作に共有するシークエンスの数々がいかにリアリティを帯びたものであったか、両作がルワンダの別の場所を舞台にしながら互いにまったく同じ状況を目の当たりにしていたことが分かる。

ただ『ホテル・ルワンダ』が直視し難い現実の中に“希望を描く”という手法で観客の視点を導いたのに対し、『ルワンダの涙』の状況は、どうしようもない“絶望”に満ちている。誰もが無力感に苛まれ、目の前の惨劇に成す術もなく足元から崩れ落ち、悲劇的末路の到来をただ待ち続けるしかない。直接的な描写は避けてはいるが、それでも生々しい殺戮の場面は数多く見られ、この息苦しさは観客に忍耐強さを要するかもしれない。

そもそも本作のプロデューサーは、事件当時BBCの報道記者として現地入りし、結果的に多くの人々を見捨てて帰国した経歴の持ち主だという。当時の計り知れない後悔が彼を映画製作へと向かわせた。もちろんシークエンスの数々にはフィクションを織り交ぜてはいるものの、どの描写にも、どの登場人物にも根拠がある。あの時、あの場所でルワンダの地獄を体験した人たちの記憶の集積、複数の目が、本作を編纂している。

原題は“Shooting Dogs”。技術学校に駐留するベルギー軍の兵士たちは内政干渉にあたるから自衛以外の発砲は認められていなかったが、道端に転がったツチ族の死体に犬が群がり肉片をあさるのを見かねて発砲を繰り返していた。この光景について神父は兵士に「犬が君達に発砲してきたのかね?」と暗に怒りをぶつける。世界の表舞台では英国人の大好きなブラック・ジョークのような響きすら持つこの言葉が、裏側では絶望の淵に咲く皮肉でしかない。この十数年の歳月は、現地のルワンダ人のみならず、多くの悔恨を抱えた作り手がこの身につまされるタイトルと対峙できるまでに必要だった沈黙の時間だったということもできるのかもしれない。

校内に避難したおびただしい人々の運命。ふたりの英国人に突きつけられた国外退避への道。かつてはこの国に希望を抱えてやってきた神父の信仰心、そして彼が下したひとつの決断。

本作は歴史が避けられなかった地獄をついに打開できないまま、無情にも暗転のときを迎える。しかし、観客が無力感に打ちひしがれながらエンドクレジットを目にするそのとき、本作にはただ唯一の“希望”が、枯れ地に花が咲いたかのように炸裂するのである。詳しくは述べないが、この部分にこそ、本作の製作者と現在のルワンダ人たちがこの国で再び歴史に向き合おうとした理由が堰を切ったようにあふれ出している。

この映画で重要なのは、映画というメディアが“悲劇を伝える”ということ以上に何を成し得るか、というケースワークにもなりえたことだ。本作を製作すること自体が“複数の目”を生成するためのツールとなったことに大きな可能性を感じずにはいられない。

我々が唯一感じた“希望”は、決してその物語の内に没するような小手先の演出ではない。現代社会においてこの映画が成し遂げたひとつのリアルな手ごたえなのである。

『ルワンダの涙』は、1月27日よりTOHOシネマズ六本木ヒルズ他にて全国順次ロードショー

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ルワンダ虐殺をより多角的な視点で理解したい方にはこの本がお薦めです。

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2007/01/07

『それでもボクはやってない』

『硫黄島からの手紙』に圧倒されてから劇場から出たときに、目の前にドドンと『それでもボクはやってない』のポスターが貼ってあった。スクリーンでは真っ暗闇で泥にまみれて判然としなかった加瀬亮の表情が、ここでは透き通るようによく見える。近くにいた青年が「あ、この人、憲兵役の人じゃん」と声を上げる。しかし隣にいる彼女は、いまだに何のことかさっぱり分かっていないようだ。『硫黄島からの手紙』の映画館にはそんな光景がそこかしこに転がっていた。まさに『それボク』にとって格好のアドバータイズメント効果。

恐らく『Shall We ダンス?』から11年ぶりにメガホンを撮った周防正行にしても、硫黄島の一兵士に加瀬を抜擢したクリント・イーストウッドにしても、きっと彼に惹かれたいちばんの理由はそのイノセントな“透明感”だったのではないだろうか。あの『硫黄島』では犬も殺せなかった憲兵が、この現代劇では“痴漢”として処罰されようとしている。思い起こせばこの俳優ときたら、その透明感ゆえにいつでも気の滅入るような境地に立たされ続けているような気がしないでもない。

事件は唐突に発生する。就職活動中の男性が満員電車の中で“痴漢”として現行犯逮捕されてしまったのだ。身に覚えのない彼は必死に無罪を主張するが、いったん点いてしまった火は消し難く、彼はあれよあれよという間に警察署へと連行される。ほぼ同時刻に別の路線で同じく現行犯逮捕された中年サラリーマンは早々に罪を認めて罰金を支払い、昼頃には「すみませんでした」と難なく釈放。一方の主人公は「絶対やってない!」の一点張り。はじめての留置所、再三にわたるトリッキーな取調べ、「勝ち目はありませんよ」とアドバイスする当番弁護士。そんなネガティブ要素にくじけそうになりながらも、母親、親友、元恋人、ベテラン弁護士、同じ冤罪事件で闘っている人々の協力を得て、やがて運命の裁判が幕を開ける。

・・・なんて聴くと、主人公の置かれる苦しい立場に気が滅入ってしまう人も少なくないだろう。現に僕が本作をマスコミ試写したあとにいちばん多く聴いた感想が「もう電車には乗りたくない」といったものだった。普段から映画を見慣れている人たちが映画の評価そっちのけでそんな本音を語ってるわけである。それはそれで凄くないか?

この映画は、加瀬の演じる主人公は本当に痴漢か否かを捜査するミステリーでもなければ、真犯人を探すサスペンスでもない。冒頭に表示される「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜(むこ)を罰するなかれ」という文言を何度も反芻するかのように、本作は冤罪を証明しようと奔走する被告側の目線でひたすら展開する。

そもそも周防監督は、“とある痴漢冤罪事件”の記事に本作の着想を得たという。その後の取材を進める中でぶつかった裁判制度の不思議。冤罪の実証があまりに難しい日本の裁判制度を観客と共に噛み締めるべく、周防は2時間23分にも及ぶ時間を駆使して社会派エンターテインメントを繰り広げる。そして彼の映画作家としてのマジックは、観客にとって気が滅入るようなシークエンスでこそ炸裂する。

それは、たとえば『Shall We ダンス?』をはじめ周防作品でお馴染みの“クローズドな世界への侵入”であったり、そこで出逢う面白キャラクターであったり、主人公が壁にぶち当たるごとに段階的に豪華俳優が投入され異なる色彩を添えもする。さすがに“笑い”の要素はこれまでに比べ格段に薄いが、やはり周防印の手法はここでも健在どころか、ますます職人芸を思わせるソフト&柔軟な語り口で観客を惹きつける。まるで時が止まったかのようにピンと張られた糸は最後まで切れることがない。物語的な面白さと知的好奇心、そして法廷の醸し出す静謐な雰囲気(しかしそれは紛れもなく“人が人を裁く場”であることに後から身をつまされるわけであるが)とで、我々の視線は時間を忘れスクリーンに釘付けになっている。

さらには、周防の問題意識を観客が共有するためには、本作で「ああ面白かった」と満足してしまっては失敗となってしまう。重要なのは、いかにエンタテインメントとして完結しながら、いかに観客の意識を完結させないで終わらせるか。それが社会派としての使命なのだ。この場合、映画は実社会を見渡す“眼鏡”でなければならず、主演としてそのセンターに立つ加瀬亮は、やはり“無色透明”の存在でなければならなかった。

彼の身体の向こう側に日本の司法制度が透けて見えてくる。終幕と共に観客はパッと眼鏡を外される。ある人は電車に乗って帰宅せねばならないだろう。その場にいるのは被写体としての加瀬でなく、自分であり、友人であり、家族である。

「電車に乗るのが怖くなったよ」

誰かの本音の感想がまた耳に響いてくる。周防の無色透明な語り口で難なく乗り切れた2時間23分。しかし冤罪と隣り合わせの現実社会はあまりに厳しい(もちろん冤罪がなくならないのは、痴漢犯罪そのものがなくならないからに他ならず、それを決して許してはならない)。

加えて2009年からは裁判員制度が導入され、『12人の優しい日本人』の世界がいよいよ現実化する。冤罪の実証が極めて難しい痴漢事件において、いきなり“裁く立場”に置かれたとき、我々の身には加瀬とは異なった、また新たな次元のジレンマ(物語)がはじまるのである。

映画の公開に合わせて周防監督が本を出しました。映画版のシナリオを完全収録。さらには元裁判官と周防監督との対談など盛りだくさん。3年に及ぶ取材期間を経て構築された映画版の精神的バックグラウンドを、映画で描けなかった部分まで活字化しています。

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2007/01/05

『愛されるために、ここにいる』

たとえば、物語に父と息子が現れたとき、それは見方によって「ある人物の“過去”と“未来”」という解釈が成り立つことがあり、それは親子を描く時に暗に示される永遠のテーマとも言える。

では、『愛されるために、ここにいる』はどうか。本作には、まさにその構図の発展形のように、息子、父、祖父の三世代が登場する。上の解釈を当てはめるならば、それはもちろん「ある人物の“過去”“現在”“未来”」ということになる。

映画とは不思議なものだ。こんなにもミニマルな世界の中で、ハリウッド式の視覚効果、あるいはドラえもんのタイムマシンなど使わずとも、“物語的手法”を用いて瞬間的に時空を超越することがある。もちろんこの効果が得られるのも、本作がストイックなまでに脂肪を削ぎ落とし、ほんの微かな描写の中にその何倍もの味わいを響かせるからだ。

主人公は中年の法務執行官ジャン・クロード。裁判所の要請に従い、家賃を滞納する人々の元に「立ち退き宣告」を届けに歩き回る日々を送っている。今日もまた法の執行が行われ、立ち退きを要求された住民は彼に泣いて懇願するが、それを聞き入れていては仕事にならない。

かつて自分と同じように執行官だった父はとうに介護施設の住人となり、いまでは周囲に気難しく当り散らすばかり。一方、前妻の元で育ったジャン・クロードの息子も同じ事務所に着任するが、まだ執行官の仕事に馴染めずにいる(つまり彼らは三世代とも同じ仕事に着任しているのだ)。

血の繋がった三者はそれぞれに悩みを抱え孤立している。そんな息苦しさの中、ジャン・クロードの密かな楽しみは事務所に聞こえてくるタンゴのリズム。窓際からダンス教室の様子を眺め、そして見よう見まねでステップを刻む。たったそれだけの楽しみ。もちろん彼には「このままでは駄目だ」ということくらい分かっている。

やがて彼は意を決して扉を押し開く。ダンス教室の生徒に加わる初老の男。そして飛び込んだ輪の中で、彼は親子ほど年の離れたひとりの若い女性に恋をすることになる…。

まあ、こうやって文字だけ読めば、フランス版『シャル・ウィ・ダンス?』のようにしか見えない。しかし本作は随所で教えてくれる。映画の良し悪しは予算ではない。要は人生のほんの2時間弱の余暇に、どれほどの宇宙を刻むことができるかだ。

この映画にはたった93分の敷地と、タンゴのリズムと、息子、父親、祖父をはじめとする数少ない登場人物しか存在しない。だが、その最小単位だけで「映画の教科書」とでも呼びたくなるほどの壮大な宇宙を形成し、世代の葛藤と人生の深みを温かく刻み込んでいく。

そしていつしか、それぞれの世代による「愛されるためにここにいる!」との心の叫びが静かな突破点に変わるとき、ジャン・クロードにとっての“過去”“現在”“未来”も大きな変容を遂げる。年老いた父親と同じく寂しい人生を辿るかに思われていた彼の運命は瞬く間に色彩を帯び始め、同時にジャン・クロードと同じ人生を辿るかに思われた若き息子の人生もそこでガラリと変容する。

何度も言うが、それはあくまで解釈上の話だ。決して表立って『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のようなタイムトラベルがお目見えするわけではない。そこにはただオーソドックスな人間ドラマが厳かに三世代の人生を讃えているだけだ。

タンゴの哀愁と官能のリズムは更なる高鳴りでもって作品を包むこみ、そのミニマルな世界観をパーフェクトに完結させていく。まさに普段見慣れた大風呂敷を広げた映画の毒素をガッポリと抜かれたようなデトックス効果が疲れた身体に心地よく沁みる。

たった一杯のお茶が、こんなにも美味しかったとは。

『愛されるために、ここにいる』は、2006年12月16日より東京ユーロスペースにてロードショー。

ステファヌ・ブリゼ監督は本作のサウンドトラックのために、アルゼンチン・タンゴと電子音楽のミクスチャーとしてヨーロッパで有名なユニット「ゴタン・プロジェクト」からクリストフ・H・ミューラーとエデュアルド・マカロフを招聘。「オーシャンズ12」や「Shall We Dance?」でも使用された彼らの斬新な音楽性(しかし本作では電子的な要素は封印)がテーマ曲を繰り広げる傍らに、カルロス・デイ・サルリの古典的なタンゴの味わいも官能的に横たわっている。

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