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2007/01/24

『ドリームガールズ』

1981年に初演を迎えたブロードウェイ・ミュージカル「ドリームガールズ」は、翌年のトニー賞に13部門ノミネート&6部門受賞し、4年間に渡り上演され、いわゆるひとつの伝説を築いた。全編を織り成すのはオリジナルのR&B楽曲群。ミュージカルの“舞台”は、ストーリーを物語る聖域のみならず、時として劇中ライブのステージにも早変わりする。主人公は女性3人のボーカル・グループ“ドリームガールズ”。シュープリームス(→詳しくはこのブログ記事の後部で紹介しています)をモデルとしたといわれる彼女たちが、人気の絶頂を勝ち取り、そして更なる変貌を遂げていく様子を、60年~70年代が放つ“時代の熱気”を散りばめながら描いていく。

Dreamgirls_2 

監督を務めたのはビル・コンドン。『シカゴ』で脚本を担当した彼のことだから、もともとミュージカルに対する愛情と造詣が深いのはもちろん、それに加えて、この映画版『ドリームガールズ』には、ビル・コンドン作品に特有の“逆境の中で必死にもがく者たち”というテーマがどうしようもなくあふれている。

その流れで言えば、この映画の見所は、マジョリティによる文化侵食を一瞬のシークエンスで描き切るところにある。それは、黒人たちが生み出したR&Bをいつの間にか白人が平気な顔してソフト路線でパクり、その光景をテレビで目撃した黒人たちが「こんなことってあってたまるか!」と怒り心頭するシーンで炸裂するのだ。

ジャズやビバップを筆頭に、かねてよりマイノリティ側から産声を上げたカルチャーがマジョリティ側によって我が物顔で搾取されてきた状況があり、60年代の公民権運動を背景に、「それでは我慢ならん」とマイノリティの一部が反撃を開始した。暴力ではなく、あくまで文化的に、戦略的に。

その中には自動車会社を廃業してレコード会社の社長に転進する野心的な男(ジェイミー・フォックス)がいて、彼が真っ先に目をつけ、のちに戦略的に売り出すことになるドリームガールズの存在がある。この時代、黒人側があの手のこの手で白人の牛耳るメインストリームにまで伸し上がっていこうとする姿が、音楽業界の視点で描かれていくわけである。

中でも驚いたのは、ドリームガールズが頂点を手にしてメジャー側に立った後、今度は彼らが我が物顔でマイナー黒人ボーカルの楽曲をパクってしまうところだ。まるでケン・ローチの『麦の穂をゆらす風』(アイルランド独立運動の結果、イギリス軍を追い出すことに成功しながらも、今度は同じアイルランド人どうしが意見を衝突させ、殺し合いにまで発展していく)を彷彿とさせるような展開が音楽業界でも垣間見られてしまった事実。この悲劇のプロットはどこの世界でも適応可能なのか、と悲痛な思いに打ちのめされた。

『シカゴ』のように豪華なステージ美術が盛り込まれているわけでもないし、『ムーランルージュ』のように監督主導のビジュアルセンスが爆発しているわけでもない。その分、主演にあのビヨンセ、そして『Ray』でオスカーを受賞したジェイミー・フォックスを据えられたことはキャスティング的に文句なしの大成果であったはずだ。しかし、本作で最も評価を受けているのが他でもない、助演クラスのジェニファー・ハドソンとエディ・マーフィーという事実には、この映画に触れた観客がむしろ“ビル・コンドン的なテーマ=逆境の中でもがく者たち”に力強い一票を投じていることを示す材料となるのではないだろうか。

ドラスティックな戦いの中で、傷つく者がいる。去る者もいる。倒れて起き上がれなくなる者もいる。

「実力はいちばんだけれどお前はブサイクだから」という理由で隅に追いやられるエフィー(ジェニファー・ハドソン)。いちばん陽気に、音楽の楽しさを全身で表しながらも時代の波に洗い流されていくジミー(エディ・マーフィ)。

エディ・マーフィとジェニファー・ハドソンは、この映画の中でそうした人々のアイコンを一身に体現している(エディ・マーフィーの役どころは、特にマーヴィン・ゲイの姿をダブらせる部分がある)。物語が進むほどに「ドリーム」という言葉が激しい物悲しさを背負っていく。ビヨンセが高らかに楽曲を歌い上げるほど、彼女達が栄光の代償に捨て去ってきたものが重く圧し掛かってくる。

本作は華々しいミュージカルである以前に、表舞台からフェイドアウトしていったすべての人たちへ捧げる壮大なレクイエムなのかもしれない。またそういう想いを読み込んだ上で改めて楽曲に聴き入ってみると、彼女(彼)らのソウルフルな歌声が単なる感情表現を超えて五臓六腑に染み渡る迫力に満ちていることを実感せずにいられない。

特に、ジェニファー・ハドソンの歌う“AND I AM TELLING YOU I'M NOT GOING”にはその歌声が音符をひとつ駆け昇っただけでとてつもない魂の高揚を感じてしまう。「歌うこと」が「生きること」とも同意語であるような、これまで日本人には理解しがたかった彼らの生き様がこれまでになくダイナミックに伝わってくる、そんな珠玉のミュージカル映画の誕生である。

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アカデミー賞のオリジナル歌曲賞では、なんとノミネート枠5曲のうちの3曲を『ドリームガールズ』の“Love You I Do(ジェニファー・ハドソン)”、“Patience(エディ・マーフィー)”、“Listen(ビヨンセ・ノウルズ)”が占めていたのに、結果、票が割れてオスカーは『不都合な真実』の主題歌に持ってかれてしまいました。でも、映画版オリジナルの上記3曲以外にも、本作にはミュージカル版から受け継がれてきた名曲が目白押し。特にジェニファー・ハドソンの歌う“AND I AM TELLING YOU I'M NOT GOING”には鳥肌立ちっぱなしの衝撃を受けてしまいました。

ドリームガールズの原型と言われるシュープリームス。ビヨンセの演じる“ディーナ”がダイアナ・ロスならば、ジェニファー・ハドソンの演じる“エフィ”はフローレンス・バラードというわけで、この映画は二人の対照的な人生が劇的に描かれているところも見所のひとつ。

もともとは“プライメッツ”としてグループ結成に至った彼女らは、やがて1961年にモータウンの創始者ベリー・ゴーディの目に留まり、晴れて契約。もともとはバラードがリードしてきたこのグループだったが、1963年、ゴーディは、ダイナミックで抜群の声量を誇るバラードよりも、高い音域と白人にも愛されるソフトな歌声&ルックスに恵まれたダイアナ・ロスをリード・ボーカルとして再編成を指示。そのことをきっかけに幾度もゴーディと口論を交わしたバラードはやがて精神的に不安定となり、アルコールに溺れ、極度に体重が増し、レコーディングもすっぽかすなどのトラブルを連発し、遂に1967年、脱退を余儀なくされた。

モータウンを離れた彼女はABCレコードと契約し、夫のマネージメントのもとでソロ活動をスタートさせるも、うまくはいかず、やがて自宅は差し押さえられ、夫には去られ、彼女は3人の子供達を養うために社会保障手当てを受けながらその日暮らしの生活が続いた。その後、シュプリームスのメンバーだったメアリー・ウィルソンらと共にステージに立ったりと何度か表舞台に立ち脚光を浴びる機会も得たのだが、なんと1976年、32歳の若さで急死している。

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