« 2007年1月 | トップページ | 2007年3月 »

アカデミー賞2007ノミネーション&受賞結果

第79回アカデミー賞授賞式もようやく幕を閉じました。

■作品賞
バベル

ディパーテッド

クィーン

リトル・ミス・サンシャイン

硫黄島からの手紙

■監督賞
→マーティン・スコセッシ(ディパーテッド)
・スティーヴン・フリアーズ(クィーン)
・アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ(バベル)
・ポール・グリーングラス(ユナイテッド93
・クリント・イーストウッド(硫黄島からの手紙)

■主演女優賞
→ヘレン・ミレン(クィーン)
・ジュディ・デンチ(あるスキャンダルの覚え書き)
・メリル・ストリープ(プラダの悪魔)
・ペネロペ・クルス(ボルベール<帰郷>)
・ケイト・ウィンスレット(リトル・チルドレン)

■主演男優賞
→フォレスト・ウィテカー(ラストキング・オブ・スコットランド
・ピーター・オトゥール(Venus)
・ウィル・スミス(幸せのちから)
・レオナルド・ディカプリオ(ブラッド・ダイアモンド)
・ライアン・ゴスリング(Half Nelson)

■助演女優賞
→ジェニファー・ハドソン(ドリームガールズ
・ケイト・ブランシェット(あるスキャンダルの覚え書き)
・アビゲイル・ブレスリン(リトル・ミス・サンシャイン)
・アドリアナ・バラッザ(バベル)
・菊地凛子(バベル)

■助演男優賞
・エディ・マーフィー(ドリームガールズ
・ジャック・アーリー・ハーレイ(リトル・チルドレン)
→アラン・アーキン(リトル・ミス・サンシャイン)
・マーク・ウォルバーグ(ディパーテッド)
・ジャイモン・ハンスゥ(ブラッド・ダイアモンド)

■脚本賞
・バベル
・硫黄島からの手紙
→リトル・ミス・サンシャイン(マイケル・アーント)
・パンズ・ラビリンス
・クィーン

■脚色賞
・ボラット
トゥモロー・ワールド
→ディパーテッド(ウィリアム・モナハン)
・リトル・チルドレン
・あるスキャンダルの覚え書き

■撮影賞
・ブラック・ダリア
・トゥモロー・ワールド
・The Illusionist
→パンズ・ラビリンス
・イリュージョンVS

■編集賞
・バベル
・ブラッド・ダイアモンド
・トゥモロー・ワールド
→ディパーテッド
・ユナイテッド93

■音響編集賞
・Apocalypto
・ブラッド・ダイアモンド
父親たちの星条旗
・パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト
→硫黄島からの手紙

■外国語映画賞
・Water(カナダ)
→善き人のためのソナタ(ドイツ)
・After the Wedding(デンマーク)
・Days of Glory(アルジェリア)
・パンズ・ラビリンス(メキシコ)

■主題歌賞
→'I Need to Wake Up' (不都合な真実
・'Love You I Do' (ドリームガールズ)
・'Our Town' (カーズ)
・'Patience'(ドリームガールズ)
・'Listen' (ドリームガールズ)

■録音賞
・Apocalypto
・ブラッド・ダイアモンド
・父親たちの星条旗
・パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト
→ドリームガールズ

■作曲賞
→バベル
・グッド・ジャーマン
・あるスキャンダルの覚え書き
・パンズ・ラビリンス
・クィーン

■美術賞
・ドリームガールズ
・グッド・シェパード
→パンズ・ラビリンス
・パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト
・イリュージョンVS

■長編ドキュメンタリー賞
・Deliver Us From Evil
不都合な真実
・Iraq in Fragments
・Jesus Camp
・My Country, My Country

■短編ドキュメンタリー賞
→The Blood of Yingzhou District
・Recycled Life
・Rehearsing a Dream
・Two Hands

■長編アニメ賞
・カーズ
→ハッピー・フィート
・モンスター・ハウス

■メーキャップ賞
・Apocalypto
・もしも昨日が選べたら
→パンズ・ラビリンス

■衣装デザイン賞
・Curse of the Golden Flower
・プラダを着た悪魔
・ドリームガールズ
マリー・アントワネット
・クィーン

■短編アニメ賞
→The Danish Poet
・Lifted
・The Little Matchgirl
・Maestro
・No Time for Nuts

■実写短編賞
・Binta and the Great Idea
・Eramos Pocos
・Helmer & Son
・The Saviour
→West Bank Story

■視覚効果賞
→パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト
・ポセイドン
・スーパーマン・リターンズ

| | トラックバック (0)

アカデミー賞対策2007~主要映画賞リスト~

第79回アカデミー賞授賞式もいよいよ目前。現地時間の25日夜(日本時間では26日の朝)の開始に向けて公式サイトではカウントダウンも始まっています。まだ日本で公開されていない映画も多いですが、ここではアカデミー賞にいたる賞レースの中でどんな作品が注目を集めているのか、驚くほど簡素に一覧表示しておきます。

全米プロデューサー協会賞
・作品賞 『リトル・ミス・サンシャイン』
・アニメーション作品賞 『カーズ』

全米監督協会賞
・劇映画部門 マーティン・スコセッシ(ディパーテッド)

全米俳優協会賞
・主演男優賞 フォレスト・ウィテカー(ラストキング・オブ・スコットランド)
・主演女優賞 ヘレン・ミレン(クィーン)
・助演男優賞 エディ・マーフィー(ドリームガールズ)
・助演女優賞 ジェニファー・ハドソン(ドリームガールズ)
・アンサンブル賞 リトル・ミス・サンシャイン

全米脚本家協会賞
・脚本賞 マイケル・アーント(リトル・ミス・サンシャイン)
・脚色賞 ウィリアム・モナハン(ディパーテッド)
・ドキュメンタリー脚本賞 エイミー・バーグ(Deliver us from Evil)

全米撮影協会賞
・長編映画部門 エマニュエル・ルベッキ(トゥモロー・ワールド)

全米美術監督協会賞
・歴史映画部門 フォ・ティンシャオ(CURSE OF THE GOLDEN FLOWER)
・ファンタジー部門  EUGENIO CABALLERO(パンズ・ラビリンス)
・現代映画部門 ピーター・ラモント(カジノ・ロワイヤル)

全米衣装デザイナー協会賞
・現代映画部門 コンソラータ・ボイル(クィーン)
・歴史映画部門 チュン・マンイー(Curse of the Golden Flower )
・ファンタジー映画部門 Lala Huete(パンズ・ラビリンス)

ゴールデン・グローブ賞
・作品賞(ドラマ)バベル
・主演女優賞(ドラマ)ヘレン・ミレン
・主演男優賞(ドラマ)フォレスト・ウィテカー
・作品賞(ミュージカル/コメディ)ドリームガールズ
・主演女優賞(ミュージカル/コメディ)メリル・ストリープ
・主演男優賞(ミュージカル/コメディ)サシャ・バロン・コーエン
・助演女優賞(両部門共通)ジェニファー・ハドソン
・助演男優賞(両部門共通)エディ・マーフィー
・長編アニメーション賞 カーズ
・外国語映画賞 硫黄島からの手紙
・監督賞 マーティン・スコセッシ
・脚本賞 クィーン
・作曲賞 The Painted Veil
・主題歌賞 "The Song Of The Heart"ハッピーフィート

放送映画批評家協会賞
・作品賞 ディパーテッド
・男優賞 フォレスト・ウィテカー
・女優賞 ヘレン・ミレン
・助演男優賞 エディー・マーフィー
・助演女優賞 ジェニファー・ハドソン
・アンサンブル演技賞 リトル・ミス・サンシャイン
・監督賞 マーティン・スコセッシ
・脚本賞 リトル・ミス・サンシャイン
・アニメーション作品賞 カーズ
・ヤング男優賞 ポール・ダノ
・ヤング女優賞 アビゲイル・ブレスリン
・コメディ映画 ボラット
・ファミリー映画 シャーロットの贈り物
・ドキュメンタリー 不都合な真実
・外国語映画賞 硫黄島からの手紙
・主題歌賞 ドリームガールズ
・作曲賞 ドリームガールズ
・作曲家賞 フィリップ・グラス

ナショナル・ボード・オブ・レビュー
・作品賞 『硫黄島からの手紙』
・外国映画賞 『ボルベール<帰郷>』
・主演男優賞 フォレスト・ウィテカー
・主演女優賞 ヘレン・ミレン
・助演男優賞 ジャイモン・ハンスゥ
・助演女優賞 キャサリン・オハラ
・アンサンブル演技賞 『ディパーテッド』
・ブレイクスルー男優賞 ライアン・ゴスリング
・ブレイクスルー女優賞 ジェニファー・ハドソン、菊地凛子
・監督賞 マーティン・スコセッシ
・新人監督賞 ジェイソン・ライトマン
・脚色賞 『The Painted Veil』
・脚本賞 『主人公は僕だった』
・ドキュメンタリー賞 『不都合な真実』
・アニメーション賞『カーズ』

■全米映画批評家協会賞(HPなし)
・作品賞『パンズ・ラビリンス』
・監督賞 ポール・グリーングラス
・ドキュメンタリー映画賞『不都合な真実』
・主演男優賞 フォレスト・ウィテカー
・主演女優賞 ヘレン・ミレン
・助演男優賞 マーク・ウォルバーグ
・助演女優賞 メリル・ストリープ
・脚本賞 『クィーン』
・撮影賞 『トゥモロー・ワールド』
・実験映画賞『インランド・エンパイア』 

シカゴ映画批評家賞
・作品賞 ディパーテッド
・外国語映画賞 硫黄島からの手紙
・監督賞 マーティン・スコセッシ
・脚本賞 ピーター・モーガン
・脚色賞 ウィリアム・モナハン
・主演男優賞 フォレスト・ウィテカー
・主演女優賞 ヘレン・ミレン
・助演男優賞 ジャッキー・アーリー・ハーリー
・助演女優賞 菊地凛子
・ドキュメンタリー賞 不都合な真実
・撮影賞 エマニュエル・ルベツキ
・作曲賞 クリント・マンセル
・最も有望な俳優 サシャ・バロン・コーエン
・最も有望な監督ライアン・ジョンソン

ロサンゼルス映画批評家協会賞
・作品賞 硫黄島からの手紙
・監督賞 ポール・グリーングラス
・主演女優賞 ヘレン・ミレン
・主演男優賞 サシャ・バロン・コーエン、フォレスト・ウィテカー
・脚本賞 ピーター・モーガン
・助演女優賞 Luminita Gheorghiu"The Death of Mr. Lazarescu"
・助演男優賞 マイケル・シーン
・外国語映画賞 "The Lives of Others"
・ドキュメンタリー作品賞 不都合な真実
・プロダクションデザイン賞 パンズ・ラビリンス
・アニメーション賞 ハッピーフィート
・音楽賞 “The Painted Veil”
・撮影賞 トゥモロー・ワールド
・ニュージェネレーション賞 マイケル・アーント、ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス

ニューヨーク映画批評家協会賞
・作品賞 ユナイテッド93
・主演男優賞 フォレスト・ウィテカー
・主演女優賞 ヘレン・ミレン
・監督賞 マーティン・スコセッシ
・外国映画賞 Army of Shadows
・脚本賞 ピーター・モーガン
・助演男優賞 ジャッキー・アーリー・ハーリー
・助演女優賞 ジェニファー・ハドソン
・撮影賞 ギルレモ・ナヴァロ
・ノンフィクション作品賞 Deliver Us From Evil
・ファースト作品賞 Half Nelson
・アニメーション作品賞 ハッピー・フィート

英国アカデミー賞
・作品賞 クィーン
・アレクサンダー・コーダ(英国映画賞)賞 ラストキング・オブ・スコットランド
・カール・フォアマン(新人)賞 アンドレア・アーノルド(Red Road)
・監督賞 ポール・グリーングラス(ユナイテッド93)
・脚本賞 マイケル・アーント(リトル・ミス・サンシャイン)
・脚色賞 ピーター・モーガン(ラストキング・オブ・スコットランド)
・外国語映画賞 パンズ・ラビリンス
・アニメーション映画賞 ハッピー・フィート
・主演男優賞 フォレスト・フィテカー
・主演女優賞 ヘレン・ミレン
・助演男優賞 アラン・アーキン
・助演女優賞 ジェニファー・ハドソン
・作曲賞 グスターボ・サンタオラヤ(バベル)
・撮影賞 エマニュエル・ルベツキ(トゥモロー・ワールド)
・編集賞 クレア・ダグラス他(ユナイテッド93)
・美術賞 ジム・クレイ他(トゥモロー・ワールド)
・衣装デザイン賞 ララ・ヒュート(パンズ・ラビリンス)
・音響賞 クリス・ムンロー他(カジノ・ロワイヤル)
・視覚効果賞 ジョン・クノール他(パイレーツ・オブ・カリビアン:デッドマンズ・チェスト)
・メーキャップ賞 José Quetglas他(パンズ・ラビリンス)
・短編アニメーション GUY 101
・短編映画賞  DO NOT ERASE
・オレンジ・ライジング・スター・アワード エヴァ・グリーン

| | トラックバック (1)

『バベル』

人類が「より高いところに辿り着きたい」と望んだ結果、神の逆鱗に触れて崩壊し、その後の言語の分裂を生んだといわれる「バベルの塔」。それに連なる現代は“言葉”に限定されず、あらゆる価値観の分断に苛まれている。それら相互の軋轢から生まれた3つのエピソードが、モロッコ、アメリカ、メキシコ、日本という3つの国境を超え、「BABEL」という象徴のもとに人類の絶望と再生を浮き彫りにしていく。

モロッコの羊飼いの兄弟が放った一発の銃弾。また、同じモロッコを旅する夫婦(ブラッド・ピット&ケイト・ブランシェット)を襲った思いがけない運命。中年のベビーシッター(アドリアナ・バラッザ)がアメリカとメキシコの国境で見舞われた災難。そして東京で、耳の聞こえない少女(菊地凛子)の生きる世界、また彼女の抱えた葛藤。それぞれの地で、多くの分断、衝突、誘惑、衝動、不安、苛立ちが洪水のように流れ落ちていく。ほんの些細な感情の起伏がスリリングに膨張、加速し、そして思いがけない事態を呼び寄せる。我々はその暴力的なまでに唐突に訪れる運命の速さに目をあけているのがやっとだ。恐らくこれを見終わった人たちの想いは一人一人まったく異なる。「重苦しい悲劇」と捉えるか、あるいは「希望が見える」と捉えるかは、受け手がどのシーンで何を感じたかによって大きく明暗を分けるに違いない。

『アモーレス・ぺロス』、『21グラム』と、いずれも3つのエピソードの関連により世界を捉える手法を模索してきたアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは、今回もギジェルモ・アリアガによる脚本をもとに3つのエピソードを交互に少しずつ進展させていく。そして、その物語の集積は、単なる「一発の銃弾が3つのストーリーを繋ぐ」といったレベルを超え、ひとつの身体としても互いにシンクロし強靭な生を帯び始める。言葉を超えた“映像”という名の言語が、『バベル』という魂に異様で不気味なゴツゴツとした血と肉とを与えていくのである。

もちろんイニャリトゥは最初から完璧な肉体など求めてはいない。各エピソードはそれぞれにダイナミックでヴィヴィッドで、時折むせ返るほどの生々しさにも富むが、彼の目論見は決してそれだけに留まらず、映画が何かしらのインパクトとして観客の身体に飛び込み、なお延々とエコーし続ける作用こそを求めているかのようだ。だからこそ、『バベル』はその作品の中ですべてを説明しようとはしない。秘められたブラックボックス的部分により、その解釈を観客に委ね、この映画に触れた一人一人にそれぞれの『バベル』の一端を担って欲しいと促しているようにも受け取れる。

そして本作のなかで最も先が見えず、異様なストーリーを成し、複雑な意味を付与されているように思えるのが「東京」のエピソードである。

本編を通して東京の街を見つめる時、そこにはモロッコやアメリカ、メキシコに比べておびただしい数のビルが天に向かって背を伸ばし、まるで「バベルの塔」の世界がいくつものスパイラルを経て辿り着いた終着駅のような気配が漂っている。そこに映る夜景があまりにも幻想的なものだから、彼岸の世界にやってきたようにさえ感じてしまうくらいだ。

はたしてイニャリトゥはどのような想いからこの東京を舞台のひとつに選んだのだろう。この街の主人公として菊地凛子が、手話と読唇を通じてコミュニケーションを図る姿を目にしていると、この街で、言葉を失った主人公がいくつもの葛藤を抱えながら生きていくというビジョンこそが『バベル』的発想の原点であったのではないかとも思えてくる。そしてエピソードの垣根を超えて、この映画に登場する“すべての子供たち”の存在を菊地が担い、僅かの登場シーンながら“すべての大人たち”の存在を役所広司が担い、彼ら親子が数々の分断を癒していく微かな希望のように感じるのは考えすぎだろうか。

モロッコでは幼い兄弟が荒地の丘に立ち、鳥のように手を伸ばして無邪気に風に抗う。メキシコでは真っ赤なドレスを身にまとった中年女性が砂漠のバラのごとくに途方に暮れながら彷徨う。夜の東京では少女が声にならない声で切ない愛を求め、またモロッコでは、男が涙ながらに誰かに電話をかける。

この映画をひとことで“愛の物語”と表すのは語彙が貧困で、とてつもなく格好の悪い表現のように思える。しかし本作はその価値観に“楽観”の側から安易に迫るのではなく、あえて“絶望”の側から必死に手を伸ばし、計り知れない苦しみにもがきながらも、一心不乱に多様な“愛”の形を模索していく。

かつて天に届きたかった想いなど時代の残骸に埋もれ、いまや人間はどれほどの神の怒りに触れたのかも分からぬほど不感症の域に達している。世界共通の愛を叫びながら殺し合いをも辞さない絶望的なジレンマを生き、そしてなおも生き延びたいと願っている。

イニャリトゥは『バベル』において、絶望から決して目をそむけず、無骨な掌を拡げ、そこで生まれた3種類の愛の懺悔で世界を繋げようとした。この時代に臆することなく世界を貫く愛を描くこと。それはいまこの瞬間に生きるすべてのクリエイターに課せられた使命でもある。それが政治で可能だったか?経済でなしえたか?宗教がその答えだったか?いや、それはまさにこの映画というメディアにしか紡ぎ得ない崇高なビジョンだといえる。

少なくともイニャリトゥは、その役目を彼なりに全身全霊を込めて全うしたのだ。

バベル』は、4月28日より全国ロードショー

●この記事が参考になったら押してください→人気ブログランキング

このブログ筆者の日記はこちら

その他の最新レビューは倉庫に並べてあります

| | トラックバック (2)

『THE QUEEN クィーン』

昨年公開された『太陽』というロシア映画もアンタッチャブルな題材に切り込んで話題となったが、『クィーン』で垣間見られる英国王室の世界はさらに驚愕の事態を迎えている。こんなの映像化しちゃって大丈夫なのか。いや、大丈夫なんだろう、もうしちゃったんだから。そしてその評価としておびただしい賞を獲得しているわけだから。

タイトル・ロールを演じるヘレン・ミレンは、一般市民には決して覗い知れぬクィーンの日常を覚悟を決めてさらけだす。スカーフにサングラス、それに革ジャンを着込んで「じゃあ行って来るわ」とジープで鹿狩りに出かけたりもすれば、クィーンの寝起きシーンだってあるし(見たかないよ)、家族でそろって寝巻き姿でBBCテレビを視聴するシーンだってある。驚くべきことに、これらロイヤル・ファミリーの日常描写は、フィクションを交えているとはいえ、脚本を担当したピーター・モーガン(『ラストキング・オブ・スコットランド』の脚色を担当したのもこの人だ)によるかなり精緻な取材を基にしたものだと言う。

だが、それらの描写は始めこそ観客の目を惹くものだが、次第に“ひとりの人間”としてのクィーンを描くための手段だということが分かってくる。語りの名手たるスティーブン・フリアーズはそのあたりをひけらかすこともせず、決して焦らず、かといって観客の気を揉ませることもなく、見事なウェルメイドな世界観を形成していく。作品から香り立つような“安心感”は最後までブレることはない。

やがて事件は起こる。かつてロイヤル・ファミリーだったダイアナの乗った車が滞在先のパリで交通事故を起こしたのだ。真夜中に鳴り響く電話。側近がすぐに家族へ事情を告げ、彼らはおよそ英国民と同じくダイアナの安否を心配しながら真夜中のテレビを見守る。そしてニュースに先んじて知らされる彼女の死。「なんてことだ」と顔面蒼白になるチャールズ。翌日からファミリーの対応に全世界が注目するようになる。既に王室と決別し一般人となったダイアナに対して王室がどのような振る舞いを行うのか。クィーンは昔ながらの毅然とした態度で「沈黙」を決め込むものの、国民は黙っちゃいない。メディアも騒ぐ。それを見かねて首相就任直後ののブレアも奔走し始める。しかし彼は意固地なクィーンとの交渉を重ねる中で、徐々に野心的な想い超えて、クィーンと国民とを繋ぐ自らの使命を自認し始めるのだった。

肝心のダイアナは劇中のニュース映像のみでしかその表情を見せることはない。この「不在」の人物をめぐり周囲の登場人物たちが慌てふためくという手法は、舞台や映画を問わず多くの作品で多用される極めてオーソドックスなもの。そして、彼ら英国人のやりとりに欠かせない皮肉や裏腹が英国映画としてのオーソドックス性に拍車をかけていく。すなわち、この映画のセンセーショナルな部分はその“題材”のみであって、それを彩る手法は常にオーソドックス。フリアーズは幾度も使用されてきたそれらの手法を、より洗練された形で踏襲することによって作品全体を輝かせようとしている。

特にこの映画で注目したいのは、クィーンと英国民の描き方だ。海外旅行でバッキンガム・パレスの衛兵交代を格子ごしにチラ見しただけでは決して理解し得ない両者の切っても切れない関係性を、「なるほど!」と思うほど分かりやすく紐解いてくれるのだ。

映画の中で側近達はクィーンを「マアム」と呼び、クィーンもたびたび国民について「私の子供たち」というような表現をする。その子供たちがダイアナへの対応をめぐって王室を非難している。ヘレン・ミレンの見せる表情はまさに母親の憂鬱だ。それは彼女自身の憂鬱でもあり、同時に長らく歴史を紡いできた英国王室そのものが迎えた憂鬱でもある。バルモラル城に引きこもった彼女が大自然の中で時折「子供たちの気持ちが分からなくなったのかしら」と考え込むような素振りを見せるシークエンスは、まさに反抗期の子供に思い悩む母親の姿である。

と同時に、彼女は紛れもない王室の長である。その威厳に満ちた存在が目の前に現われるたびに、国民は自ずと頭を垂れてきた。そんな人間の習慣的であり、本能的でもある行為を起こさせるのも紛れもないクィーンの力なのである。この映画でクィーンのそれらふたつの像がピタリと重なる時、英国民ならずとも観客はとてつもない安心感に包まれ、軽く頭を垂れたくなってしまうのだから不思議なものだ。母であり、女王でもある。その両者を体現するヘレン・ミレン。さすがオスカー女優の風格。やはり凄いことをやり遂げているわけである。

そしてクィーンをピンチから救うべく奔走するブレアも、自分自身が国民の“代表”であると共に、紛れもないクィーンの“息子(実の息子っていう意味ではなく)”であることに気付く。この象徴としての“母”“息子”の関係が機能し始めてからの展開は、目の覚めるような勢いで転がりを見せる。

彼らだけではない。本作には他にも名キャラクターが大勢ひしめいている。王室反対をと唱えるブレアの妻シェリー・ブレアの態度も映画のテンポを弾ませ、二言目には「鹿狩りに行こう」としか言わないフィリップ殿下(久々のジェームズ・クロムウェルが嬉しい!)はたびたび災いを生んできた口の悪さを連想させるように「ダイアナめ!」「メディアに踊らされおって!」と悪態ばかりついているし、弱気な息子チャールズは自分が民の標的とならないように影でコソコソと動いて母親に意見する機会をうかがっているし、クィーンの母たる皇太后は年齢の割に元気に皮肉めいた言葉で笑いを誘う。それぞれが極上のコメディ・リリーフとして機能し、この“憂鬱の物語”を軽やかに彩っている。

まるで英国の“家族の肖像”を目撃したような気にさせられる104分。そして一度は英国に足を運んだことのある人にとって、10倍は楽しめる作品である。

クィーン THE QUEEN 』は、4月14日よりシャンテシネにて公開、続く4月21日より新宿武蔵野館、シネ・シーブル池袋ほか全国拡大公開

●この記事が参考になったら押してください→人気ブログランキング

このブログ筆者の日記はこちら

その他の最新レビューは倉庫に並べてあります

| | トラックバック (8)

『エクステ』

 そもそも大杉漣という俳優は、相手が映画学校の学生であろうともその脚本さえ輝いていれば喜んで飛び込んでいくというバイタリティの持ち主だと聞く。そんな彼が「この監督とはずっと組んでみたかった」とずっと熱い感情を抱き続けてきた人物、それが怪人、園子温(その・しおん)である。

 その念願は『エクステ』で叶った。彼らが裏で育みあう役者&監督の愛情関係はさておいて、さて日本国民はこの映画をどう観るだろうか。外見は近年あまりにもたくさん量産されてきた“ジャパニーズ・ホラー”。しかしこの映画が明らかに他とは違って見えるのは、怖さを通り越して笑える、いやそれ以上のあまりにたくさんの感覚を兼ね備えているからである。

 まずもって、ヒロインの栗山千明に襲い来る相手が他の追随を許さない。それは携帯の着信が示す死の到来でもなければ、井戸から這い上がってくるロングヘアーの少女でもない。恐怖の対象は、あろう事か“ヘアー”、つまり“髪”なのである。それもエクステンション・ヘアー(付け毛)。来るぞ!来るぞ!来るぞ!ほら、来たー!と緊張感が爆発すると、そこには毛がモワモワーっとやってきて観客は「ギャーっ」と…なるわきゃないじゃないか!爆笑だ。本当に笑った。そのあまりにシュールな映像に笑った。

 実は、園子温も、そして彼の才能に惚れ込んで出演を決めたという大杉漣にしても、この映画を“ホラー”の域に留めようとは露ほども思っていない。それは冒頭、波止場におびただしい毛が輸入されてくるイントロダクションを過ぎると、急に映画のトーンが少女漫画チックになって緊張感が解けてしまうシーンでも垣間見られる。栗山千明が自転車に乗りながら、普通の映画ではありえないような状況説明、そして自分の心の内をとうとうと語り倒すのである。「うわー、この映画、やっちゃったよ…」と誰もが監督の力量を疑問視し、これからの2時間、アイドル映画を見せられるのか?と心配にもなる。

 しかし、恐らく園子温作品をご覧になったことがある方にはすぐにピンと来るだろうが、これは全部フェイクだ。観客に「うわー」と不安にさせることで彼は一気に受け手のハードルを下げさせ、次の展開にはまたガツンと高次元のものを剛速球でぶつけてくる。緊張と弛緩の激しい交錯がとめどなく続き、観客は暑かったりも寒かったりもする満員電車に押し込まれたように、だんだんと判断の基準が曖昧となってくる。はたしていま目の前に展開しているシーンはギャグなのか、ホラーなのか、人間ドラマなのか。そうやって観客を“判断基準のカオス”へ突き落とすところが園子温のすごさなのだ。

 映画の中では、髪フェチの大杉漣が美しい髪を求めて変態性をあらわにすれば、美容師のタマゴの栗山千明は全く別次元の世界で姉との人間関係で悩んでいたりする。両者を結びつけるのは、アジアから輸入されてきた「エクステ」。かつては誰かの人毛であったらしいこの髪の毛をめぐり、栗山の働く美容室は大変な事態に陥っていく。大杉漣も役者生命をかなぐり捨て、北野武映画などからは想像もつかないくらいの“妖怪っぽさ”を見せ付ける。いつしか予想もつかないカタチで襲い掛かってくる髪の毛たち。その頃にはもうあまりに感覚が麻痺してしまい、とあるシーンではそれが『宇宙戦争』のワンシーンとダブって見えてしまったほどだ。

 同時に、本作は“関係性の映画”でもある。姉と妹、母と娘、上司と部下、使用者と使用される者。扱われる様々な人間関係がすべて“エクステ”に象徴されていく。そのアイテムの影には、我々のあずかり知らないアジアのどこかの予想だにしない悲劇が秘められているのかもしれない。

 そんな裏テーマにはまり込むと、これは昨年公開された園子温の『紀子の食卓』をメジャー風に置き換えたものなのではないか、という予測も膨らんでくるし、あるいはアメリカ産の新感覚ホラー『ホステル』が見せた新概念、さらにはドキュメンタリー『ダーウィンの悪夢』が見せた世界の裏側で起きているとんでもない事態をも彷彿とさせる。

 とどのつまり、この『エクステ』は単なるホラーとは説明しづらいほどに様々な感覚が散りばめられており、一方ではこんな深いものが作れるのかと感動してしまい、また一方ではこんな馬鹿なモノを作りやがってと、これまた無性に感動してしまうのである。

 それを証明するかのように、数多くの日本映画に出演している大杉漣はその後、園監督に「これまで出た作品でいちばん面白い」と太鼓判を押したらしい。

 だが、この映画はあまりにも先端を行き過ぎている。全国ロードショー映画としては10人に1人がその真の凄さを理解できるればいいほうなのではないかとも思う(その1/10に含まれたところで何の自慢にもならないが)。少なくとも公式サイトのトップページに宮藤官九郎が絶賛のコメントを寄せているところに「さすが!」という想いを禁じずにはいられないわけである。

もしも『エクステ』を観て園子温という人に興味を持ったなら、ぜひ『紀子の食卓』をご覧いただきたい。ある意味、『エクステ』よりもホラーで、『エクステ』よりも人間ドラマしてます。ジャンルの壁を崩壊させ、まさに“園子温の映画”というカテゴリーを決定付けた一作。

このブログ筆者の日記はこちら

その他の最新レビューは倉庫に並べてあります

| | トラックバック (0)

『デジャヴ』

 ジェリー・ブラッカイマー製作の映画には必ず“田舎道の傍らにある樹木に雷が落ちるプロダクション・ロゴが登場するのはご存知だろう。『デジャヴ』の冒頭ではそれが二度、繰り返される。つまり、しょっぱなから文字どおりの「デジャヴ」で幕を開けるわけだ。

 トニー・スコットがブラッカイマーと組むのはもう何度目だろう。そしてデンゼル・ワシントンと組むのは何度目か。映画に刻まれた彼らの絶妙なコンビネーションを観ながら「あれ、以前もどこかで観たような…」と考えこんでしまう自分がいる時点で、もうそれが思い切り“デジャヴ”なわけだが、彼らは観客のそんな反応すらもネタとして想定していたかのように、細かいことはウジャウジャ言わずに冒頭からぶっちぎりのダイナミズムで突き進んでいく。

 そしてストーリーは、構造としての“デジャヴ”から装置としての“デジャヴ”へと辿りつくわけであるが、これがとてもじゃないが一言で説明できない上に、配給会社からの「お約束」もあり、その後半部分は明かせない。

 そもそも初めは超自然的な“デジャヴ”を扱っているのかと思いきや、これが“ブラッカイマー印”の超科学的な“デジャヴ”なので驚いた。いや、それだけじゃない。前に『エネミー・オブ・アメリカ』でスコット&ブラッカイマーが組んだ時の延長線上でもあるかのように、“監視システム”を総動員させた驚くべきストーリーが繰り広げられていく。

 そして“監視”や“覗き見”といえばその元祖はもちろん「ヒッチコック」と来るわけで、ストーリーの構造には少なからずその古典的エキスが注入されている。それにプラスしての超科学。具体的に言えば、『裏窓』(1954)では骨折して身動きの取れないジェームズ・スチュアートがベッド際の窓から向かいのアパートの住人達の生活を覗き見ていたのに対し、あれからもう50年以上も年月が経ったいまでは、その方法も監視衛星を駆使してのgoogle earthばりの画面展開でもって360度あらゆる場所に視点を移すことが出来るのだ。それでいて『めまい』(1958)のような幻想的なテイストもあり。まったく、これだけの複雑な描写、ストーリーをきちんと分かりやすく一瞬で、しかも魂を揺さぶるような骨太演出で映像化してしまえるトニー・スコットは本当に恐ろしい奴だ。

 さらには本作の舞台はニューオリンズ。カトリーナによる被害は『守護神』のエンドクレジットでも色濃く刻まれていたが、『デジャヴ』では目の前の悲劇に対する救済、という意識がより強く伺える。水害後のいまだに手付かずになっている街並みを、その歴史を記録するかのようにフィルムに刻み、「被害にあった人々に捧ぐ」というデディケーションも忘れない。そして冒頭で巻き起こる船上テロは9.11の記憶をも彷彿とさせる。その生々しさは論議を呼びそうだが、アメリカ国内の2大悲劇をテーマとして扱い、失われた過去を取り戻そうと身を粉にして奔走するデンゼル・ワシントンの姿には、本作の製作陣が米クリエイターとして現代史に敢然と立ち向かおうとしている様が痛いほど伝わってくる。

 あ、ひとつ忘れていた。この映画のもうひとつの驚きは紛れもないヴァル・キルマーだ。今回の彼は脇役として最高の存在感を見せるのだが、ただ…ただ、この人はかつての二枚目の頃が思い出せないくらいに太ってしまった。ひと目見てから誰か分からず、「あれっ?」て思ってもう一度まじまじと見つめてしまった。

 こんな具合に、やっぱり本作にはいたるところに極上の“デジャヴ”が仕掛けられているわけである。

デジャヴ』は3月17日より全国ロードショー。

●この記事が参考になったら押してください→人気ブログランキング

待望の『デジャヴ』DVDは、8月3日リリース。この画期的なSFアクションの舞台裏や未公開シーンなどの特典映像も満載です。

このブログ筆者の日記はこちら

その他の最新レビューは倉庫に並べてあります

| | トラックバック (1)

『ラストキング・オブ・スコットランド』

さて問題。アカデミー賞で主演女優賞を獲得した『クィーン』と、主演男優賞を獲得した『ラストキング・オブ・スコットランド』、その共通点とは?

答えは脚本家のピーター・モーガン。主演女優に“クィーン”、主演男優に“キング”という絵に描いたような盛り上がりの裏側には、この英国人脚本家の存在があったわけだ。『クラッシュ』のポール・ハギスのように今後の映画界を席巻するかどうかは分からないが、今後“話題の人”となることだけは間違いなさそう。

というわけで、『ラストキング・オブ・スコットランド』の世界へようこそ。

恐らくこの映画に触れる人たちは、まず初めに『ブレイブハート』のような男たちのスペクタクルを想像し、次に70年代のウガンダが舞台と知り、だったら『ホテル・ルワンダ』や『輝く明日に向かって』のようなアフリカに関する社会派&人道的ドラマを期待するかもしれない。だが、本作はそのいずれをも超える。そして僕らが太古の昔より対峙してきた“人間の本質”について、深く深く掘り下げていく。もっとも、あまりに掘り下げすぎて、僕らはそこであまりに恐ろしいものを目撃し、足がすくみ、もう後戻りができなくなってしまうのだが。

*********

1998年に発表されたジャイルス・フォーデンによる同名小説をもとにした本作は、ひとりの若者の旅立ちから始まる。スコットランドの医学校を卒業したギャリガンは“ここではないどこか”を求め、地球儀でウガンダを指す。ここなら自分の求める“生きがい”と“冒険”とが待ち構えているはずだ。いまだ“医師”よりも“呪術”を選ぶ人々の住む村で診療活動にあたる彼は、奇妙な運命のいたずらで当時の大統領アミンと遭遇する。ギャリガンがスコットランド人だと知り、「俺はスコットランドが大好きだ!」と意気投合するアミン。クーデター直後の不安定なウガンダにて、彼らの親交はそうしてスタートした。

翌日、ギャリガンは大統領主治医として首都へと招かれる。アミンの巨大な包容力と周りを魅了する豪快な人柄に陶酔するギャリガン。ひとりのスコットランドの若者に過ぎなかった彼はどんどん政権の中枢へと入り込んでいく。

だが、そこで後ろ扉はパタンと閉められた。幸福な時間は無情にも過ぎ去り、悪魔が人間の皮を破り捨てる時間がやってくる。彼はこれからアミンの、あまりに恐ろしい本性を知ることとなる…。

*********

70年代のウガンダといえばちょっとウィキペディアで調べれば分かることだが、かつてのイギリスによる植民地支配から独立し、しかし政情はなかなか安定せず、統治の過程で数々の残虐行為が行われていた。

そして独立後も相変わらずイギリスによる干渉は続いていた。ウガンダ政府の中枢に入り込んだスコットランド人のギャリガンは、たびたび横槍を入れてくる英国人の高等弁務官に「イングランド人め!」と苦々しい表情を向ける。

ギャリガンがスコットランド人であることにより、本作は非常にシニカルな“ねじれ”が生じてくる。「英国とウガンダ」と「イングランドとスコットランド」。“支配”という言葉をめぐり、次元は全く違うまでも、両者ともに似たような関係性(こういうと御幣があるが)に覆われている。少なくともギャリガンは、イングランド人に対して「支配者め!」とは思わないまでも、「偉そうなやつらめ!」くらいのことは感じている。4つの非独立国の連合からなるUK(ユナイテッド・キングダム)において、イングランド以外の国々が抱えたある種の“劣等感”がそこに見え隠れする。

そして本作の奇妙なタイトル“The Last King of Scotland”は、実際のアミンの発言に由来している。英国による内政干渉に関しアミンは外国人記者団に「私はスコットランドの最後の王だ」と語る。彼は“ついこの前まで植民地だった国”という殻をブチ破り、“ウガンダと英国”の関係性を上記で言うところの“スコットランドとイングランド”の関係性の次元にまで押し上げて対等にモノを言ってみせたのである。この豪快さがアミンの凄いところだ。有無言わさず人を惹きつけるパフォーマンス能力。本作は彼を歴史の教科書的な“人間の顔をした悪魔”として処理するのではなく、狂人の一面を持ちながらも、一方でとてつもなく魅力的な存在として力強く描写していく。

その人間性の両面を体現するフォレスト・ウィテカーがとんでもないことになっている。彼に関して言えば、数々の賞レースにおける絶賛が彼の知名度を上げたというよりは、まず初めに“フォレスト・ウィテカー”という誰もが認める才能があり、製作陣がその存在感に本作の命運を託した、ということになるのだろう。これまでにも『バード』でイーストウッドに見出されたり、『バトルフィールド・アース』でトラヴォルタと共にとんでもない宇宙人を演じたりと、数々の武勇伝を残してきたが、一方で映画監督をも務める才人でもある。インタビュー映像や授賞式レポートで見る彼の素顔は知的な上に本当に人懐こい笑顔に満ちていて、アミンの覗かせる“悪”の一面なんて微塵もないように思える。だが、この男が豹変する。物凄い形相でギャラガンを地獄へと送還する。観ているこっち側もこれには言葉が出ない。

加えて、本作がひとつの歴史的告発から大きく化け、そんじょそこらのホラー映画の何倍ものゾワゾワした肌触りを残すのは、この映画をコーティングする生地がとてつもなく“寓話的”だからだ。

この物語は“事実に基づいている”が、若きスコットランド人の医師など、数々のフィクションにも満ちている(何人かの実在の人物をモデルにしているらしい)。歴史のエキスを融解し、そこにフィクションを織り交ぜ寓話的な形状へと固め直したとき、“事実”とも“虚構”とも取れない恐るべき物語が誕生したというわけだ。

つまり、僕らは本作に触れる前から、このストーリーを知っている。それは太古の昔より何度となく語り継がれてきた“悪魔との契約”の話。悪魔は時としてとても魅力的に微笑み、結局のところ人間は、快楽の代償として身長や寿命やあらゆる大切なものを根こそぎ全部持ってかれるわけである。

もっとも本作にいたっては、その“悪魔”が紛れもない“人間”であるわけだけれど。

●この記事が参考になったら押してください→人気ブログランキング

このブログ筆者の日記はこちら

その他の最新レビューは倉庫に並べてあります

| | トラックバック (3)

『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』

 原作が200万部も売れ、フジテレビでスペシャルドラマ化&月9ドラマにもなったこの物語。その最終形態としての映画版は、まず1枚の扉から幕を開ける。数秒後、それを粉砕し飛び込んでくるのはもちろん若き日のオトン。その姿に導かれるように、僕らもそこから本作へと足を踏み入れていくわけである。

 この冒頭シーンは原作の旨味を器用に踏襲しながらも独自の高揚感、テンポ感、有り余るエネルギーを爆発させ、映画ならではのアプローチを忘れない。あくまで作家性を薄めにして原作世界を真摯に伝えようとする松岡錠司監督と、これまでにも一筋縄ではいかない数々の荒行を成し遂げてきた松尾スズキの日本語センスが物凄い勢いで絡まりあい、化学変化を起こし、奇跡的なまでに感度の高いシーンに出来上がっている。キーワードは“アヴァンギャルド”。タイトルと共に映し出されるのは、あの東京タワーの映像だ。やっぱりこの建築物は映画館のどでかいスクリーンで仰ぎ見なけりゃ嘘になる。古いモノクロ映像でそびえたつタワーの雄大さに思わず涙がこぼれそうになった。

 そもそも地方出身者にとって東京タワーってやつは微妙な存在だ。故郷からだとあんなに憧れの象徴に見えるのに、実際に上京すると毎日のように視界に入っていても、改まって昇ってみようとは思わない。それは人間関係にも似ている。近すぎて分からない距離。遠すぎて分からない距離。結局のところすべてはやっぱりリリーさんの言うように、「ぐるぐるぐるぐる」なわけなんである。

 原作では時系列で進んでいくストーリー。この映画では“東京タワーからいちばん遠くにいた頃”と“東京タワーのいちばん近くにいる現在”とが交互に語られていく。

 なので、本作の最重要人物“オカン”にも過去と現在とが交互に訪れる。このキャスティングに驚かされた。歳を重ねたオカンには樹木希林。若い頃のオカンにはその実娘、内田也哉子。とすると当然オトンには内田裕也…となると単なる内田家の話になってしまうので、正式なオトンには小林薫。

 内田也哉子はこれが本格的な演技初挑戦となるそうだが、初めのほうこそ違和感あれど、それは観る者に不安があるからで、時間が経つにしたがって彼女の身体から滲み出る不思議な空気が観客の心を軽妙に掴み取っていく。ここでは演技力など意味を成さない。彼女のリアルな表情、気取らない態度がすべて人間臭く映し出され、彼女が現代の樹木希林とスイッチするたびに、そのどうしようもないDNA的な連続性が観客の心に激しい揺さぶりをかけてくる。

 もちろん後半になって過去のエピソードは現代に追いつき、オカンは希林さん一色に染まっていく。そうなると彼女はますます凄まじいパワーを発揮しはじめ、その一挙手一投足が観客を笑わせ、泣かせもする。脚本上は何てことないオカンの些細な動きに観客の呼吸がヒュウと乱れる。一秒ごとに何かが起こる。もはや役者というよりも、人間という名のあまりにリアルな“怪物”である。

 それに比べると影が薄くなりがちなオトン。しかしこの映画の小林薫がビックリするほどリリー・フランキーに似ていたので驚いた。小林さんはやっぱり小林さんだった。見事。まるで太極拳のように樹林さんの怪物性を解体していく。そして“田舎から見た東京タワー”のごとく常に“遠くの存在”でありつづけるオトンの、破壊的でありながら飄々と掴み所のない人間性を、見事な温度で一貫させている。

 そして、すべてのクセモノ俳優たちの演技をキャッチャーとして受け止め、同時に自らも主人公として出塁しなきゃならんオダギリジョーの、いつも変わらぬ安定した存在感がそこにある。これらの布陣があって化学変化が起こらぬわけはない。もう、あらゆる瞬間を見逃してはならないと、目を皿のように見開く自分がいた。

 この映画は観客が想定しているようなところで泣かせはしない。ああ、来るぞ、来るぞ、とハンカチの用意をしていると意外とあっさりと通り過ぎ、その分、原作のほんの一行を切り開いて描写したような思わぬシーンに後頭部をガツンとやられたりもする。あるいは飛び道具のように現われる荒川良々の反則スレスレの存在感に引っかかったりもするだろう。綺麗に何らかの落としどころを提示して観客を満足させるというよりは、むしろこの映画が終わっても僕らのリアル・ライフは延々と続いていくことをどうしようもなく意識させる後味を残す。その意味で、たまらなく“人間臭い”触感がずっと掌に残って消えることはない。

 きっとリリーさんも、あんな感じで飄々とした人だから、自分が書いた物語で読者に泣いてもらおうなどとは考えていなかったんだと思う。人にはそれぞれの「東京タワー」があり、この作品の示す“ボク”は、例えスクリーン上でオダギリジョーが演じていたとしても、この作品に接するすべての“一人称”でもあるのだと思う。

 原作と同じく、映画でもオダギリジョーがあの独特の語り口で「ぐるぐるぐるぐる」と繰り返す。その“ぐるぐる”も押しなべて伸ばせば、そのまま一本の道となる。その途上では、オカンやオトンだけでなく、星の数ほど多くの良き人たちが、みんなにこやかに笑っている。そういう輝きは、やはり時として立ち止まって、タワーに上って見渡さなければ気がつかないわけである。

 原作のダイジェスト的な足早さは全くない。2時間22分、焦らずじっくりと醸成される「ぐるぐる」を、船にでも身を任せたつもりでゆっくりと味わってください。エンド・ロールが終わると、心の中に不思議な胚芽のようなものがドッシリと腰を下ろしているはずです。

東京タワー オカンとボクと、時々、オトン

●この記事が参考になったら押してください→人気ブログランキング

このブログ筆者の日記はこちら

その他の最新レビューは倉庫に並べてあります

| | トラックバック (3)

EYESCREAM最新号、発売中!

ライフスタイル・マガジン「EYESCREAM(アイスクリーム)」の最新号は2月1日発売です。本屋さんにお立ち寄りの際には“カルチャー誌”のコーナーをぜひチェックしてみてください。このブログの筆者はインタビュー&レビューで参加させてもらってます。

今月は『魂萌え!』『それでもボクはやってない』で渋い存在感を放つ田中哲司(たなかてつし)さんにインタビューしています。誰もが「あ!見たことある!」と声を出してしまうほどに様々な作品で見かける田中さんですが、実際お会いしてみてその真摯で繊細な人柄に魅了されまくりでした。インタビューに答える声量は基本的に小声だったんですが、いざ彼が劇中のセリフを口にするや、突然声の張りが変わるんですよ。その瞬間に周りの空気がビンビンと振動しているのがよく分かるというか。役者さんというものはこんなインタビュー部屋さえも異空間に変えてしまうんだなあ、と感心してしまいました。

と、今月号の発売を目前にして、『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』の完成披露試写の上映前に再び田中さんとお会いしました。豪華俳優のカメオ出演が目白押しのこの映画で、田中さんも2シーンだけ登場します。「原作で泣かされまして、どんな役でもいいから出してください、って頼み込んだんです」と田中さん。そうかあ、念願の出演だったんですね…楽しみにしてますっ!と僕が言うと、「そんな、ほんの一瞬だけですよ」と笑ってました。

| | トラックバック (0)

« 2007年1月 | トップページ | 2007年3月 »