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2007/02/24

『バベル』

人類が「より高いところに辿り着きたい」と望んだ結果、神の逆鱗に触れて崩壊し、その後の言語の分裂を生んだといわれる「バベルの塔」。それに連なる現代は“言葉”に限定されず、あらゆる価値観の分断に苛まれている。それら相互の軋轢から生まれた3つのエピソードが、モロッコ、アメリカ、メキシコ、日本という3つの国境を超え、「BABEL」という象徴のもとに人類の絶望と再生を浮き彫りにしていく。

モロッコの羊飼いの兄弟が放った一発の銃弾。また、同じモロッコを旅する夫婦(ブラッド・ピット&ケイト・ブランシェット)を襲った思いがけない運命。中年のベビーシッター(アドリアナ・バラッザ)がアメリカとメキシコの国境で見舞われた災難。そして東京で、耳の聞こえない少女(菊地凛子)の生きる世界、また彼女の抱えた葛藤。それぞれの地で、多くの分断、衝突、誘惑、衝動、不安、苛立ちが洪水のように流れ落ちていく。ほんの些細な感情の起伏がスリリングに膨張、加速し、そして思いがけない事態を呼び寄せる。我々はその暴力的なまでに唐突に訪れる運命の速さに目をあけているのがやっとだ。恐らくこれを見終わった人たちの想いは一人一人まったく異なる。「重苦しい悲劇」と捉えるか、あるいは「希望が見える」と捉えるかは、受け手がどのシーンで何を感じたかによって大きく明暗を分けるに違いない。

『アモーレス・ぺロス』、『21グラム』と、いずれも3つのエピソードの関連により世界を捉える手法を模索してきたアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは、今回もギジェルモ・アリアガによる脚本をもとに3つのエピソードを交互に少しずつ進展させていく。そして、その物語の集積は、単なる「一発の銃弾が3つのストーリーを繋ぐ」といったレベルを超え、ひとつの身体としても互いにシンクロし強靭な生を帯び始める。言葉を超えた“映像”という名の言語が、『バベル』という魂に異様で不気味なゴツゴツとした血と肉とを与えていくのである。

もちろんイニャリトゥは最初から完璧な肉体など求めてはいない。各エピソードはそれぞれにダイナミックでヴィヴィッドで、時折むせ返るほどの生々しさにも富むが、彼の目論見は決してそれだけに留まらず、映画が何かしらのインパクトとして観客の身体に飛び込み、なお延々とエコーし続ける作用こそを求めているかのようだ。だからこそ、『バベル』はその作品の中ですべてを説明しようとはしない。秘められたブラックボックス的部分により、その解釈を観客に委ね、この映画に触れた一人一人にそれぞれの『バベル』の一端を担って欲しいと促しているようにも受け取れる。

そして本作のなかで最も先が見えず、異様なストーリーを成し、複雑な意味を付与されているように思えるのが「東京」のエピソードである。

本編を通して東京の街を見つめる時、そこにはモロッコやアメリカ、メキシコに比べておびただしい数のビルが天に向かって背を伸ばし、まるで「バベルの塔」の世界がいくつものスパイラルを経て辿り着いた終着駅のような気配が漂っている。そこに映る夜景があまりにも幻想的なものだから、彼岸の世界にやってきたようにさえ感じてしまうくらいだ。

はたしてイニャリトゥはどのような想いからこの東京を舞台のひとつに選んだのだろう。この街の主人公として菊地凛子が、手話と読唇を通じてコミュニケーションを図る姿を目にしていると、この街で、言葉を失った主人公がいくつもの葛藤を抱えながら生きていくというビジョンこそが『バベル』的発想の原点であったのではないかとも思えてくる。そしてエピソードの垣根を超えて、この映画に登場する“すべての子供たち”の存在を菊地が担い、僅かの登場シーンながら“すべての大人たち”の存在を役所広司が担い、彼ら親子が数々の分断を癒していく微かな希望のように感じるのは考えすぎだろうか。

モロッコでは幼い兄弟が荒地の丘に立ち、鳥のように手を伸ばして無邪気に風に抗う。メキシコでは真っ赤なドレスを身にまとった中年女性が砂漠のバラのごとくに途方に暮れながら彷徨う。夜の東京では少女が声にならない声で切ない愛を求め、またモロッコでは、男が涙ながらに誰かに電話をかける。

この映画をひとことで“愛の物語”と表すのは語彙が貧困で、とてつもなく格好の悪い表現のように思える。しかし本作はその価値観に“楽観”の側から安易に迫るのではなく、あえて“絶望”の側から必死に手を伸ばし、計り知れない苦しみにもがきながらも、一心不乱に多様な“愛”の形を模索していく。

かつて天に届きたかった想いなど時代の残骸に埋もれ、いまや人間はどれほどの神の怒りに触れたのかも分からぬほど不感症の域に達している。世界共通の愛を叫びながら殺し合いをも辞さない絶望的なジレンマを生き、そしてなおも生き延びたいと願っている。

イニャリトゥは『バベル』において、絶望から決して目をそむけず、無骨な掌を拡げ、そこで生まれた3種類の愛の懺悔で世界を繋げようとした。この時代に臆することなく世界を貫く愛を描くこと。それはいまこの瞬間に生きるすべてのクリエイターに課せられた使命でもある。それが政治で可能だったか?経済でなしえたか?宗教がその答えだったか?いや、それはまさにこの映画というメディアにしか紡ぎ得ない崇高なビジョンだといえる。

少なくともイニャリトゥは、その役目を彼なりに全身全霊を込めて全うしたのだ。

バベル』は、4月28日より全国ロードショー

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