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2007/04/23

『堕天使のパスポート』

原題は“dirty pretty things”という。 はっきり言って、この邦題はちょっとやり過ぎな気もするのだが、まあ、いいか。とにかく久々に観てよかったと思える作品と出逢った。小粒ながらにピリリと辛い、とても熱いハートを秘めた良作だ。

舞台はロンドン。とはいっても鼻にかかった独特のブリティッシュ・イングリッシュはまったく登場しない。ここは、誰もがおぼつかない怪しげな英語を操る、いわばロンドンの裏社会だ。ここで暮らす移民や不法滞在者たちは、いつの日かパスポートを取得し、国家間を自由に行き来できるようになることを願っている。また、そのためならばどんなことだってまかり通るのが裏社会の怖いところだ。

ナイジェリア人の不法滞在者オクウェは、昼間はタクシー運転手、夜間はホテルのフロントマン。とにかく寝る間を惜しんで働く毎日を送っている。 彼がそこまで身をやつすのには実は誰にも打ち明けられない理由があるのだが、それは映画の後半で明かされる。

ある日、ホテルの一室のトイレが詰まり、彼がゴボゴボと突っついていると、なにやら内臓系のものがプカプカと浮かんでくる。故郷で医者を営んでいたオクウェにはそれが人間の心臓であることが瞬時に分かった。支配人に相談するが「このことは闇に伏せるように」と忠告を受ける。いったいこのホテルでは何が行われているというのか・・・?

いつしか事態は、同居しているトルコ人の女性シェナイをも巻き込んで、血なまぐさく、どうしようもなくシビアに展開していく・・・と思いきや、実のところそこにはファンタジー映画でも観ているかのような不思議な空気感が漂っており、その幻想的にいざなわれていく様子がとても心地よいのだ。

つまり本作は、とても小さな世界観の中で必要最低人数の個性豊かなキャラクターたちが織り成す、ちょっとだけ怪しくも、とびきりの愛に満ちた物語、ということになる。

オープニングとエンディングを固めるのは、元トーキング・ヘッズのデイヴィッド・バーンによる“Glass, Concrete and Stone”という曲。作品の多国籍なイメージを倍増させる“不思議の世界への招待&お見送り”というような曲調で、その浮遊感はいつまでたっても耳から離れない。

主演は『アメリ』『ロング・エンゲージメント』のオドレイ・トトゥ&『キンキー・ブーツ』『トゥモロー・ワールド』に出演したキウェテル・イジョフォー。監督は『クィーン』『がんばれ、リアム』のスティーブン・フリアーズ。

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『スパイダーマン3』

いよいよ待望の『3』が公開、という前に既にヒットを確信して『4』以降の続編製作が発表されている『スパイダーマン』シリーズ。しかし現キャストとサム・ライミは契約更新しない限り今作までの登板となってしまう。とういうわけで、これまでヒーロー物にありがちだったマッチョイズムを遥か後方に追いやって展開してきたサム・ライミ版3部作は、この『スパイダーマン3』にてとりあえず完結の時を迎える。

前作で恋人と親友にその正体を知られてしまったスパイダーマン。ニューヨーク市民から寄せられる信頼もより堅固なものとなり、これまでヒーローのメンタル面に痛みを伴いながら切り込んできたこの異色シリーズは、『3』でまた新たな局面へと突入する。それは正体を知る間柄となった恋人と親友との「ヒーローとして」ではなく「人間として」の対等な関係性を更新していく物語であると共に、いまや「スパイダーマンに名誉市民賞を!」とまでラブコールを贈る市民とそれに自惚れはじめたスパイダーマンとの関係性の更新の物語でもある。

冒頭、ピーター・パーカーの現状を物語るヌルい切り出し方で茶を濁したかと思えば、突如のごとく決別した親友の扮するニュー・ゴブリンとの超高速バトルが幕を開け、ウィレム・デフォー譲りの異様なハイテンションで襲い掛かる攻撃&それを掻い潜るクモの糸での空中ブランコも、もはや「観る」というよりは「感じる」と言った方が懸命なほどスクリーン上で何が起こっているのか把握することは難しい。そして本作はこれだけではなく、あたかも「妖怪大戦争」を思わせるような物量作戦によってコミックでも人気を誇るサンドマン、ヴェノムといった新キャラまでもが参戦。これまでのスパイダーマンの弧を描くかのような振り子運動に加え、ゴブリンの直線的な動き、“ひとりハムナプトラ”状態のサンドマンが巻き起こす砂嵐、そしてヴェノムによる予測不能な寄生攻撃も相俟って、NY上空はこれまでになく抽象画のような芸術性を帯びてくる。そして彼らに負けじと、キルスティン・ダンストの顔面もいろいろあってますます般若化の一途をたどる(これがいちばん恐ろしい)。

思い返せばこのシリーズは革命的なVFXに彩られたアクションもさることながら、まるでデパートの屋上で開催されるヒーローショーのように「屋上で僕と握手!」と言いながらも楽屋裏では頭にタオル巻いてタバコをプカーっとくゆらしながら延々と個人的な悩みを吐露するかのようなストーリーが新鮮だったのだし、1作目で掌からピュっと糸を飛ばす練習を執拗に繰り返して見せるあたりから、やはりサム・ライミの演出は他のクリエイターとだいぶ違っていた。その「あれ、ほかとは違うぞ」という小ビックリの積み重ねが、この3部作完結編ではこれまでにも増して確固たる自信と共に異様な牙城を築きあげている。

本作もてっきり矢継ぎ早のアクションばかりで構成されているのかと思いきや、やはりそれだけじゃない。シリーズ最大の見せ場となる時間帯では驚くべき脱力系のシーンが数多く用意され、およそヒーロー物の映画が取るべきとされてきた方向性を大きく回り道することで観客を思いもよらない困惑と爆笑の入り混じった不思議な気分に導いてくれる。もちろんサム・ライミに取ってみれば、それはいつもの通いなれた道なのであって、遠回りでも近道でもなんでもないことは明らかだ。

同時に注目したいのは、サム・ライミがヒーローや彼を執拗に追い詰める敵キャラ以上に、NYに暮らすごく普通の市民たちにも底知れぬ輝きを与えているところだ。それは『2』のクライマックスで市民たちが達した意識の変化とも連続しており、この3部作がヒーローだけでなく、NY市民の成長の物語でもあったかのような手ごたえを色濃く残しているのだ。そしてとあるシーン、通りかかりのオジサンがふと口にするセリフに意味深さを感じない人はいないだろう。

「たったひとりで世の中を変えようって言うんだ、まったく凄い奴だよ…」

このセリフは響き渡ったその瞬間から本作をめぐる命題としても光を放ち始める。つまり本作は「たった一人で世の中は変わるのか?」といった命題に呼応するかのように壮絶なバトルが繰り広げられるわけであり、その証明過程では自惚れて黒色化したスパイダーマンのカリスマ性以上に、彼をそこはかとなく支える市民の姿がなんとも不思議な感触でフィーチャーされていくのである。

叔母さんの投げかける言葉、執事の打ち明け話、大家さんの気遣い、編集長の豪快な人柄、市民の感謝の言葉、子供たちの歓声、仏料理店のおかしなウェイター、そして最も近しい人たちのピーターに対する態度。彼らはスパイダーマンのように特殊能力は持たないが、サム・ライミはむしろ彼らのひとつひとつの行動が連鎖反応を生み、結果的にヒーローをしっかりと支えている共存関係を描いているようにも思える。すべてのヒーローがマスクを被っているわけじゃない。もしかするとサム・ライミにとっては彼ら一般市民も等しく“ヒーロー”として映っているのかもしれない。手に汗握るVFXで観客を魅了しながらも、その裏側でヒーローをカリスマの位置から一般市民の側に押し戻し、逆に一般市民の隠れたヒーロー性を抽出して両者のバランスを取るあたり、恐らくほかのクリエイターには考えようもないサム・ライミ独自のヒーロー論がここには存在している。

そしてストレートな爽快感だけでなく、こう、鑑賞後もずっと身体の中で化学変化が起こり続けているような微妙な味わいが何とも言えない。あまりにいろんなことが起こりすぎて、「面白かった」とか「感動した」とかそういう安易な感想を口にすることが憚られるような感触なのだ(だからこそ、テレビスポットで観客が「感動した!」とか言うのはもうやめてほしい)。マーケティング主義の徹底した大作映画がはびこる中、観客をこうした予測不能な感情の渦に巻き込んでくれるあたり、サム・ライミがこれからも、映画界にとっての(ダーク)ヒーローであり続けることはほぼ間違いない。

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2007/04/22

『主人公は僕だった』

 たとえば、いま、僕が突拍子もなく走り出してあの角を勢いよく曲がったならば、その向こうは一体どうなっているのだろうか。ただの街並みが広がっているだけ?それとも誰かが照明の最終チェック中だったり、監督がスタッフにダメだししていたり、あるいは椅子に座って出番待ちしてたエキストラが一斉にこっちを向いて「聞いてないよ~!」って声を上げる?

 この世の中がなんだか“作り物”のように感じられる感覚って、実は多くの人が体感してることだと思う。『主人公は僕だった』は、人生で一度はそんな強迫観念に囚われたことがある人にとって、まさに打ってつけの作品だ。人生35年間、その症状で悩み続けていた友人のAさんは、この物語を創作したザック・ヘルム、そして監督のマーク・フォースターの手を握り締め、「よくぞ僕らの物語を著してくれた!」と感激にむせび泣くかもしれない。

 物語の主人公は国税局で働くハロルド(ウィル・フェレル)。毎朝目が覚めると、32本の歯を76回磨き、ネクタイをシングルで結び、家を出ると1ブロックを57歩で走って8時17分のバスに乗り、仕事場では毎日平均7.134件の会計書類を調べる…。こんな代わり映えのない単調な毎日が横たわる中、ある日、彼は自分の行動を逐一物語る奇妙な“天の声”の存在に気付く。「あの声が聴こえますか?」と周囲の人間に尋ねる彼。しかしそれが聴こえているのはどうやらハロルドだけらしい。延々と付きまとうその声に彼の困惑は募るばかり。だが次の瞬間に聴こえてきた“声”の呟きはあまりにも唐突なものだった。

 「この行為が死を招こうとは、彼は知る由もなかった…」

 いきなりの死の予告である。ハロルドは居ても立ってもいられなくなり、この声が小説のナレーションのようでもあることからさっそく専門家のヒルバート教授(ダスティン・ホフマン)に相談を持ちかける。そして教授の下した結果は、どうやらハロルドが、とある女流作家の執筆中の最新作の主人公であるらしいということ。しかもその作家ときたら、クライマックスに必ず主人公を死なせることで名高い悲劇作家らしいのだった…。

 このストーリーに『トゥルーマン・ショー』を思い出す人も多いだろう。確かに構造はよく似ているし、『主人公は僕だった』が前者の影響を受けていないとは否定できない。だが、『主人公~』はさらにその守備範囲を「小説」に特定することによって、“Stranger Than Fiction”という原題が示すように、観客が「フィクション」という特殊構造の内で遊ぶことを可能としている。

 そしてハロルドの証言をもとにヒルバート教授が「そのナレーションは第三者的な視点…つまり“神”の視点だ!」と声の主を手繰り寄せていくように、そもそもフィクションの裏側には「筆者(神)」と「主人公(私)」とが存在するわけで、本来ならば別々の次元で生きているはずの両者が何らかの拍子で出くわし、互いの境界を侵食しようとする瞬間、フィクションの壁はボロボロと崩壊し、その向こう側の“メタ・フィクション”の世界が出現するわけだ。

 本作は、おおむね主人公ハロルドの視点で展開するが、場面は時として女流作家(エマ・トンプソン)の視点へと切り替わる。彼女はいかにして主人公を死に追いやるべきか身を削って悩んでいる。そして奇妙なことに、この物語での彼らは別次元の住人ということもなく、『マトリックス』のように黒電話で結びついた先に現実の世界が用意されているわけでもない。両者は同じ世界に同居している。つまり、どちらかが逢いたいとさえ願えばめぐり合える間柄なのだ。

 この設定を純然たるファンタジーと受け取ることも可能だが、作家先生たちにとってのリアリティと受け取ることもできる。自分の手を離れて主人公がひとり歩きしている感覚に囚われたり、無意識下で主人公にいろいろ要請を受けながらストーリーを練っている気分になったり…と作家が様々な特殊な心理状態に陥ってしまうのはよく聞く話だ。そういうことを鑑みると、本作は創作における精神世界を忠実に書き綴った映画と言えるのかもしれない。

 かつて「あの角を曲がったら…」とセンシティブに思い悩んでいた僕ら。一人一人が主人公だとすると、この世には人間の数だけ固有の物語が存在する。あの頃、僕らが踏み出せなかった壁の向こう側、革新的な第一歩を、本作では他でもないあの仏頂面のウィル・フェレルが渾身の力を込めて踏み出してくれるのだ。平坦な日常が崩れ去るところから冒険が始まる。新しい出逢いが壮大な人生を明るく照らし出す。一枚のクッキーが疲れた心を癒してくれる。そして全ての人生には意味がある。

 だからほら、あなたがいま、この“しがない映画ブログ”を目にしていることだって、単なる偶然じゃないんだってば。

主人公は僕だった

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<メモ>

マーク・フォスター監督の最新作は2月公開の『君のためなら千回でも』。この作品の公開にあたって自宅に届いたお知らせを読んで始めてハッと気づかされました。そこには「フォスター監督は子供の頃、兄を自殺で失っており、これまで手がけた作品には“死”の影響が色濃く反映されてきました」との解説。なるほど、『チョコレート』にも確かに“死と再生”が刻まれていたし、その後の“メタ・フィクション”作品群にも、創作物の舞台裏といった内容のみならず、むしろ“死を乗り越える”といった、人間の生存に関する直接的な意味が付与されているのかもしれません。ここで書いた『主人公は僕だった』も、是非そうした視点で一度ご覧になられることをお奨めします。するとほんの些細な描写に涙が止まらなくなってしまうシークエンスがいくつも見つかります。そしてラスト、“主人公を殺さないこと”によってなんとも平凡な作品に成り果ててしまった小説にも、フォスターの“命”に対する切実な想いを感じ取ることができるはずです。

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2007/04/14

『恋愛睡眠のすすめ』

言うまでもないことだが、そもそも「夢」を作品化するということはごく限られたクリエイターにのみ許された特権であって、たとえばあなたが、見ず知らずの僕の夢になんぞ何の興味関心をも抱かないように、僕だってあなたが昨晩見た「宝くじに当たった」だの「合コンに行ったら案外モテた」だのという夢には一切興味はない。

『恋愛睡眠のすすめ』はそんなゴンドリーの4本目となる映画作品。

Science_of_sleep_2 

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2007/04/11

子供向け映画のただならぬ現状

近所のシネコンのHPにアクセスすると、とんでもない注意書きを見つけたのでここでご報告させていただく。大人たちの知らぬ間に、いつのまにか子供用ムービーはこんなことになっていたのである。

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『ムシキング/オシャレ魔女ラブ&ベリー」上映について

当館ではお客様が映画にあわせてダンスを行うシーンがあること、ご覧になるお客様の主な年代、安全等を考慮して、劇場内を通常の上映よりやや明るめにして上映いたします。皆様のご理解とご協力をお願いいたします。

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たとえば、今は独身の私がいつの日か人の親となり、子供に映画が観たいとダダをこねられ、そうか、しかたねえな、と思い腰を上げて劇場に連れていき、まあ子供用の映画だしなあ、と適当にスクリーンを眺めやっていたりなどすれば、いきなりダンスシーンなんかが始まりやがって、映画のキャラクターが客席に向かって「さあ、みんなも踊ろうではないか!」などとのたまったりするわけである。で、隣に座ってる子供も子供でなんだかウキウキと立ち上がって「お父さんは踊らないの?」などと尋ねてきた日にゃあ、こっちもこっちで運動会の保護者リレーと同様、踊らないわけにはいかず、じゃあ踊ろうか、とたかをくくって立ち上がり、とりあえずは手や足などを交互に動かしているうちに、なんだ、わはは、愉快じゃないか、と子供をさしおいてなんだか楽しくなってしまい、調子に乗っているうちにダンスタイムの終わるタイミングも分からず、いつのまにか客席は皆が腰を下ろし、俺だけがノリノリで立ち上がっているという体たらく。挙句の果てに後ろのガキからは至極冷静に「見せません」と注意が飛び、うるせえ、このクソガキ、と応戦するわけにもいかず、結果的に隣の子供にカッコ悪いところオンリーを見せ付けることになってしまったりするやも知れぬ。というか、実際にそのような大人が続出しているのではないかと上記の注意書きにただならぬ恐怖心を抱きながら、いまはただ、全国の親たちに力の限りエールを送る次第である。

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