『主人公は僕だった』
たとえば、いま、僕が突拍子もなく走り出してあの角を勢いよく曲がったならば、その向こうは一体どうなっているのだろうか。ただの街並みが広がっているだけ?それとも誰かが照明の最終チェック中だったり、監督がスタッフにダメだししていたり、あるいは椅子に座って出番待ちしてたエキストラが一斉にこっちを向いて「聞いてないよ~!」って声を上げる?
この世の中がなんだか“作り物”のように感じられる感覚って、実は多くの人が体感してることだと思う。『主人公は僕だった』は、人生で一度はそんな強迫観念に囚われたことがある人にとって、まさに打ってつけの作品だ。人生35年間、その症状で悩み続けていた友人のAさんは、この物語を創作したザック・ヘルム、そして監督のマーク・フォースターの手を握り締め、「よくぞ僕らの物語を著してくれた!」と感激にむせび泣くかもしれない。
物語の主人公は国税局で働くハロルド(ウィル・フェレル)。毎朝目が覚めると、32本の歯を76回磨き、ネクタイをシングルで結び、家を出ると1ブロックを57歩で走って8時17分のバスに乗り、仕事場では毎日平均7.134件の会計書類を調べる…。こんな代わり映えのない単調な毎日が横たわる中、ある日、彼は自分の行動を逐一物語る奇妙な“天の声”の存在に気付く。「あの声が聴こえますか?」と周囲の人間に尋ねる彼。しかしそれが聴こえているのはどうやらハロルドだけらしい。延々と付きまとうその声に彼の困惑は募るばかり。だが次の瞬間に聴こえてきた“声”の呟きはあまりにも唐突なものだった。
「この行為が死を招こうとは、彼は知る由もなかった…」
いきなりの死の予告である。ハロルドは居ても立ってもいられなくなり、この声が小説のナレーションのようでもあることからさっそく専門家のヒルバート教授(ダスティン・ホフマン)に相談を持ちかける。そして教授の下した結果は、どうやらハロルドが、とある女流作家の執筆中の最新作の主人公であるらしいということ。しかもその作家ときたら、クライマックスに必ず主人公を死なせることで名高い悲劇作家らしいのだった…。
このストーリーに『トゥルーマン・ショー』を思い出す人も多いだろう。確かに構造はよく似ているし、『主人公は僕だった』が前者の影響を受けていないとは否定できない。だが、『主人公~』はさらにその守備範囲を「小説」に特定することによって、“Stranger Than Fiction”という原題が示すように、観客が「フィクション」という特殊構造の内で遊ぶことを可能としている。
そしてハロルドの証言をもとにヒルバート教授が「そのナレーションは第三者的な視点…つまり“神”の視点だ!」と声の主を手繰り寄せていくように、そもそもフィクションの裏側には「筆者(神)」と「主人公(私)」とが存在するわけで、本来ならば別々の次元で生きているはずの両者が何らかの拍子で出くわし、互いの境界を侵食しようとする瞬間、フィクションの壁はボロボロと崩壊し、その向こう側の“メタ・フィクション”の世界が出現するわけだ。
本作は、おおむね主人公ハロルドの視点で展開するが、場面は時として女流作家(エマ・トンプソン)の視点へと切り替わる。彼女はいかにして主人公を死に追いやるべきか身を削って悩んでいる。そして奇妙なことに、この物語での彼らは別次元の住人ということもなく、『マトリックス』のように黒電話で結びついた先に現実の世界が用意されているわけでもない。両者は同じ世界に同居している。つまり、どちらかが逢いたいとさえ願えばめぐり合える間柄なのだ。
この設定を純然たるファンタジーと受け取ることも可能だが、作家先生たちにとってのリアリティと受け取ることもできる。自分の手を離れて主人公がひとり歩きしている感覚に囚われたり、無意識下で主人公にいろいろ要請を受けながらストーリーを練っている気分になったり…と作家が様々な特殊な心理状態に陥ってしまうのはよく聞く話だ。そういうことを鑑みると、本作は創作における精神世界を忠実に書き綴った映画と言えるのかもしれない。
かつて「あの角を曲がったら…」とセンシティブに思い悩んでいた僕ら。一人一人が主人公だとすると、この世には人間の数だけ固有の物語が存在する。あの頃、僕らが踏み出せなかった壁の向こう側、革新的な第一歩を、本作では他でもないあの仏頂面のウィル・フェレルが渾身の力を込めて踏み出してくれるのだ。平坦な日常が崩れ去るところから冒険が始まる。新しい出逢いが壮大な人生を明るく照らし出す。一枚のクッキーが疲れた心を癒してくれる。そして全ての人生には意味がある。
だからほら、あなたがいま、この“しがない映画ブログ”を目にしていることだって、単なる偶然じゃないんだってば。
『主人公は僕だった』
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<メモ>
マーク・フォスター監督の最新作は2月公開の『君のためなら千回でも』。この作品の公開にあたって自宅に届いたお知らせを読んで始めてハッと気づかされました。そこには「フォスター監督は子供の頃、兄を自殺で失っており、これまで手がけた作品には“死”の影響が色濃く反映されてきました」との解説。なるほど、『チョコレート』にも確かに“死と再生”が刻まれていたし、その後の“メタ・フィクション”作品群にも、創作物の舞台裏といった内容のみならず、むしろ“死を乗り越える”といった、人間の生存に関する直接的な意味が付与されているのかもしれません。ここで書いた『主人公は僕だった』も、是非そうした視点で一度ご覧になられることをお奨めします。するとほんの些細な描写に涙が止まらなくなってしまうシークエンスがいくつも見つかります。そしてラスト、“主人公を殺さないこと”によってなんとも平凡な作品に成り果ててしまった小説にも、フォスターの“命”に対する切実な想いを感じ取ることができるはずです。
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もし、自分の人生が誰かの描く物語だったら……と
いうコミカルファンタジー。
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