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2007/05/31

『プレステージ』

 時は19世紀のロンドン。マジックのステージで起こったひとつの悲劇が、ヒュー・ジャックマンとクリスチャン・ベイル演じるふたりの天才マジシャンの確執と、長年にわたる復讐&報復劇を生み出していく。

 『プレステージ』は、さすがにクリストファー・ノーラン作品ならではの格調の高さと、そして彼にしか成しえない“だんだん狂っていく”幻想性とがあいまった最高のエンタテインメントに仕上がっている。かといって、そこに分かりやすい世界が転がっているわけではなく、観客は「日記」というアイテムを紐解きながら、そしてその日記の中でさらに誰かが日記を読んでいるという2重構造に翻弄されながら、時制さえも何度となく往復する。そしてもちろん手品師が主人公であるのだから、そこにはトリックが付き物なのは言うまでもなく、そうなると事態の複雑さはことのほか深刻にもなり、観客としては俄かに背中のあたりが緊張してしまうわけなのだが、しかしノーランの演出は観客を振り回しながらも決して座席から振り落とすことはしない。黙ってスクリーンを見つめてさえおけば、洪水のように流れ落ちてくる情報量を条件反射的に振り分けて理解している自分がいることに気がつくはずだ。

 冒頭にマイケル・ケインが優しく語り掛ける。マジックには3つの段階、そこに種がないことを確認する「プレッジ」、合図によって何かが起こる「ターン」、そしてマジックが完結して観客の拍手喝采を浴びる「プレステージ(偉業)」があるのだと。彼がそう口にするとき、僕らはマジックのみならず、どうしても映画のことを考えてしまう。つまり、映画もマジックと同じエンタテインメントとして何らかのプレッジ、ターン、プレステージを持ち合わせているはずではないのか、と。しかし本作の中でその要素を探そうとも、マイケル・ケインの存在が観客と映画とを結びつける何らかの「プレッジ」の役割を担うのは理解しながらも、後のターン&プレステージについてはもう、あまりにいろんなことが起こりすぎるので、どこで息を呑んだら良いのか、どこで拍手喝采を贈れば良いのか分からず、ただ呆然としてしまうだけだ。そこはやはり『メメント』の段階で観客の常識を完全に覆すトリックを築き上げてきたクリストファー・ノーランのことだ。“マジック”を題材に取り上げながらも、映画のプレッジ、ターン、プレステージはさらに予想がつかず一筋縄ではいかないのだと、観客に密やかなウィンクを投げかけているようにも思える。

 そして本作がさらに次元を超えて面白さを放つのは、この2人のマジシャンによる因縁の対決が何か悪いものに憑りつかれたかのように尋常じゃなくなってくることだ。それは世の中におけるあらゆる場面で見受けられる悲劇であり、企業の研究開発、米ソ冷戦をはじめとする世界情勢にだってそれは刻印されており、それらは少なからず「犠牲」や「代償」を伴うものだった。ここでもうひとつ例を挙げるならば、そもそも「映画」だって生まれながらにしてリュミエールによるシネマトグラフ(投影式)VSエジソン陣営によるキネトスコープ(覗き穴式)という、両者の飽くなき闘いを運命付けられていたのであり、その因縁の対決はいまだ「映画館VSテレビ」という流れによって引き継がれているわけである。

 本作の中で姿は見えねど「エジソン」というワードが何箇所か浮上するのも興味深いところだ。発明王エジソンが、実はあらゆる発明の胚芽を嗅ぎつけては自分の陣営に引き抜くか、あるいは強行手段でもってそれを潰しにかかるといった荒業で特許を量産していったのは有名な話だ。本作の中盤でヒュー・ジャックマン演じるアンジャーが旅の果てにたどり着くニコラ・テスラという人物は、エジソンによる巨大な包囲網に抗いながらも後世に「プレステージ」を残した科学者である。そう、マジックを題材にしたストーリーは、いつしか科学の領域にまでたどり着く。これは科学の発達と人々の驚きとが同調していた19世紀という時代ならではの奇妙な「ターン」現象であり、そのキーパーソンをあのデイヴィッド・ボウイが神秘的に演じているのも見逃せない。

 はたしてこの物語がいかなる結末を掴み取ろうとしているのか。これ以上喋り過ぎるのは野暮ってもんだ。この映画が仕掛ける“プレステージ”の瞬間に、しかと瞠目して頂きたい。

プレステージ』は、6月9日より日比谷スカラ座ほか全国東宝洋画系にてロードショー

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『プレステージ』の原作はクリストファー・プリースト著「奇術師」。手品をネタにしたローテクな物語かと思いきや、意外や意外、ひょいと境界線を踏み越えて幻想小説の様相まで呈してくる、とんでもない作品です。他にも「魔法」、「逆転世界」、そしてデヴィッド・クローネンバーグが映画化した『イグジステンズ』の原作もこの人です。もちろんこの特殊な世界観を巧みに現出できたのは、他ならぬクリストファー・ノーラン監督の卓越した映像手腕あってのこと。『メメント』『インソムニア』『バッドマンビギンズ』、どれをとってもノーラン作品にハズレなし。

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2007/05/28

カンヌ映画祭が閉会しました

というわけで、第60回カンヌ映画祭が閉幕しました。パルムドールを受賞したのはルーマニアの新鋭、クリスチャン・ムンギウ監督による『4ヶ月、3週と2日』(4 Months, 3 Weeks and 2 Days)でした。

そして日本からコンペ出品された河瀬直美監督作の『殯(もがり)の森』は、次点にあたるグランプリを受賞。あのカンヌでのカメラドール(新人監督賞)受賞からちょうど十年目の節目の年に、本当に大きな栄光に輝きました。その受賞スピーチが他のどの受賞者よりも心に沁みたので、急いでメモしたのでところどころ間違っているかもしれませんが、自分のためにもここに書き添えておきたいと思います。

映画を作り続けてきて良かった
映画を作ることは本当に大変なことです
これはすごく人生に似てると思います

私達の人生は、こんなに哀しくて、痛くて、混乱することがいっぱいあると思います
そして心のよりどころを求めるんだと思います

でもそれを、お金とか、車とか、形あるものに求めること

それらが満たしてくれるのは
ほんの一部だと思います

目に見えないもの、光、影、亡くなった人の面影

そういったものによりどころを見つけたとき
たった一人でも立っていられる
そんな生き物なのだと思います

そういった映画を評価してくれてありがとう
この世界は素晴らしいと思う

『殯の森』は6月23日より東京・渋谷シネマアンジェリカで先行公開。その後、7月7日より大阪・九条シネ・ヌーヴォほか、全国順次公開となる模様です。

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2007/05/26

『監督・ばんざい!』

『監督ばんさい』ではない。『監督・ばんざい!』なのである。

  このタイトルに直面した我々は、いったい「・」をどのように口にすればよいのだろう。いや、これは決してくだらない悩みなどではない。観客が劇場窓口で『監督・ばんざい!』のチケットを買い求める時から試練は始まっているのだ。10人いたら10人なりの「・」があるだろう。ある者は「監督」と「ばんざい」の合間にワンクッション置くかもしれないし、その「督」から「ば」に移るタイミングがあまりにも遅れてしまうと、お客よりも係員の方が「『監督・ばんざい!』でございますね?」と先にタイトルを言ってしまうかもしれない。これでは観客として失格だ。ちなみに筆者は「・」を軽いストッパーと考えることにした。参考になるのがテレビのお料理番組だ。司会者が年甲斐もなく拳を突き出して「お料理っ、ばんざい!」とおどけたコールを決め込む瞬間を思い出してくれればちょうどいい。劇場窓口でいかに自我をあきらめ馬鹿になってタイトルコールできるか。この映画を楽しめるかどうかはそこで7、8割は運命付けられる。

  というのも、本作はタイトルどおりの「監督礼賛」を歌い上げようというのでは毛頭なく、弟子に「殿!」と呼ばれながらも自分はちょんまげのカツラをかぶって堂々とカンヌの赤絨毯を歩いてみせるといった、己の存在を最大限にコメディ化してみせる自虐の美意識のようなものが詰め込まれているからだ。本作に臨む観客も、いつものオシャレなミニシアター映画へ臨むような真摯な態度を捨てなければならない。素っ裸で客席に座って「なにか?」と開き直ってみせるといった、それくらいの覚悟で本作に挑まないと、真面目にやってると観客の頭は、ほんと大変なことになってしまうのだ。

  次回作の構想に悩む北野監督。頭の中には様々なアイディアが渦巻くが、バイオレンス、ラブストーリー、小津ワールド、少年時代の思い出、時代劇、SF…と様々な企画が着想しては、次々と頓挫していく。すべてはほんのイントロ部分だけが映像化され、後は寸止め状態のままスルーされていく“日の目を見ない”作品たちばかり。これらの脳内見本市の合間を漂うかのように、北野監督&彼の分身たる“北野君人形”は呆然とたたずみ、そこに彼の心の内を見透かしたかのようなナレーションが折り重なっていく。だんだん煮詰まってくる北野監督、そこから立ち昇るアイディアももはやジャンルを超えた突拍子のないものばかりとなり、事態はナンセンス極まりない、混沌としたものへと変わり始める…。

  聞くところによると、本作は『TAKESHIS’』に始まる3部作の第2弾なのだという。僕は個人的な考えとして、映画監督というものが人間の意識の中に忍び込むかのような(デイヴィッド・リンチ的な)作品を創る場合、それは「攻め」の場合と「守り」の場合の両極端があるように思う。北野監督の場合、『座頭市』の世界的な成功で気流に乗った直後の『TAKESHIS’』がこれまでの自分の作風をを一変させる意欲的な“攻め”の一手だったと考えると、本作『監督・ばんざい!』は『TAKESHIS’』が残念ながら不発(あくまで興行的な面において)に終わった自分をとことんコメディ化して遊ぶというような、失敗直後の厄払い的“守り”の一手と受け取ることができる。開き直った北野武には怖いものなど何もない。折り重なってくるギャグもフフフとウケたり、全くウケなかったり。そしてよりにもよって『マトリックス』の真似事などされてしまった暁には、明らかに「外してしまったなあ…」との苦笑の声すら漏れ、観客はだんだん居心地が悪くなってきた挙句に、ついぞハッとさせられたりもする。もしや、これは我々が“映画を観ている”のではなくて、むしろ“観客が観られている”のではないか、と。

  そういえばビートたけしが出演するバラエティ番組で、ときどき彼が弟子にあまりに笑えないドッキリを仕掛けてケタケタ笑い転げる場面に遭遇することがあるじゃないか。『監督・ばんざい!』はあたかも観客がその犠牲者になってしまったかのような印象を少なからず受け、映画が終わったあとにビートたけしがケタケタ笑いながら舞台袖より出てくるのではないかと本当に期待してしまう(それくらいのオチがないと示しがつかない)自分がいた。それほどまでに、本作はかしこまった映画作品と言うよりも、ビートたけしが観客を出し抜くためのツールとして“映画”を利用した結果のように思えるのだ。もちろん、このテイストを興味深く受け止める人もいれば、「これは映画じゃない!」と怒り心頭する人だっているだろう。それは冒頭で述べたように、観客ひとりひとりの心の持ちようで如何様にも変わるのだ。

  そして『TAKESHIS'』から連なる、いかにしてストーリーを崩壊させ、観客が“映画的”と信じきったものからいかに脱構築を図っていくか、といった心意気にも多少なりとも理解を示すことができる。彼の目からすると、今の日本映画は『監督・ばんざい!』くらいの爆弾を投下しなければバランスの取れない、不気味なまでに偏った怪物のように見えているのかもしれない。

  まさに改変期の6時間番組のフィナーレを「コマネチ!」一発で台無しに(あるいは均衡化)してしまおうとするビートたけしの自由奔放さを久しぶりに目の当たりにしたような(狐につままれたような)感触。

  その最終兵器の決定打として炸裂するのが、他でもない「江守徹」の存在だ。彼の演じる屈辱的なまでに意味不明のキャラクターが、目の前で不条理な飴と鞭でもって観客を無条件なまでに蹂躙するシーンに、僕はこの『監督・ばんざい!』のいちばんコアなものを感じ、その意味不明なエネルギーに圧倒されてしまった。その後、江守が病に倒れたとの報も、『監督・ばんざい!』を観たあとならば充分に納得できる話なのだった。

監督・ばんざい! 』は6月2日より全国ロードショー。なお、『監督・ばんざい!』を上映するすべての劇場において、先日カンヌ映画祭でワールドプレミア上映された世界を代表する35人の監督たちによる短編集『To Each His Own Cinema』の中の北野作品「素晴らしき休日」(3分)が同時上映されます。

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2007/05/20

『300 スリーハンドレッド』

 このとびっきりの歴史アクション大作に「スパルタ教育」という言葉の重みをつくづく思い知らされることになるとは思わなかった。『シン・シティ』のフランク・ミラーによるグラフィック・ノベル「300」として生まれ変わったスパルタ戦士の伝説的な闘いを、『ドーン・オブ・ザ・デッド』のザック・スナイダー監督が陰影の深いスタイリッシュな映像で描き出したのがこの『300スリーハンドレッド』である。

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2007/05/15

『ゾディアック』

長文がうんざりな方は300文字レビューでサクッとチェック。

 映画に派手な盛り上がりやカタルシスを欲する人にとっては、この『ゾディアック』の面白さはいまいち理解できないかもしれない。しかし、例え本作に何らカタルシスを感じなかったとしても、2時間37分間、一瞬たりとも途切れることのない魅惑の映像、そして魅惑の語り口に、あなたの体内時計は終始狂わされ続け、気が付くと映画はエンドロールを迎えていることになるはずだ。そう、『ゾディアック』は不可解なまでに魔術的な映画なのだ。しかも表向きにはいっさいそのような雰囲気を見せず、その裏側で少しずつ、少しずつ、観客の心を見知らぬどこかへといざなっていく。本作の登場人物たちと同じように…。

 それは1968年に始まった連続殺人事件にまつわる物語。自らを“ゾディアック”と名乗る犯人は、大胆にも複数の新聞社に謎の暗号文を送付した。そしてある新聞社がそれを新聞の第一面に掲載したことから、この事件に関わる幾人もの人間達の間で未曾有の悪夢が幕を開ける。それは今尚、歴史に残る劇場型犯罪として解決されずにいる“ゾディアック事件”の始まりだった。

 デビッド・フィンチャー監督は、この映画の製作にあたって事件を整理しなおし、驚くべき入念さでリサーチを貫いたという。生存している関係者にはすべて面会し、現存するあらゆる証拠品にも目を通した。まるで刑事にでもなったかのようなこの徹底したリサーチ。それは事件当時まだ7歳だったフィンチャーがいつしか大人になり、遅れてきたもうひとりの主人公として、このゾディアック事件に少しずつ憑り付かれていく過程でもあったのかもしれない。

 しかしフィンチャーがどれだけ熱心に再調査を試みたところで、この事件は未解決事件なのであり、犯人は未だに捕まっていない。つまり、この映画には“事件解決”というカタルシスが存在しないのである。いや、むしろ、フィンチャーはこの物語的なカタルシスを放棄することによって自分に新たな試練を課しているようにも思える。その答えが、この事件によって身を滅ぼしていく人々を周縁的に描く“群像劇”というスタイルなのだ。よってこの作品にこれといった見せ場はない。全編に渡って均質化されたボルテージで突き進んでいき、そのトーンは緊張するでもなく、弛緩するでもなく、すべての瞬間において観客を瞠目させる一本の糸となって、フィンチャー独自の世界を形成しているのだ。

 ゾディアックの周囲で苦悩する人々には、新聞社の敏腕記者(ロバート・ダウニーJR.)、担当刑事(マーク・ラファロ)、そして本来ならば事件とは無関係のイラスト係だったジェイク・ギレンホールまでもが顔を並べる。中でもジェイクの部外者的な立場は観客をこの悪夢に引きずり込むのに打ってつけの視点を提供してくれる。彼らはそれぞれ事件解決に一歩近づいたと確信したところでいずれも決定打にはいたらず、その高揚と挫折の繰り返しによって疲労感を増幅させ、苛立ちを募らせ、挙句の果てには狂気じみた表情を浮かべるようになる。それは観客にとっても決して他人事ではなく、この未解決事件の舞台が数年、数十年、そしていつしか現代へと迫り出して来るに連れて、徐々に言い知れぬ切迫感に蝕まれていくのである。

 そしてフィンチャーは、観客を登場人物と同じ不可思議な精神状態へといざなうべく、CG技術による周到な感情操作を忘れない。そしてどのシーンにおいても割と大きめにフィーチャーされているSE(効果音)も観客の不安を倍増させる。何の脈絡もなくかすかに聴こえる車の走行音や急ブレーキの音がまるで女性の悲鳴のように聴こえたり、雨の音が恐ろしく陰鬱な雰囲気を醸し出していたりと、僕らが視覚的な情報に翻弄されている側から、フィンチャーは観客の耳からも無意識的な情報を注入して潜在意識にあらゆる化学反応を起こさせているようだ。それはもしかすると僕だけが勝手に感じたことなのかもしれないが、そもそも『ファイトクラブ』の1シーンで男性の陰部をサブリミナル挿入させていたデヴィッド・フィンチャーのことだから、これくらいのトリックを用意していても何ら不思議ではない。このようにテクノロジーを人間描写の裏側にこっそりと隠し持つやり方はILM出身の彼ならではのスタイルであり、フィンチャー作品が多くの観客をひきつけてやまないひとつの大きな理由と言えよう。

 だからこそ、『ゾディアック』のキャラクターはどれもが引き立って見える。僕らは知らず知らずのうちに主人公たちに特別な想いを抱き始めているのかもしれず、ジェイク・ギレンホールの持ち味である“等身大の人間像”はイメージどおりのハマり役としても、本作のロバート・ダウニーJr.には心底驚かされずにはいられない。まるで若き日のアル・パチーノのようなギラギラした目の輝きが観客をゾクゾクさせ、いつしか転落の一途を辿る彼の行く末も、彼のリアル人生を知る人にとってみればセルフパロディのようにも映ることだろう。そんな人間的な弱さをも含めて、僕らはここに彩られる“人間の姿”にどうしようもなく見入ってしまうのだ。

 そして彼らがそれぞれ魅力的なキャラクターであるがゆえに、ゾディアックという名のミステリーはいつしか実物以上に巨大な幻影と成り果て、彼らはサディスティックなまでに自らを出口の見えない迷宮へと身体を押し込ませ、二度と入り口には戻ることなど出来なくなってしまうのである。何年も、何十年も、そしていま、このときでさえも。

ゾディアック』は、6月16日より丸の内プラゼールほか全国ロードショー

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2007/05/11

『パッチギ! LOVE&PEACE』

『パッチギ LOVE&PEACE』を観た感想を言葉にしようにもなかなか適当な言葉が見当たらない。前作の内容からある程度予想していた世界観を飛び越えて、作品としてまとまったもの、小ぎれいなものに仕上げようとは露ほども考えていないところが潔いと言うか、怖いもの知らずと言うか。恐らく世間的には前作が分かりやすく、感動できて、面白い、とする向きが多いことだろうと思うが、現時点で試写から随分と日が経っていろいろと想起する中で、僕はむしろ『LOVE&PEACE』の初めっからどでかいハンマーをドッカンドッカン振り下ろしてがむしゃらに突貫工事を進めていくかのような無骨な作風が、この舞台となった時代にピタリとあてはまるような気がしてどうしようもなく胸に沁みた。

スタイルとしては特に目新しいものではない。時には予定調和のメロドラマにもなるし、ありきたりの難病モノという題材も今更どれほど観客の心に訴えるのかは分からない。しかしここには言葉だけでは説明の付かない、360度旋回してそのまま別次元のメロドラマ、難病モノに豹変したような手ごたえが残る。そして現代に蔓延した“抗菌主義の映画”に真っ向から対峙し、率先してドロにまみれ、観客と共に水面からガバリと顔を浮き上がらせたところで見知らぬ誰かとガッシリ手を握り交わしてしまったかのような、不思議な高揚感がある。

やがて観客は、この映画があまりに不恰好でガムシャラに突き進んできた意味を知る。時おり挿入される主人公の父親の壮絶なエピソードが物語をより多元化し、象徴化していく。つまり『パッチギ』は主人公アンソンだけの物語ではなく、その背後におびただしい人達の生き様があふれんばかりに詰まっている。そして、戦中、戦後の日本に生きたあらゆる有象無象たちがガムシャラになって“命のリレー”を現代人に繋げようとする姿に、あらためて“生”の意味を映し出すのである。と同時に、これはイーストウッドが『硫黄島からの手紙』で伝えたかったメッセージの表裏を成す作品でもある。映像的には『硫黄島~』を凌駕するほどの壮絶なシーンが用意されており、観客はとにかく汗が滲むほど驚かされるはずだ。

そして忘れてはいけない、この『パッチギ LOVE&PEACE』で最も本作の心意気を体現しているのが藤井隆の演じるキャラクターだ。この“超”がつくほどカッコ悪い登場人物がとにかく輝いていて、まさにあれほどカッコ悪くなれることもひとつの勇気であることを教えてくれる。

なるほど、本作が先に挙げたように恐ろしくもベタな展開を用意しているのも、そしてそれを360度くつがえして逆に熱く、輝かせてみせるのも、つまりはこの藤井隆のカッコ悪さ=ガムシャラさに共通する言わば“生き様”だったわけである。

「全力で、死に物狂いで逃げる」

言葉尻だけでつかまえると単なる負け犬のように聴こえるこの言葉。だが実際、それにはとてつもない勇気が必要で、現代に生きる僕らは、結果的にその命のリレーの延長線上に、こうして、やっぱりとてつもなくカッコ悪く、生きているのである。

それは時に、涙が滲むほど辛いことではあるのだけれど、逆に胸を張るべきことでもあるのだと、この映画はそう教えてくれているような気がする。

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2007/05/08

『スモーキン・エース 暗殺者がいっぱい』

 「ジャンク・ムービー」だからといって見た目だけでスルーするのは速すぎる。時にジャンクの表層を身にまといながらもその内側では途方もない情熱をたぎらせた映画に出逢うことがあるが、この『スモーキン・エース 暗殺者がいっぱい』はまさにその手の作品と言っていい。うっかりタランティーノやガイ・リッチーの二番煎じのようにカテゴライズされてしまいがちだが、忘れてはいけないのがこの監督名だ。

Smokinaces_2 

 

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2007/05/02

G.W.は本屋さんへ行こう

待ちに待った怪物連休、その名も「G.W.」がいよいよ本気汁を出して襲い掛かってきました。その只中でふと立ち止まってみると、街中の人混みもハンパないし、何かやろうと奮起してみたところでランキング1位から5位までが交通網パンクのせいでことごとくインポッシブルという、むしろ連休はもういいから押しなべて普通の生活がしたいとさえ無気力になってしまう、この悪夢週間。この誰もが付き合い方を決めかねているG.W.のちょうど台風の目ふきんに、僕らはいま、こうして立ち止まって、たそがれているわけです。

というわけで、突然ですが、G.W.は本屋さんへ行こう!

0706_1 月刊クリエイティブ・マガジン「EYESCREAM」の最新号が全国の本屋さんで発売中です。今月は映画レビューのコーナーにて、『バベル』『スパイダーマン3』『パッチギ LOVE&PEACE』の3作品について書かせてもらっています。本屋さんにてこのピースフルな表紙を見かけられた際には、ぜひ手にとってご覧くださいね。

そして僕も大学生の頃に定期購読していて思い入れの強い「ENGLISH JOURNAL」の最新号が5月2日に発売。

Jacket_b_1 今月の表紙はアンジェリーナ・ジョリーなんですが、僭越ながら僕は巻頭記事にてアンジーの人となりを解説させていただいております。執筆の際にはもちろん彼女についていろいろ資料を集めて調べたりするわけなんですが、他の映画人と違ってこの人、ニュースに取り上げられる頻度がとてつもなく高いもので、校了から発売にいたるまでに何か最新ニュースが舞い込んで執筆内容が過去のものになるんじゃなかろうかと終始ヒヤヒヤしておりました(だって、いきなりブラピと破局したりしてしまったら、記事として最悪じゃないですか。「ハリウッド最強のカップル」って書いてるんですから)。とりあえず発売日までに何も起きなくて良かった、良かった。ホッとひと安心です。

それにしても時代の流れと共に「ENGLISH JOURNAL」も大きく変わりました。僕が購読していた頃はカセットテープだったのがCDに取って代わってるというだけで凄いのに、それにプラスして、いまやなんとポッドキャスティングでフォローアップの時代ですよ。無料登録しているとEJ編集部からどんどん最新音声がドロップされていきますので、英語を勉強している方にとってはこれを逃す手はないです。本誌と合わせてぜひチェックしてみてくださいね。っていうか、僕もちゃんと英語、勉強しようっと。

皆様、素敵なG.W.をお過ごしくださいね。

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