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『めがね』

 そういえば、「めがね」の「め」の字は、眼鏡が中途半端に折りたたまれたような形をしている。

 荻上直子監督(『かもめ食堂』)による最新作『めがね』を観て、そんなどうでもいい発見をなぜか大事に受け止めてしまった自分がいる。いまのところ僕の中では、この映画から受け取った空気、それに触発されて自分の中で芽生えた感情がすべて大切にパッケージングされ、記憶の中に格納された状態だ。

 今回の舞台は、春先の南の島。まだ海のシーズンでもないこの季節に、一機のプロペラ機が島へ舞い降りる。搭乗していたのは、何かワケありで長期休暇を取ってやってきた(らしい)タエコ。タイトルどおり眼鏡をかけている女性だ。そして彼女が導かれるようにして辿り着いた一軒の宿。そこは宿主(眼鏡をかけている)をはじめ、地元高校の若い教師(眼鏡だ)、そしてタエコと同じ機でやってきた白髪まじりの飄々とした女性(やっぱり眼鏡だ)らが共に食卓を囲む不思議な空間だった。ひとりになりたいタエコが思わず尋ねる。「ここには観光名所か何かありますか?」。それに彼らは揃ってこう答える。

 「ここではただ、“たそがれる”だけです」

 最初は戸惑いを感じながらも、島に流れるゆったりとした空気がその心の緊張を取り除いていく。しだいに“たそがれ”の才能を露にしていくタエコ。夕暮れの黄昏時に爽やかな風が吹き抜けていく。永遠に続くかと思われたこの空気。しかし、いつしか彼女を追って若い眼鏡の男性が島を訪れたことで、たそがれには終わりがあることを知る…。

 浮世離れしたホンワカした空気、最少人数のキャスト、そして観るだけで魅了される料理、風景…とにかくネガティブな要素など一切なし!といった作風は、その舞台がフィンランドから南の島へと変化しただけで『かもめ食堂』のスタイルとほとんど変わらない。もっとも、今回は「珍しいキノコ舞踏団」主宰の伊藤千枝による「メルシー体操」というあまりに不可解で可笑しな動きが、出演者の身体性を巧みに引き出したりもするわけだが。

 しかし、『めがね』は、『かもめ食堂』のようにある種の“雰囲気”を作り上げることだけに終わらない。映像で魅せる”ことと“映像で語る”ことが流麗に噛み合って、主人公の心の風景もゆるやかに移り変わっていくのだ。『かもめ食堂』での経験を一歩進めて作られたこの極上の空間が、より深いものとなって観客の心に響いてくる。

 では、何がそんなに心に響いたのか。

 『かもめ』にはなくて、『めがね』にはあったもの。それは“別れ”の場面だった。人生における重要な要素である“出逢い”と“別れ”がセットとなってストーリーを織り成している。「永遠の楽園」という言葉があるが、そもそもこの世の中で“永遠”などありはしない。“たそがれ”にもいつか必ず終わりの時はやってくる。そんな、何かが終わりを告げ、そこでまた新しい何かが始まろうとする息吹を、とても前向きに掴み取っている瞬間がとても愛おしく感じられるのだ。

 また“別れ”にだって決して永遠などないことも教えてくれる。また必要なときに、そこへ足を向けさえすれば、大切な時間が待っていてくれるのだ。人生とは、こうやって寄せては返す波のようにゆっくりと醸成されていくものなのかもしれない。

 この映画では、小林聡美、市川実日子、加瀬亮、光石研、もたいまさこ、という“たそがれの達人”5人が、浜辺で揃ってたそがれている様子が幾度となく映し出される。それは本当に静かで、飾り気のない、ごくシンプルな描写なのだが、彼らが役者としての全神経を駆使して表現に臨む“たそがれ”には、やはりそれぞれに達人としての旨味が滲み出ており、こういう情景を眺めていると、彼らがこうやってキャスティングされ、この場に立っている理由がわかったような気がしてくる。

 ここにやってきた理由を尋ねたり、誰かに何かを強制されることもなく、ただ緩やかに進んでいくこの島の風景。またそんな島に住まう人たちをまったく違和感なく自然に演じてしまう役者たち。声のイントネーション、僅かな仕草、背後に響く自然の音色。

 そんな中で、『バーバー吉野』の子供がそのまま成長したような髪型をした加瀬亮が、ふとドイツ語の文章を口ずさむ。そこには字幕も翻訳もなく、観客にはそれが何を意味するのかさっぱり分からない。

 しかしそこにこの音楽が流れている確かさ、そこにこのキャスト、そしてこの情景が映し出されている確かさ、と同じく、そこにドイツ語のセリフが心地よく流れていくことに、やはりとてつもない“確かさ”を感じてしまう自分がいた。梶井基次郎の「檸檬」のように、理由は分からないが、「つまりはこういう重さなんだな」と本屋の書棚に檸檬を置かずにいられなかった感覚がオーバーラップし、なにかポンと手のひらを叩きたくなる瞬間がこのシーンには詰まっていた。

 これが“癒しの映画”であるとか、そういった感触もあることはあるだろうが、いまの僕の中では、この映画を“確かな映画”として捉えたいという気持ちがある。誰も背伸びすることのない日常からポロリと零れ落ちた、そのまま手で触れられるほどに確かな映画と言うべきか。

 もしも、これまでの人生で「たそがれたことがない」という方がいらっしゃれば、ぜひこの映画をお薦めしたい。あなたが『めがね』を見つめ、そして心に思い描いたすべての情景こそ、紛れもない“たそがれ”なのだ。 


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めがね』は、9月22日より全国ロードショー

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『伝染歌』

「300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『伝染歌』です。

単なるアイドル映画と思ったら大間違い

とある女子高で少女が自殺を遂げた。彼女は直前に奇妙な歌を口ずさんでいたという。まさか「自殺ソング」の噂は本当なのか?残された少女達はカルト雑誌の編集部と共に、少しずつ真相へと近づいていく…。表向きは絶叫ホラーだが、実際のところはAKB48を全面的にフィーチャーしたミステリー。でもそこで「アイドル映画か…」と興味を無くすのはあまりに惜しい。なぜなら本作は、現代の混沌を色濃く織り込んだ“絶望と再生の物語”でもあるからだ。さらに俯瞰やミラーを駆使したショットはデ・パルマ作品をも想起させ、松田や伊勢谷の狂気じみた存在感と絶妙にマッチング。随所に渡って社会派・原田眞人の才気がみなぎる怪作に仕上がっている。

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伝染歌
監督:原田眞人 企画・原作:秋元康
出演:松田龍平、大島優子、秋元才加、伊勢谷友介
(2007年/日本)松竹
8月18日(土)東劇にて先行公開、8月25日(土)より全国公開

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『時をかける少女』(2006)

友人・知人から「絶対観たほうがいい」と長らく薦められていたアニメーション版『時をかける少女』。大方の例に漏れず、先日のフジテレビの放送にて初めて目にすることが叶いました。鑑賞の記念に、ここにちょっと長めの覚え書きを残しておきます。当たり前のようにネタバレしてますので、ご覧になられてない方は読まないでください。

・・・続きはこちら

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『ゴースト・ハウス』

「300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『ゴースト・ハウス』です。

後腐れなし、スナック感覚のオバケ屋敷

ワケあり家族がたどり着いた、田舎町の古びた家屋。彼らがここで再起出発、さあがんばろう、と前を向き歩き始めた矢先、屋敷内では奇妙な現象が頻発する。どうやらここには人間ではない誰かが住み着いているようで…。『the EYE』などで知られるタイ出身のフィルムメーカー、パン兄弟の記念すべきハリウッド進出作。相変わらずのホラー・ギミックが目白押しで、特に効果音だけでヒュルヒュル、ドスン、バッターンと驚かせるパターンにはもう辟易。だけど一方、コマ撮りモンスターや窓の落書きなど、ほんの些細なこだわりに心をほだされたりもする。決して嫌いではないのだが、せめて次回はもうちょい独創性を主張できる立場で映画作りを。

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ゴースト・ハウス
監督:ダニー・パン&オキサイド・パン
出演:クリステン・スチュワート、ディラン・マクダーモット、ジョン・コ-ベット
(2006年/アメリカ)東宝東和
7月21日ロードショー

ちなみに『ゴースト・ハウス』の製作総指揮はサム・ライミ。ってことを考えると、パン兄弟が盛り込んだ“コマ撮り撮影”は、当然『死霊のはらわた』へのオマージュだったんではないかな、と勝手に想像してしまうわけです。


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『ブラック・スネーク・モーン』

この夏、クレイグ・ブリュワー監督(『ハッスル&フロウ』)の最新作『ブラック・スネーク・モーン』が日本上陸する。って、いきなり言われても、そもそも「『ハッスル&フロウ』って何?」という人がかなり多いことだろう。だってこの作品、日本ではレイトショーのみの公開だったんだもの(アメリカではアカデミー賞主題歌賞を獲得するほか、助演男優賞などにもノミネートされる注目作でした)。たしかに日本人には分かりにくいし、宣伝も難しい映画だったのかもしれない。でもこれがとてつもない興奮と感動を巻き起こしてくれる…あ、それは言いすぎだとしても、絶対に観て損はない画期的な音楽ドラマだった。

そんなブリュワーが今回挑むのは“ブルース”の精神世界。その起源となる“鬱屈した想い”が時と形を変えて現代に再臨し、やがてそれらが音楽へと昇華されていく瞬間を見事な手腕ですくいとっている。

主演は“説教俳優”ことサミュエル・L・ジャクソン。共演には『アダムス・ファミリー』に出ていた面影はもうほとんど消滅してしまった女優(というか“怪優”の域に近いのでは?)クリスティーナ・リッチ。脇役で音楽界から映画界にも侵食をはじめたジャスティン・ティンバーレイク。

舞台となるのはアメリカのディープな南部。サミュエルが演じるのは、愛妻に捨てられたばかりの逆上男。対するリッチは、幼い頃に受けたトラウマによってセックス依存症に陥ってしまった女性の役だ。

こんな歳も肌の色も違うふたりが偶然にも出逢い、そしてどういうわけか、サミュエルがリッチを鎖に繋いで「こいつの依存症を叩きなおすことが我が使命なのだ!」とばかりに熱血漢を振るう。それはビジュアル的に言えば、変態的で、倒錯的で、とても奇妙な共同生活。しかしサミュエルは指一本たりともリッチには触れず、まるで伝道師にでもなったかのようなストイックさで調教を続ける。

そしてふたりの鬱屈した想いがある臨界点に達するとき、大音響が鳴り響く。嵐と共に舞い降りるギターの洪水。サミュエルのショータイムが幕を開ける。説教俳優が遂にその必殺技をギターへと持ち替え、おのれの想いをブルースのナンバー「ブラックス・ネーク・モーン」へと昇華させるのだ。その姿がなんだか言いようの無い高揚感を巻き起こし、肌の色とか、言葉とか、宗教的な垣根を越えて、どうしようもなく心が泣いてしまう自分がいる。まるで歴史上にブルースが生まれ落ちた瞬間を、いまこの場で追体験したかのような衝撃。なんてこった!最初はとんでもない変態映画かと思ってたのに、いまはこんなに感動してるなんて!

そしてこの物語では、やがてサミュエルのブルース魂がクリスティーナ・リッチへと受け継がれ、彼女までもが、か細い声で自分なりのブルースを口ずさみはじめる。

実は『ハッスル&フロウ』でも主人公の魂が他の誰かに受け継がれる瞬間が印象強く描かれていたのだが、なるほど、たしかにこの「伝える」という展開は音楽にとって非常に重要なファクターを占める。ヒップホップであれブルースであれ(いまのところブリュワーが取り組んでいるのはこの2ジャンルだが)、最初に何か起源があって、それを他者へと浸透させる展開を経てこそ、はじめて神話が神話として価値を持ち始めるのである。

とりわけリッチが懸命に歌い続ける理由が本当に切なくて、またグッときてしまう。この映画は突拍子もない展開が相次いだかと思うと、次の瞬間には人間の驚くほど繊細な部分にカメラを向けて感情のバルブを自在に操作する。そうやって観客と映画の間に流れるビートを驚くべき大胆なテクニックでシンクロさせていくのだ。

ちなみに、「ブラック・スネーク・モーン」は“真っ暗闇の家に黒蛇が入り込みガラガラと唸ってやがる”という(うる覚えなのだが…)歌詞の内容から付けられたタイトルだ。恐らく、先の見えない真っ暗な人生に怯える感情を歌ったものだとは思うのだが、今の僕にとってみれば、この映画こそが真っ暗闇の向こう側から突如ガラガラと現れた恐るべき映画である。やはりどんなに気後れしそうでも手探りして触れたものはギュッと握ってみるべきだ。その手ごたえは、万が一にも宝石かもしれないのだから。

小耳に挟んだ情報によると、この監督、次回作では“フォーク・ミュージック”を取り上げるとのこと。彼が描く至高の音楽神話をもっともっと観てみたい。切にそう願っている。

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ブラック・スネーク・モーン』は、9月1日より渋谷シネ・アミューズにて公開

サミュエルの歌声をも収録したサントラCD。彼は本作で歌声を披露することに微塵のためらいも見せず、「だってブルースは魂の叫びなのだから」と演技と同じセオリーでやってのけたんだとか(Amazonの視聴コーナーで聞いてみてください)。

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『夕凪の街 桜の国』

「300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『夕凪の街 桜の国』です。

こんなに清々しい気持ちになれるなんて

原爆がテーマとなると観る前から多少気が重くなりもする。だが実際に観終わって最初に感じるのは清々しいほど前向きな気持ちだった。この映画は決して声高に「原爆反対!」と訴えるわけでもなく、普段なら喧騒にかき消されてしまうほどのささやかな幸せ、哀しみ、そして人に想いを伝えられることの尊さを、そっとポケットに忍ばせてくれるのだ。そして麻生と田中の演じる主人公が時代を超えてどこかで繋がっている“確かさ”を観客の心に思い起こさせ、また胸が熱くなる。戦争の記憶を右よりの視点で見つめる作品は数多いが、原作がこれほど支持されたのは何の思想も押し付けないふんわりとした触感があったからこそ
。本作もそれを充分に踏襲している。

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夕凪の街 桜の国
監督:佐々部清
出演:田中麗奈、麻生久美子、吉沢悠、中越典子
(2007年/日本)アートポート
7月21日(土)広島先行ロードショー
7月28日(土)ロードショー

『夕凪の街 桜の国』クランクアップ会見(2006年9月開催)についての過去記事はこちら


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『傷だらけの男たち』

「300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『傷だらけの男たち』です。

香港のまた別の一面を引き出してはいるのだが

知的で冷静ながら時おり暴力的な一面を併せ持つ刑事と、妻を失い心に深い傷を追った私立探偵。かつて同僚だった彼らの腐れ縁は、やがてひとつの謎めいた事件、そして二人をめぐる哀しい結末へと流れ着いていく…。『インファナル・アフェア』の製作スタッフが再結集した期待作ながら、今回はプロット志向ではなく、むしろ2大俳優の織り成す魂の枯れ果てたような哀愁にこそカメラが肉薄。なるほど、両者の演技には見事な陶酔感を覚えるものの、その分、ストーリーが雰囲気に流されてしまうきらいも強い。この監督ならもっと効果的な表現を模索できたはずなのに。既に決定済みのディカプリオ製作によるリメイク時にはもっと別のアプローチを期待。

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傷だらけの男たち
監督:アンドリュー・ラウ、アラン・マック
出演:トニー・レオン、金城武、スー・チー
(2006年/香港)エイベックス・エンタテインメント
7月7日より日比谷みゆき座ほかにて全国ロードショー


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『ファウンテン 永遠につづく愛』

「300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『ファウンテン 永遠につづく愛』です。

僕らの頭は、奇才監督にどれだけ迫れるか?

スキンヘッドでふわりと宙に浮かび、涅槃の境地を探るがごとく瞑想に耽るジャックマン…。そのワンシーンだけで僕らは『π』や『レクイエム・フォー・ドリーム』に連なるアロノフスキーのトンデモぶりに瞬時接続できる。この特異な才能が織り成す本作のテーマは、“不治の病”。愛妻を襲ったその避けられぬ運命に抗おうと、主人公が現実世界、精神世界、そして“永遠の泉”をめぐる中世騎士の物語とを静かに横断していく。幻想的かつ多層構造なストーリーは、俄かにカルト臭を漂わせながらも、ギリギリの抑制力で唯一無二のオリジナリティを貫徹。この撮影を経て監督とレイチェル・ワイズが婚約したというサイド・ストーリーも合わせてご賞味あれ。

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ファウンテン 永遠につづく愛
監督:ダーレン・アロノフスキー
出演:ヒュー・ジャックマン、レイチェル・ワイズ、エレン・バースティン
(2006年/アメリカ)20世紀フォックス映画
7月14日より銀座テアトルシネマほか全国順次ロードショー


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『ショートバス』

「300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『ショートバス』です。

可愛らしくてヘンテコで、やっぱり“愛”が盛りだくさん

『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』のJ・C・ミッチェル監督が、そのツールをロックからセックスへと持ち替え、5年ぶりに愛の歌を奏で始める。それはNYにあるサロン“ショートバス”をめぐる男女7人の物語。もちろん全編に渡りストレート&ゲイ入り乱れての性描写オンパレードなのだが、驚きなのはそれら全てがリアル・オーガズムだってこと。そして目を疑う作風にほとほと翻弄されながらも、いつしか浮き彫りになるのは、9.11以降の世界の断絶を乗り越えようとする極めて純粋な想いだった。自らその場所でその悲劇を体験したからこそ成し得たこの崇高なラブ&ピース。ヘンテコなんだけど、そこに大きな勇気を感じる意欲作である。

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ショートバス
監督:ジョン・キャメロン・ミッチェル
出演:ポール・ドーソン、PJ・デボーイ、リー・ソックイン
(2006年/アメリカ)アスミック・エース
8月25日より、渋谷シネマライズほか全国順次ロードショー

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ミシェル・ゴンドリー

台風の影響が過ぎ去るまで、youtubeばっかり見続けています。そこでめぐり合った動画のいくつかをご紹介。

まったくミシェル・ゴンドリー(『エターナル・サンシャイン』や『恋愛睡眠のすすめ』の監督)の頭ん中はどうなっているんでしょうかね・・・。本当に驚かされることばかりです。ケミカル・ブラザーズの「Star Guitar」という楽曲をいったん記号化し、超アナログに平面化。そのビジョンを最終的にはPVにおいてデジタルに立体化していくという作業には知的興奮を覚えずにいられません。。

The Making of Star Guitar」 9分6秒

Star Guitar」 4分1秒



●おまけ動画

ゴンドリーさんの特技」 2分4秒

ゴンドリーさんの裏技」 19秒 


さあ、みんなもやってみよう!

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『トランスフォーマー』

「300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『トランスフォーマー』です。

あの巨体を持て余す感じがたまらない

かつてのアニメの雰囲気はすっかり実写へと翻案され、ここでは8頭身の変形巨大ロボが鉄のカタマリのように身軽にワシャワシャと動き回る。そのアングルに人間が加わると縮尺の関係でロボの全形が映らず、僕らはアニメほどには特徴が掴めぬまま前半をやり過ごすわけだが、いつしか主人公のもとに正義ロボが集結するや『未知との遭遇』っぽいテイストがスピルバーグ×ベイのコラボを程よく機能させはじめる。ハイウェイを疾走するロボといい、緊迫する市街戦といい、汗と泥の灼熱アクションは観客が胃もたれするほどに炸裂。また、かつては映画で世界を救う存在だった大統領が今やギャグ同然に扱われる時代性にも、ある意味“変化”を感じずにいられない。

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トランスフォーマー
監督:マイケル・ベイ 
出演:シャイア・ラブーフ、ミーガン・フォックス、タイリース・ギブソン
(2007年/アメリカ)UIP映画
8月4日より全国ロードショー

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難民映画祭(Refugee Film Festival)

7月16日(水)から26日(木)まで、UNHCR主催の「第2回 難民映画祭」が開催されるそうです。これは日本人に世界の難民の実態を知ってもらうために、アジア、アフリカ、中東などで製作された難民問題に関する映像作品を一挙に無料上映するイベントで、ラインナップの中にはこの機会にしか観れない貴重なドキュメンタリー作品も数多く含まれています。

もはやテレビの効力が無に等しくなってしまった今、私たちはむしろ自分の足を使って、このような意義ある機会を探し歩くべきなのかもしれません。

会場は、東京日仏学院、ドイツ文化センター、イタリア文化会館、スウェーデン大使館の4箇所。映画とは普段、私達に何かしらの“夢”を見せてくれるものですが、今回の上映作品群のように“どうしようもない現実”を突きつけられたとき、はたして会場はどのような雰囲気に包まれるのか、とても気になります。そしてどんなに過酷な実態に打ちのめされたとしても、そこで決して絶望せず、深い暗闇の中にさえ光を見出そうとするのが人間の本質だとも思うのです。

いまの日本に生きていると、どんどん視野が狭くなり、結論が安易になり、世界の裏側の出来事なんて瞬時に忘却してしまっている自分がいます。そういう悪い要素をいかにして取り除けるだろうか。そう考えていたときにこの映画祭のことを知りました。別に多くのことを望んではいないし、肩組んで「We Are the World~♪」なんて歌い出すガラでも全然ありませんが、ただじっとしていても何も始まらないので、期間中は出来るだけ足を運んでみたいと思います。

難民のため、というよりは、まずは自分のために。

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『オフサイド・ガールズ』

「東京は、世界で最もバラエティに富んだ国々の映画を観れる素晴らしい場所だ」

そう評価されていたのはいつの日のことだろうか。

いつの間にか日本で公開されるイラン映画の数も激減し、スクリーンの中で垣間見られていたあの不思議な文化、風土が、いつしかアメリカ経由の「悪の枢軸国」というレッテルと共にテレビのニュースを席巻することが増え、その政治的演出の陰湿さに心が痛くなることが多かった。

仮に、僕の目の前にグリグリした瞳のイラン人が立ちはだかったとして、言葉も身振り手振りも分からぬ彼らと意思疎通して互いに笑いあう場面など全く想像ができない。しかしイラン映画の数々には、そうした彼らがスクリーンの向こう側で確かな温度で心を通わせ、互いに笑いあい、時には怒り心頭して罵りあう姿までもが映し出されており、そうした光景を目にするだけで、なにかこう、僕らと彼らの体内に流れる血が激しく共鳴しているかのような興奮に包まれてしまう。それは相互理解としてバーチャルの域を出ないのかもしれないが、仮にそうであっても、その可能性の息吹を感じさせてくれる分において、やはり映画は有効な手段だと信じてやまない。

で、久しぶりに出逢ったイラン映画が『オフサイド・ガールズ』。この素朴ながら素晴らしい出来栄えに久々に胸がときめいた。

それは、ワールドカップ最終予選「イランVSバーレーン」を控え、熱心な女性サポーターが何とか試合を見ようとスタジアムに潜り込んでいく映画だ。そう、実はここイランでは女性がスタジアムに入ることが禁止されている。彼女らがひとたび女性と分かるや否や、兵士が飛んで来てすぐさま拘留されてしまうのだ。

どうやらその規則の理由は、「スタジアムのような野蛮な場所に女性が紛れ込むとどんな酷い目に会うか分からない」ということらしい。これは“女性を大切に思うが故の規則”と捉える一方で、当の女性たちにしてみれば自分がカゴの中の鳥どうぜんにも思えてしまうわけで、目の色を変えてその権利を主張していいわけだし、実際そうしている人たちも大勢いる。

しかし、ジャファル・パナヒ監督はこの映画で目くじら立てて騒ぎ立てるようなことは一切しない。それどころか、性差のカルチャーギャップをむしろユーモアを交えて描き出し、そこで巻き起こる「?」な光景を束ね合わせた結果、それらのテーマを凌駕するほどの驚くべき人間ドラマを作り上げてしまった。

映画はスタジアムに向かうバス車内から幕を開ける。車道にはイラン国旗を振りかざした車両がひしめき合い、試合前からして既にボルテージは爆発状態。そして女性陣も負けてはいない。ある者は両頬にイランの国旗をペインティングし、ある者はキャップで髪を隠し、またある者は兵士の軍服を着込んで、それぞれにスタジアムへと乗り込んでいく。

その熱気にいざなわれるように、カメラはスタジアムへと入り込み、そしていざ試合開始!かと思いきや、彼女達は無下にも兵士たちに見つかり、ことごとくスタジアム内の留置エリアへ連行されてしまう。よって、この映画の中でカメラが実際のピッチを映し出すことはほとんどない。実際の試合中に撮影を決行したにも関わらず、その証拠となるのは群集の熱気だけ。なるほど、チェーホフの芝居がそうであるように、大事件は常にカメラの外で起こるというわけだ。

留置エリアはスタジアムへと続く通路の脇に設置される。次々と連行されてくる“サッカーのためなら怖いものなし!”のガールたち。その一人一人がキャラクター上の色彩を担い、またひとり交じり合うことでそこに不思議なカラーが生まれていく。そして肝心のカメラは、いつしか実際のピッチのことなど忘却し、「これこそが私の興味の対象なのだ」と言わんばかりに、そのたった3×4メートルの聖域(留置エリア)で織り成される極上の人間ドラマに照準を絞っていくわけである。

ここでもうひとつの重要となってくるのが、彼女たちを拘留する“兵士”の存在である。一見、このテーマからするとストーリー上の“ワルモノ”と見られがちだが、そんな単純な割り切れ方ができないところが、この映画が僕らの体内感覚を狂わせ、不思議な異国情緒に引き込んでいく要素となる。「どうして試合を見せてくれないの?」とガールズに責め立てられ、タジタジとなる兵士。彼らは職業軍人というわけではなく、元は田舎で羊を飼っていたり、商売を営んでいたりする普通の家庭に育ち、義務的に徴兵された人たちである。「規則は規則だから!」と説得する彼らの姿には、傲慢というよりはむしろ規則に振り回されしょうがなくそう答えざるをえない人間臭さが感じられ、彼らには「試合が見たい!」と主張する少女達の切実さが痛いほど分かるから、ふと感情が揺れた瞬間に、気が付くと兵士という衣服を脱ぎ捨てて、試合の様子を彼女達に伝える“実況者”に変貌していたりもする。

またある兵士は、携帯電話を持っている少女に「ちょっとだけ貸してくれないか」と頼み、遠くに離れて暮らす恋人に「元気だよ」と電話をかける。さりげなくこんなシーンを織り交ぜてくるパナヒ監督のマジック・タッチに、本当に胸が締め付けられて泣きそうになってしまった。

こんなにまで僕を熱狂させてくれた本作だが、ご覧のとおりのテーマ性により、今のところイラン公開の見通しは立っていない。イラン国民がこの宝石のような映画に触れられないなんて。それはこの映画における「サッカー観戦×女性」の関係性と似ているなと感じながらも、そんな思いつきは後回しにして、とにかく僕らはこの日本に暮らしているのだから、その恩恵を行使すべく、まずは男性・女性を問わずして、ぜひとも多くの人たちにこの素朴な傑作エンターテインメントを体験してほしい。

こういう言い方は性に合わないんであんまりしないんですが…今のところ、どんな酷暑も吹っ飛ばす、この夏いちばんのお薦め作品です!!

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『エバン・オールマイティ』は公開中止

9月上旬から全国公開が予定されていた『エバン・オールマイティ』が公開中止の判断を下されてしまったようです。

本作はジム・キャリー主演『ブルース・オールマイティ』の続編。もちろん今を“ときめかない”ジム・キャリーは主役の座から引きずり下ろされ、今回主役を張るのは、『40歳の童貞男』『リトル・ミス・サンシャイン』でお馴染みのスティーヴ・カレル。共演の“神様”には前作と変わらずモーガン・フリーマン。

コメディ史上最高額の1億7500万ドルをかけて製作され、全米公開でも初登場1位を獲得するなど、気合は充分。日本でのスティーヴ・カレルの知名度向上にも一役買ってくれる作品だと期待していたのに…。

やはり、いまいち日本の観客に対してアピール・ポイントに欠ける、と判断されたのか、本日残念ながら「公開中止のお知らせ」が届いてしまいました。

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「そして手元には、むなしく試写状だけが残った・・・」

そしてアマゾンからはDVDリリースのお知らせが・・・

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雑誌「EYESCREAM」発売中!

0708 毎月1日に発売のライフスタイル・マガジン、「EYESCREAM」の最新号が全国の本屋さんで発売中です。今月も新作映画レビュー&『クイア・ダッグ』なる不可思議なアニメDVDのレビューなどを執筆しておりますので、書店にお立ち寄りの際にはぜひぜひ「アイスクリームありますか?」と尋ねてみてください。

表紙はあのビースティ・ボーイズ。まさに目(EYE)が叫びだす(SCREAM)かのような挑発的な表紙写真に、ビビッと反応、そしてぜひとも手にとってご覧ください。それでは、誌面にて、待つ!

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『時をかける少女』(2006)

2006年の初夏。とある試写室で誰かが「今年のアニメはどう?」って話題を持ち出していた。その年の夏はアニメの激戦区。ジブリが『ゲド戦記』を送り出し、ワーナーは『ブレイブストーリー』、そして角川は『時をかける少女』。アニメが苦手な僕はそのどれも見てはいなかったが、寝たフリをしながらその話に耳だけは傾けていた。頭の中ではとっくに「ゲドかブレイブでしょ。だって宣伝費が違うもん」と勝手な結論を思い描きながら。しかし3本とも鑑賞済みの彼らはその予想をことごとく裏切り、「やっぱり、『時かけ』で決まりでしょう!」という結論で合意したのだった。

季節は本格的な夏になり、とある喫茶店で僕は友人と映画の話をしていた。もちろん人よりも映画は早く見ているので、「そうだね、お薦め作品は…」などと調子に乗ってしゃべっていると、友人は「違う、違う」と思い切りかぶりを振り、「この夏の収穫は間違いなく『時をかける少女』でしょう!」と断言したのだった。これが試写室での一件に続いての二度目のビックリ。既に「時かけ」は公開中で、ウワサがウワサを呼び、劇場はとんでもないことになっていたらしい(その友人も早くから整理券を貰って観たんだそうだ)。

こんな具合に「時かけ」に関していえば、普段のように僕が情報をリリースするのではなく、むしろ周りからキャッチさせられた部分が大きかった。で、ようやく先日、フジテレビの放送でその本編と対面したというわけだ。

もちろんタイミング悪くCM入るし、いい場面で「お得な情報」が下部に流れるし、エンディングの余韻も充分には味わえやしない。でもきっと試写室の人や僕の友人が話してくれたその素晴らしさの100分の1程度は受け止めることが出来たように思う。彼らがいなかったら、多分またスルーしていたことだろう。いまさらながらお礼を言います。ありがとう。

で、『時をかける少女』に触れて真っ先に頭に浮かんだのは、「なぜ僕らはこれほどすんなりと本作を受け止められるのだろう?」という疑問だった。まるでこの映画を享受する遺伝子を前もって組み込まれていたかのような馴染みの深さがここには充満していた。端的にこう表現してしまうのは気が引けるが、どこか80年代のジブリ作品を再度スクリーンで目の当たりにしているかのような手ごたえ。特に主人公も『魔女の宅急便』のキキや『となりのトトロ』のサツキを思わせるところがあり、そのテンポ感といい、ストーリーの膨らませ方といい、キャラクターの配置といい、まるで『時かけ』こそがジブリ作品の正当な後継者なのだ、と認印を押したくなってしまったのは僕だけではないはずだ。本作ではそんな映画と僕らとが同じ遺伝子レベルで共鳴する瞬間が神業といっていいほどに数多く刻まれていた。

そして、こんなところも僕の心を捉えた。本作は“タイムループ”という超常的な現象をフィーチャーしながらも、実際のところそのストーリー構造は極めてオーソドックス。「過去」「現在」「未来」の存在をちらつかせながらも、タイムループで移動する範囲は「現在」の範疇から脱しない。だが、過去のエピソード(主人公の叔母が体験した20年前の出来事)については、決して多くは語られないものの、僕らは一枚の写真を目にすることで瞬時に何かを感じ取ってしまう。同じく、未来のエピソードにしたって、具体的にはほとんど了解を得ないのだが、あの青年が「どうしても絵が見たかった」と真剣なまなざしで口にすることで、僕らはあの絵の描かれた過去の出来事を思い出し、それを未来の置かれた実態に照射することができる。

つまり本作では「過去」「未来」を具体的には描かなくとも、すべては「現在」に答えがある。それも、セリフが説明責任を負うのではなく、むしろ様々な手がかりを観客の想像力に託することで、僕らはそこにいながらにして主人公と共に「時をかける」わけである。

ちなみに、一般的に物語の中で2つの世代が登場するとき、それらはひとりの人物の“過去”と“未来”である、との構造的見方ができることがある。

本作で登場する主人公・真琴と“魔女おばさん”こと叔母の和子の関係もその例外ではない。彼女が20年前に初代「時かけ」少女だったエピソードを背負っていることは誰もが知っているが、彼女がずっと言葉少なめに“絵画”を修復し続けている姿は、それがそのまま真琴が辿るかもしれない“未来”としても効力を発し、観客の心に仄かな後日談を去来させる要素となる。仮にそういう見方で2度目に臨むと、真琴が和子に成長して、また新たな高校生(3代目)と対峙しているように思えないこともない。そうやって鑑賞するたびに何度も何度も世代が入れ替わって歴史がループしていく感覚を抱いてしまうのも、本作があえて「続編」という立場を取っているからなのだろう。おそらく作り手はこういう意味も込めて、あえて原作のリメイクではなく、「続編」という曖昧さを志したのだと思う。

また、過去、現在、未来という“不可逆”な要素と共に、この映画には(それこそ本作が映画であるという性質から)、縦列に規則的に並んだ“フィルムのコマ”という時の刻み方がある。本作の心打たれる場面は百人の観客がいれば百通りあるだろうが、あえて筆者の嗜好に限定するならば、その感動の瞬間は、クライマックスで主人公が全力で走り出し、それをカメラが地道に追い続けるところにこそあった。いったんはカメラが速すぎて半分見切れてしまう真琴。しかしそれに負けじとぐんぐんスピードを増した彼女は、やがてカメラを追い抜き、追い越してしまう。つまり、彼女はここで「時をかける」能力は失ったものの、この瞬間、初めて自分の力でフィルムのコマという不可逆性さえも飛び越えて、彼に想いを伝えに走り続けるわけである。

蛇足ながら、ストーリー的にはここで真琴が走る意味なんてサラサラない。誰かに追いかけられているわけでもなければ、タイムリミットが迫っているわけでもない。けれど、彼女はその意志を表現する手段として走らずにはいられなかったのである。若いなあ!この意味のないところにパワーを注ぎ込めるところが青春だよなあ!おじさんにはもう無理だよ!無理、無理。監督に「走れ!」って言われても「なんで?」って聞き返すもん。って、別に役者じゃないし、誰からもそう言われる機会すらないんだけど。

・・・取り乱しました。で、ずっと映画ウォッチャーをやっとる筆者としましては、このカメラを追い抜く、コマを飛び越えるという表現方法が極めて斬新に思えたんですね。で、最後に若い男女が「未来で待ってる」「うん、走っていく」とやりとりを交わすわけなんですが、ここで「もうタイムリープできねえじゃん!」と突っ込みを入れる人は読みが甘いです。彼女は一度、映画における常識を飛び越えているわけですよ。ということはもう、過去とか未来とか、もうそんなことはどうでもいい次元にまで達している。そして、それこそ、筒井康隆が原作に込めた「記憶の中では何度でもタイムリープできる。しかし大人になると記憶は薄れ、大事なことも忘れてしまう」という基本精神を踏襲すると同時に、真琴のあの表情には、その運命にさえ真っ向から挑もうとしている意志が感じられる。またその「逢う」という意味を決して限定していないところにも、“未来”をあらゆる意味で観客の想像力に託そうとする作り手の姿勢に敬意を抱かずにはいられない。

実は原田知世主演の実写版ではもうちょっと“運命の皮肉”的な終わり方が待っているのだけれど・・・(あとエンディングでは主題歌を歌ってくれます)。ご興味ある方はぜひいつかぜひご覧になってみてください。

以上、ちょっと長めで乱雑な、『時をかける少女』覚え書きでした。

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