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2007/08/26

『TAXi④』

「300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『TAXi④』です。

吹き替え版をお勧めするいくつかの理由

誰が望んだのか知らないが、やってきましたシリーズ第4弾。まず驚きなのは、手に汗にぎるカーチェイスがほとんど描かれてないこと。多分、走行距離はシリーズ最短なんじゃないかな。で、その代わりに巻き起こるのは、ベルギーから護送されてきた凶悪犯をめぐる珍騒動。それも万国共通の笑いじゃなくて、フランス国内向けとも思われる、確信犯的“しつこさ”が色濃く付きまとう。こういうのは作り手と観客との間である程度の共通認識が成立してなければ、辛い。その代わり、と言ってはなんだが、多少引き気味の人には“吹き替え版”をご用意。主演を張るオリラジに加え、あの名物署長役には高田純次が就任。ファンは必見!…って本末転倒だけど。

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TAXi④
監督:ジェラール・クラヴジック
出演:サミー・ナセリ、フレデリック・ディーファンタル、ベルナール・ファルシー
(2006年/フランス)アスミック・エース
8月25日ロードショー

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2007/08/22

『厨房で逢いましょう』

「300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『厨房で逢いましょう』です。

料理で愛は届くと、信じますか?

『マーサの幸せレシピ』や『バベッドの晩餐会』など、趣向を凝らしたお料理ムービーは数多くあれど、ここで登場するのはその名も“エロチック・キュイジーヌ”。人妻に恋したハゲ&デブの天才シェフがその想いを奇跡のメニューへと昇華させていく。その食材、見た目、恍惚のテイスティングなど、あらゆる瞬間に味覚を刺激する映像が盛りだくさん。しかし特筆すべきはやはりこのシェフの表情にある。愛すべきその仏頂面に仄かな笑顔が灯るとき、そこには料理にも増して深い味わいが広がっていくのだ。そして彼が厨房という殻を脱するとき、お料理ムービーは感情を剥き出しに走り始める。恐るべしドイツ映画、この食後感はかなりほろ苦い。

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厨房で逢いましょう
監督:ミヒャエル・ホーフマン
出演:ヨーゼフ・オステンドルフ、シャルロット・ロシュ、デヴィット・シュトリ-ゾフ
(2006年/ドイツ=スイス)ビターズ・エンド
8月25日より、Bunkamuraル・シネマほかにて全国順次ロードショー

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2007/08/20

『遠くの空に消えた』

この歳になって時々気付くのだが、こどもの頃に「この感動は一生忘れない」とか「この友情は永遠に続くに決まってる」と思い込んでいたことが、実際にふたを開けてみるとすっかり色褪せてしまっていたりする。それでも無感動の自分をいまさら嘆くわけにもいかないから、結局のところ、すべては「大人になったからだ」という理由のもとに淡白に処理してしまう自分がいる。

『遠い空の向こうに』・・・じゃなかった、『遠くの空に消えた』を見ながらふと湧き上がってきたのは、そんな自分を開き直って肯定する気持ちと、「まだ取り返しが効くんじゃねえか?」と足元で踏ん張ってその場に立ち上がろうとする気持ちとの複雑なせめぎあいだった。

本作は、神木隆之介、大後寿々花、ささの友間(あの名優、笹野高史の息子なのだが、この子が驚くほど上手い!)といった子役俳優たちが“子供”から“青年”へと変わり行く輝きを映し撮った冒険物語である。彼らが奏でる幼少期のハーモニーは、どの時代の、どの場所の、といった限定的な世界観を超えて、まるで日本ではないどこかの、そして行定勲が敬愛するガルシア・マルケスの著作を髣髴とさせるような世界を築き上げている。

この「ここではないどこか」の村を舞台に、やがて転校生とガキ大将とUFOの存在を信じる不思議な少女とが固い絆で結ばれていく。そうして紡がれていく友情、子供にとってみれば途方もない大冒険、意味も分からず抱いていた圧迫感、まだ恋にも満たない淡い想い・・・。かと思えば、本作には中盤からもうひとつの側面が出現する。

というのは、本作は彼らの親たちの映画でもあるのだ。三浦友和、大竹しのぶ、小日向文世らが演じる固い絆で結ばれた仲間たちの胸にも、“彼らだけの冒険物語”が秘められている。あのとき、この場所で、心にしっかりと刻まれた大切な思い出。しかしその回想が何かを声だかに主張するわけではなく、彼らはもはや少年少女ではないし、今となっては“大切なもの”の定義もすっかり変わり果てている。再会して「ひさしぶりだね」と声をかけはしても、その胸中は、あの頃と変わらぬままの気持ちと、すっかり変わってしまった気持ちとが、相反してせめぎあっている。

子供たちの想いと、大人たちの想い。

両者は通常ならばまったく相容れないアンビバレントな感情である。しかしこの映画が立脚するのは、あくまでその両者が混濁し、ボーダーレスになった部分なのだ。僕らは、子供達の冒険に息を弾ませ、大人たちの煮え切らない立ち位置にニヤリと微笑みながらも、やがてはその両者が交錯したところに、冒険映画でもニヒルな大人の映画でもない、ある種の“はかなさ”のようなものを感じずにはいられない。それはかつての輝かしい思い出を、遠く遠くの空に眺めるかのような、そんな“はかなさ”である。

この映画について「いろんなことを詰め込みすぎる」だとか「登場人物が描かれていない」だとか、いろんな粗探しをする人もいるかと思うし、逆を言えばこれはあまりにセンシティブであるがゆえに“粗探ししやすい映画”でもある。

『GO』や『世界の中心で、愛をさけぶ』で有名な行定勲監督は、ややもすると先の批判が起こりうることも充分見越した上で、あえてこの作品に挑んだのではないか。挑まざるを得なかったのではないか。

映画作家が人生のある地点において、どうしようもなく個人的な感情の爆発を余儀なくされるものだとすれば、本作は、行定勲という“かつての子供”であり、いまでは“ひとりの親”でもある者にとって、まさにそうやって創り上げられた作品と言えるのではないだろうか。こういうクリエイターにとっての通過儀礼的な作品は、観客としても長い年月をかけてじっくりと味わってみたいものである。

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遠くの空に消えた
監督:行定勲
出演:神木隆之介、大後寿々花、ささの友間、三浦友和
(2007年/日本)ギャガ・コミュニケーションズ
8月18日 渋谷東急ほか全国松竹・東急系にてロードショー

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2007/08/17

『長江哀歌』

いまや中国の映画作家として、チャン・イーモウにも増して世界的な注目を集める存在になったジャ・ジャンクー。彼の視点はいつも、劇的に変わり行く中国と、その潮流に翻弄されながら日々を生きる、ごく普通の人々とを交互に見つめ、この時代にしか描けない体温をリアルに抽出する。そしていま、誰もが中国の現在に視線を注ぐ中、彼の最新作『長江哀歌(ちょうこうエレジー)』はヴェネツィア国際映画祭において金獅子賞を獲得した。

世間で“エンターテインメント”と呼ばれる類の作風に慣れすぎていると、『長江哀歌』の世界に同調するのに少々戸惑うかもしれない。あるいはその映像、たゆたうような時間の刻み方に気持ちよくなって、そのままご就寝、といったことも大いにありうる。そんなの観客として言語道断とする向きもあるだろうが、しかしこの映画で映し出される長江は、熱狂する観客から居眠りする観客にいたるまで、そのいっさいを受け止めて、ただ静かに流れていく。映画の「約2時間」といった基準なんて、この河にはなんの有効性もない。永遠の中の2時間なんて、瞬きするほんの一瞬のようなものだ。

いまこの大河が大きく変わろうとしている。下流域で発生する大洪水を抑えるべく、発電能力を備えた“三峡ダム”が建設中なのだ。しかしこの国家的事業により建設地周辺の130万人の住民が移住を余儀なくされた。『長江哀歌』はこれら運命に翻弄された人たちの物語である。

舞台となるのは古都・奉節(フォンジュ)。男はかつて別れた妻と子に再会するために、そして女は音信普通の夫を探すために、それぞれこのもうすぐダムの底に沈む街を再訪する。一隻の船の到着と共に拡がり行くのは、リアルを通り越してどこか幻想的でさえある街の風景。マジックショーにいざなわれ、風変わりな人々と遭遇し、家々は次々に取り壊され、人々はなす術も無く故郷を去っていく。

時おり、冗談のようにボロッと崩れる住居があったり、河のふもとでダムの記念碑がロケットとなって宙へ飛び出したりと、突飛な幻想性も加味しながら綴られる“おしまいの日々”。世界中を探してみたところで、このようなリアルな舞台を用いた人間ドラマが存在するだろうか。

この映画はある意味、想いを胸に秘めた男女が、このタイムリミットぎりぎりの街で過去を清算しようと奔走する物語である。しかしその場所に住む人々は決して動じず、これまでがそうであったように、長江の流れに寄り添うようにゆっくりと感情を移ろわせていく。この映画を取り巻くすべての体内時計をこの大河が司どっているかのように。

街がダムの底に沈んでも、大河は変わらずその流れを絶やさないのだろうし、それはここを離れて新しい人生をはじめる人たちについても同じことが言える。何が起ころうとも人生は続いていく。そのすべての情景を大河は見つめ続け、人生の酸いも甘いも、ゆっくりと哀歌へと昇華させていく。

河の流れの、時の流れの残酷なまでの懐深さ。そしてそれに抗うことなく、想いを心に秘めたままこの街を去ろうとする人々。この壮大な対比に、いまの中国が見えてくる。

この映画は何かを非難したりするものではない。ただそこで生じる哀愁をたたえ、綴るのみ。それはある意味、大河の移ろいとフィルムの流れとが同調した、奇跡的な一瞬と言えるのかもしれない。

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2007/08/16

『愛の予感』

Rebirth01_2 スイスで開催された第60回ロカルノ国際映画祭のコンペ部門にて小林政広監督作品『愛の予感』(英題:the REBIRTH)が、見事金豹賞(グランプリ)に輝きました。本作は他にも、CICAE(国際芸術映画評論連盟)賞、ヤング審査員賞、そして本年度より設立されたダニエル・シュミット賞を併せて受賞。4冠です。

8月1日~11日まで開催された映画祭を終え、監督・主演の小林政広さんと、主演の渡辺真起子さんが凱旋記者会見を行いました。その前に試写も拝見できるということで、僕も参加させてもらってきました。

前作の『バッシング』に引き続き、『愛の予感』は観客に様々な意味で覚悟を強いるハードな路線。観客は冒頭から唐突なまでに“状況”へと突き落とされる。

生々しくはじまったインタビュー映像で、ひとりずつ映しだされる男女。なにやら「事件」だとか「被害者」だとか、そのような言葉を口にしている。それらを総合することで、おぼろげながら事態が飲み込めてくる。どうやら事件が起こったようだ。それも中学生が中学生を殺すという凄惨な事件が。ポツリポツリと言葉を絞り出すふたりの男女は、男が被害者の父親で、対する女は加害者の母親のようだ。女は男に会って謝罪したいとこれまでにも何度となく手紙を書き送ってきた。しかし男はそれを読まずに捨ててきた。彼は女に会うつもりはないと言う。そしてどこか誰も知らないところでひっそり暮らしたいと言う。また女も故郷の北海道へ帰りたいと漏らす。

5分ほどのインタビュー映像が続いたあと、物語は動き始める。まったく会うはずのなかったふたりは、偶然にも北海道の小さな民宿で遭遇している。男は肉体労働者として、女は民宿の賄いとして。ふたりが互いの存在に気付いていることは、その行動から何となく伝わってくるが、その確たる証拠はなかなか見つからない。なぜなら、ここからは言葉が完全に消滅するからだ。セリフがまったく存在しないまま、それはあたかもサイレント映画を見ているような感覚のもとで、生気を削がれた日常が淡々と描かれていく。何度となく同じ動作が繰り返される。気が遠くなるほど、何度も、何度も。そしてこれが永遠に続くのかと思われたとき、ほんの僅かな変化が、ふたりの中で起こりはじめる。それは“赦し”や“希望”というものでは到底なく、それにまだ満たない、ほんの小さな感情の胚芽・・・。

はたしてこの斬新な試みが日本国内において正当に評価されるかどうかはわからない。しかし本作が劇場公開を前にしてロカルノへ飛び、そこで最高の栄誉を勝ち取ったことは(つまり日本にとってみれば逆輸入的な注目を集めるということは)、まさにこの映画の運命を変える事件と言っても過言ではない。もしかしたら映画史の片隅に埃をかぶって埋もれる存在だったかもしれないほんとうに小さな小さな本作が(この映画とまともに対峙していたなら、僕だって撃沈していたと思う)、いまこうしてロカルノ経由で世界中で注目されようとしているのは、やはりそこに、何らかの“世界に訴えかけるビジョン”が刻まれていたからだろう。しかもそれは国際舞台の場においては当たり前の“翻訳”というフィルターを軽やかにとっぱらってしまったものだったのだ。男の絶望と、女の絶望。共に視線さえ合わせられない現状にやがてほんの僅かな光が注がれようとするこの流れは、結果的にそれが世界のどこにでも(いかなる悲惨な衝突の現場であっても)生じうる光景なのだと、審査員や観客に感じさせたのかもしれない。

セリフも音楽もない。変化の兆しは観客が自ら感じ取るしか術がない。そして最後は、淡々と繰り返される“役者の動き(動線)”だけが映画の道しるべとなる。そもそも映画とは、どんなときでも「用意、アクション!」の掛け声と共にカメラを回し、シーンを重ねていくもの。僕らはこの、いつも映画史と共にあった“アクション=動線”こそが感情を伝える最小限の方法であることを改めて知る。感情を失っていたかに見えたふたりの男女。しかし逆説的に言って、そこでフィルムが回っている限り、アクションが、動線が刻まれ続ける限り、映画は感情を決して失わないのであり、僕にとっては、この映画が、よく言われる子供の犯罪、時代の闇といったものを浮き彫りにするというよりも、むしろこうした映画の原点に立ち返って、“人間そのもの”に火を灯そうとしていることに、静かに心が震えた。

そういうことに気付かせてくれた意味でも、ロカルノ映画祭の審査結果には敬意を表したい。そしてエンディングにはフォークシンガーとしての肩書きも持つ小林政広監督の弾き語りが流れるのだが、これがまた、内面を歌い過ぎる。これまでのストイックな描写を一気に破壊するかのようなこの楽曲に違和感を覚える人も多いだろう。実は僕も「あれれ」と思ってしまった。しかしこれは『バッシング』に続く、小林作品の“認定印”のようなものだ。歌が無ければもっと素晴らしい映画になっていたと人は言うかもしれないが、きっと歌がなければ、そもそもこの映画は生まれなかったのではないか、とも思うのだ。

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2007/08/12

『デス・プルーフ in グラインドハウス』

 作品ごとに既存の映画の枠組みを破壊するほどのプロジェクトをぶち上げてきたタランティーノ。今回彼がターゲットとするのは、60年~70年代に興隆を喫したB級専門館“グラインドハウス”。かつて常に3、4本の同時上映で低予算の映画にどっぷり漬かれたこの劇場にて、タランティーノはまさに自らの原点を成すおびただしい数の作品を吸収してきた。そしていま彼はこの記憶を昔話として懐かしむだけでなく、自らの作品によってその伝説を現代に再興させるべく、盟友ロバート・ロドリゲスと共に本プロジェクト『グラインドハウス』をぶち上げたわけである。

 これは全米公開時には、タランティーノ篇『デス・プルーフ』とロドリゲス篇の『プラネット・テラー』という2本の映画が『グラインドハウス』という1つのタイトルのもと同時上映されるというものだった。本編だけじゃない。合間のインターミッションには、これまた本格的に作りこまれた抱腹絶倒のフェイク予告編をも挟み込み、とにかく徹底したこだわりが劇場を沸かせた。しかし残念ながら、日本での公開はそれぞれが一本の映画としての独立した上での劇場公開となる。(ただし、多くのリクエストに応えて、配給会社がアメリカ公開時そのままのバージョンで上映する特別期間を緊急ブッキングするらしいので、詳しくは『グラインドハウス』公式サイトをチェックせよ!)。

 劇場が暗転する。カシャカシャとフィルムを回す音が響き始める。一本の光がスクリーンへと照射され、待望のタランティーノ最新作の上映が始まる。

 そこでまず飛び込んでくるのは、ノイズだらけの音楽、傷とホコリだらけでボロボロの映像、そして動物をあしらったチープなアニメーションだった。思わず「なんだこりゃ!?」と目を疑ってしまう観客も多いことだろう。この一発目の衝撃からして、観客はいつも通いなれた劇場とは違った非日常性へと一気に連れて行かれる。もはやそこはいつもの小奇麗な劇場なんかじゃない。「グラインドハウス」という名の、猥雑で、うそ臭く、罠がいっぱいで、あらゆる意味でスリルと興奮に満ちた、とびきりの空間がそこに広がっているわけである。

 そんな通過儀礼を経てようやく突入する本編『デス・プルーフ』を一口で言い表すならば、「スーパー・スプラッター・ホラー・カーアクション・ガールズ・ムービー」ということになるのだろうか。オープニングこそ、ガールズたちの気だるいトークが延々と続きふわあ~と眠気も助長させるが、まるでそんな反応をも見越していたかのように、あのカート・ラッセルが殺人鬼として姿を現してからは映画のトーンが180度変貌する。俳優としてイケてるのかイケテナイのか、日本人にはその魅力のほどがイマイチ伝わらないことでお馴染みの彼が演じるのは、“スタントマン・マイク”と名乗る変態スタントマン。どこが変態かというと、その犯行の手口がかなり変わっているのだ。

 酒場で狙いを定めたお気に入りの美女を愛車(スタントマン用のとびきり頑丈なやつ)の助手席へと誘い込み、いざアクセル全快!そして阿鼻叫喚の地獄ドライブの末、ニヤリと笑い、非情な急ブレーキ!衝突、横転などではビクともしない完全装備の運転席(タイトルの「デス・プルーフ」とは“耐死仕様”という意味)とは打って変わり、助手席はシートベルトもない無防備そのもので、もちろん美女は息絶えるどころか、そこは見るも無残なスプラッター地獄と化しているわけで…。

 つまり、過去の偉大なホラー・キャラたちがチェーンソーやら出刃包丁やら印象に残る凶器を手にしてきたのに対し、このスタントマン・マイクに「あなたの凶器は?」と問うたなら、はっきりと声高に「車です」と答えが返ってくるわけだ。史上初の「凶器が車」な殺人鬼の誕生である。言うまでもない、すごくビミョーな殺人鬼である。

 しかし事態はこのままでは終わらない。B級映画におけるヒロインたちがこのまま黙って血祭りに上げられるかと思ったら大間違い。やがてストーリーは急転直下、真昼の田舎道で『バニシング・ポイント』も真っ青の破格のカーアクションが展開した挙句、さらにとんでもない結末が待ち構えているのだ。

 結論から言うと、本当にくだらない。くだらなさ過ぎる。でも!でも!お前ら、なんて最高なんだ!!!その“くだらなさ”は勲章であると同時に、“B級礼賛”というテーマに行き着くための堅実な布石なのであり、タランティーノはまさに僕らがB級映画に接する上で最も「待ってました!!!」と号泣したくなるような爆笑&恐怖&カタルシスをこれでもかというほど詰め込んでくれる。

 そして驚くべきは、クライマックスに向けて劇場が一体化&加速化し、いつしか誰もが我を忘れ、気が付くと「ダーッ!」と天高くコブシを突き上げ絶叫していることである。それは決して夢やまぼろしではない。普通のお上品な映画館では到底味わえないこの度肝を抜かれる光景が、この映画の行く手には広がっている。そしてこの“くだらない”=“B級礼賛”=“ダー!”=“いわゆるひとつの奇跡”を体感した者だけが、まぼろしのB級専門館「グラインドハウス」の真髄を目撃することになるのである。

 劇場の扉は開かれた。あとはあなた自身が「グラインドハウス」の衝撃を後世に語り継ぐ役目を担ってくれることを願ってやまない。っていうか、これを観て何も語らずにやり過ごすなんてことは考えられない。駄作だとか、凡作だとか、傑作だとか、そんな言いたい放題の感想を遠慮せずにぶちまけてほしい。そのいずれをも貪欲に飲み込んで、この伝説はここ日本でも、いつしかモンスターのごとく巨大化していくことだろう。

 ちなみにロバート・ロドリゲス篇『プラネット・テラー in グラインドハウス』も超カルトなゾンビ・アクションに仕上がっているので、こちらも乞うご期待!


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2007/08/11

「Be silent!」

『ジャズ・シンガー』という映画を知っていますか?

この映画のもたらした衝撃はレオナルド・ディカプリオ主演の『アビエイター』の中でも印象的に描かれていますが、歴史上、本作は映画が“サイレント”から“トーキー”へと進出した記念すべき第一作目として知られています。

この作品が世に出回ったのが1927年。ということは、今年は映画が“おしゃべりさん”と化してからちょうど80周年。

それはいわば、私達が発話を覚えることで同時に沈黙の意味をも真摯に受け止めてきた歴史、あるいはその逆も真なり、ということになるのかもしれません。

何の因果か、ここ日本では、連日に渡る猛暑がこの節目の年を心から祝福しているかのよう。

そして、さきほど電車の中で僕の隣席に「ぐへあー」とうめきながら倒れ込んできたサラリーマンが、「暑い~、溶ける~、死ぬ~」とやたらうるさいのです。

その本音をグッと抑え、いっそサイレントで気持ちを表せたなら、いま彼らはここで芸術にさえなれるのに。

というわけで、先ほどから僕は密かに「Be silent!」の目線を発信中。それにビビッとくるかどうかは、ひとえに彼の感受性しだいです。

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2007/08/09

『グッド・シェパード』

「300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『グッド・シェパード』です。

ほんとうのスパイは、こんなことになっている

『ブロンクス物語』以来13年ぶりとなるデ・ニーロの監督作は、CIA創設期にまつわる光と影の物語。ひとりの優秀な若者が秘密組織スカル&ボーンへの入会を皮切りに、諜報員として現代史の裏側に足を踏み入れていく・・・と書けば聞こえはいいが、時代はやがてキューバ危機から冷戦へともつれ込み、出口の見えない極度の焦燥感が彼の手から次々と大切なものを奪い去っていく。精悍さを封じたマット・デイモンは、憑かれたような没入ぶりで『リプリー』級の怪演を披露。間違っても007みたいな見せ場はないが、いつものデ・ニーロ流のこだわりは細部にまで注ぎ込まれ、史実に沿ったリアルな諜報戦が、2時間47分、とにかく執念深く魅せる。

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■ロバート・デ・ニーロの来日会見の模様はこちら

グッド・シェパード
監督:ロバート・デ・ニーロ
出演:マット・デイモン、アンジェリーナ・ジョリー、アレック・ボールドウィン、ウィリアム・ハート
(2006年/アメリカ)東宝東和
10月全国ロードショー

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ロバート・デ・ニーロ記者会見

グッド・シェパード』で13年ぶりにメガホンを取ったロバート・デ・ニーロが、東京ミッドタウンにて記者会見を行いました。

実は、あまり知られていないことですが、デ・ニーロは記者会見(&インタビュー)嫌い。もちろんプライベートな質問はいっさいNGだし、ちょっとでもトリッキーな質問を浴びせようものなら「…答えたくないな」と拒否してしまうこともよくあることだとか。どうやら、その演技力ほどには口の達者な人ではないらしく、そのネックを自ら理解しているだけにすっごくナーバスになっちゃうことがあるらしいんですね。またその一方で、海外での会見では意外とリラックスして突っ込んだ質問にも答えてくれるとの証言もあり…。まあ、とにかく、この日の会見がどうなったのか、ザッと質疑応答を並べてみました(短時間で書き起こしたので、読みにくい文章になっているかとは思いますが、どうかご勘弁のほどを)。

デ・ニーロ
「日本に来られてとても嬉しく思います。映画をご覧になった方は気に入っていただけたら嬉しいです。今日はこんなに集まっていただいて本当にありがとうございます」

質問
「『ブロンクス物語』に続く監督作に13年もの長い期間が空いたのはどうしてですか?」

デ・ニーロ
「『グッド・シェパード』の企画に関わり始めたのは8年前でした。あ…9年前だったかな。それから軌道に乗せるのにずいぶん時間を要しました。私は自ら監督するのに自分が興味を持てるものを撮りたかったし…映画を作ることはとてもエネルギーと時間が必要なのです。当時、私は同じようなCIAをテーマにした映画を準備中で、それは『グッド・シェパード』よりも後の時代のストーリーでした。それと平行して本作の脚本を読んだところこれが面白く出来ていて、執筆したエリック・ロスと直接会って『僕も同じような企画を温めてるんだけど、協力してくれないか?』と持ちかけると、彼は『僕はあなたの企画よりも自分で書いたものがやりたい。でも、もしあなたがこの『グッド・シェパード』を監督してくれるならば、僕はそれに続くあなたの企画を執筆してあげてもいい」と答え、それで私はとりあえず持ってた企画を横において、『グッド・シェパード』に取り組むことになったわけです」

質問
「そうそうたる俳優陣が出演していますが」

デ・ニーロ
「私にとってキャスティングはいちばん重要なものでした。その俳優が役にピッタリはまらなければ監督としての私の仕事も難しくなるわけですから。タイプではない人を渋々キャスティングするくらいならばその映画は作る価値はありません。たとえば、ジョン・タトゥーロが出演していますが、彼の役については私が最初に脚本を読んだ時から『これはタトゥーロしかない』と固まっていました。他の人など考えられなかった。けれど、彼はその頃、自分の母親の病が深刻な状況で、本作に出演できるかどうかギリギリまで分からなかったんです。それでも私たちは彼にこだわり、彼が出演しないシーンを先に撮ってしまって、彼のシーンは空けておいて彼に時間が生まれるのをただ待ちました。その後、残念なことに母親は亡くなってしまったのですが、彼はやがて意を決して、彼が立つべきシーンに立ってくれたのです」

質問
「映画の中に今日のアメリカが抱える問題が散りばめられていたと思うのですが、これはあなたの政治的な意志表示でもあるのでしょうか?そして最近、政府高官がCIAエージェントの実名をリークする事件がありましたが、映画への影響はありましたか?」

デ・ニーロ
「映画というものは監督の個人的な想いが投影されるものだと思います。この映画には「個人を取るか政府を取るか」といった葛藤や、ロシア側の態度であるとか、私が面白いと思ったものを、自分の考えはこうだと主張するよりも、むしろ観客が映画に入り込めるように正直に描くというのが私のやり方です。ですから、最近の事件や時代性といったものはあまり意識せずに、より普遍的で、人間社会の根底に訴える作品を心がけました」

質問
「俳優でもあるあなたが監督として俳優達にどのように接しましたか?また、カメラの前で演技するときと、カメラの手前で演出に徹するときは気分的にどう違いますか?」

デ・ニーロ
「私は俳優を長くやってきましたが、自分をさらけだすようなエモーショナルな場面を何度も何度も求められ、それをまた別の角度から…といった具合にとても辛く感じるときもあります。それに比べ、監督は椅子に座って指示するだけですから。でも、俳優は自分の出番が終わればそれでおしまいなのに対し、監督は撮影の後も編集やなんかの膨大な作業が待っているわけです。どっちもどっちですね。けれど私はこの監督という仕事が好きです。俳優を演出するのをとても楽しみました。『ブロンクス物語』のときにはアマチュアの子役を即興的に指導していたのですが、この映画はそうそうたるプロの俳優の俳優達が揃い踏みしていますから、こちらもそれにあわせた入念なプランを築いていくことに心血を注ぎました」

質問
「13年ぶりの監督作ということで、いちばんこだわった場面があれば教えてください」

デ・ニーロ
「うーん、もう1年半前のことなので…忘れてしまったな…あ、そうそう、タトゥーロの尋問の場面なんか印象的でしたね。まあ…すべての場面にこだわりました」

質問
「主演にマット・デイモンを起用した理由を教えてください。エリートの役にはエリートの俳優が必要だったのですか?」

デ・ニーロ
「そうですね(笑)。最初はこの役の候補に3、4人の俳優が上がっていました。中にはレオナルド・ディカプリオの名もありましたが、彼はとにかく忙しい俳優なので、彼を起用するとなるとしばらく待たなければいけなかった。残りの候補に名を連ねていたのがマットで、彼は格安のギャラにも関わらず期待通りの素晴らしい演技を披露してくれました。『ディパーテッド』の撮影の直後にも関わらず、引きずり込むように参加してくれたんです」

質問
「CIAはどれくらい協力してくれましたか?」

デ・ニーロ
「テクニカル・アドバイザーとして30年も在籍した人物を紹介してくれたり、そのほかにも頼めば何でも動いてくれて、非常に協力的でした」

この後、花束贈呈などが行われる中でふと飛び出した質問が「デ・ニーロ作品のオーディションに合格する秘訣とはなんですか?」というもの。これに対する彼の答えは、

「その人が無名の新人である場合、まず部屋に入ってくる時点で、使えるか使えないか、瞬間的に分かるんだ。でも実際に出演してもらったとして必ずしも成功するかどうかは保証はできないんだけどね」

普通の口八丁な監督ならば「俺が目を付けた俳優だから間違いない!」だとか、何かと大きなことを言いたがるものなんですが、デ・ニーロときたら本当に嘘が付けない性格のようで、どの発言につけても記者をあっと言わせるようなインパクトはなし。スクリーン上で入念な役作りを披露する彼と、いまこうして言葉に詰まりながらシャイな表情を覗かせる彼。その両方が紛れもないデ・ニーロ本人なんだな、と改めて感じた次第でした。

グッド・シェパード』は10月より全国ロードショー。

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2007/08/02

「EYESCREAM」最新号、発売中

雑誌「EYESCREAM(アイスクリーム)」最新号が、ただいま全国の本屋さんで発売中。今月の特集はなんと・・「NEW ERO」。表紙からして何だか凄いことになっているので(←公式サイトにアクセスしてみてください)、健全なる男子諸君はいますぐ本屋さんでチェックすべし!・・・もし、その勇気がなかったなら、ネット経由で手に入れるっつうのもアリかも。

で、わたくし牛津は、そんな特集とは関係ないところで、『遠くの空に消えた』(8月18日より、渋谷東急ほか全国松竹・東急系にてロードショー)の行定勲監督にインタビューなどしております。他にも新作レビューも執筆しています。

炎天下の中、ちょいと涼を求めて本屋さんにお立ち寄りの際には、ついでにヒョイと手を伸ばして、ぜひ「EYESCREAM」をご覧ください!

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