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2007/08/17

『長江哀歌』

いまや中国の映画作家として、チャン・イーモウにも増して世界的な注目を集める存在になったジャ・ジャンクー。彼の視点はいつも、劇的に変わり行く中国と、その潮流に翻弄されながら日々を生きる、ごく普通の人々とを交互に見つめ、この時代にしか描けない体温をリアルに抽出する。そしていま、誰もが中国の現在に視線を注ぐ中、彼の最新作『長江哀歌(ちょうこうエレジー)』はヴェネツィア国際映画祭において金獅子賞を獲得した。

世間で“エンターテインメント”と呼ばれる類の作風に慣れすぎていると、『長江哀歌』の世界に同調するのに少々戸惑うかもしれない。あるいはその映像、たゆたうような時間の刻み方に気持ちよくなって、そのままご就寝、といったことも大いにありうる。そんなの観客として言語道断とする向きもあるだろうが、しかしこの映画で映し出される長江は、熱狂する観客から居眠りする観客にいたるまで、そのいっさいを受け止めて、ただ静かに流れていく。映画の「約2時間」といった基準なんて、この河にはなんの有効性もない。永遠の中の2時間なんて、瞬きするほんの一瞬のようなものだ。

いまこの大河が大きく変わろうとしている。下流域で発生する大洪水を抑えるべく、発電能力を備えた“三峡ダム”が建設中なのだ。しかしこの国家的事業により建設地周辺の130万人の住民が移住を余儀なくされた。『長江哀歌』はこれら運命に翻弄された人たちの物語である。

舞台となるのは古都・奉節(フォンジュ)。男はかつて別れた妻と子に再会するために、そして女は音信普通の夫を探すために、それぞれこのもうすぐダムの底に沈む街を再訪する。一隻の船の到着と共に拡がり行くのは、リアルを通り越してどこか幻想的でさえある街の風景。マジックショーにいざなわれ、風変わりな人々と遭遇し、家々は次々に取り壊され、人々はなす術も無く故郷を去っていく。

時おり、冗談のようにボロッと崩れる住居があったり、河のふもとでダムの記念碑がロケットとなって宙へ飛び出したりと、突飛な幻想性も加味しながら綴られる“おしまいの日々”。世界中を探してみたところで、このようなリアルな舞台を用いた人間ドラマが存在するだろうか。

この映画はある意味、想いを胸に秘めた男女が、このタイムリミットぎりぎりの街で過去を清算しようと奔走する物語である。しかしその場所に住む人々は決して動じず、これまでがそうであったように、長江の流れに寄り添うようにゆっくりと感情を移ろわせていく。この映画を取り巻くすべての体内時計をこの大河が司どっているかのように。

街がダムの底に沈んでも、大河は変わらずその流れを絶やさないのだろうし、それはここを離れて新しい人生をはじめる人たちについても同じことが言える。何が起ころうとも人生は続いていく。そのすべての情景を大河は見つめ続け、人生の酸いも甘いも、ゆっくりと哀歌へと昇華させていく。

河の流れの、時の流れの残酷なまでの懐深さ。そしてそれに抗うことなく、想いを心に秘めたままこの街を去ろうとする人々。この壮大な対比に、いまの中国が見えてくる。

この映画は何かを非難したりするものではない。ただそこで生じる哀愁をたたえ、綴るのみ。それはある意味、大河の移ろいとフィルムの流れとが同調した、奇跡的な一瞬と言えるのかもしれない。

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