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2007/08/16

『愛の予感』

Rebirth01_2 スイスで開催された第60回ロカルノ国際映画祭のコンペ部門にて小林政広監督作品『愛の予感』(英題:the REBIRTH)が、見事金豹賞(グランプリ)に輝きました。本作は他にも、CICAE(国際芸術映画評論連盟)賞、ヤング審査員賞、そして本年度より設立されたダニエル・シュミット賞を併せて受賞。4冠です。

8月1日~11日まで開催された映画祭を終え、監督・主演の小林政広さんと、主演の渡辺真起子さんが凱旋記者会見を行いました。その前に試写も拝見できるということで、僕も参加させてもらってきました。

前作の『バッシング』に引き続き、『愛の予感』は観客に様々な意味で覚悟を強いるハードな路線。観客は冒頭から唐突なまでに“状況”へと突き落とされる。

生々しくはじまったインタビュー映像で、ひとりずつ映しだされる男女。なにやら「事件」だとか「被害者」だとか、そのような言葉を口にしている。それらを総合することで、おぼろげながら事態が飲み込めてくる。どうやら事件が起こったようだ。それも中学生が中学生を殺すという凄惨な事件が。ポツリポツリと言葉を絞り出すふたりの男女は、男が被害者の父親で、対する女は加害者の母親のようだ。女は男に会って謝罪したいとこれまでにも何度となく手紙を書き送ってきた。しかし男はそれを読まずに捨ててきた。彼は女に会うつもりはないと言う。そしてどこか誰も知らないところでひっそり暮らしたいと言う。また女も故郷の北海道へ帰りたいと漏らす。

5分ほどのインタビュー映像が続いたあと、物語は動き始める。まったく会うはずのなかったふたりは、偶然にも北海道の小さな民宿で遭遇している。男は肉体労働者として、女は民宿の賄いとして。ふたりが互いの存在に気付いていることは、その行動から何となく伝わってくるが、その確たる証拠はなかなか見つからない。なぜなら、ここからは言葉が完全に消滅するからだ。セリフがまったく存在しないまま、それはあたかもサイレント映画を見ているような感覚のもとで、生気を削がれた日常が淡々と描かれていく。何度となく同じ動作が繰り返される。気が遠くなるほど、何度も、何度も。そしてこれが永遠に続くのかと思われたとき、ほんの僅かな変化が、ふたりの中で起こりはじめる。それは“赦し”や“希望”というものでは到底なく、それにまだ満たない、ほんの小さな感情の胚芽・・・。

はたしてこの斬新な試みが日本国内において正当に評価されるかどうかはわからない。しかし本作が劇場公開を前にしてロカルノへ飛び、そこで最高の栄誉を勝ち取ったことは(つまり日本にとってみれば逆輸入的な注目を集めるということは)、まさにこの映画の運命を変える事件と言っても過言ではない。もしかしたら映画史の片隅に埃をかぶって埋もれる存在だったかもしれないほんとうに小さな小さな本作が(この映画とまともに対峙していたなら、僕だって撃沈していたと思う)、いまこうしてロカルノ経由で世界中で注目されようとしているのは、やはりそこに、何らかの“世界に訴えかけるビジョン”が刻まれていたからだろう。しかもそれは国際舞台の場においては当たり前の“翻訳”というフィルターを軽やかにとっぱらってしまったものだったのだ。男の絶望と、女の絶望。共に視線さえ合わせられない現状にやがてほんの僅かな光が注がれようとするこの流れは、結果的にそれが世界のどこにでも(いかなる悲惨な衝突の現場であっても)生じうる光景なのだと、審査員や観客に感じさせたのかもしれない。

セリフも音楽もない。変化の兆しは観客が自ら感じ取るしか術がない。そして最後は、淡々と繰り返される“役者の動き(動線)”だけが映画の道しるべとなる。そもそも映画とは、どんなときでも「用意、アクション!」の掛け声と共にカメラを回し、シーンを重ねていくもの。僕らはこの、いつも映画史と共にあった“アクション=動線”こそが感情を伝える最小限の方法であることを改めて知る。感情を失っていたかに見えたふたりの男女。しかし逆説的に言って、そこでフィルムが回っている限り、アクションが、動線が刻まれ続ける限り、映画は感情を決して失わないのであり、僕にとっては、この映画が、よく言われる子供の犯罪、時代の闇といったものを浮き彫りにするというよりも、むしろこうした映画の原点に立ち返って、“人間そのもの”に火を灯そうとしていることに、静かに心が震えた。

そういうことに気付かせてくれた意味でも、ロカルノ映画祭の審査結果には敬意を表したい。そしてエンディングにはフォークシンガーとしての肩書きも持つ小林政広監督の弾き語りが流れるのだが、これがまた、内面を歌い過ぎる。これまでのストイックな描写を一気に破壊するかのようなこの楽曲に違和感を覚える人も多いだろう。実は僕も「あれれ」と思ってしまった。しかしこれは『バッシング』に続く、小林作品の“認定印”のようなものだ。歌が無ければもっと素晴らしい映画になっていたと人は言うかもしれないが、きっと歌がなければ、そもそもこの映画は生まれなかったのではないか、とも思うのだ。

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