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2007/09/24

『ミス・ポター』

 何かしらストーリーに大きなうねりがあるわけでもなければ、かの有名な「ピーター・ラビット」の作者、ビアトリクス・ポターの実人生が余すことなく収められているというわけでもない。けれどこの映画に触れたなら絶対に忘れられなくなるものがある。それはレニー・ゼルウィガーの表情だった。今にも勢いよく弾け飛びそうなくらいにプクプクした表情を浮かべ、彼女はとびきり幸福そうな含み笑いを絶やさずに創作世界へと向かう。

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2007/09/22

『プラネット・テラー in グラインドハウス』

 タランティーノの『デス・プルーフ』と同じ気分でこのロバート・ロドリゲス版に臨んだならば、かなり肩透かしを食らうかもしれない。というのも、『デス・プルーフ』が映画という水槽を知り尽くした上で、その限界を1枚も2枚も超えた遊び心を発揮しているのに比べ、『プラネット・テラー』はむしろ既成の枠内にとどまり、時にはタランティーノっぽいことをやって水槽を飛び出してみようとファインディング・ニモ精神をたぎらせたりもするのだが、それは思いのほか不発に終わってバシャバシャと流れていく。

 つまり『デス・プルーフ』は真面目過ぎるのだ。テレビ東京の昼間2時頃にやってるようなB級アクション映画をそのまま見せる、というのがタランティーノ&ロドリゲスの正当な目論見だったとしても、なにも往年のグラインドハウス的なスカスカの中身まで踏襲することはないじゃないか。とにもかくにも今回の『グラインドハウス』、本当は『プラネット・テラー』→『デス・プルーフ』という順番で楽しむのが一番だったのだろうが、本国のように同時上映が叶わぬ日本においては、やはり『デス・プルーフ』で観客の士気を高めておいてそれで『プラネット・テラー』を消化してもらう、という興行的思惑が働くのも頷ける。

 しかし弁明のために言っておくならば、その真面目さこそがこの映画の最大の良心でもあるのかもしれない。片足を失ったヒロインがやがて義足代わりにマシンガンを装着して最後の戦いに挑むという画期的なヒロイン像は障害者福祉といった概念を根本から吹き飛ばす破壊力を持っているし(そもそも街中がゾンビだらけの状況下で障害者福祉もへったくれもないのだが)、ステーキ・ソースの研究開発に余念のないレストラン店主と街の巡査長が思わぬ具合に兄弟愛を発揮して「あのときのことは忘れないぜ」「ふっ、そんなこともあったな」的な常套手段という名の袋小路に観客をいざなう常套手段も場所とタイミングさえ選べば観客にとっていまだ有効なのだなと気づかせられる。

 また中盤で三池崇史の『サラリーマン金太郎 the MOVIE』的なことをやらかして平気でページを3章くらいすっ飛ばすタブーも(確信犯過ぎる確信犯とはいえ)悪くはない。だがそういう細やかな部品を集めて、大きなマジックを起こせなかった。そして不幸の原因は、ひとえにわれわれが『デス・プルーフ』を知っている、ということにあり、B級映画が大好きだと公言しながらも自作としては概念的にS級映画を作ってしまったタランティーノに比べ、ロドリゲスは真面目にB級文法を踏襲したというだけという話。恐らく上映の順番が逆ならば、我々はこの『デス・プルーフ』を「これは面白い!」くらいの勢いでスタンディングオベーションもので迎えたのかもしれない。

 個人的な思いからいえば、『プラネット・テラー』の醍醐味は本編ではなく、その前に上映されるフェイク予告編にこそある。大写しになるそのタイトルたるやメキシコ臭プンプン漂う「マシェーティ」。そして主演は、あのダニー・トレホ!これは実際には製作されていないが「ありそうな感じ」ギリギリを狙って作られたまさにパロディとしては完璧といえる偽の予告編なのだ。僕もこれを見ながらもう泣きながら笑った。しかしだからといって「マシェーティ」を90分の映画として観たいかと言われれば、さてどうかな、とあいまいな返事をしてしまう。きっとまたロドリゲスの手によって、その真面目さだけは理解できるが、結局のところ間延びした感じのB級作品が提示されるのが関の山なのだろうから。まあ、気分によってはそういう映画も悪くないと思えるときもあるにはあるのだが。

 それにしてもこのフェイク予告編、本国では『デス・プルーフ』と『プラネット・テラー』の同時上映のちょうど真ん中で他にも5、6本挿入されていたというのだから気になって仕方がない。どうやら版権の関係でNGとなったらしいのだが(TOHOシネマズ六本木で開催された2作一気観イベントにおいてのみ上映されたというのだが)、DVDリリースされたときには必ず特典映像として収録してもらいたい。これは絶対。約束だ。

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で、遂にDVDリリース。コンプリートBOXにはやっぱり「フェイク予告編」が収録されている模様です!

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2007/09/18

『パンズ・ラビリンス』

『アーサーとミニモイの不思議な国』が正真正銘の子供向けファンタジーだとすれば、アカデミー賞で3部門の受賞(撮影賞、美術賞、メークアップ賞)に輝いた『パンズ・ラビリンス』は大人向けのダーク・ファンタジーということになる。これが観る前にイメージしていたよりもずっと過酷な描写をふんだんに盛り込んでおり、とくにこの映画の克明に描きこむ“傷”に関しては子供が直視できないくらいに生々しいものがある。改めてギレルモ・デル・トロをはじめとする作り手の強靭な創作意志に圧倒された次第。

このなんとも重々しい雰囲気に足がすくみながらも、視線がおのずと作品の内部へと導かれていくのは、映画の幕が上がると同時に飛び込んでくる深い闇があまりに深遠な映像美を生み出しているからであり、気が付くと僕らは1944年スペインの暗黒時代にどっぷりと入り込んでしまっている。

ある日、少女オフェリアは身重の母につれられて山奥の山荘に連れられていく。そこにはクーデターの残党を殲滅すべくフランコ軍が駐屯しており、オフェリアの新しい父親はそこの大尉を務めている。敵の息の根をとめるためには手段を選ばぬ非道な父。彼は少女に一瞥もくれず、やがて生まれてくる実子が男の子であることだけを信じ、寵愛を注ぐ。だんだんと母の息が乱れていく。出産の時は近い。医師はどうやら難産になりそうだと大尉に告げ、彼は「そのときはお腹の息子の命を優先せよ」と命令をくだす。そんな中、オフェリアのもとへ妖精が舞い降り、彼女が実はラビリンスの王女の生まれ変わりであると言う。存亡の危機を迎えたラビリンスを救うには彼女の力が必要であり、そのためには彼女が真の王女であることを証明せねばならない。かくしてオフェリアは、妖精にいざなわれるままに3つの試練に立ち向かうことになるのだが・・・。

この導入部の第一試練あたりはどこか『千と千尋の神隠し』を思わせる。両者ともにドロにまみれて真っ黒になってしまう場面では少女の冒険に付き物の儀式性さえも感じられてことさら興味深い。だが中盤から後半にかけてその差異は決定的なものとなっていく。残酷な死と隣り合わせの暗黒時代、お腹の大きな母親、義理の父親との冷たい関係、迫り来るレジスタンス、政府軍による容赦ない殲滅作戦…。

この映画は僕らに、人間こそが悪魔以上に恐ろしい生き物であるということを痛いほど見せつける。その地獄の中で大人たちは血で血を洗うやり方で世の中を変えようとしている。対する少女は、彼女の目にしか映りえない“ファンタジーの世界”でもって自分なりに世の中を変えようと奮闘する。それは大人たちの目から見ると非現実的な、「逃避」にしか見えないのかもしれないが、当の少女からしてみると、この眼前の血にまみれた「大人たちの現実」こそが別世界の異様な光景なのであり、守護神“パン”によっていざなわれるラビリンスこそが自分の辿るべき道なのだと意を決するのも頷ける。

スペインが見舞われた血にまみれた現実。そして少女のいざなわれる世にも不思議な現実。

両者のリアリティは観客の中でもすっかり混濁しはじめる。そして大人たちの突き進んでいく“現実”のあまりの凄惨さに、観客さえもが少女の選び取るファンタジーに拠り所を求めてしまう…という思考の流れが、極限状況の中で生まれたファンタジーの根源的な力をより鮮明に浮き彫りにしていくのである。

いや、そもそもすべてのファンタジーはこうした絶望の中で生まれた、身を切るほどに切ないものなのかもしれない。かつてこの世に存在したすべての戦火の子供たち(それはアンネ・フランクらをはじめとするような)の魂がこの主人公オフェリアの身体に集約されているかのような気がしてならない。

いつの時代でも歴史は繰り返される。そして子供たちはいつも自分たちのやり方で勇気を振り絞る。この映画はファンタジー特有の美しくも幻想的な映像を期待して臨むと心臓が張り裂けんばかりの手痛い返り討ちを食らうが、その光景を真正面から真摯に受け止めた者だけが、その闇の向こう側に美しい一筋の光を見出すことになるのだろう。

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パンズ・ラビリンス』は、10月6日恵比寿ガーデンシネマほか全国ロードショー

ギレルモ・デル・トロの代表作『ヘルボーイ』。ジャンルは根本的に違いながらも、ギレルモ・デル・トロのキャラクター造形へのこだわりは『パンズ』と共通するものが感じられる一作です。彼が映画の中で動かす非人間的な生き物って、どうしてこんなに異様で、かつ愛らしいんでしょう。

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2007/09/17

『ボーン・アルティメイタム』

 前作に引き続き、ポール・グリーングラスの演出が冴え渡る。2作目のラストシーン(ボーンがジョアン・アレン演じるパメラ・ランディに電話をかけるシーン)が本作のクライマックス導入部へと繋がっていく時間軸にも「そうきたか!」と新鮮な驚きがあった。

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『タロットカード殺人事件』

タロットカード殺人事件』は、まるでオペラの「ストーリーラインを歌で彩る」という趣向を踏襲したかのように、「ストーリーラインを会話で彩る」ことによって、いつも変わらぬウディ節が炸裂。一筋縄ではいかないアガサ・クリスティ風の探偵コメディに仕上がっている。

冒頭、チャイコフスキーの「白鳥の湖」が意味ありげに鳴り響く。

狙った獲物は決して逃がさぬひとりのジャーナリストが死んだ。「あの世」への航海の途中で、彼は同乗者の口から特ダネ(この映画の原題は“SCOOP”)を耳にする。どうやら現在ロンドンを騒がしているタロットカード連続殺人事件の犯人は英国貴族の男らしいのだ。生前ならば必ずモノにしていたであろうこの特ダネ。これを抱えてみすみす死ねるか!彼の執念は次元を飛び越え、マジックショーのステージへ。そしてなんの因果か、彼の意思を受け継いでしまった手品師ウッディ&大学生スカーレット(・ヨハンソン)は、珍妙なコンビネーションで事件解決に乗り出すことになるのだが…。

先に僕はこの映画を苦しめ紛れに「探偵コメディ」と表現したが、もちろんその額面どおりに受け取ってしまっては違和感が生じかねない。つまり、上の説明を施した上でこの作風をもっと正確に表すならば、「ウェルメイドなスーパーナチュラル・ディテクティブ・コメディ」ということになるのだろう。

とにかく、葬式シーンから始まるといったある種の文学的な常套手段から始まって、幽霊は出るわ、死神はでるわ、手品師のウディ、なんだか抜けててかわいらしいスカーレット・ヨハンソン、どこから見ても完璧オトコマエなヒュー・ジャックマン、そして「殺人事件」なのにいちども登場しない殺人現場、そして死体、すべての旨味が絶妙にマッチング。これらの狭間をウディ特有のウィットと皮肉、そして自虐に満ちたジョークが飛び交う。そのあらゆる瞬間に笑いが介在する。とくに印象的なのは手品中のウディが放つ次の口上だった。

「ユーモアは大切ですよ。ユーモアさえあれば、世界はこんなにまで悲惨にはならなかった」

なかなか意味深い一言。ウディ・アレンの映画はあまり世相などとは関わりを持たない作風が多いのだが、このどうしようもなく時代を反映した台詞になかなかどうしてはっとさせられる。もちろん、はっと心奪われた次の瞬間には、もう次の台詞が上から覆いかぶさり、僕らはまた違う爆笑に包まれているわけなのだが。

『タロットカード殺人事件』はその邦題に「?」と首をかしげる以外ならば、かくも素敵な作品である。『マッチポイント』の予想不能の展開にも驚愕したが、オーソドックスな手法の中に遊び心とハプニングを散りばめた本作は、心身ともに大満足な上に、またしてもウディの手のひらで踊らされてしまったかのような、その物語の支配力にもはや神の領域さえも感じさせる。いくら70歳越えのご老体とはいえ、僕らは“小さな巨人”ウディ・アレンの創造力に追いつくことなど、生涯に渡ってできやしないのである。

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タロットカード殺人事件』は、10月27日より日比谷シャンテシネ、Bunkamuraル・シネマほかにて全国順次公開。

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2007/09/16

『ヘアスプレー』

 冒頭、ボルチモアの町並み紹介と共に、主役のおデブちゃんが歌い踊る。その傍らでなんとあのジョン・ウォーターズが一瞬だけカメオ出演していて小ビックリ(しかも“露出狂”役!)。実はこの作品、オリジナルはブロードウェイ・ミュージカルだと思われがちだが、そもそもの起源はジョン・ウオーターズが87年に作ったコメディにあるのだ。自分の映画がまさか20年後にこんな形で帰ってくるなんて、いくら変人ウォーターズといえども予想すらしなかったことだろう。

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2007/09/11

ENGLISH JOURNAL

9月6日発売の「ENGLISH JOURNAL」という雑誌にて巻頭記事を書かせてもらっています。オーランド・ブルームについてです。本屋さんにお立ち寄りの際にはぜひ手にとってごらんください。

表紙はこんな感じです。

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2007/09/09

『アフター・ウェディング』

冒頭、インドの孤児院にて人道支援に携わる男の姿が映し出される。子供たちに愛情を注ぐ彼の表情は確固たる信念に貫かれ、その精神性を祝福するかのようにシガーロスの楽曲がこの物語の始まりを静かに告げる。

あるいは本作は、歌詞の意味もわからぬこの曲の美しさ、すべての生きとし生けるものへの賛美、尊厳がそのまま映画へと昇華されているようでもあり、つまりこの映画は、冒頭とラストで一度ずつ流れるこの曲の精神性を追体験する巨大な装置のようにも思えてくる。

やがて男は母国デンマークを訪れ、ひとりの経営者と対峙を余儀なくされる。片や慈善活動がすべての男。片や資本主義を追求する地位の男。彼等に共通項が少ないことは誰の目にも明らかだ。しかしまったく別次元に住む彼等には、それぞれに守るべきものが確かに存在する。

タイトルが示す「婚礼のあと」に打ち明けられるひとつの秘密。

絡み合ういくつもの視線。

デンマークを代表する女性監督スサンネ・ビアは、慈善活動家と経営者とを同じ「箱庭」に同居させる。このシチュエーションだけで、その後に巻き起こる衝突は火を見るより明らかだ。いや、そもそも両者を同じ目線で比較するなどできるだろうか。互いに高い理念を掲げる人間をいたずらに配置するなど、これはある意味、作家のエゴとも受け取られかねない所業のようにも感じられる。

もちろん作り手によってはこれを目も背けたくなるような悲劇と成すことだっていくらでも可能だったろう(おなじデンマークのラース・フォン・トリアーだったら人間性の膿を出し切るような作品になったはずだ)。

しかしスサンネ・ビアの作品において、そのような懸念は必要なかったのだと気づかされる。彼女はきっと、人間の持つ力をとてつもなく信じているのだろう。その証しとして、冒頭のシガーロスのイメージは最後まで決して損なわれることはなく、いたずらに人間の悪意を掻き立てて観客のイライラを募らせることもない。この作品は、途方に暮れるほど隔たりあったふたりが、いつしかその人間性を深く掘り起こしていく中で、奇妙な因縁で結ばれていく物語なのだ。

そこに何か偶発的な事件が起こるというわけではない。そこで顔を合わせる人間たちが、交互に影響を与え合いながら自分達の物語を力強く展開させていくだけだ。我々はスクリーンごしに登場人物というよりも“人間そのもの”を見つめているのかもしれない。そこであたかも神が“性善説”を実証すべく課した試練に対し、人間が粛々と答えを提示し続けているかのような聖域を目の当たりにするのである。

そして、これら運命を前にした人間のあまりの小ささ、対立を乗り越えて高みに達したときの偉大さを僕らが素直に受け止めたとき、この映画はふたたびシガーロスの楽曲とともに静かに幕を下ろす。こんなに小さくとも、世界をぐるりと内包するかのような深く、力強い愛情を感じさせるこの物語。こんなにも心揺さぶられたのは久しぶりかもしれない。

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アフター・ウェディング』は、10月下旬よりシネカノン有楽町一丁目にて公開。

劇中で効果的に使われているシガーロスの楽曲は「(  )」というアルバムの1曲目に収録されています。(リンク先で試聴もできます)。また11月7日には「HVARF HEIM」をリリース。セルフリメイク&未発表曲を交えコンセプト別に2枚組となって発表される本作は、myspaceで試聴できます。この新譜にも『アフター・ウェディング』の使用曲が収録。

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