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『ミス・ポター』

 何かしらストーリーに大きなうねりがあるわけでもなければ、かの有名な「ピーター・ラビット」の作者、ビアトリクス・ポターの実人生が余すことなく収められているというわけでもない。けれどこの映画に触れたなら絶対に忘れられなくなるものがある。それはレニー・ゼルウィガーの表情だった。今にも勢いよく弾け飛びそうなくらいにプクプクした表情を浮かべ、彼女はとびきり幸福そうな含み笑いを絶やさずに創作世界へと向かう。

 この映画には30過ぎてもお嫁にいかないポターに対する家庭内での空気やら、歴然とした階級社会である英国の結婚事情が垣間見えたりとか、そういう当時の空気をコミカルに伝えながらも、だからといって基本的には誰かを糾弾しようとしたり、感動的なサクセス・ストーリーが描かれるわけでも決してない。

 結局のところ、本作は彼女の表情を伝える映画だったのだと僕は思う。それは幼いころから自作の話を語り聞かせることに親しんできた彼女にとって「楽しんでくれてるかな…?」とドキドキしながら相手の反応を読み取ろうとでもするかのような心の道程であり、相手が満足そうな表情で「うん」とうなづくと同時に彼女の笑顔がパンッと弾けて喜びに変わる瞬間を活写した“幸福の物語”でもある。

 その表情を見つめているだけで、僕らは何かささやかな魔法にでもかけられたみたいに顔がほころんでしまう。果たして今から100年前の彼女の表情をいかにして再現しえたのか。文献などを紐解いたところでその詳細は記されていやしない。これらはもちろん写真や記述などを基に作り手側がイメージを総動員して織り成したものに過ぎない。しかしその表情が他でもないレニー・ゼルウィガー、その人の顔面に灯ったとき、僕らはやっぱりこれがミス・ポターなのだと納得せずにはいられなくなるのである。

 映画は正確無比な伝記小説でもなければ、ドキュメンタリー番組でもない。何より大切なのは、それが映画であることの意義をどう刻むか、ということだ。そして本作でレニーのあの表情を目にしたとき、僕らは何かすべての万物が調和したかのような瞬間を目撃し、心から納得することになる。きっとそうだ、おそらくいまから100年前の時代でも、ミス・ポターはそんな表情をしていたに違いない、と。

 そして彼女の表情に呼応するかのように、もうひとつフィクションが僕らに魔法をかける。それは本屋の店頭に並んだ「ピーター・ラビット」を目にして、もう70歳くらいになるだろうか、無表情の付き人のミス・ウィギン(彼女は架空の人物だ)が身体をのけぞらせながら「あらまあ!!!!」と歓喜してみせる部分だ。

 その姿を見て、またポターがふふふと笑う。ふたりの「ミス」が実は心のどこかで繋がっていたかのような連帯感が思わぬところから湧きあがってくる。このミス・ウィギンについて、レニー・ゼルウィガーは「私のいちばん好きなキャラクター」と明言しているのも頷ける話だ。

 もともとピーター・ラビットをはじめとするおなじみのキャラクターたちが実写中のアニメーションとして歌い踊るはずだったこの映画は、かくも個性的な人間たちの珠玉の物語へと変容した。英語圏の観客にとっては常識とも言うべきミス・ポターの人となりについて、日本の観客に本作だけで彼女を理解せよ、と迫るのは難しいことなのかもしれないが、少なくともその上澄みだけでも味わえる点において、『ミス・ポター』は素敵な幸福感に満ちた作品である。

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『プラネット・テラー in グラインドハウス』

 タランティーノの『デス・プルーフ』と同じ気分でこのロバート・ロドリゲス版に臨んだならば、かなり肩透かしを食らうかもしれない。というのも、『デス・プルーフ』が映画という水槽を知り尽くした上で、その限界を1枚も2枚も超えた遊び心を発揮しているのに比べ、『プラネット・テラー』はむしろ既成の枠内にとどまり、時にはタランティーノっぽいことをやって水槽を飛び出してみようとファインディング・ニモ精神をたぎらせたりもするのだが、それは思いのほか不発に終わってバシャバシャと流れていく。

 つまり『デス・プルーフ』は真面目過ぎるのだ。テレビ東京の昼間2時頃にやってるようなB級アクション映画をそのまま見せる、というのがタランティーノ&ロドリゲスの正当な目論見だったとしても、なにも往年のグラインドハウス的なスカスカの中身まで踏襲することはないじゃないか。とにもかくにも今回の『グラインドハウス』、本当は『プラネット・テラー』→『デス・プルーフ』という順番で楽しむのが一番だったのだろうが、本国のように同時上映が叶わぬ日本においては、やはり『デス・プルーフ』で観客の士気を高めておいてそれで『プラネット・テラー』を消化してもらう、という興行的思惑が働くのも頷ける。

 しかし弁明のために言っておくならば、その真面目さこそがこの映画の最大の良心でもあるのかもしれない。片足を失ったヒロインがやがて義足代わりにマシンガンを装着して最後の戦いに挑むという画期的なヒロイン像は障害者福祉といった概念を根本から吹き飛ばす破壊力を持っているし(そもそも街中がゾンビだらけの状況下で障害者福祉もへったくれもないのだが)、ステーキ・ソースの研究開発に余念のないレストラン店主と街の巡査長が思わぬ具合に兄弟愛を発揮して「あのときのことは忘れないぜ」「ふっ、そんなこともあったな」的な常套手段という名の袋小路に観客をいざなう常套手段も場所とタイミングさえ選べば観客にとっていまだ有効なのだなと気づかせられる。

 また中盤で三池崇史の『サラリーマン金太郎 the MOVIE』的なことをやらかして平気でページを3章くらいすっ飛ばすタブーも(確信犯過ぎる確信犯とはいえ)悪くはない。だがそういう細やかな部品を集めて、大きなマジックを起こせなかった。そして不幸の原因は、ひとえにわれわれが『デス・プルーフ』を知っている、ということにあり、B級映画が大好きだと公言しながらも自作としては概念的にS級映画を作ってしまったタランティーノに比べ、ロドリゲスは真面目にB級文法を踏襲したというだけという話。恐らく上映の順番が逆ならば、我々はこの『デス・プルーフ』を「これは面白い!」くらいの勢いでスタンディングオベーションもので迎えたのかもしれない。

 個人的な思いからいえば、『プラネット・テラー』の醍醐味は本編ではなく、その前に上映されるフェイク予告編にこそある。大写しになるそのタイトルたるやメキシコ臭プンプン漂う「マシェーティ」。そして主演は、あのダニー・トレホ!これは実際には製作されていないが「ありそうな感じ」ギリギリを狙って作られたまさにパロディとしては完璧といえる偽の予告編なのだ。僕もこれを見ながらもう泣きながら笑った。しかしだからといって「マシェーティ」を90分の映画として観たいかと言われれば、さてどうかな、とあいまいな返事をしてしまう。きっとまたロドリゲスの手によって、その真面目さだけは理解できるが、結局のところ間延びした感じのB級作品が提示されるのが関の山なのだろうから。まあ、気分によってはそういう映画も悪くないと思えるときもあるにはあるのだが。

 それにしてもこのフェイク予告編、本国では『デス・プルーフ』と『プラネット・テラー』の同時上映のちょうど真ん中で他にも5、6本挿入されていたというのだから気になって仕方がない。どうやら版権の関係でNGとなったらしいのだが(TOHOシネマズ六本木で開催された2作一気観イベントにおいてのみ上映されたというのだが)、DVDリリースされたときには必ず特典映像として収録してもらいたい。これは絶対。約束だ。

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で、遂にDVDリリース。コンプリートBOXにはやっぱり「フェイク予告編」が収録されている模様です!

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『パンズ・ラビリンス』

『アーサーとミニモイの不思議な国』が正真正銘の子供向けファンタジーだとすれば、アカデミー賞で3部門の受賞(撮影賞、美術賞、メークアップ賞)に輝いた『パンズ・ラビリンス』は大人向けのダーク・ファンタジーということになる。これが観る前にイメージしていたよりもずっと過酷な描写をふんだんに盛り込んでおり、とくにこの映画の克明に描きこむ“傷”に関しては子供が直視できないくらいに生々しいものがある。改めてギレルモ・デル・トロをはじめとする作り手の強靭な創作意志に圧倒された次第。

このなんとも重々しい雰囲気に足がすくみながらも、視線がおのずと作品の内部へと導かれていくのは、映画の幕が上がると同時に飛び込んでくる深い闇があまりに深遠な映像美を生み出しているからであり、気が付くと僕らは1944年スペインの暗黒時代にどっぷりと入り込んでしまっている。

ある日、少女オフェリアは身重の母につれられて山奥の山荘に連れられていく。そこにはクーデターの残党を殲滅すべくフランコ軍が駐屯しており、オフェリアの新しい父親はそこの大尉を務めている。敵の息の根をとめるためには手段を選ばぬ非道な父。彼は少女に一瞥もくれず、やがて生まれてくる実子が男の子であることだけを信じ、寵愛を注ぐ。だんだんと母の息が乱れていく。出産の時は近い。医師はどうやら難産になりそうだと大尉に告げ、彼は「そのときはお腹の息子の命を優先せよ」と命令をくだす。そんな中、オフェリアのもとへ妖精が舞い降り、彼女が実はラビリンスの王女の生まれ変わりであると言う。存亡の危機を迎えたラビリンスを救うには彼女の力が必要であり、そのためには彼女が真の王女であることを証明せねばならない。かくしてオフェリアは、妖精にいざなわれるままに3つの試練に立ち向かうことになるのだが・・・。

この導入部の第一試練あたりはどこか『千と千尋の神隠し』を思わせる。両者ともにドロにまみれて真っ黒になってしまう場面では少女の冒険に付き物の儀式性さえも感じられてことさら興味深い。だが中盤から後半にかけてその差異は決定的なものとなっていく。残酷な死と隣り合わせの暗黒時代、お腹の大きな母親、義理の父親との冷たい関係、迫り来るレジスタンス、政府軍による容赦ない殲滅作戦…。

この映画は僕らに、人間こそが悪魔以上に恐ろしい生き物であるということを痛いほど見せつける。その地獄の中で大人たちは血で血を洗うやり方で世の中を変えようとしている。対する少女は、彼女の目にしか映りえない“ファンタジーの世界”でもって自分なりに世の中を変えようと奮闘する。それは大人たちの目から見ると非現実的な、「逃避」にしか見えないのかもしれないが、当の少女からしてみると、この眼前の血にまみれた「大人たちの現実」こそが別世界の異様な光景なのであり、守護神“パン”によっていざなわれるラビリンスこそが自分の辿るべき道なのだと意を決するのも頷ける。

スペインが見舞われた血にまみれた現実。そして少女のいざなわれる世にも不思議な現実。

両者のリアリティは観客の中でもすっかり混濁しはじめる。そして大人たちの突き進んでいく“現実”のあまりの凄惨さに、観客さえもが少女の選び取るファンタジーに拠り所を求めてしまう…という思考の流れが、極限状況の中で生まれたファンタジーの根源的な力をより鮮明に浮き彫りにしていくのである。

いや、そもそもすべてのファンタジーはこうした絶望の中で生まれた、身を切るほどに切ないものなのかもしれない。かつてこの世に存在したすべての戦火の子供たち(それはアンネ・フランクらをはじめとするような)の魂がこの主人公オフェリアの身体に集約されているかのような気がしてならない。

いつの時代でも歴史は繰り返される。そして子供たちはいつも自分たちのやり方で勇気を振り絞る。この映画はファンタジー特有の美しくも幻想的な映像を期待して臨むと心臓が張り裂けんばかりの手痛い返り討ちを食らうが、その光景を真正面から真摯に受け止めた者だけが、その闇の向こう側に美しい一筋の光を見出すことになるのだろう。

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パンズ・ラビリンス』は、10月6日恵比寿ガーデンシネマほか全国ロードショー

ギレルモ・デル・トロの代表作『ヘルボーイ』。ジャンルは根本的に違いながらも、ギレルモ・デル・トロのキャラクター造形へのこだわりは『パンズ』と共通するものが感じられる一作です。彼が映画の中で動かす非人間的な生き物って、どうしてこんなに異様で、かつ愛らしいんでしょう。

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『ボーン・アルティメイタム』

アカデミー賞 音響編集賞、録音賞、編集賞、獲得!

 前作に引き続き、ポール・グリーングラスの演出が冴え渡る。2作目のラストシーン(ボーンがジョアン・アレン演じるパメラ・ランディに電話をかけるシーン)が本作のクライマックス導入部へと繋がっていく時間軸にも「そうきたか!」と新鮮な驚きがあった。

 いくつにも国を横断し、どこにでもあるような雑踏においてその地面に染み付いた匂いまでもが伝わってきそうな臨場感。そこで繰り広げられるプロVSプロの胃にキリキリくるようなチェイス。しかも息が長い。短距離走じゃなくて、まるでマラソンのように手を代え、品を代え、次々に新たな変化球を投入しながら一本の動線を作り上げていく。これはもう“執念”というしかない。まるで70年代にでも放り込まれたかのような骨太なアクションに悶絶しそうになってしまう。

 とりわけ序盤のロンドン、ウオータールー(ワーテルロー)駅を舞台とする新聞記者、ジェイソン・ボーン、CIA、スナイパー、そしておびただしい通行人が入り乱れての追跡劇はシリーズ全体のハイライトというべき驚愕のクオリティを成しており、観ているだけで息が乱れる。

 これほどまでにめまぐるしい作りの中で、それぞれのキャラクターにもしっかり命を吹き込まれているのも驚きだ。今回初登場となるデヴィッド・ストラザーン(『グッドナイト&グッドラック』)の魅せる冷静沈着な振る舞いにも(悪役ながら)グッとくる。CIAの上司たちの動きに不信感を募らせ、独自にボーンと接触を図ろうとするジョアン・アレンの凛々しい存在感も前作同様にこの物語を貫く数少ない希望の線をつないでいく。もちろん画面はどんどん展開していく。どのキャラクターもアップで分かりやすくその人物像を物語ることは不可能だ。彼らは与えられたほんのわずかな動作によって、そこに付随する感情の流れも観客に伝えなければならない。

 そしてシリーズ通して何かと関わりあってくる若き女性支局員(ジュリア・スタイルズ)が、やはりここでも登場する。彼女のふと見せる表情が“ボーンの大切な誰か”を彷彿とさせたりもするくだりは、この映画が示す唯一のしめやかなシークエンスであり、これから突入するニューヨークにおけるクライマックス直前の、まさに“嵐の前の静けさ”的な緩急を提示して無性に心に沁みてくる。

 思い返せば、そもそもこのプロジェクトの始動時はダグ・リーマン監督によって軽妙なアクションを志向して作られたはずだった。それが2作目、3作目と移行することで原作(ロバート・ラドラム著)のストイックな作風へと極限までにじり寄り、いつしか2000年代を代表する新感覚アクション大作にまで昇り詰めてしまった事実がなんとも快い。

 やはりすべての要はポール・グリーングラスだ。

 彼の生み出す映像においては主演のマット・デイモンですら部品と化す。グリーングラスの息づかい、リズム、そしてとことんまで作りこまれた映像の質感、そしてこれまでのハリウッド映画の常識には存在しなかったカメラの動き。これらを内部と外部の視点とで巧みに織り成しながら、観客が知るべき“情報”としての映像が、そこで巻き起こる状況の総体をリアルに物語っていく。だから僕らはこの映画に接するとき、「怖い!」とか「危ない!」とか「ドキドキした!」とかそういう単純な感情経路を大きく飛び越え、自らが突き落とされた状況の嵐の中で目前に繰り広げられる出来事をただただ目撃しつづける。そのグリーングラスの方法論は『ユナイテッド93』を経由してますますブラッシュアップされている。これはアクションというジャンルにおけるひとつの“発明”といっても過言ではない。

 『ボーン・アルティメイタム』を見せられたなら、もうそんじょそこらのアクション映画で満足できるはずがない。ハリウッドにおけるアクションのハードルは大きく上げられた。いずれ映画史は“『ボーン』以降”という決定的なターニングポイントをその年表に刻むことだろう。ボーンシリーズと比べれば、『ミッション・インポッシブル』シリーズなんて足元にも及ばないし、そこそこ面白くできていた『ダイハード4』でさえ茶番のように思えてくる。これと双璧をなせるのは今のところマイケル・マンくらいなんじゃないだろうか。

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ボーン・アルティメイタム』は11月10日より日劇1ほか全国ロードショー。

『ボーン・アルティメイタム』のDVDは3月7日に発売。未公開シーン、メイキング、監督によるコメンタリーなど、特典も満載。

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『タロットカード殺人事件』

タロットカード殺人事件』は、まるでオペラの「ストーリーラインを歌で彩る」という趣向を踏襲したかのように、「ストーリーラインを会話で彩る」ことによって、いつも変わらぬウディ節が炸裂。一筋縄ではいかないアガサ・クリスティ風の探偵コメディに仕上がっている。

冒頭、チャイコフスキーの「白鳥の湖」が意味ありげに鳴り響く。

狙った獲物は決して逃がさぬひとりのジャーナリストが死んだ。「あの世」への航海の途中で、彼は同乗者の口から特ダネ(この映画の原題は“SCOOP”)を耳にする。どうやら現在ロンドンを騒がしているタロットカード連続殺人事件の犯人は英国貴族の男らしいのだ。生前ならば必ずモノにしていたであろうこの特ダネ。これを抱えてみすみす死ねるか!彼の執念は次元を飛び越え、マジックショーのステージへ。そしてなんの因果か、彼の意思を受け継いでしまった手品師ウッディ&大学生スカーレット(・ヨハンソン)は、珍妙なコンビネーションで事件解決に乗り出すことになるのだが…。

先に僕はこの映画を苦しめ紛れに「探偵コメディ」と表現したが、もちろんその額面どおりに受け取ってしまっては違和感が生じかねない。つまり、上の説明を施した上でこの作風をもっと正確に表すならば、「ウェルメイドなスーパーナチュラル・ディテクティブ・コメディ」ということになるのだろう。

とにかく、葬式シーンから始まるといったある種の文学的な常套手段から始まって、幽霊は出るわ、死神はでるわ、手品師のウディ、なんだか抜けててかわいらしいスカーレット・ヨハンソン、どこから見ても完璧オトコマエなヒュー・ジャックマン、そして「殺人事件」なのにいちども登場しない殺人現場、そして死体、すべての旨味が絶妙にマッチング。これらの狭間をウディ特有のウィットと皮肉、そして自虐に満ちたジョークが飛び交う。そのあらゆる瞬間に笑いが介在する。とくに印象的なのは手品中のウディが放つ次の口上だった。

「ユーモアは大切ですよ。ユーモアさえあれば、世界はこんなにまで悲惨にはならなかった」

なかなか意味深い一言。ウディ・アレンの映画はあまり世相などとは関わりを持たない作風が多いのだが、このどうしようもなく時代を反映した台詞になかなかどうしてはっとさせられる。もちろん、はっと心奪われた次の瞬間には、もう次の台詞が上から覆いかぶさり、僕らはまた違う爆笑に包まれているわけなのだが。

『タロットカード殺人事件』はその邦題に「?」と首をかしげる以外ならば、かくも素敵な作品である。『マッチポイント』の予想不能の展開にも驚愕したが、オーソドックスな手法の中に遊び心とハプニングを散りばめた本作は、心身ともに大満足な上に、またしてもウディの手のひらで踊らされてしまったかのような、その物語の支配力にもはや神の領域さえも感じさせる。いくら70歳越えのご老体とはいえ、僕らは“小さな巨人”ウディ・アレンの創造力に追いつくことなど、生涯に渡ってできやしないのである。

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タロットカード殺人事件』は、10月27日より日比谷シャンテシネ、Bunkamuraル・シネマほかにて全国順次公開。

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『ヘアスプレー』

 冒頭、ボルチモアの町並み紹介と共に、主役のおデブちゃんが歌い踊る。その傍らでなんとあのジョン・ウォーターズが一瞬だけカメオ出演していて小ビックリ(しかも“露出狂”役!)。実はこの作品、オリジナルはブロードウェイ・ミュージカルだと思われがちだが、そもそもの起源はジョン・ウオーターズが87年に作ったコメディにあるのだ。自分の映画がまさか20年後にこんな形で帰ってくるなんて、いくら変人ウォーターズといえども予想すらしなかったことだろう。

 いやあ、それにしても踊る、踊る、踊る。時代背景の60年代といえば公民権運動が拡大してきたご時世で、ここでは底抜けに明るくハッピーな雰囲気の中に差別意識への爽やかなアンチテーゼが注ぎ込まれている。そして時代に立ち向かおうとする当時の熱気を可愛らしく体現するのが、主役となるおデブちゃん、トレーシー(ニッキー・ブロンスキー)だ。その体型のコンプレックスをものともせず、「TV番組に出演して、スターになりたい!」という自分の夢を追い続ける。彼女の大らかさがとびきり気持ちよく、彼女が何度も興奮して語る「世の中これからどんどん変わっていくんだから!」というセリフには今の時代からみても胸が熱くなるようなパワーに満ちている。現にこの後、アメリカは轟音を立てながら変わっていく。黒人と白人との距離は近まり、それによって文化の混合が増大し、60年代前後ではその差異が歴然たるものとなった。観客にはそのことがようく分かっているものだから、何があっても笑顔を絶やさないトレーシーがいつしか変革のイコンのように見えてきてしまう。

 おっと忘れてはいけない、トレーシーのこれまたファットなママ役には、あのジョン・トラヴォルタがなんと女装で登場。『サタデーナイト・フィーバー』とはまた別風味のダンス&歌で魅了してくれる。それから怪しい大人のおもちゃ屋さんを経営する優しいパパ役にはクリストファー・ウォーケン。もともとそのキャリアをダンサーとしてスタートさせた彼らしい軽やかなステップを披露してくれる(ただしファンとしてはスパイク・ジョーンズがPVを手がけたファットボーイスリムの“Weapon of Choice”のように彼のダンスをとことん堪能してみたかったが)。

 とにかくこの映画はミュージカル版の旨みをそのままに、すべての差別(身近なものから大きなものまで)に対し「NO!」を突きつけ、でもぜんぜん説教臭いわけでもなく、すべてのメッセージを歌とダンスに昇華させながら、117分、あっという間のパフォーマンスで盛り上げてくれる。

 また、今のアメリカ、そして世界にとって、60年代にも増してこういった融和が必要とされていることはいうまでもなく、そのマジックを巻き起こすのはいつの時代でも政治や経済などではなく紛れもないアート&カルチャーなのだと、この映画の作り手たちが渾身の力を込めてリスペクトをささげている気持ちが充分伝わってくる。冒頭のジョン・ウォーターズも、きっとその意味でのカメオ出演なのだ。彼をよりにもよって“露出狂”として起用するなんて、作り手としてまさに最上級のもてなし方と受け取って間違いあるまい。

 ちなみに、この映画のアダム・シャンクマン監督にインタビューする機会に恵まれました。当然のごとくジョン・ウォーターズがらみの質問をぶつけてみたところ、「ガッデム!なんでまたこの国の人たちは彼のことをそんなに知ってるんだ!?」と驚きと戸惑いの表情を浮かべ、「あなたが表現者としてウォーターズ精神に学んだことは?」との質問には「映画を撮る上では、お金や、キャスト、スタッフとの兼ね合いやらいろいろなしがらみが持ち上がるけれど、最終的に自分のやりたいことを貫けるかどうか、その重要性を彼は教えてくれた」と答えてくれました。

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ヘアスプレー』は、10月20日より丸の内プラゼールほか全国松竹・東急系にて公開。

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ENGLISH JOURNAL

9月6日発売の「ENGLISH JOURNAL」という雑誌にて巻頭記事を書かせてもらっています。オーランド・ブルームについてです。本屋さんにお立ち寄りの際にはぜひ手にとってごらんください。

表紙はこんな感じです。

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『アフター・ウェディング』

冒頭、インドの孤児院にて人道支援に携わる男の姿が映し出される。子供たちに愛情を注ぐ彼の表情は確固たる信念に貫かれ、その精神性を祝福するかのようにシガーロスの楽曲がこの物語の始まりを静かに告げる。

あるいは本作は、歌詞の意味もわからぬこの曲の美しさ、すべての生きとし生けるものへの賛美、尊厳がそのまま映画へと昇華されているようでもあり、つまりこの映画は、冒頭とラストで一度ずつ流れるこの曲の精神性を追体験する巨大な装置のようにも思えてくる。

やがて男は母国デンマークを訪れ、ひとりの経営者と対峙を余儀なくされる。片や慈善活動がすべての男。片や資本主義を追求する地位の男。彼等に共通項が少ないことは誰の目にも明らかだ。しかしまったく別次元に住む彼等には、それぞれに守るべきものが確かに存在する。

タイトルが示す「婚礼のあと」に打ち明けられるひとつの秘密。

絡み合ういくつもの視線。

デンマークを代表する女性監督スサンネ・ビアは、慈善活動家と経営者とを同じ「箱庭」に同居させる。このシチュエーションだけで、その後に巻き起こる衝突は火を見るより明らかだ。いや、そもそも両者を同じ目線で比較するなどできるだろうか。互いに高い理念を掲げる人間をいたずらに配置するなど、これはある意味、作家のエゴとも受け取られかねない所業のようにも感じられる。

もちろん作り手によってはこれを目も背けたくなるような悲劇と成すことだっていくらでも可能だったろう(おなじデンマークのラース・フォン・トリアーだったら人間性の膿を出し切るような作品になったはずだ)。

しかしスサンネ・ビアの作品において、そのような懸念は必要なかったのだと気づかされる。彼女はきっと、人間の持つ力をとてつもなく信じているのだろう。その証しとして、冒頭のシガーロスのイメージは最後まで決して損なわれることはなく、いたずらに人間の悪意を掻き立てて観客のイライラを募らせることもない。この作品は、途方に暮れるほど隔たりあったふたりが、いつしかその人間性を深く掘り起こしていく中で、奇妙な因縁で結ばれていく物語なのだ。

そこに何か偶発的な事件が起こるというわけではない。そこで顔を合わせる人間たちが、交互に影響を与え合いながら自分達の物語を力強く展開させていくだけだ。我々はスクリーンごしに登場人物というよりも“人間そのもの”を見つめているのかもしれない。そこであたかも神が“性善説”を実証すべく課した試練に対し、人間が粛々と答えを提示し続けているかのような聖域を目の当たりにするのである。

そして、これら運命を前にした人間のあまりの小ささ、対立を乗り越えて高みに達したときの偉大さを僕らが素直に受け止めたとき、この映画はふたたびシガーロスの楽曲とともに静かに幕を下ろす。こんなに小さくとも、世界をぐるりと内包するかのような深く、力強い愛情を感じさせるこの物語。こんなにも心揺さぶられたのは久しぶりかもしれない。

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アフター・ウェディング』は、10月下旬よりシネカノン有楽町一丁目にて公開。

劇中で効果的に使われているシガーロスの楽曲は「(  )」というアルバムの1曲目に収録されています。(リンク先で試聴もできます)。また11月7日には「HVARF HEIM」をリリース。セルフリメイク&未発表曲を交えコンセプト別に2枚組となって発表される本作は、myspaceで試聴できます。この新譜にも『アフター・ウェディング』の使用曲が収録。

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