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2007/09/24

『ミス・ポター』

 何かしらストーリーに大きなうねりがあるわけでもなければ、かの有名な「ピーター・ラビット」の作者、ビアトリクス・ポターの実人生が余すことなく収められているというわけでもない。けれどこの映画に触れたなら絶対に忘れられなくなるものがある。それはレニー・ゼルウィガーの表情だった。今にも勢いよく弾け飛びそうなくらいにプクプクした表情を浮かべ、彼女はとびきり幸福そうな含み笑いを絶やさずに創作世界へと向かう。

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 この映画には30過ぎてもお嫁にいかないポターに対する家庭内での空気やら、歴然とした階級社会である英国の結婚事情が垣間見えたりとか、そういう当時の空気をコミカルに伝えながらも、だからといって基本的には誰かを糾弾しようとしたり、感動的なサクセス・ストーリーが描かれるわけでも決してない。

 結局のところ、本作は彼女の表情を伝える映画だったのだと僕は思う。それは幼いころから自作の話を語り聞かせることに親しんできた彼女にとって「楽しんでくれてるかな…?」とドキドキしながら相手の反応を読み取ろうとでもするかのような心の道程であり、相手が満足そうな表情で「うん」とうなづくと同時に彼女の笑顔がパンッと弾けて喜びに変わる瞬間を活写した“幸福の物語”でもある。

 その表情を見つめているだけで、僕らは何かささやかな魔法にでもかけられたみたいに顔がほころんでしまう。果たして今から100年前の彼女の表情をいかにして再現しえたのか。文献などを紐解いたところでその詳細は記されていやしない。これらはもちろん写真や記述などを基に作り手側がイメージを総動員して織り成したものに過ぎない。しかしその表情が他でもないレニー・ゼルウィガー、その人の顔面に灯ったとき、僕らはやっぱりこれがミス・ポターなのだと納得せずにはいられなくなるのである。

 映画は正確無比な伝記小説でもなければ、ドキュメンタリー番組でもない。何より大切なのは、それが映画であることの意義をどう刻むか、ということだ。そして本作でレニーのあの表情を目にしたとき、僕らは何かすべての万物が調和したかのような瞬間を目撃し、心から納得することになる。きっとそうだ、おそらくいまから100年前の時代でも、ミス・ポターはそんな表情をしていたに違いない、と。

 そして彼女の表情に呼応するかのように、もうひとつフィクションが僕らに魔法をかける。それは本屋の店頭に並んだ「ピーター・ラビット」を目にして、もう70歳くらいになるだろうか、無表情の付き人のミス・ウィギン(彼女は架空の人物だ)が身体をのけぞらせながら「あらまあ!!!!」と歓喜してみせる部分だ。

 その姿を見て、またポターがふふふと笑う。ふたりの「ミス」が実は心のどこかで繋がっていたかのような連帯感が思わぬところから湧きあがってくる。このミス・ウィギンについて、レニー・ゼルウィガーは「私のいちばん好きなキャラクター」と明言しているのも頷ける話だ。

 もともとピーター・ラビットをはじめとするおなじみのキャラクターたちが実写中のアニメーションとして歌い踊るはずだったこの映画は、かくも個性的な人間たちの珠玉の物語へと変容した。英語圏の観客にとっては常識とも言うべきミス・ポターの人となりについて、日本の観客に本作だけで彼女を理解せよ、と迫るのは難しいことなのかもしれないが、少なくともその上澄みだけでも味わえる点において、『ミス・ポター』は素敵な幸福感に満ちた作品である。

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