『マイティ・ハート 愛と絆』

 悲惨な事件だ。かつて日本人の青年が巻き込まれたあの事件を思い出す。ほとんど報道されることはなかったが、彼のご家族はいったいどんな心境でこの哀しみの日々に耐え続けたのだろう。あの頃、テロや自己責任といったセンセーショナルな言葉に翻弄されるあまり、僕はそういった部分から意識的に目を遠ざけていたように思う。

 『マイティ・ハート』は、パキスタンでアルカイダと思われる組織に拉致・監禁、そして殺害されたウォールストリート・ジャーナルの特派員ダニエル・パールと、彼の無事を信じて待ち続けた妻マリアンヌの日々を描いた物語だ(世界的に有名な事件なので、ここまで書いてもネタバレには当たらないだろう)。

 本作をより感動的で、悲壮感たっぷりで、あるいはもっとサスペンスフルな味付けで描くことは可能だったはずだ。しかしブラッド・ピット率いる製作会社プランBはそれらの選択肢がはなから眼中になかったかのように“当たる映画”の境地からは最も遠い方法論を選び取った。最優先事項は観客の満足ではなく、原作「マイティ・ハート」を著したマリアンヌ・パールに対していかに誠意を捧げられるかに尽きる、といった様相。数々のハリウッド大作でそれと間逆の映画作りに身を浸してきたブラッド・ピット&アンジェリーナ・ジョリーにとって、そういう気持ちで映画に臨んだことなど初めてだったかもしれない。

 まるで個人と個人の“契り”のように生まれたこのプロジェクトは、監督にマイケル・ウィンターボトムを起用した時点で、その方向性(ドキュメンタリー・タッチ、長回し、即興性)が決定的となった。こうやってエンターテインメントから遠く離れた地点で決してブレずに題材を突き詰めることで、いつしか観客も重い腰を上げ、じっと目線を同調してくれるはず…。『マイティ・ハート 愛と絆』は、作り手がそういった瞬間を堅く信じることによって成立している映画である。

 アンジェリーナ・ジョリーが肌を褐色に染めてまで演じたマリアンヌ・パールは、時折こらえきれずに泣き叫ぶことはあっても、決して絶望に屈することはない。ウィンターボトムは彼女にいかなる困難が降り注ごうとも、音楽を高鳴らせたり緊張感を増幅させたりなどする演出は取らず、いまこの瞬間にも消え行こうとしている命と、彼女の子宮の中ですくすくと育ちゆく命とを並存させることによって、観客がその状況から何かを掴み取る手がかりを与えようとする。

 これは憎しみの映画でもなければ、あからさまな赦しの映画でもない。何度も言うが、どこかで心揺さぶるクライマックスが用意されているわけでもない。ひとりの女性が人生の困難を乗り越え、現在も世界のどこかで力強く生きている。そして彼女の人生は、失った命、生まれ得た命らとともに、いまもなお、力強く現在進行形なのだ。

 観終わったあとの思いは複雑だ。彼女の身に起こったことが観客の胸のうちで冷静に像を結ぶまでにはそれなりの時間がかかるだろう。僕の場合、その混沌の先にまず浮かんだのは原作「マイティ・ハート」の表紙だった。初めて目にした実物の彼女は、口元にキッと力強い笑みを宿していた。それは人生の絶望を経験した人とは到底思えないような神々しさであり、どうすればあんな表情に達することができるんだろう、と不思議を通り越して、衝撃さえ感じたものだった。

 プランBが、マリアンヌと親交のあるジョリーが、そしてウィンターボトムが抱いていた思いも同じではなかったか。そして、本作を媒介に彼女の人生を追体験することで、なぜあの表情に至ったのかがおぼろげながら伝わってきた。

 この映画はつまり、絶望の中にあの表情を探す旅だったのだと、そう思えてならない。

マイティ・ハート 愛と絆』は11月23日よりTOHOシネマズ六本木ヒルズ他にて全国ロードショー

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『once ダブリンの街角で』

アカデミー賞 歌曲賞、獲得!

 何の変哲もない風景の中に、ギターケースを抱えた男と、掃除機をゴロゴロと転がす女性が現れる。たったそれだけで、ダブリンの街並みがまるでSFのように活き活きと躍動しはじめる。思わず客席から笑い声が漏れる。でもこれはSF映画でもなければ、コメディでもない。低予算ながら飛び切りの愛に満ちた、珠玉の音楽映画なのだ。

 舞台はアイルランド、ダブリン。

 ヒゲモジャの男(グレン・ハンサード)は今日もギターを抱え、同じ時間、同じ街角で、孤独にギターをかき鳴らし、熱唱を繰り返す。ギターはボロボロ。穴が空いている。地面に置かれたギターケースには僅かばかりのコイン。時おり立ち止まって聞き入る人はいても、時間が過ぎればみな去っていく。彼はもはや風景の一部に成り果てている。そんな中、若い女性(マルケタ・イルグロヴァ)が彼にふと語りかけることから物語は動き始める。彼女はチェコ出身の移民だった。日銭を稼ぐためにストリートで花を売る日々。かつては故国でピアノを習っていたという。今では楽器屋に立ち寄ってピアノを弾かせてもらうことが楽しみなのだと語る彼女に、男は「じゃあ、聴かせて」と言う。

 それは単なる同情だったかも、あるいは若い女性への下心ですらあったかもしれない。しかし恋とか愛とか、そう一概には呼べないような微妙な関係性がやがてふたりをセッションへと向かわせていく。楽器屋の中央に陣取るふたり。ふたりは互いの出方を探りながら音を重ね始める。さあ、音の魔法の時間だ。これまで「ちょっとストレート過ぎるかな」と思われていた男の楽曲は、そこに彼女の儚げな歌声と繊細なピアノの響きを帯びることで、驚くほどの透明感を獲得していく。瞬時に広がっていく音色の風景。彼らは互いに何かを敏感に感じ取った。その響きを聞いて楽器屋の店主がニヤッと笑う。きっと店主にもこの奇跡の胚芽がつぶさに感じ取れたに違いない。

 この映画はまるでミュージカルと見まごうほどに、ギターとピアノ、そして彼らの歌声というシンプルな構成の楽曲が散りばめられている。CGもなければ豪華なセットがあるわけでもない。ダブリンでほぼゲリラ的に撮影された手作り感に満ちた本当にささやかな映画だ。しかしその“ささやかさ”の中で擦れ違うふたりの切ない思いが痛いほど伝わってくる。また、人の想いは歌詞になると大胆に発露するもの。それらが楽曲へと昇華される時、美しいハーモニーとともに観客には何か突き抜けた感情がもたらされる。バスの中で、部屋で、歩道で、彼らは歌う。側にいた老婆がビックリして振り返る。「ソーリー!」男がさわやかな笑顔で謝罪する。彼らは友達や恋人といった境界線を飛び越えて、歌っている間だけは何よりも深く結びついているような気がする。果たしてその想いがどんな形で帰結していくのか。この映画の鍵となるところだ。

 そして、この映画の後半、彼らは仲間を集めてたった一度きりのデモCDを作成する。ふたりの想いはドラムとベースとを加え、よりビートを増す。疾走感が増す。ボーカルのシャウトにも熱がこもる。その光景は、かぼそい河川が大海に注ぎ込もうとするかのように圧倒的なバイブレーションとなって胸に迫る。スタジオの外ではやっつけ仕事のエンジニアが徐々に口元をほころばせはじめる。何をソワソワしてるのかって?決まってる。目の前で巻き起ころうとする奇跡に立ち会う準備をしてるのだ。

 オープニングからラストまで、まるで一枚のアルバムをじっくりと聴きこむかのような映像体験。そして、映画と音楽とが本来持ち合わせているささやかな魔法の力が、まだ消え去っていないことを本作は教えてくれる。アイルランドではたった2館から140館へ拡大した。一館あたりの観客動員では『パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールズ・エンド』を超えた。 スピルバーグが絶賛した…まあ、そんなことはどうでもいい。要はあなたがこの映画を観てどう感じるか、ということだ。

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『ディスタービア』

原題のカタカナ表記がそのまま邦題に納まってしまう潮流に目くじらを立てる人も多いが、辞書に載ってない英単語の意味をダイレクトに教えてくれるという意味において、この「Disturbia」の邦題は『ディスタービア』でしかありえなかった。「覗き」という意味らしい。

教師を殴り裁判沙汰を起こした青年が、罰則として30日間の自宅謹慎を食らう。といってもその実際の内容といったら日本人には計り知れないもので、なんと自宅から30メートル離れるとアラームが作動しすぐにパトカーが駆けつける発信機を足に装着させられるのだ。担当官からは「自宅謹慎は精神を破綻させるから気をつけて」との忠告。もちろん自宅内でできることといえば限られている。テレビや雑誌、ゲームもすぐに飽き、フラストレーションは溜まる一方。そんな身動き取れぬ状況下で不健全な青少年が取る行動はだいたい決まってるようなもので…ヒッチコックの『裏窓』を現代に翻案したかのような青春ミステリーがここに幕を開ける。

自宅から双眼鏡で覗き見る隣家では、セクシーな同級生が引っ越して水着でウロウロ悩ましい姿を披露し、また反対側の隣家ではなにやら傷のついたマスタングを車庫にしまう中年男性の姿。時を同じくしてテレビでは、とある女性がマスタングに乗り込んだのを最後に消息を絶ったとのニュースが繰り返し伝えられている。「おかしい!何か事件の匂いがする!」。自宅から一歩も出れない主人公は、セクシー同級生&親友とチームを組み、携帯、デジカメを駆使しながら怪しい中年男の尻尾を掴もうと追跡を開始するのだが…。男は本当に怪しいのか?はたまた、かの担当官が口にしたように、自宅謹慎が彼の精神を破綻させてるだけなのか?

たとえば『パーフェクト・ストレンジャー』がそのタイトルからして犯人の名を告げたようなものであることからも明らかなように、そもそも世にある物語のストーリーラインなんてもうとっくに飽和状態を迎えている。とすれば、少なくともハリウッドのように新製品を絶え間なく量産し続けなければならない産業では、既存のストーリーラインにアレンジを加えて、新たなリミックスを行う必要性が生まれてくる。その方法論の一翼を担っているのが「ハイテク化」というファクターだろう。ヒッチコックの『裏窓』に「ハイテク化」の波を注いだならばこういった画期的なリミックスが出来上がりました!という作例がこの映画である。

なので、最新鋭の発信機や覗き道具だとかミステリーだとか、そういったフェイクは数多く存在すれど、基本的なストーリーラインはクラシック回帰したかのようにシンプル。

このシンプルさにひねりを加えた、というアイディアだけでも充分面白く、もしかするとこの映画は「リミックスの好例」として歴史にその名を残したかもしれない。しかしこの監督は、おそらく散々な悩みぬいた末に、この映画を“フェザー級の軽さ”とガンガン鳴り響く“音楽”とで彩って、いかにもティーン層に向け目をギラギラ輝かせたマーケティング至上主義を発揮。結果的に「面白いミステリー」というよりは「ティーン・ムービーにしては面白くできたミステリー」というアプローチで臨んだ方がむしろハズレは少ないシロモノへとシフトチェンジしてしまったかもしれない。

ただ俳優に関していえば話は別だ。主演は『トランスフォーマー』での鮮烈なデビューも記憶に新しいシャイア・ラブーフ。『トランスフォーマー』と『ディスタービア』は同じドリームワークス作品で、撮影場所も近かったらしく、どこか2作が繋がっていても不思議はない映像のオンパレード。ヒロイン役でブロンドのセクシー美女が登場するところとかも、2作ともまるっきりおなじじゃん!と突っ込みたくもなるが、ラブーフの危なっかしい眼光とイノセントかつダークな心理表現の巧みさにはティーンの粋に収まりきらないくらい凄みを感じた。ちなみに彼の母親役には『マトリックス』のキャリー・アン=モス。出産後ようやく女優として出演作を増してきたとはいえ、『マトリックス』で跳んだり蹴ったりしてたのがずいぶん昔の日のことのよう…そんなことを感じさせる母親ぶりだった。

ディスタービア』 は11月、スバル座ほか全国ロードショー

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ヒッチコックの『裏窓』から『ディスタービア』へ。映画のプロットは時代を超えて、再生産を繰り返していくもの。それはそれで、正しい進化のカタチなのかもしれません。

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『いのちの食べかた』

『オフサイド・ガールズ』を配給したエスパース・サロウという会社がまたまた画期的な作品を公開する。今度はドイツのドキュメンタリー。その名も『いのちの食べかた』。テーマとなるのは「わたしたちの普段口にする食物っていったいどこから来るの?」といった素朴な疑問だ。

選別されていくヒヨコ、プール一杯に浮かんだリンゴ、収穫を待つトマト、地下深くにある岩塩採掘場、皮を剥がれ内臓を吸い取られる牛、豚、鶏、魚。

この映画が僕の心を掴んだ点は数多くあれど、その中でも3点を挙げてみる。

●そこには言葉が存在しない

ここで映し出されるのは、食物に関するおびただしい数の「エピソード1」である。時には場内がシンと静まり返るようなビザールな(しかしそれが現実なのだ)映像もあり、いや、それ以上に思わず「これ、なに?」と凝視してしまう映像が多いことに驚かされる。そこで唐突に映し出される映像がいったい何の作業現場であるのか、常人たる僕らには皆目検討もつかないのだ。もちろん僕らは、頭の中に「?」を飽和させながら、ドキュメンタリーとして当然あるべき“説明(ナレーション)”が映像にかぶさってくるのを待ち構えることだろう。しかしそのときが訪れることはない。というよりもまず、本作で言葉が用いられるのはクレジット部分だけ。僕らは、ここに映し出される作業過程をただ淡々と目撃し続けなければならない。待っていても誰も助けてはくれない。そこでいったいどんな作業が行われているのか、自分の知恵を総動員して想像力を働かせるのみなのだ。

「言葉(説明)を廃する」というこの試みは、面白いことに、あらゆる映像を均質化することに大きな成功を納めている。つまり、僕らはたとえば轟音を響かせ血が飛び散る生々しい精肉シーンであっても、はたまたのんびりとしたトマトの収穫映像であっても、決して言葉に煽られることなく、まったく同じ温度感で、同じ驚きでもってそれらに間向かうことができる。そこには「植物だから」とか、「動物だから」とかいった差別化も存在しない。すべてが人間の口に運ばれる「いのち」として等しく写し取られている。そうした意味で、この手法は頭の中から「センセーショナル」という概念を巧みに奪い取り、あとに残るのは僕らと食物との粛々とした対面なのである。

●生命VS効率主義が生み出すアート

そうした映像を淡々と見つめている中で、ある共通点に気がつく。それが動物であっても植物であっても、あらゆるところにベルトコンベアの姿が見られ、またあらゆるところに“効率化”を象徴する流れ作業が顔を出す。右から左へ。後ろから前へ。河の流れのごとくに「いのち」が運ばれていく。まさに、生命VS効率主義。そうした“せめぎあい”が生み出す映像はもはやアートといっても過言ではないほど、美しくもあり、生々しくもある(ある人はこれらの映像にユダヤ人収容所を想起したりもするかもしれないが、この作品自体にはそのような意図は決してなく、“それそのものを提示する”ことに徹している)。

そうした中で、作業場の人間たちが時折「あっ」とヒヨコを手からこぼしたり、気まずそうな表情をしながらサンドイッチを頬張ってみたりする様子が映し出され、観客の胸を無性にかきむしる瞬間がある。規則的なアートをかき乱すこの人間の予定不調和ぶりが、結果的にそれも含めて、より強靭なアートを織り成しているというか、そうした集合体が他でもない、この『いのちの食べ方』という映像作品であるというべきか。

●インターネットでは知りえない知識

そして最後にいちばん衝撃的だったことは、こんなにもネットが普及し、情報と知識が飛び交う世の中で、僕らは結局、重要なことなんて何一つ知らなかったんだな、ということだ。ネットで検索すれば何だって答えが見つかる現代社会で、自分たちがいつも口にする食物がいったいどうやって運ばれてくるかなんて、こんな身近すぎる疑問をどうしていままで放っておいたのか。それは「興味がなかった」から?それとも「あえて知らずにいたかった」から?もちろんこの映像だけですべてを知ったような気分に浸ることは危険ではあるが、それでも「知る」ことで僕らの中で始まるものがあるとするならば、やはりこの映像作品の与えてくれる知識は「体験」にも近い衝撃と可能性を秘めている。少なくともウィキペディアを検索しただけではこの映像体験は得られない。

何はともあれ、この映画を体験してからというもの、あらゆる食物に感謝を忘れなくなった(もうひとつ言及すると、これらの作業に従事する人々への感謝も忘れまい)。今だからこそ気がつく。幼い頃から染み付いてきたあの言葉がなんと壮大な意味を含有していたことか。だからいつも心を込めて口にしようと思う。大切な言葉。

「いただきます」



いのちの食べかた』は、11月、渋谷シアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショー

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食物についてもっと「言葉」で知りたいと思われた人には、ドキュメンタリー作家・森達也さんの書かれたこの本がお勧めです。

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『ボーン・アルティメイタム』

アカデミー賞 音響編集賞、録音賞、編集賞、獲得!

 前作に引き続き、ポール・グリーングラスの演出が冴え渡る。2作目のラストシーン(ボーンがジョアン・アレン演じるパメラ・ランディに電話をかけるシーン)が本作のクライマックス導入部へと繋がっていく時間軸にも「そうきたか!」と新鮮な驚きがあった。

 いくつにも国を横断し、どこにでもあるような雑踏においてその地面に染み付いた匂いまでもが伝わってきそうな臨場感。そこで繰り広げられるプロVSプロの胃にキリキリくるようなチェイス。しかも息が長い。短距離走じゃなくて、まるでマラソンのように手を代え、品を代え、次々に新たな変化球を投入しながら一本の動線を作り上げていく。これはもう“執念”というしかない。まるで70年代にでも放り込まれたかのような骨太なアクションに悶絶しそうになってしまう。

 とりわけ序盤のロンドン、ウオータールー(ワーテルロー)駅を舞台とする新聞記者、ジェイソン・ボーン、CIA、スナイパー、そしておびただしい通行人が入り乱れての追跡劇はシリーズ全体のハイライトというべき驚愕のクオリティを成しており、観ているだけで息が乱れる。

 これほどまでにめまぐるしい作りの中で、それぞれのキャラクターにもしっかり命を吹き込まれているのも驚きだ。今回初登場となるデヴィッド・ストラザーン(『グッドナイト&グッドラック』)の魅せる冷静沈着な振る舞いにも(悪役ながら)グッとくる。CIAの上司たちの動きに不信感を募らせ、独自にボーンと接触を図ろうとするジョアン・アレンの凛々しい存在感も前作同様にこの物語を貫く数少ない希望の線をつないでいく。もちろん画面はどんどん展開していく。どのキャラクターもアップで分かりやすくその人物像を物語ることは不可能だ。彼らは与えられたほんのわずかな動作によって、そこに付随する感情の流れも観客に伝えなければならない。

 そしてシリーズ通して何かと関わりあってくる若き女性支局員(ジュリア・スタイルズ)が、やはりここでも登場する。彼女のふと見せる表情が“ボーンの大切な誰か”を彷彿とさせたりもするくだりは、この映画が示す唯一のしめやかなシークエンスであり、これから突入するニューヨークにおけるクライマックス直前の、まさに“嵐の前の静けさ”的な緩急を提示して無性に心に沁みてくる。

 思い返せば、そもそもこのプロジェクトの始動時はダグ・リーマン監督によって軽妙なアクションを志向して作られたはずだった。それが2作目、3作目と移行することで原作(ロバート・ラドラム著)のストイックな作風へと極限までにじり寄り、いつしか2000年代を代表する新感覚アクション大作にまで昇り詰めてしまった事実がなんとも快い。

 やはりすべての要はポール・グリーングラスだ。

 彼の生み出す映像においては主演のマット・デイモンですら部品と化す。グリーングラスの息づかい、リズム、そしてとことんまで作りこまれた映像の質感、そしてこれまでのハリウッド映画の常識には存在しなかったカメラの動き。これらを内部と外部の視点とで巧みに織り成しながら、観客が知るべき“情報”としての映像が、そこで巻き起こる状況の総体をリアルに物語っていく。だから僕らはこの映画に接するとき、「怖い!」とか「危ない!」とか「ドキドキした!」とかそういう単純な感情経路を大きく飛び越え、自らが突き落とされた状況の嵐の中で目前に繰り広げられる出来事をただただ目撃しつづける。そのグリーングラスの方法論は『ユナイテッド93』を経由してますますブラッシュアップされている。これはアクションというジャンルにおけるひとつの“発明”といっても過言ではない。

 『ボーン・アルティメイタム』を見せられたなら、もうそんじょそこらのアクション映画で満足できるはずがない。ハリウッドにおけるアクションのハードルは大きく上げられた。いずれ映画史は“『ボーン』以降”という決定的なターニングポイントをその年表に刻むことだろう。ボーンシリーズと比べれば、『ミッション・インポッシブル』シリーズなんて足元にも及ばないし、そこそこ面白くできていた『ダイハード4』でさえ茶番のように思えてくる。これと双璧をなせるのは今のところマイケル・マンくらいなんじゃないだろうか。

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ボーン・アルティメイタム』は11月10日より日劇1ほか全国ロードショー。

『ボーン・アルティメイタム』のDVDは3月7日に発売。未公開シーン、メイキング、監督によるコメンタリーなど、特典も満載。

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『愛の予感』

Rebirth01_2 スイスで開催された第60回ロカルノ国際映画祭のコンペ部門にて小林政広監督作品『愛の予感』(英題:the REBIRTH)が、見事金豹賞(グランプリ)に輝きました。本作は他にも、CICAE(国際芸術映画評論連盟)賞、ヤング審査員賞、そして本年度より設立されたダニエル・シュミット賞を併せて受賞。4冠です。

8月1日~11日まで開催された映画祭を終え、監督・主演の小林政広さんと、主演の渡辺真起子さんが凱旋記者会見を行いました。その前に試写も拝見できるということで、僕も参加させてもらってきました。

前作の『バッシング』に引き続き、『愛の予感』は観客に様々な意味で覚悟を強いるハードな路線。観客は冒頭から唐突なまでに“状況”へと突き落とされる。

生々しくはじまったインタビュー映像で、ひとりずつ映しだされる男女。なにやら「事件」だとか「被害者」だとか、そのような言葉を口にしている。それらを総合することで、おぼろげながら事態が飲み込めてくる。どうやら事件が起こったようだ。それも中学生が中学生を殺すという凄惨な事件が。ポツリポツリと言葉を絞り出すふたりの男女は、男が被害者の父親で、対する女は加害者の母親のようだ。女は男に会って謝罪したいとこれまでにも何度となく手紙を書き送ってきた。しかし男はそれを読まずに捨ててきた。彼は女に会うつもりはないと言う。そしてどこか誰も知らないところでひっそり暮らしたいと言う。また女も故郷の北海道へ帰りたいと漏らす。

5分ほどのインタビュー映像が続いたあと、物語は動き始める。まったく会うはずのなかったふたりは、偶然にも北海道の小さな民宿で遭遇している。男は肉体労働者として、女は民宿の賄いとして。ふたりが互いの存在に気付いていることは、その行動から何となく伝わってくるが、その確たる証拠はなかなか見つからない。なぜなら、ここからは言葉が完全に消滅するからだ。セリフがまったく存在しないまま、それはあたかもサイレント映画を見ているような感覚のもとで、生気を削がれた日常が淡々と描かれていく。何度となく同じ動作が繰り返される。気が遠くなるほど、何度も、何度も。そしてこれが永遠に続くのかと思われたとき、ほんの僅かな変化が、ふたりの中で起こりはじめる。それは“赦し”や“希望”というものでは到底なく、それにまだ満たない、ほんの小さな感情の胚芽・・・。

はたしてこの斬新な試みが日本国内において正当に評価されるかどうかはわからない。しかし本作が劇場公開を前にしてロカルノへ飛び、そこで最高の栄誉を勝ち取ったことは(つまり日本にとってみれば逆輸入的な注目を集めるということは)、まさにこの映画の運命を変える事件と言っても過言ではない。もしかしたら映画史の片隅に埃をかぶって埋もれる存在だったかもしれないほんとうに小さな小さな本作が(この映画とまともに対峙していたなら、僕だって撃沈していたと思う)、いまこうしてロカルノ経由で世界中で注目されようとしているのは、やはりそこに、何らかの“世界に訴えかけるビジョン”が刻まれていたからだろう。しかもそれは国際舞台の場においては当たり前の“翻訳”というフィルターを軽やかにとっぱらってしまったものだったのだ。男の絶望と、女の絶望。共に視線さえ合わせられない現状にやがてほんの僅かな光が注がれようとするこの流れは、結果的にそれが世界のどこにでも(いかなる悲惨な衝突の現場であっても)生じうる光景なのだと、審査員や観客に感じさせたのかもしれない。

セリフも音楽もない。変化の兆しは観客が自ら感じ取るしか術がない。そして最後は、淡々と繰り返される“役者の動き(動線)”だけが映画の道しるべとなる。そもそも映画とは、どんなときでも「用意、アクション!」の掛け声と共にカメラを回し、シーンを重ねていくもの。僕らはこの、いつも映画史と共にあった“アクション=動線”こそが感情を伝える最小限の方法であることを改めて知る。感情を失っていたかに見えたふたりの男女。しかし逆説的に言って、そこでフィルムが回っている限り、アクションが、動線が刻まれ続ける限り、映画は感情を決して失わないのであり、僕にとっては、この映画が、よく言われる子供の犯罪、時代の闇といったものを浮き彫りにするというよりも、むしろこうした映画の原点に立ち返って、“人間そのもの”に火を灯そうとしていることに、静かに心が震えた。

そういうことに気付かせてくれた意味でも、ロカルノ映画祭の審査結果には敬意を表したい。そしてエンディングにはフォークシンガーとしての肩書きも持つ小林政広監督の弾き語りが流れるのだが、これがまた、内面を歌い過ぎる。これまでのストイックな描写を一気に破壊するかのようなこの楽曲に違和感を覚える人も多いだろう。実は僕も「あれれ」と思ってしまった。しかしこれは『バッシング』に続く、小林作品の“認定印”のようなものだ。歌が無ければもっと素晴らしい映画になっていたと人は言うかもしれないが、きっと歌がなければ、そもそもこの映画は生まれなかったのではないか、とも思うのだ。

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愛の予感』は、11月24日よりポレポレ東中野ほか全国順次公開。

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