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2008/01/26

『君のためなら千回でも』

 原題は“The Kite Runner”。アフガニスタン生まれの作者の半生が織り込まれた原作小説は全米でベストセラーになり、そうなると製作会社も黙っていないわけで、こうやって映画化の道を辿ることは運命付けられたものだったのだろう。しかしながら、原作者も映画制作者も、ここ日本でこんな素晴らしい邦題がつけられるとは、まさに嬉しい誤算だったのではないか。

 舞台は2000年のアメリカにはじまり、そこから1970年代のアフガニスタンへ回想の扉を押し開いていく。

 目の前にアフガニスタンの風景が広がる。ソ連が侵攻する前の、そしてタリバンが政権掌握する前の、平和なアフガンがここにある。その上空には子供たちが一斉にあげた凧(カイト)の群れ。凧がある程度の高さまで到達すると、次にやることはただひとつ。上手い具合に旋回させて他の凧に勝負を挑むのだ。絡み合う糸と糸。勝敗は一瞬にして決まる。激しい空中戦を制した凧は威風堂々と空に舞い、負けた凧はヒラヒラと花びらのように落ちていき、そのまま勝者の戦利品となる。勝者は12歳のアミールだ。彼の親友であり使用人の息子でもあるハッサンは、力いっぱい彼を祝福し、落下中の戦利品を追ってまっさきに走り出す。「頼んだぞ!」と叫ぶアミール。ハッサンも振り返って大声で叫ぶ。

「君のためなら千回でも!」

 邦題となったこのハッサンの台詞が、何度でも観客の心にこだまする。劇中、アフガンの映画館で吹き替えのアメリカ映画に熱狂したアミールとハッサンが、興奮のあまりその印象的な台詞を何度も何度も復唱してみせるシーンがあるが、そんな彼らと同様に、僕らはこの邦題を思い出すたびに、何度でも何度でも、胸を熱くたぎらせることになるだろう。

 この台詞が語られた直後、事態は急変する。民族の違いを原因にハッサンは年長者の集団に暴行を受けてしまう。現場を目撃したアミールはその場でおびえて立ち尽くし、彼を助けることができない。そればかりか自分の不甲斐なさをよりにもよって犠牲者のハッサンにぶつけ、使用人一家を自宅から追い出してしまう。少年の心に刻まれた、取り返しのつかない過ち。後悔、懺悔。

 やがてアフガニスタンに暗雲が立ち込める。ソ連が侵攻し、街が破壊される。タリバンが恐怖政治を繰り広げる。アミールは父親(演じているのは、アッバス・キアロスタミの傑作『桜桃の味』で主役を務めた、あのホマユーン・エルシャディなのだ!)とともにアメリカへ向けて命がけの亡命を果たす。それから20年…アメリカで作家になったアミールの元に一本の電話が舞い込んでくる。

「まだお前はやり直せる。アフガンへ帰って来い」

 それはかつて幼かった自分の文才を認めてくれた恩人からの電話だった。止まっていた彼の時間がもう一度動き出す。いまこそ危険なアフガンに戻り、あのときのハッサンに告げられなかった言葉を自分の口から伝えたい。その台詞は、もう聞く前から観客にも分かっている。

 『チョコレート』、『ネバーランド』、『ステイ』、『主人公は僕だった』・・・。他者を寄せ付けない風変わりな作品を紡ぎ続けるマーク・フォースター監督を未来の巨匠として見る向きも多い。僕はこれまで彼の作風を「フィクションを俯瞰する=メタフィクション」として捉えていた。しかしこの要素だけだと、長編一作目の『チョコレート』がどうしても解き明かせない。自殺で息子を失った死刑執行人と、幼い息子を事故で失った女性とが出会い、絶望の中にほんのささやかな花が咲いたかのように痛切な愛が交わされるこの作品。どこをどう考えたってメタフィクション映画ではなかった。では、『チョコレート』とあとの3作品を繋ぐキーワードは一体何なのか…。

 悩みに悩んでいたその時期に、『君のためなら千回でも』公開決定の知らせが届いた。そこには「マーク・フォースター監督は幼い頃、兄を自殺で失っており、これまでの作品には常に“死”の要素が色濃く描かれてきました」との言葉。はっとさせられた。すべてを繋ぐ鍵は“死”にあったのか。“死”を織り交ぜながら、ヒューマンドラマやミステリーからコメディに至るまで縦横無尽に創作を繰り広げるマーク・フォースターの強靭さというか、人間としての深さにノックアウトされた。彼の作品の主人公たちは“死”の内側でウジウジと傷心を蒸し返すようなことはせず、むしろどうにかして“死”の外側へと飛び出そうと果敢に挑戦を続けている。この「飛び出す」というイメージと「物語ること」の臨界点において、フォースター監督はいつも僕らを熱狂させるフィクション・マジックを生み出していたのだ。

 そうして最新作『君のためなら千回でも』に想いを馳せるとき、そこにはこれまで以上に“死”というものの重さ、切実さが圧し掛かると同時に、アフガニスタンの上空に舞い上がっていく無数の凧のように、そこから軽やかに飛び出そうとする力強い意志が感じ取れる。そして本作を「メタ・フィクション」としてこの見つめるとき、マーク・フォースターがこれまでに描いてきた様々なジャンルの、様々な登場人物たちの“死を乗り越えようとする姿”が、主人公アミールに切実なほど重なっていく。

 この映画のクライマックスのあまりにアメリカナイズされた展開に違和感を覚える方も多いだろう。しかしマーク・フォースターがそれを意識的に用いていることも感じてほしい。決死の覚悟でアフガニスタンに乗り込んでいくアミールの姿には、かつて失った自分の“物語”を必死で取り戻そうとする主人公の崇高な意志が読み取れる。その過程で彼は、かつてアフガンの映画館で観たアメリカ映画さながらのアクションを繰り広げるかもしれない。あるいは滂沱の涙を流すような感動シーンを演じるかもしれない。もう失いたくはない何かを取り戻すためならば自分の命を投げ出しても惜しくはないだろう。彼は20年に渡って自ら封印していた人生を、再び物凄い速度で回転させ始め、そこでボロボロに傷つきやっとの思いで到達した景色に包まれながら、あのときのアメリカ映画のキメ台詞ではなく、いままで辿ってきた自分の物語(=人生)の珠玉の台詞を、満面の笑みと共に口にするのである。「君のためなら千回でも」と。

 とはいえ、映画監督としてのフォースターの冒険はこれからも続いていく。彼は現実世界で失ったものを創作の中で取り戻すべく、これからもとめどなく、映画の主人公たちと共に旅を続けていくことだろう。

 そして奇遇なことに、これを書いているさなか、マーク・フォースターの次回作が発表された。「007」シリーズ最新作“QUANTOM OF SOLACE”がそれだ。新ジェームズ・ボンドにダニエル・クレイグを抜擢して大ヒットを飛ばした新機軸を踏襲するカタチで、今回もパナマ、チリ、バハマ、イタリア、オーストリア、ロンドンを股にかけて、陰謀とアクションとロマンスとが繰る広げられる。イアン・フレミング作としては異色とも言われる原作どおり、ボンドの内面に更なる深いダイブを試みる作品となりそうだ。

 悪役には『ミュンヘン』『潜水服は蝶の夢を見る』で世界中にファンを急増させるフランス人俳優、マチュー・アマルリック。ボンドガールにはウクライナ出身のオルガ・キュレリンコ、英国出身のジェマ・アータートン。もちろんジュディ・デンチも再登板する。これらの豪華プロジェクト、豪華キャストを得る中で、果たしていかなる“マーク・フォースター”ワールドが繰り広げられるのか、心から期待したい。

君のためなら千回でも』は2月9日より、恵比寿ガーデンシネマ、シネスイッチ銀座ほか全国ロードショー

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