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2008/02/09

『潜水服は蝶の夢を見る』

 山田宏一氏の「トリュフォー、ある映画的人生」(平凡社刊)に、“アイリス・アウト”について触れた部分がある。山田氏はかつて自身の患った脳の病気について、あくまで医師から聞いた話として「だんだん視野が狭くなっていき、それが小さな点ほどの大きさになり、遂には消滅してしまう」と語っている。彼は思いを馳せる。それはちょうど映画のシークエンスの締めくくりの際に用いられる“アイリス・アウト”という手法によく似ている。おそらくは、おなじ脳の病気でこの世を去ったトリュフォーも、この“アイリス・アウト”によって人生のラストシーンを閉じたのではなかったかと。

 『潜水服は蝶の夢を見る』は、その冒頭の長い時間、主人公の視点(詳しくは左目)のみで映像が展開する。ふと気が付くとそこは病院。あわただしく動きまわる医師と看護士たち。どうやら自分の身に何かが起こったらしい。身体が動かない。意識が薄れる。まぶたが閉じる。そして時間が飛ぶ。再びまぶたが開く。ピントが合わない。物がはっきりと見えない。誰かが自分の名を呼ぶ。だが身体はまだ動かない。

 ゆっくりと記憶が呼び起こされていく。雑誌ELLEの編集長、ジャン=ドミニク・ボビーは脳梗塞に倒れ身体の自由を失ってしまった。意識ははっきりしていながらも、唯一動かせるのは“左目”のみ。彼の意識と世界を繋ぐ窓口は突如としてたったそれだけに限定されてしまったのだ…。

 やがてジャン=ドミニク・ボビーのもとに言語療法士のアンリエットが現れる。彼女はジャンに“まばたき”で意志を伝える方法を教えてくれる。彼にとってそれが言語となり、ジェスチャーとなる。ようやく取得したコミュニケーション・ツールを使い、彼は渾身のまばたきで「死にたい」とだけ伝える。

 スクリーンには否応なしに重い空気が立ち込める。

 このとき僕は山田氏の語ったトリュフォーのことを思い出さずにはいられなかった。というのも、こんな絶望的な状況においてさえ、彼の左目があたかも“アイリス・イン”と“アイリス・アウト”を繰り返しているように思えたのだ。トリュフォーの最期のようにアイリス・アウトしたままだとそれは「物語(人生)の終幕」を意味する。だがここでは、たとえ身体は動かなくとも、それは閉じてはまた開かれている。つまり“物語(人生)”は閉じたままではなく、いま確実に“展開している”のである。

 思いがけなくも山田氏の言葉と主人公の姿を掛け合わせたことで、人間の“眼”もしくは“まばたき”が映画の基本原理に驚くほど肉薄していることにあらためて気づかされた次第だ。

 静かな胎動はやがて映画全体を包み込んでいく。かつて左目で「死にたい」と訴えていたジャン=ドミニクは、いつしかその“まばたき”でもって前々から構想中だった自伝の執筆に取り掛かる。彼の内面で繰り返されていた“展開”は、いよいよ人々の眼に見える形で外の世界へと発露していく。午前中は意識内での推敲に使用し、午後の時間で一気に執筆活動へと突入する彼。まばたきは次々と文字をつかまえ、意味をつかまえ、文章として彼の言葉を刻んでいく。

 徐々に書き留められ、形を帯びてくる文言たち。その映像に載せて活字化されたジャン=ドミニクの言葉がモノローグとなって零れ落ちてくる。

 それはよどみなく流れる美しいせせらぎのような響きだった。なんとウィットに富んだ語り口。なんと豊かな感性。なんと軽やかな文体。まるで潜水服のように重く、自由の利かない身体の内側で、彼の創造力はまるで蝶のように大空を羽ばたいているのだ。そして途方もなく繰り返されたまばたきの回数はいつしか20万回にまで達し、念願の自伝はいままさにこの映画の原作本「潜水服は蝶の夢を見る」として産み落とされるようとしている。

 この映画はジャン=ドミニクが著した自伝を通して、逆説的に人間の創作意欲がこんなにも不屈で、繊細で、強靭なものであったことをまざまざと教えてくれる。また彼の創作意欲に触発されたかのように、ジュリアン・シュナーベル監督は驚異の映像力(撮影監督を務めたのはスピルバーグ作品でもおなじみ、ヤヌス・カミンスキーだ)でもってこの“静”の物語を渾身の“動”へと変貌させていく。僕は思う。シュナベールはきっと、この物語を“アイリス=映画の物語”としても深く認識していたに違いないと。そして現実的な“アイリス・イン”“アイリス・アウト”の聖域として、俳優マチュー・アマルリックの左眼は身体的にとても重要な使命を帯びている。すべてはその眼から始まり、そしてその眼で幕を閉じる。アマルリックの左目が彼自身をこれまで以上に世界的な注目の的として包み込んだことは言うまでもない。

 現在、この映画に触れたおびただしい映画人たちが軒並み絶賛コメントを寄せているが、同じフランスの国籍を持つこの映画を天国のトリュフォーが何と評するのか、不可能とはわかっていなからも、その言に触れてみたいと欲せずにはいられない。僕にとっていつか聞こえてくるかもしれないその声にずっと耳を済ませることこそ、この映画に対する最大級の敬意の表しかたのような気がしてならないのだ。

潜水服は蝶の夢を見る』は、2/9(土)シネマライズ、新宿バルト9、シネカノン有楽町2丁目ほか全国ロードショー

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