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2008/03/28

『パラノイドパーク』

 スクリーンに大写しになる少年の表情、突如鳴り響くディズニーにも似たおもちゃ箱的な音楽、滑走するスケートボード、表紙に“パラノイド・パーク”と記された一冊のノート。

 ガス・ヴァン・サントという名を耳にして『グッドウィル・ハンティング』や『ドラッグストア・カウボーイ』のような作品を思い出すことは少なくなってきた。代わりに僕らの記憶によみがえるのは『ジェリー』『エレファント』『ラストデイズ』といった、およそエンターテンメントの主流からは一線を画した、でもだからこそ一部のファンから熱狂的な支持を集めるアーティスティックな作品群ということになるだろう。

 そこにはストーリーラインを背景へと押しやり、登場人物の歩んでいく先行きの知れない道程を淡々と見つめ続けねばならない、観客にとってはまるで修行のような時間が刻まれている。被写体となった若者たちが次にどんな行動をとるかなんて露ほども分からない。彼らと僕ら(観客)の間に共感など起こり得ないと断言できるほど、カメラと被写体との間には同調することを許さない隔たりがあるように思う。そしてその距離感こそが、独特の透明感となって眩いばかりの無機質な空間を作りあげていたのではないか。

 しかしカンヌ映画祭で60周年記念特別賞を受賞した『パラノイド・パーク』ではその関係性が大きく変わった。オープニングでポートランドにかかる橋の一日がクイックモーションで映し出された直後、本作は16歳の主人公アレックスの手に委ねられることになる。彼がノートの表紙に記した“パラノイドパーク”の文字。どうやらこれから始まる本作は、このノートを映像化したもの、ということらしい。つまりアレックスの独白録というわけか。

 ボイスオーバーでアレックスの胸のうち(ノートに記された言葉)が聞こえてくる。数日前の自分の姿をおぼろげに述懐していく少年。そこに映像がかぶさっていく。ハンディカムが彼の姿を追い、そして揺らぐ。カメラの流れ、動き、揺らぎ、そのすべてがアレックスの心理とシンクロしているような奇妙な映像体験が去来する。つまり、いま目の前でうごめくアレックスを、ほかでもないアレックス自身がじっと見つめ続けているような、一言でいうならば“幽体離脱的な”映像が結実しているのである。

 映画に対して“めくるめくストーリー”を求める人にとって、この映像表現は「どーでもいい」と映るものかもしれない。でも一方「カメラが映し出すもの」について常に真摯な熟考を重ねている人にとってはヴァン・サントの試みがとても野心的なものとして輝いて見えるだろう。またそこには『サイコ』以来のコラボレーションとなる撮影監督クリストファー・ドイルの功績を認めざるをえない。

 “パラノイドパーク”は単なるノートのタイトルというわけではない。アレックスが仲間とともに訪れるとある場所の名前でもある。そこは地元に住む大勢のスケーターたちが集まる聖地のような練習場だ。アレックスは鍋型リンクの淵からボーダーたちの様子を眺めやる。滑走するスケートボード。後ろからカメラがそれについて追いかけていく。スローモーションで滑走してはジャンプするボーダーたち。その振り子運動のような動きにカメラはユラユラと食らいついていく。しかしスケートボードの動きは速い。やがてカメラは息切れし、立ち止まり、途方に暮れたように四方に視線を投げかける(これは淵で眺めるアレックスの視線とも取れるし、あるいは実際に滑走したアレックスが途中で転倒し初心者ぶりを露にした姿とも想像することができる)。

 問題はこの後だった。ひとりきりで訪れたパラノイドパークで、彼はひとつの凄惨なアクシデントに見舞われる。年上のグループと一緒に戯れるさなか、思いがけなくも人がひとり死んだのだ。アレックスは必死で逃げる。翌朝の新聞には事件の詳細が記されている。これは夢か幻か。現実を受け入れられないアレックス。だが、彼は翌日も何気ない素振りで登校し、刑事の事情聴取にも平気な顔で嘘のアリバイを口にする…。

 この映画はべつに少年犯罪を糾弾しようというものではない。むしろ不測のアクシデントに見舞われたアレックスがどのような衝撃でもってそれを受け止め、どのようなカタチで世界と折り合いをつけようとするのか、その“心の動線”を映像詩として紡いでいくことに主眼が置かれている。少年の心の波形に生じた大きな動揺をカメラが繊細に掬い取っていくのである。

 アレックスには他にも小さな動揺をたくさん抱えている。父母は離婚調停中。もうすぐ訪れる家庭崩壊を前に、彼は平気を装うが、小さな胸を痛める弟は毎食時ごとに嘔吐を繰り返す。ガールフレンドの問題も浮上する。性に対して積極的な彼女は、はやく初体験を済ませてしまいたいと機会をうかがっている。友人たちとスケートボードで遊びまわりたい彼にとってはその束縛がうっとおしくてしょうがない。

 それら“小さな動揺”と“大きな動揺”の融合がアレックスの心に重く圧し掛かる。学校の場面では奇妙なタイミングでディズニー調のズンチャカした音楽が鳴り響き、少年の心に何やらアンビバレントな何かが巻き起こっていることを予兆させる。大人の目線で考えれば、彼は目の前の現実から逃げ切れるわけがない。

 彼はいま、自分の現状を充分に把握できずにいる。いまこの瞬間をやり過ごせば、夢見る明日がきっとやってくると信じているかのようだ。しかし時間の経過とともに彼は何かに気がつき始める。凄惨な事件のイメージが頭に去来する。そしてひとりの少女と出会うことによって、彼の目にはたどり着くべき出口がおぼろげながら見え始める。そうやっていま、こうしてノートに告白をつづりはじめる彼の姿がある。自分の体験を文字にすることで世界と客観的に折り合う術を必死に探ろうとするのである。

 結局、彼がどうなったかという結末はこの映画でいっさい描かれない。それは観客に委ねられていると言ってもいいし、そもそもストーリー的な結末など、ヴァン・サントにとって興味のないものであると言ってもよいだろう。

 ただ、『パラノイドパーク』が僕をあまりに驚かせたのは、先ほどまで毎食時ごとに嘔吐していた幼い弟が、いまあどけない笑顔を見せながら、映画のワンシーンについてアレックスにとうとうと語って聞かせる場面だった。このシーンを取り巻く空気のなんと柔和なことか。それに耳を貸すアレックスの表情もどことなく優しい感じがする。そして何より、ここで語られる映画というのが、あの“Napoleon Dynamite”なのだ。弟が語るのは、主人公ナポレオン・ダイナマイトの祖母がボーイフレンドと砂漠へ出かけ、そこでバイクを転倒させて骨折するというシーン。この映画をご存知の方なら、老婆の身体が砂漠に投げ出されバイクだけが空しくジャンプを決める滑稽な描写がまるでパラノイドパークのスケートボードの滑走とシンクロして見えてくることだろう。これに連なる、アレックスが少女の自転車の後ろにつかまりながら疾走していく描写にも笑いが漏れるかもしれない。これもまた“NAPOLEON DYNAMITE"からの引用だからだ。

 映画が収束しようとしているさなかに唐突にもこのコメディ映画のエピソードを織り交ぜてみせる不思議。しかしここでは先のディズニー調の音楽のようなアンビバレントな奇抜さは微塵も感じない。少年の心が何か開かれた出口へと導かれているような気配が忍び込み、カメラに降り注ぐ光がとても眩く感じられる。彼を待ち受けているのは暗闇かもしれないのに、なんだろうこのすがすがしさは。

 結局彼はノートの表紙に“パラノイドパーク”とタイトルを記す。そこは彼を魅了したスケートボードの聖地の名であり、多くのボーダーがいくつもの動線を交錯させながら滑走する人間のジャングルであり、『ジェリー』でふたりの若者が放り出される砂漠(もしくは『NAPOLEON DYNAMITE』でおばあさんが転倒する砂漠)をも彷彿とさせ、あるいはアレックスが数日間にわたって放浪する“最後の少年の日”の象徴なのかもしれない。

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パラノイドパーク
監督:ガス・ヴァン・サント
出演:ゲイブ・ネヴァンス、テイラー・モンセン、ジェイク・ミラー
(2007年/アメリカ=フランス)
東京テアトル=ピックス
4月12日よりシネセゾン渋谷ほかにて全国順次公開

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