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2008/04/09

『フィクサー』

長文がうんざりの方は、300文字レビューでサクッとチェック。

 長年の脚本家畑から本作『フィクサー』で念願の監督業へと進出したトニー・ギルロイ。その名前はキアヌ・リーヴス、アル・パチーノが競演した『ディアボロス/悪魔の扉』(97)や『プルーフ・オブ・ライフ』、はたまた『アルマゲドン』などでも知られてきたが、2002年『ボーン・アイデンティティー』に始まる“ジェイソン・ボーン”3部作すべてに関わったことでそのストイック且つ骨太な作風を世界中に知らしめた。といっても『ボーン』シリーズはどれも二人以上の脚本家が関わっていて、映画が大ヒットを飛ばすに連れてトニー・ギルロイの役割は細かいライティングよりむしろストーリーを構成する“統制役”に移っていったようだ(スプレマシーとアルティメイタムの時間軸を絶妙にズラすアイディアもトニー・ギルロイによるものだった)。

 そんな彼が『ディアボロス』で取材した法律事務所での実体験を10年近くも練り続けた成果が『フィクサー』だ。彼をサポートする製作者陣も名だたる面々ばかりが顔をそろえた。とりわけスティーヴン・ソダーバーグ&ジョージ・クルーニーのふたりに関しては、9.11以降の“迷えるアメリカ”の時代に『シリアナ』や『グッドナイト&グッドラック』といった骨太な社会派作品をぶち上げてきた功績がある。ふたりの製作会社セクションエイト(“section eight” には“兵役不適格”という意味がある)は「会社組織が大きくなりすぎ、映画作りを純粋に楽しむことができなくなった」ことを理由に既に解散してしまったが、その解散直前に製作された『フィクサー』はいわばセクションエイト作品としても“新しいアメリカ”に希望をつなげるための集大成に位置するものである。

 アメリカにとって、世界にとって、重苦しい時代が続いてきた。“自由”という尊い概念をそれぞれが際限なく拡大解釈し、これほど混沌とした空気が広がっていった時代は久しく存在しなかった。しかしいまこの瞬間、何かが変わり始めている予感が少なからずある。人々は既に多くのことに気づき始めている。「自分ひとりが行動しても世の中は変わらない」という無力感は少しずつ払拭され始めている。

 『フィクサー』で描かれるのは、こんな社会の流れを凝縮した司法社会だ。舞台となるのはニューヨークにある大手法律事務所。顧客である大手企業の利益を最大限に守るために多くの社員を動員して企業訴訟の対応に当たらせる。だが主人公マイケル・クレイトンの立場は少し違う。彼は華々しい法廷に立つことはなく、“フィクサー”という役回りに徹している。顧客の身に法律で対処できないような複雑な問題が発生したときにいち早く駆けつけ処理を施す、いわば“便利屋”みたいな役どころだ。

 上司からも重宝がられる彼だが、表舞台で活躍する同僚のように稼ぎが良いわけではない。それに彼は結婚に失敗し、副業にも失敗し、借金取りには返済の最終期限を突きつけられている。平静を装ってはいるが、内心は焦りと絶望で満ちている。

そんなときに事件が起こった。とある大企業に対する3000億円規模の集団訴訟を担当していた弁護士が精神に異常を来たし、法廷で全裸になろうとしたのだ。上司はすぐさまマイケル・クレイトンを急行させる。優秀な弁護士に何が起こったのか?留置所で面会した彼はクレイトンに驚くべき真実を打ち明ける。

 企業による悪質な隠蔽工作。

 その決定的な資料を目にした弁護士は、これまでのキャリアで積もりに積もった良心の呵責に耐え切れなくなり、遂にブチ切れてしまったのだ。興奮しながら怒りの咆哮を繰り返す弁護士。クレイトンは彼をどうにか説得し事態を収拾しなければならない。騒ぎを聞きつけて企業側の女性法律顧問が身を乗り出してきた。彼女は企業を守るためならどんな手段をも辞さない覚悟を決めている。彼女の配下ではきな臭い男たちがうごめく。いつしか出来上がってくる三者のトライアングル。そしていつしか、内部に足を突っ込みすぎたクレイトンの身にも危険が及び始める…。

 主演のジョージ・クルーニー、助演のティルダ・スウィントン、トム・ウィルキンソン。彼らがアカデミー賞にノミネートされた理由にはそれぞれの卓越した演技もさることながら、脚本の人物描写が秀逸さが挙げられる。ここには100パーセントの善人や悪人は登場しない。すべてがグレーな存在。とくに予想外にも助演女優賞を獲得したティルダ・スウィントンは企業側の法律顧問として自信満々の表情を浮かべながらもその裏側では圧倒的なプレッシャーに押しつぶされそうになっている。トイレにこもり、全身に汗だくになり、そして自分を鼓舞しながらまた職場へと戻る彼女を完全なるヒールとしてみなすことなどできない。観客は登場人物の誰にも増して“彼女の素顔”を目撃してしまうのである。

 これにはトニー・ギルロイなりのこだわりがあった。彼の愛する70年代の映画の多くは善悪の価値観が簡単に割り切れないものとして描かれている。分かりやすさではなく、もっとギスギスした人間関係から難産を経て生み出されてくる希望や絶望を人々が享受した時代だった。“ジェイソン・ボーン”シリーズの骨太さがどこか70年代回帰を匂わせていたのも、彼を始めとする映画人たちに“流行の30年周期”を意識させた部分があったのだろう。奇しくもアメリカ軍が正当性のグレーな大義名分を抱えてベトナムへと乗り込んでいき、おびただしい悲劇を呼んだ時代だ。時代も、そして映画も、繰り返している。

 また、『ノーカントリー』のハビエル・バルデムがいなければオスカーを獲得していたであろうトム・ウィルキンソンの狂気じみた演技が凄い。咆哮に次ぐ咆哮が映画のトーンに激震を刻む。これまで溜まっていた汚物を吐き出すかのように、彼は自分が正義と信じる限りを尽くそうと行動に出る。その瞳孔が開きっぱなしの目が、もう引き返せないギリギリの状況を伝えている。

 このふたりに比べると、今度のジョージ・クルーニーは影が薄い。感情を激しく吐露することはなく、受身の演技が延々と続く。彼は弁護士から驚くべき事実を聞かされるが、それは自分個人の力ではどうしようもないことだと気がついている。ここで正義の鉄槌を下して会社から放り出されるよりも他に大切なことがある。借金を返さねばならないし、別れたきりの家族のことだってある。こうしているうちにも期限は迫ってくる。目の前に抱えたヤマは一向に解決の目処が立たないどころか、あわよくば自分の生命までもが脅かされるかもしれない。こうした心の揺れが少しずつ少しずつ何かを醸成させていく。絶望。無力感。悪あがき。

 そんな中で、ひとつの奇跡的なシークエンスが静かに爆発する。クルーニーが助手席に座った息子に対し「自分が取るに足らない人間だなんて考えちゃダメだ。お前は必ずできる。輝かしい未来が待っている」というセリフを語りかけるのだ。これがとてつもない名シーンだった。息子は「分かった」というが、あんな小難しいことが幼い子供に分かるわけがない。あれは主人公が紛れもない自分自身(あるいは自分の分身としての子供)に向かって語りかけたものだった。もしかすると、彼と同様、何かに躓き一歩先に進めずにいるあらゆる現代人に向けてのメッセージですらあったのかもしれない。

 先述したようにトニー・ギルロイは脚本家出身だ。しかし彼は“誰にも思いつかないプロット”を生み出すようなアイディア人というわけではなさそうだ。宣伝で謡われている「ラスト10分の衝撃!」もフタを開けてみると、これまでに何度も目にしてきた“予想外の展開”が繰り返されているようにも思える。しかしそこで我々を驚かせるのは“予想外のジョージ・クルーニー”なのだ。形態の定まらない浮遊物として漂うこのキャラクターが、最終的にどのような態度を決めるのか。すべては彼の身体から繰り出される演技に委ねられている。

 いつしかトニー・ギルロイは何よりもその大切さを知っている脚本よりも演出に重きを移し、最終的に“役者の魂”に望みをつないでいく。それを象徴するのがほかならぬラストシーンということになる。詳細は避けるが、ここから映画が暗転するまでの間、ジョージ・クルーニーは一言も言葉を発しない。脚本家が言葉を捨て去り、演出に徹し、役者の崇高な魂が炸裂する。

 この三位一体が成り立つときに、“新しいアメリカ”へ向けたメッセージは確かに観客のもとへ手渡される。それは何かプレゼントと呼ぶにはラッピングさえされていない、あまりにもゴツゴツとした産物で、素直に「ありがとう」とは言い難いものかもしれない。しかし『フィクサー』がここで完結してしまっては意味が無い。これはむしろ“火種”となるべき作品だ。

 この映画は終点ではなく、始点に過ぎない。扉は開かれている。そこを押し開けて現実世界と果敢に対峙していくのは、他でもない観客自身の尊い役回りなのだ。

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フィクサー
監督:トニー・ギルロイ
出演:ジョージ・クルーニー、ティルダ・スウィントン、トム・ウィルキンソン
(2007年/アメリカ)ムービーアイ
4月12日みゆき座ほかTOHOシネマズ全国ロードショー

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