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2008/08/31

『落下の王国 The Fall』

はじめに断っておくと、この映画は息が止まるほどの色彩美がモザイク状に散りばめられているのと同時に、ストーリーとして恐ろしく稚拙とも思える弱点を併せ持っている。しかしそれは酷評といったものでは到底なく、むしろ後から振り返ったときにこの「稚拙さ」こそが魅力として光り輝くという、映画としては実に奇妙で不均衡なつくりを獲得している。はたして『ザ・セル』で観客を驚愕させたターセムの最新作『落下の王国 The Fall』とは一体どのような作品なのだろうか。

Thefall_2

時は1915年。

本作は美しいモノクロのスチール映像で幕を開ける。

そこは映画の撮影現場。橋の上では蒸気機関車がモクモク煙を吐きながら止まっている。そこから心配そうに下の様子を眺める男たち。川面にはたったいま落下したと思しき男の姿がある。その隣では馬がロープで水を滴らせながら引き上げられ、なんとも幻想的な風景をさらしている。スチール?いや、よくみると画面は少しずつ動いている。これは“still(静止画)”ではなく、“movie(動画)”のようだ。あたかも映画の創世記、人々の創造力が“still”の粋から飛び出し、アクションを伴って“movie”へと走り出そうとしている、そんな胎動さえも感じさせるオープニングである。

次の瞬間、舞台は病院へと移る。先の落下事故で怪我を負ったスタントマンのロイは、ひとりの少女アレクサンドリアと出逢う。少女はまだ“映画”を知らないという。そんなもの観たことも、聴いたことも無いのだという。

ベッドに横たわるロイは今のところ復帰の目処も立たない。挙句の果てには、恋人にも捨てられてしまう始末。同業者の中年男性が尋ねてきて「俺も足を失ったが、それでもちゃんと仕事はできる」と笑って励ましてくれる。その言葉どおり同業者には足が無い。義足の男。その様子は少女の目に異様なファンタジーのように映り込んでいる。

やがてロイは、アレクサンドリアの気を引こうとひとつの物語を口にしはじめる。少女の頭の中でその光景はどんどん色彩を帯び、身の回りの人間を器用に役へ当てはめ、目の眩むような壮大な世界観を作り上げていく。話にのめり込み、もっと!もっと!と話をせがむようになる彼女。ロイにはひとつの計画があった。アレクサンドリアの信頼を得た彼は、彼女をそそのかし、病院の薬を盗んでこさせようとするのだが…。

ご覧の通り、この映画には「劇中劇」のようにひとつのフィクション、ロイからアレクサンドリアへと語られる壮大な物語が登場する。ふたりが共有する物語のビジョンはフィルムでもスクリーンでもなく、ふたりの頭の中にだけ投影される。そのあまりの美しさ。ターセムはこの映像を作り出すのにCGを全く使用しなかったという。つまり100%アナログな映像ということになるのだが(本当だろうか?)、肝心のこの少女は劇中で「映画を知らない」という。この大前提が僕らの思考回路を大きく狂わせる。ここに拡がり行くのは、映画を知らない少女が想起する壮大な物語。それは型にはまらず、映画の不可能をたやすく可能にする。

かつて猟奇的な犯罪者の深層心理を映像化したターセムが、今回は少女の未知なる想像力へと照準を合わせている。彼女の持つ想像力はまだ映像文化によってリミッターがかけられる前の、汚れなき、純真無垢なもの。不思議なことだが、まるでターセムはこの劇中劇のワンシーンを描写することで、「知ること」「観ること」によりかえって人間の想像力が無残にも奪い去られてしまった歴史を糾弾し、いまや絶滅危惧種のごとき“穢れなき想像力”を力の限り祝福しているかのようにも思えてくる。

ロイの語る劇中劇は、絶望に瀕した5人の主人公がそれぞれの復讐を遂げようと結束し旅を続ける物語。観たところちょっとダークなドラクエっぽい印象だ。けれど、綺麗なだけの映像というものは瞬く間に飽きられる。『落下の王国』はその意味で、中盤から驚くほど失速し落下の一途を辿る。思わせぶりな映像、思わせぶりなオリエンタリズム、ありきたりなお姫様、ありきたりな裏切り…。

しかし、そもそもこの劇中劇が完璧である必要はまったく無いのだ。ロイの職業はスタントマンなのであって、彼は作家でもなければ映画監督でもない。しかも彼はベッドに横たわっている存在。調子が悪ければストーリーテリングは雑になるし、気性の変化によって過激すぎるほど残酷な物語に転じることだってある。

この映画は『レディ・イン・ザ・ウォーター』や『主人公は僕だった』『パンズ・ラビリンス』といったメタ・フィクション映画が目指したように、中核にある物語のクオリティではなく、不器用ながらもそれを完成させようとする主人公の意志(想像力)こそが大きくクローズアップされている。よって、中盤の劇中劇が稚拙で停滞すればするほど、後になって僕らは必要以上にリアルな触感をフィードバックすることができるわけだ。

ただ、この作品を“メタ・フィクション”としてのみ片付けてしまうのは気が引ける。どうも違う。本作はそれだけではどうしても納まらない得体の知れなさを宿しており、それは言うなれば“アクション映画”とさえ呼びたくなる風体なのだ。

それこそタイトルで示された“THE FALL(落下)”。まるでリセットを求めてゼロに向かってダイブするかのようなこの行為は、人間にとっていちばん身近な危険であり、お手軽なアクションでもある。いったいこれまで世界で作られた映画の中に、どれほどたくさんの「落下」が活写されてきたことだろう。最初はその意図こそ分からないが、少しずつ少しずつ、まるでエクセルで「落下」を主軸に全体のグラフをソートしなおしたみたいに、本作は「落下」を主軸にこれまでの映画史を編纂しなおそうとする。なんて無謀な挑戦。さらにその向こう側で、人々の想像力を喚起させてやまない仕事(つまり映画の裏方)に従事する“見えない人々”の存在を浮き彫りにする。

たとえばロイのようなスタントマン。

結局のところ彼が立ち直ったのかどうかについては映画の方をご覧いただくとして、肝心なのは本作のラスト・シークエンスである。

(映画を純粋に楽しみたい方はこれ以降を読まないでください)

この映画は誰もが予想もしない形式で幕を閉じる。プロットなどでこの幕切れを予測することは不可能だ。ただフィルム映像の洪水、アクションの洪水がスクリーンを埋め尽くす。

そして、まさに少女の純真な想像力がなしえたとしか思えない、たった一言のセリフが僕らの胸を深くえぐる。

「映画の中で確かにロイの姿を見た」

彼女が目にしたのが本当にロイだったかは誰にも分からない。しかし彼女がそう確信した瞬間に、物語はそのように変貌する。そもそもフィクションというものは語り手が聞き手に対し一方的に与えるものではなく、それは『落下の王国』のふたりが辿るように、両者の関係性によって初めて成立するものである。いわばフィクションとは媒介(メディア)なのだ。

アレクサンドリアの馳せる想像力の中ではもはや映画のストーリーなど問題ではなくなっている。彼女は何者にも縛られず、「落下」という概念によって映画を見つめる自由な想像力を獲得している。その瞬間、映画の構造は音を立てて崩れ、そして中核をスタントマンが、そして「落下」が担う形で再構築される。あるいは映画というものはありったけのディテールが組み合わさって生まれる総合芸術なのであって、そこに集まった要素の数だけ、主人公は存在するのかもしれない。

人は少女を「映画の見方が分かってない」と笑うだろうか。しかしそもそも正しい映画の見方とは何なのだろう。いい映画の基準とは何なのだろう。流した涙の量?爆笑した回数?受賞歴?他人の評価?モラル?商業主義?

『落下の王国』はあたかもそれ自体が人々の凝り固まった想像力をゼロへとリセットさせる機能を備えた落下装置のようだ。それは人間が映像を知る前の、極めて純粋な想像力によって無限に想いを馳せていた時代のことを思い起こさせる。

果たして僕らは、既存の映像文化がとことん沁み尽くしてしまったこの頭で、少女のように自由な想像力を取り戻すことはできるだろうか。

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落下の王国 The Fall
監督:ターセム
出演:リー・ベイス、カティンカ・アンタルー、ジャスティン・ワデル
(2006年/アメリカ)ムービーアイ

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