『フローズン・タイム』

 この作品を『トレインスポッティング』や『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』と同じく、世界の映画シーンに全く新しい風を吹き込んだ革新的ブリティッシュ・“ポップ”ムービーとして捉える向きも多いだろう。

 しかし写真家としても名を馳せるショーン・エリス監督は、外面的な“ポップ”感覚にのみこだわった上記の2監督とは明確に一線を画し、その糸口こそ「失恋」という青臭いテーマではあるが、結果的には、「時間」、「記憶」、そして「意識」という観念を驚くべき映像でつかまえた、独自の“哲学”にまで高めている。

 哲学と言っても、何もここで「カントがさ…」とか「フーコーのやつめ…」などと小難しいことを持ち出そうってんじゃない。ここで描かれるのは誰にでも経験のある、ごく身近なことだ。

 たとえば、失恋。失恋してなんだか茫然自失になって、時計を眺めていてもちっとも秒針が進んでくれない、って時があるだろう。さっきからもう30分くらい経ったかなと思うとまだ1分も進んでいなかったり。この映画の主人公ベンはまさにそんな若者だ。「ハチミツとクローバー」よろしく、美大で画家志望の彼は、ガールフレンドにフラれたショックから不眠症に陥ってしまう。眠りたいけれど、眠れない。彼女との思い出が頭によぎるたびにベッドに深く深く沈みこんでしまうような感覚…これはかなり重症だ。そんなベンが、よせばいいのに、よりにもよって深夜のスーパーでバイトを始める。彼にしてみれば、自分の不眠時間に金を支払ってくれるなんて素晴らしすぎる…といった感じだった。バイト仲間は深夜ならではの一筋縄ではいかない連中ばかりで、店長ときたらスキンヘッドで演説好きの熱血漢(もちろん嫌われ者)。

 多くの人が寝静まった深夜帯。ベンの眼前には手で漕いで泳げるほどの膨大な時間が横たわっている。周りには自分勝手なヤツラばかり。彼がどうやって時間を使いこなすかは、彼の自由。これはまるでリハビリテーションのような空間ではないか。そんなこんなで彼はついに限界を超え、ひょんなことからひとつの真理にたどり着く。

 つまり、「時間」とは自分の意識の内で発生するもの。時計で計れば同じ分量でも、とびきりの楽しい時間は驚くほど速く過ぎ去り、逆に悩みにくれているような時間は苦痛なほどゆっくりと停滞する。ベンは自らの意識をコントロールすることで“時間を止めること”を覚える。

 深夜のスーパーで、人知れずフリーズした時間たち。

 その間、この世界の中で動いているのは、ベンたったひとりだけだ。彼くらいの若者なら一度は妄想してしまうちょっとエッチなことから、仲間への華麗なるいたずら、そして気になる女性の表情にふと見とれてみたり…そんなことを続けるさなか、彼はやがて、その凍りついた世界に生きる女性たちをデッサンしはじめる。ライフワークのように、真剣に…。

 果たして彼の超能力はホンモノなのか、それとも重度の不眠症による錯乱状態に等しいのか…はっきりいってそんなのはどうでもいいことだ。なぜなら、この映画で最も心を奪われるのは、“一瞬を切り取る”という行為が崇高なまでに美しく描かれているところなのだから。そしてベンならずとも、僕らはその“一瞬を切り取る=時間をフリーズさせる”ことがこの日常の中で可能であることを、各々の経験から知っている。

 日々、時計の刻む時間に縛られた僕らは、ふとした拍子にその鎖を振りほどき、意識を自由に操作することで、些細な風景の中に奇跡的なまでの一瞬を見出したり、「この一瞬を忘れまい」と意識的に時を止めることができる。この世の中では、誰もが時の支配者となれるのだ。

 そして本作がショーン・エリスによって生み出されたことが、もうひとつの意味を付与してくれる。それはベンのような画家の卵であったり、エリスのような写真家であったり(付言すると、映画監督だって1秒間につき24枚の連続写真を活写するという意味では列記とした写真家なのだ)、芸術家と呼ばれる人たちがいかにその“一瞬”に己の感性のすべてを賭けて勝負を挑んでいるか、ということについて心がズキズキと痛むほど繊細に伝わってくるところだ。

 彼らはまさにベンの超能力のごとくに時間を操り、驚異的な感性で奇跡的な一瞬を作品に納めている。彼らが世の中に提示するあらゆる作品は、まさに邦題どおりの“フローズン・タイム”ということができるのだろう(原題は“CASHBACK”)。

 これは間違ってもSF映画というわけではない。むしろ芸術家という“タイムストッパー”たちの意識の流れを、僕らが最もわかりやすいかたちで具象化して提示してくれた極上の映像作品といえるだろう。

 ちなみに、ベン役のショーン・ビガースタッフを忘れてはいけない。彼の顔、どこかで見覚えが…と思っていたら、出演作に『ハリー・ポッターと賢者の石』とあったので驚いた。彼はハリーの所属するクィディッチ・チームのキャプテン、オリバー・ウッド役として1&2作に出演していたのだ(3作目になると彼は魔法学校を卒業してしまう)。彼のイノセントなたたずまいは、ひょっとすると出演者によっては変態映画とも受け取られかねなかった『フローズン・タイム』を、とびきり透明感のあふれるものへと昇華させてくれた。

 また、スーパーのバイト&店長で結成された即席フットサルチームが因縁の戦いに挑むくだりが、『ハリー・ポッター』のクィディッチを示唆してるのかなぁと思いきや、いきなり吹き出してしまうほどピンポイントで『グラディエーター』化していくのも、ご愛嬌ってことで。

フローズン・タイム』は、2008年1月26日より、渋谷Q-AXシネマほか全国順次ロードショー

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『母べえ』

 いい年齢になってきたせいか、山田洋次監督の作品は欠かさず観るようになった。寅さんシリーズの頃には、観れば絶対に大爆笑するくせに、それを映画館のスクリーンで観ることへの執着心へと繋げられなかったというか、それより先にCDやら漫画本やらへの散財が存在したというか。まあ、兎にも角にも、僕にとって“今だからこそ”の山田洋次作品があるわけで。

 藤沢周平の3部作から遠く離れて、今回は昭和の時代劇『母べえ』である。主演は吉永小百合。日本に戦雲の足音が聞こえてくる頃を舞台に、劇作家の父を警察に奪われ、残された母はその両手で娘たちをしっかりと抱きしめながら気丈に生きていく。原作は、当時その末娘でもあった野上照代さん。その名前に見覚えのある方も多かろう。数々の黒澤明作品でスクリプターを担当されていた方だ。

 多くの場合、映画の良し悪しは冒頭で決まる。『母べえ』の冒頭には、なぜこの映画が妙ちきりんなタイトルなのかがナレーションで説明される。

 「この暗い時代を少しでも明るくしようと、父の提案で家族の名前はすべて“べえ”を付けて呼ぶことになりました」

 バックではそれぞれの名を「べえ」付きで呼び合う無邪気な子供たちの姿。「父べえ」「母べえ」「初べえ」「照べえ」。それ以上の余計な説明は何もない。あとは彼らが「べえ」と呼び合うだけで、それがどんなに暗く厳しい時代であろうとも、ほのかな灯火がその場をぼうっと照らしているかのような温かさが沁み渡る。この、いかなる時代であろうとも人類最後の抵抗手段として存在し続ける“ユーモア”。チャップリンの崇高さもそこにあったのだし、『タロットカード殺人事件』でウディ・アレンの言う「ユーモアは大事ですよ。ユーモアさえあれば、この世はこれほど悲惨にはならなかった」という他愛もないお喋りにも、微笑みながら観客の心に光を灯す力がある。

 その力の原動力となっているのが、吉永小百合の体内から放出される存在感であることは言うまでもない。彼女は本作の中でほとんどと言っていいほど受け手の演技に徹しているように思える。この暗い時代に次々と現れる、坂東三津五郎、中村梅之助、笑福亭鶴瓶、壇れい、笹野高史など個性豊かな登場人物たちをその凛とした風情で受けとめ、彼女の崇高な存在によってろ過されたあらゆる描写は、観客の心にいっさいネガティブな余韻を残すことはない。その意味で、吉永小百合という存在は、守りながらも攻めていたのかもしれない。それも“母”としての凄まじいまでの精神力で。

 そして『母べえ』でもうひとつ驚かされるのが、紛れもない浅野忠信の演技だ。いったい彼の身体のどの部分にこんな引き出しが用意されていたんだろうと、頭を抱えてしまうくらいにコミカルで優しくて頼り無さそうで頼りになって、つまりは「父の不在」の穴埋め的な役柄を実に飄々と演じきる。この「誰も目にすることのなかった浅野忠信」を引き出したのが山田洋次なのだとすると、その監督術たるや、改めて魔術師のようにも思える衝撃を受けた。

 もはや老若男女、観る側の世代など関係ない。『母べえ』はそれぞれの人生の中でいつかどこかで必ず触れてもらいたい、人生のエッセンスがギュッと詰め込まれた傑作である。

母べえ』は、2008年1月26日より全国ロードショー

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『シルク』

 さかのぼること9年前、その所有者をことごとく不幸にするバイオリンの、長き長き運命の旅路を丹念に描いた『レッド・バイオリン』を観たときには本当に驚いた。5つの国にまたがって物語を紡ぐその大胆な才能、甘美な響きに魅せられ狂気を帯びてくる人間たちの運命、そして分厚い大河小説を一晩かけて読み終わったかのような眩暈にも似た感触…そのすべてに感嘆し、このフランソワ・ジラールという才能は今後いったいどのように進化していくんだろうかと想像力のない想像をめぐらしたものだった。

 あれから随分と、新作は届かなかった。

 その間、彼は映画にとどまらず、演劇、オペラ、パフォーマンス・アートなど、様々な表現形態へ触手を伸ばし、そしてまた映画のフィールドへと戻ってきた。きっとこれを終えるとまたどこかの新天地へ、軽やかに旅立っていくのだろう。

 『シルク』の原作は「海の上のピアニスト」をも手がけたアレッサンドロ・バリッコ。バリッコの短い言葉の中にいくつもの意味が幾重にも折り重なっているような寓話性と、映像が国境を超えるという荒業をものともしないジラールのボーダーレスな感性とがガッチリと合わさって、一見誤解されがちな『ラスト・サムライ』のようなスペクタクルでは決してなく、精神的にとんでもなく深い深い傑作に仕上がっている。ちなみに本作の舞台は主にフランスだが、日本パート以外はすべて英語。その言語感覚をいぶかる声もあるかもしれないが、そもそも原作がイタリア語で書かれていることからしても、そこにはもはや言語や国境の違いなど存在しないに等しい。つまり、その意味でもボーダーレス。

 物語は19世紀、フランスの片田舎からはじまる。

 村にひとりの男がやってきて絹糸を紡ぐ工場を立ち上げる。最初は無謀に見えたその事業は徐々に軌道に乗り、村に潤いをもたらすようになった。

 しかし肝心の蚕(かいこ)が疫病にかかり、婚約したばかりのエルヴェという主人公に「世界の果てまで旅して、蚕の卵を持ち帰ってくれ」との任務がくだされる。

 世界の果てとは、すなわち日本。

 ヨーロッパ、ロシアを横断し、そこから日本へと入り込んだ彼は、密輸業の組織から卵を譲り受け、それを故郷へと持ち帰る。事業は大成功。大金を手にし、妻との生活を楽しむ彼だったが、日本で目にした不思議な少女のことが忘れられない。そんな彼に二度目の日本行きの任務が下される…。

 マイケル・ピット演じる主人公は透明感あふれる静かなたたずまいで、その身を異文化へと侵入させていく。その婚約者にはキーラ・ナイトレイ。『パイレーツ・オブ・カリビアン』などの出演作によりいささか元気すぎるイメージの定着した彼女は、興味深いことに監督から「ゆっくり過ぎるくらいゆっくり演じて」と指示を受けたと言う。

 そう、この映画は、予想された巨大スケールにふさわしからぬ、たった1時間49分という短さながら、漂う空気は本当に“ゆっくり”している。かといって、決して弛緩しているわけではない。全体がゆっくり進むかと思いきや、主人公が辿る壮大な旅路は、山を越え、谷を越え、川を下ると、そこはもう目的地。まるでワープでもしたような短時間で語られるのである。しかも一往復だけで命がけなのに、それを複数回も。

 どう考えてもこの距離感は常軌を逸している。そして肝心な日本の描写も僕らがよく知る日本とはちょっと勝手が違っている(むしろファンタジーの世界のようだ)。だがこれを“日本知らずのトンデモ映画”と決め付けるのは早い。なぜなら、この距離と空間の緩やかな混濁によって僕らの時間感覚はすっかりと狂わされ、時空を超越した不可思議な時間軸が体内に刻まれていくからだ。

 そこにはいつしか、世界の果てまで到達したかと思うと実は“庭”さえ出ていなかった…とでも言うような、そして永遠が一瞬であるとでも言うような物語の流れが浮かび上がってくる。衣でありながらそれが無のようにすら感じさせる絹(シルク)の肌ざわり。坂本龍一が奏でるサウンドトラックも、俄かに香るオリエンタリズムがあえて日本だけではなく、フランスのシークエンスでも用いられ、やはりここでもボーダーレスな感覚は色濃く迫り出している。

 映像の中にバリッコの文体が浮かび上がる。音楽の中にジラールの息づかいが聞こえてくる。かくもたったひとつの表現にいくつもの意味が折り重なったかのような深遠さが、たった1時間49分の作品世界を二倍にも三倍にも膨らませていく。

 そして果てしない旅を終えたとき、僕らは時間旅行を終えたかのような頭がボーっとする心地よさに襲われている。壮大でありながら、ほんの一瞬の物語。かと思えば、ラストの余韻を考えるにつけ、僕らの体内には途方もない感慨が堰を切ったようにあふれ出してくる。この誰にも真似できない神業は、とうに『レッド・バイオリン』を越えている。フランソワ・ジラールはまたしてもやってくれた。

シルク』は1月19日より、日劇3ほか東宝洋画系にて全国拡大ロードショー

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