『いつか眠りにつく前に』

300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『いつか眠りにつく前に』です。

人生の最後の灯火に焦点をあてた傑作。

老婆に死が迫っている。家族に見守られる中、彼女の意識はゆっくり混濁し、ふと記憶をよぎるのは、あの若かりし日の思い出…。さすが『めぐりあう時間たち』のスタッフ&キャストが再集結しただけあり、同時進行する過去と現在の語り口は見事というほかなく、ベッドに横たわるレッドグレイヴがいつしか記憶の中でデインズとなって“動”を体現する転換ぶりには激しく胸が締め付けられる。そして誰しもに訪れる自問自答の時間。「あの決断は正しかったか?」「悔やんだりしていないか?」それら身を切るような問いかけに、本作はささやかなワンシーンでもってすべての人生を優しく肯定する。この映画に会えてよかったと自信を持って言える傑作である。

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いつか眠りにつく前に
監督:ラホス・コルタイ
出演:クレア・デインズ、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、メリル・ストリープ、
グレン・クローズ、トニ・コレット
(2007年/アメリカ)ショウゲート
2月23日より日比谷みゆき座ほか全国ロードショー

映画『いつか眠りにつく前に』は、『めぐりあう時間たち』の原作者、マイケル・カニンガムが原作小説に心奪われ、映像化のために製作総指揮と脚本執筆を買って出たことから始動した作品です。時空を超えた物語の連なりの巧さにカニンガムの特色を再確認しました。

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『エリザベス:ゴールデン・エイジ』

アカデミー賞 衣装デザイン賞、獲得!

300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『エリザベス:ゴールデン・エイジ』です。

ケイトもいいけど、サマンサもね。

前作から9年。大英帝国の頂点に君臨した“ヴァージン・クィーン”に新たな試練が訪れる。プロテスタントとカトリックの対立は加速し、海外からはスペイン無敵艦隊が隙を伺い、国内では密かに女王暗殺計画が始動。そんなかつてない緊急時に、当の女王は気になる航海士にウットリなんかしちゃったりして…。前半は政治劇、後半は海戦スペクタクル。前作のストイックさに比べると大味だが、やはり見所は俳優たちの演技合戦だろう。相変わらず威厳たっぷりのケイト&側近ジェフリーの豪州コンビに対抗すべしと、英国側からも実力派を大量投入。とりわけスコットランド王女メアリー役のサマンサ・モートンは、どんどんビョーク化していく異様な存在感が魅せる。

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エリザベス:ゴールデン・エイジ
監督:シェカール・カプール
出演:ケイト・ブランシェット、ジェフリー・ラッシュ、クライヴ・オーウェン、サマンサ・モートン
(2007年/イギリス)東宝東和
2月16日(土)日比谷スカラ座他、全国ロードショー

ヘレン・ミレン主演の英国TVドラマ「エリザベス1世」も、多数の国際的な受賞に輝くなど非常に評価の高い1本です。

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『潜水服は蝶の夢を見る』

 山田宏一氏の「トリュフォー、ある映画的人生」(平凡社刊)に、“アイリス・アウト”について触れた部分がある。山田氏はかつて自身の患った脳の病気について、あくまで医師から聞いた話として「だんだん視野が狭くなっていき、それが小さな点ほどの大きさになり、遂には消滅してしまう」と語っている。彼は思いを馳せる。それはちょうど映画のシークエンスの締めくくりの際に用いられる“アイリス・アウト”という手法によく似ている。おそらくは、おなじ脳の病気でこの世を去ったトリュフォーも、この“アイリス・アウト”によって人生のラストシーンを閉じたのではなかったかと。

 『潜水服は蝶の夢を見る』は、その冒頭の長い時間、主人公の視点(詳しくは左目)のみで映像が展開する。ふと気が付くとそこは病院。あわただしく動きまわる医師と看護士たち。どうやら自分の身に何かが起こったらしい。身体が動かない。意識が薄れる。まぶたが閉じる。そして時間が飛ぶ。再びまぶたが開く。ピントが合わない。物がはっきりと見えない。誰かが自分の名を呼ぶ。だが身体はまだ動かない。

 ゆっくりと記憶が呼び起こされていく。雑誌ELLEの編集長、ジャン=ドミニク・ボビーは脳梗塞に倒れ身体の自由を失ってしまった。意識ははっきりしていながらも、唯一動かせるのは“左目”のみ。彼の意識と世界を繋ぐ窓口は突如としてたったそれだけに限定されてしまったのだ…。

 やがてジャン=ドミニク・ボビーのもとに言語療法士のアンリエットが現れる。彼女はジャンに“まばたき”で意志を伝える方法を教えてくれる。彼にとってそれが言語となり、ジェスチャーとなる。ようやく取得したコミュニケーション・ツールを使い、彼は渾身のまばたきで「死にたい」とだけ伝える。

 スクリーンには否応なしに重い空気が立ち込める。

 このとき僕は山田氏の語ったトリュフォーのことを思い出さずにはいられなかった。というのも、こんな絶望的な状況においてさえ、彼の左目があたかも“アイリス・イン”と“アイリス・アウト”を繰り返しているように思えたのだ。トリュフォーの最期のようにアイリス・アウトしたままだとそれは「物語(人生)の終幕」を意味する。だがここでは、たとえ身体は動かなくとも、それは閉じてはまた開かれている。つまり“物語(人生)”は閉じたままではなく、いま確実に“展開している”のである。

 思いがけなくも山田氏の言葉と主人公の姿を掛け合わせたことで、人間の“眼”もしくは“まばたき”が映画の基本原理に驚くほど肉薄していることにあらためて気づかされた次第だ。

 静かな胎動はやがて映画全体を包み込んでいく。かつて左目で「死にたい」と訴えていたジャン=ドミニクは、いつしかその“まばたき”でもって前々から構想中だった自伝の執筆に取り掛かる。彼の内面で繰り返されていた“展開”は、いよいよ人々の眼に見える形で外の世界へと発露していく。午前中は意識内での推敲に使用し、午後の時間で一気に執筆活動へと突入する彼。まばたきは次々と文字をつかまえ、意味をつかまえ、文章として彼の言葉を刻んでいく。

 徐々に書き留められ、形を帯びてくる文言たち。その映像に載せて活字化されたジャン=ドミニクの言葉がモノローグとなって零れ落ちてくる。

 それはよどみなく流れる美しいせせらぎのような響きだった。なんとウィットに富んだ語り口。なんと豊かな感性。なんと軽やかな文体。まるで潜水服のように重く、自由の利かない身体の内側で、彼の創造力はまるで蝶のように大空を羽ばたいているのだ。そして途方もなく繰り返されたまばたきの回数はいつしか20万回にまで達し、念願の自伝はいままさにこの映画の原作本「潜水服は蝶の夢を見る」として産み落とされるようとしている。

 この映画はジャン=ドミニクが著した自伝を通して、逆説的に人間の創作意欲がこんなにも不屈で、繊細で、強靭なものであったことをまざまざと教えてくれる。また彼の創作意欲に触発されたかのように、ジュリアン・シュナーベル監督は驚異の映像力(撮影監督を務めたのはスピルバーグ作品でもおなじみ、ヤヌス・カミンスキーだ)でもってこの“静”の物語を渾身の“動”へと変貌させていく。僕は思う。シュナベールはきっと、この物語を“アイリス=映画の物語”としても深く認識していたに違いないと。そして現実的な“アイリス・イン”“アイリス・アウト”の聖域として、俳優マチュー・アマルリックの左眼は身体的にとても重要な使命を帯びている。すべてはその眼から始まり、そしてその眼で幕を閉じる。アマルリックの左目が彼自身をこれまで以上に世界的な注目の的として包み込んだことは言うまでもない。

 現在、この映画に触れたおびただしい映画人たちが軒並み絶賛コメントを寄せているが、同じフランスの国籍を持つこの映画を天国のトリュフォーが何と評するのか、不可能とはわかっていなからも、その言に触れてみたいと欲せずにはいられない。僕にとっていつか聞こえてくるかもしれないその声にずっと耳を済ませることこそ、この映画に対する最大級の敬意の表しかたのような気がしてならないのだ。

潜水服は蝶の夢を見る』は、2/9(土)シネマライズ、新宿バルト9、シネカノン有楽町2丁目ほか全国ロードショー

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『君のためなら千回でも』

 原題は“The Kite Runner”。アフガニスタン生まれの作者の半生が織り込まれた原作小説は全米でベストセラーになり、そうなると製作会社も黙っていないわけで、こうやって映画化の道を辿ることは運命付けられたものだったのだろう。しかしながら、原作者も映画制作者も、ここ日本でこんな素晴らしい邦題がつけられるとは、まさに嬉しい誤算だったのではないか。

 舞台は2000年のアメリカにはじまり、そこから1970年代のアフガニスタンへ回想の扉を押し開いていく。

 目の前にアフガニスタンの風景が広がる。ソ連が侵攻する前の、そしてタリバンが政権掌握する前の、平和なアフガンがここにある。その上空には子供たちが一斉にあげた凧(カイト)の群れ。凧がある程度の高さまで到達すると、次にやることはただひとつ。上手い具合に旋回させて他の凧に勝負を挑むのだ。絡み合う糸と糸。勝敗は一瞬にして決まる。激しい空中戦を制した凧は威風堂々と空に舞い、負けた凧はヒラヒラと花びらのように落ちていき、そのまま勝者の戦利品となる。勝者は12歳のアミールだ。彼の親友であり使用人の息子でもあるハッサンは、力いっぱい彼を祝福し、落下中の戦利品を追ってまっさきに走り出す。「頼んだぞ!」と叫ぶアミール。ハッサンも振り返って大声で叫ぶ。

「君のためなら千回でも!」

 邦題となったこのハッサンの台詞が、何度でも観客の心にこだまする。劇中、アフガンの映画館で吹き替えのアメリカ映画に熱狂したアミールとハッサンが、興奮のあまりその印象的な台詞を何度も何度も復唱してみせるシーンがあるが、そんな彼らと同様に、僕らはこの邦題を思い出すたびに、何度でも何度でも、胸を熱くたぎらせることになるだろう。

 この台詞が語られた直後、事態は急変する。民族の違いを原因にハッサンは年長者の集団に暴行を受けてしまう。現場を目撃したアミールはその場でおびえて立ち尽くし、彼を助けることができない。そればかりか自分の不甲斐なさをよりにもよって犠牲者のハッサンにぶつけ、使用人一家を自宅から追い出してしまう。少年の心に刻まれた、取り返しのつかない過ち。後悔、懺悔。

 やがてアフガニスタンに暗雲が立ち込める。ソ連が侵攻し、街が破壊される。タリバンが恐怖政治を繰り広げる。アミールは父親(演じているのは、アッバス・キアロスタミの傑作『桜桃の味』で主役を務めた、あのホマユーン・エルシャディなのだ!)とともにアメリカへ向けて命がけの亡命を果たす。それから20年…アメリカで作家になったアミールの元に一本の電話が舞い込んでくる。

「まだお前はやり直せる。アフガンへ帰って来い」

 それはかつて幼かった自分の文才を認めてくれた恩人からの電話だった。止まっていた彼の時間がもう一度動き出す。いまこそ危険なアフガンに戻り、あのときのハッサンに告げられなかった言葉を自分の口から伝えたい。その台詞は、もう聞く前から観客にも分かっている。

 『チョコレート』、『ネバーランド』、『ステイ』、『主人公は僕だった』・・・。他者を寄せ付けない風変わりな作品を紡ぎ続けるマーク・フォースター監督を未来の巨匠として見る向きも多い。僕はこれまで彼の作風を「フィクションを俯瞰する=メタフィクション」として捉えていた。しかしこの要素だけだと、長編一作目の『チョコレート』がどうしても解き明かせない。自殺で息子を失った死刑執行人と、幼い息子を事故で失った女性とが出会い、絶望の中にほんのささやかな花が咲いたかのように痛切な愛が交わされるこの作品。どこをどう考えたってメタフィクション映画ではなかった。では、『チョコレート』とあとの3作品を繋ぐキーワードは一体何なのか…。

 悩みに悩んでいたその時期に、『君のためなら千回でも』公開決定の知らせが届いた。そこには「マーク・フォースター監督は幼い頃、兄を自殺で失っており、これまでの作品には常に“死”の要素が色濃く描かれてきました」との言葉。はっとさせられた。すべてを繋ぐ鍵は“死”にあったのか。“死”を織り交ぜながら、ヒューマンドラマやミステリーからコメディに至るまで縦横無尽に創作を繰り広げるマーク・フォースターの強靭さというか、人間としての深さにノックアウトされた。彼の作品の主人公たちは“死”の内側でウジウジと傷心を蒸し返すようなことはせず、むしろどうにかして“死”の外側へと飛び出そうと果敢に挑戦を続けている。この「飛び出す」というイメージと「物語ること」の臨界点において、フォースター監督はいつも僕らを熱狂させるフィクション・マジックを生み出していたのだ。

 そうして最新作『君のためなら千回でも』に想いを馳せるとき、そこにはこれまで以上に“死”というものの重さ、切実さが圧し掛かると同時に、アフガニスタンの上空に舞い上がっていく無数の凧のように、そこから軽やかに飛び出そうとする力強い意志が感じ取れる。そして本作を「メタ・フィクション」としてこの見つめるとき、マーク・フォースターがこれまでに描いてきた様々なジャンルの、様々な登場人物たちの“死を乗り越えようとする姿”が、主人公アミールに切実なほど重なっていく。

 この映画のクライマックスのあまりにアメリカナイズされた展開に違和感を覚える方も多いだろう。しかしマーク・フォースターがそれを意識的に用いていることも感じてほしい。決死の覚悟でアフガニスタンに乗り込んでいくアミールの姿には、かつて失った自分の“物語”を必死で取り戻そうとする主人公の崇高な意志が読み取れる。その過程で彼は、かつてアフガンの映画館で観たアメリカ映画さながらのアクションを繰り広げるかもしれない。あるいは滂沱の涙を流すような感動シーンを演じるかもしれない。もう失いたくはない何かを取り戻すためならば自分の命を投げ出しても惜しくはないだろう。彼は20年に渡って自ら封印していた人生を、再び物凄い速度で回転させ始め、そこでボロボロに傷つきやっとの思いで到達した景色に包まれながら、あのときのアメリカ映画のキメ台詞ではなく、いままで辿ってきた自分の物語(=人生)の珠玉の台詞を、満面の笑みと共に口にするのである。「君のためなら千回でも」と。

 とはいえ、映画監督としてのフォースターの冒険はこれからも続いていく。彼は現実世界で失ったものを創作の中で取り戻すべく、これからもとめどなく、映画の主人公たちと共に旅を続けていくことだろう。

 そして奇遇なことに、これを書いているさなか、マーク・フォースターの次回作が発表された。「007」シリーズ最新作“QUANTOM OF SOLACE”がそれだ。新ジェームズ・ボンドにダニエル・クレイグを抜擢して大ヒットを飛ばした新機軸を踏襲するカタチで、今回もパナマ、チリ、バハマ、イタリア、オーストリア、ロンドンを股にかけて、陰謀とアクションとロマンスとが繰る広げられる。イアン・フレミング作としては異色とも言われる原作どおり、ボンドの内面に更なる深いダイブを試みる作品となりそうだ。

 悪役には『ミュンヘン』『潜水服は蝶の夢を見る』で世界中にファンを急増させるフランス人俳優、マチュー・アマルリック。ボンドガールにはウクライナ出身のオルガ・キュレリンコ、英国出身のジェマ・アータートン。もちろんジュディ・デンチも再登板する。これらの豪華プロジェクト、豪華キャストを得る中で、果たしていかなる“マーク・フォースター”ワールドが繰り広げられるのか、心から期待したい。

君のためなら千回でも』は2月9日より、恵比寿ガーデンシネマ、シネスイッチ銀座ほか全国ロードショー

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『ラスト、コーション』

 アン・リー監督がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した『ラスト、コーション』。

 “Lust”は「欲情」を、“Caution”は「戒め」をあらわし、それを「、」でつなげたこのタイトル(原題では『色|戒』、英題では『LUST,CAUTION』)には、主人公の身に起こった「“欲情”と“戒め”のせめぎあい」を表現する意味合いがあるのだとか。だとすると、真ん中にある「、」は、まるで理性の防波堤のような、重要な意味を秘めたものだということがわかる。

 そうやってタイトルからして一筋縄ではいかない本作。ヴェネツィア以来、「問題作!」とばかり騒がれてきたが、過激な暴力&性描写とは裏腹に、その芯にはとてつもなく深い創作意欲が根を張り巡らしていることに驚かされる。これまで『グリーン・デスティニー』『ハルク』『ブロークバック・マウンテン』(これを書いた翌朝にヒース・レジャーの訃報が飛び込んできた。唐突ではあるが、彼の冥福を心より祈りたい。野性味あふれる外見ながら、その内面には千切れそうなほどの繊細さを抱えた、俳優として稀有な存在だった)と作品を重ねてきたアン・リー。かつてハリウッドで最も有名な日系人俳優といわれた故マコ・イワマツ氏が「いつか人種というフィルターを超えて、僕がカウボーイを演じれる日がくれば嬉しい」と語っていた。アン・リーはその言葉どおり、台湾人としてカウボーイ映画を2作も作り出し、文字通り映画作家としての人種や国境を超えた存在となった。

 かと思ったら、ここにきてまさかの原点回帰。
 今回の舞台は1942年、日本占領下の上海だ。

 主人公は“清純”という言葉がよく似合う若い女性、ワン(タン・ウェイ)。

 まだ少女のようなあどけなさを残す彼女は、傀儡政権下で暴力行為の多発する上海を離れ、英国領香港で大学生活を送ることになる。そこで友達との付き合いで演劇部の門を叩くワン。儚げで、時に燐とした横顔をも覗かせる彼女は、定期公演の舞台で主演に抜擢される。それは中国独立をテーマに掲げた物語。案の定、彼女が舞台に現れ、ひとこと台詞を発した瞬間に会場の空気が変わる。観客たちは一様に祖国を想い、感涙と高揚とに包まれた。拍手喝采。舞台公演は成功裏に幕を閉じる。

 この日、誰よりも歓喜に包まれたのは演劇部員たちだった。自信と興奮を身にまとった彼らは、自らが演じた舞台に取り込まれるように、ここ香港を拠点として抗日運動へ身を投じていく。

 ターゲットとなったのは特務機関の長官イー(トニー・レオン)。

 傀儡政権の手先として多くの抗日運動家を闇に葬ってきた彼に近づき、暗殺の機会を探るのが彼らの使命だ。そのミッションにあたって、またもや抜擢されたのがワンだった。それは、イーの身辺に近づき彼と禁断の愛を交わすという、まさに命がけの任務。なかなか隙を見せないイーだったが、ワンは持ち前の演技力でイーの心を引き寄せていき、ふたりはついに野獣のごとく求め合うようになる。暴力的なまでに身体を重ねながら、上部組織の暗殺命令を待ち続けるワン。いつしか彼女の感情は演技や任務の領域をはるかに超える。そしてある日、ようやく運命の瞬間が訪れる…。

 とにかく2時間40分にも及ぶ男女の駆け引きとその顛末が、見事なまでに丹念でサスペンスフルな演出術で調理されている。彼らの激しくも儚い運命にあれよあれよと翻弄され、気がつくといつの間にか時間が流れてしまったという印象だ。

 そして、まずもって目に飛び込んでくるのが映像化された上海の「租界」。今となっては写真などでしかうかがい知れないこの街の風景をスクリーンで体感できるのは実に刺激的な体験だ。

 中国が外国の食い物にされていた時代、上海は外国人がパスポートなしで自由に出入りできるボーダーレスな国際都市だったという。その分、飛び交う銃弾の量も当時のシカゴを上回る勢いだったとなにかの雑誌で読んだことがある。

 オープンセットにCGを合成し、まるで『ALWAYS 三丁目の夕日』の上海版とも見紛うほどの装飾スケールでその街並みを現出させ、異国情緒のごった煮感をリアルに再現している点には圧倒される。と同時に、この後の中国が歩むことになる歴史がどうしても頭をもたげる。戦後、文革の荒波の中でこういった西洋文化はとことん排除されていっただろうし、また現代においては再び、かつての勢いを取り戻すかのように世界中のあらゆる最先端の技術を取り込んで革新的な進化を遂げる上海の姿がある。西洋風の建物、飛び交う英語、おびただしい通行人、そして異国人。この映画で「これが当時の上海です」と切り取られてみても、まるで了解を得ない異国の地に放り出されたかのように、途方に暮れる自分がいる。

 女スパイとなったワンが、イーを追って乗り込んでいく上海には、雑踏のそこかしこに撃たれて絶命した死体が横たわっている。それは明日の自分の姿かもしれない。いまこの時にも自分の正体がばれ、イーの手で処刑されないとも限らないのだから。自分の命は自分が握っている。そんな混沌とした状況の中で、かつて舞台上で演劇部の看板女優として無邪気な輝きを放っていたワンの“演技”が、徐々に取り返しのつかない“リアル”へと移行していく過程がとにかく艶かしく魅せる。タン・ウェイが全身全霊を込めて表現するワンの人生は、生まれながらにして“フェイク”としての宿命を持つ映画という表現手段が、その内部に何らかの“リアル”を生じさせていく過程とシンクロするものがある。

 イーは反乱分子を厳しく尋問し、その手でおびただしい血を流しながら、その日常に疲れ、もはや生きるための出口として狂ったようにワンの身体を求め続ける。ワンもまた、自分に与えられた任務を頭で理解しながらも、次第に身体が理性を侵食し、あれほど堅固だった抗日の決意が崩壊寸前にまで追いやられていく。いつしかその境界線は、「ラスト」と「コーション」の狭間の「、」のごとく、綱渡りのように危なげな区切りでしかなくなっていく。

 性交や殺人を痛みが伝わってくるほど強烈な手法で描きながら、そこに常にハッと目を奪われるような美的イメージをも兼ね備えた“アン・リー”マジック。緩急はいつどちらへ裏返るか分からない。これが快感なのか、痛みなのかすら分からず、感覚はクライマックスに向けて麻痺し続ける。

 アン・リーが志向したこの壮絶な境地にたどり着くには、スタッフはもちろん、キャスト、とりわけタン・ウェイ&トニー・レオンに圧し掛かった肉体的・精神的な重圧たるや相当なものだったろう。もしかするとこの作品に身を投じることこそ、まさにタイトルの示す「ラスト、コーション」を地でいく所業だったのではないか。トニー・レオンの陰部にかかったのっぴきならない画像修正を目にしながら、文字通り全てをさらけ出して本作に挑んだふたりの役者魂に圧倒されずにはいられない。

 そして何より、ここまで役者を追い詰めるアン・リー、あんなにニコニコと紳士的な人なのに、心の中では何を考えているのか分かりやしない。恐るべし。

 ラスト、コーション』は2月2日よりシャンテシネ、Bunkamuraル・シネマほか全国一斉公開

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アイリーン・チャンの著した短編に「封鎖」という作品があります。傀儡政権下の上海の街では反逆者取り調べのためにたびたび封鎖(通行禁止)が行われていたらしく、この短編は、その時が止まったようになる瞬間を、とても情景豊かに描き出した名作です。そう、映画『ラスト、コーション』のクライマックスに、まるで踏み切りが下りたみたいにみんなが立ち往生させられていたのが、「封鎖」なんです。彼女の著作に触れたことがある人ならば、少なからずこの短編を思い出されたのではないでしょうか。でも残念ながら、上に挙げた書籍「ラスト、コーション」には収録されておらず、他の書籍もことごとく絶版となっている模様。ぜひお近くの図書館などで検索してみてください。

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『トゥヤーの結婚』

 一口に「モンゴル」と言ってもいろいろある。かつてチンギス・ハーンによってユーラシア大陸を広く征服したモンゴル民族も、いまでは「モンゴル国」や中国の「内モンゴル自治区」のほか、周辺の旧ソ連の国々などにも跨って分布している。

 『トゥヤーの結婚』はその中でも「内モンゴル自治区」に生きる女性について描いた中国映画だ。この地では牧草地の砂漠化に伴い、都会へ移り住むことを余儀なくされたモンゴル民族も数多い。しまいには政府までもが強制移住を促進し、この映画撮影に使われた場所の住民たちも、終了後まもなく移住させられてしまったという。激しく変化を遂げる中国では、『胡同のひまわり』や『長江哀歌』といった作品群と同様に、『トゥヤーの結婚』でも、フィルムに刻まれた尊い面影が、いまはもう存在しないのだ。

 この地に生まれた母親を持つワン・チュアンアン監督は「私はモンゴル文化が大好きです。だからこそ、この消え行く文化を映像に残したいと思いました」と語っている。そんな個人的な想いに端を発した本作が、なんと2007年のベルリン国際映画祭でグランプリを受賞してしまった。グローバルスタンダードもへったくれもないこの映画がグランプリだなんて、これは監督自身にとっても心臓が止まるほどのサプライズだったに違いない。

 主人公トゥヤーは働き者のお母さんだ。年齢は30歳くらいだろうか。2人の子供がいて、かなり年配に見える夫は作業中に事故に見舞われ、下半身が麻痺している。

 トゥヤーも子供たちも一緒に羊を放牧し、その合間に何キロも離れた井戸まで水を汲みに行く。変化の激しいこの地で生きていくことはとても過酷なことだ。そしてトゥヤーもまた身体を酷使しすぎて変調をきたしてしまう。医者からは「もう無理ができない」との宣告。このままだと家族は共倒れになってしまう。夫はほとんど言葉を発しないながらも、その物言わぬ表情が自責の想いを強く物語っている。そんなある日、義理の姉(夫の姉)がやってきて、トゥヤーに「あんた夫と別れなさい」と言う。

「まだ若いんだから、動けない夫や子供たちのことは私に任せて、再婚して幸せになりなさい」

 それは義理の姉からの精一杯の言葉だった。

 夫婦は離婚を決める。

 働き者で面倒見のよいトゥヤーのもとには何人もの求婚者が現れる。だが、優しい彼女には元夫や子供たちのことが見捨てられない。なのでせっかくの訪問者たちにもとんでもない条件を出してしまう。

 「元夫と子供たちを一緒に養ってくれるならば、求婚を受けます」

 困惑の表情を浮かべる男たち。まるで「かぐや姫」のワンシーンがカタチを変えて現れたかのようだ。他のどんな好条件を出されても首を縦に振らないトゥヤー。彼女の中で「元夫と子供たちの養育」は絶対なのだ。モンゴルの大地で繰り広げられるこの結婚大作戦は、やがて予想外の哀しみとささやかな幸福と笑いに彩られ、モンゴル語で“トゥヤー”があらわす“光”という意味さながらのおぼろげな光を放ち始める。眼前に広がっていた“超ローカル”な風景は、それを受け取った観客の中でそれぞれの“普遍性”へと到達していく。  
 
 かけがえのない家族。この地で精一杯に生きていく幸福。

 それは国が違っても決して変わらないものだ。

 ふと中国のことを思う。

 経済発展の裏側でドラスティックな取捨選択を施していくこの国。たとえばオリンピック開催のためにフートンの街並みはいまこの瞬間にも破壊され、山峡ダム建設という国家プロジェクトのために長江流域に住むおびただしい人々が立ち退きを余儀なくされた。

 『トゥヤーの結婚』に付随する“強制移住”はこれらとは事情が違うが、あえて夢見がちなことを言うならば、フートンや長江、そして内モンゴルについても最も幸福なのは「何かを捨てること」ありきの政策ではなく、「どちらも救うこと」という方向性だったろう。それはちょうどトゥヤーが求婚者たちに提示する「元夫と子供たちを養育すること」という条件と似ているかもしれない。

 本作は中国映画なので間違っても政治的な主張を付加することはないが、ワン・チュアンアン監督のモンゴルへの想いは、思いもかけず、映画撮影という瞬間的な魔法によってフィルムに結実することとなった。そこには消え行く風景、消え行く文化がなんら損なわれずしっかりと記録されている。

 もしかすると彼は、トゥヤーが無心になって追い求めた、そして政治には決してなしえなかった“どちらも救う”という最高の選択肢を、たとえフィルムの中だけでも、高らかに行使したかったのではないだろうか。

 何かが消え行く瞬間を「REQUIEM」ではなく、あえて「MARRIAGE」として明日につなげようとする、そして歴史に刻み込もうとする映画作家の祈りにも似た感情に、思わず胸が熱くなった。

 トゥヤーの結婚』は、2月23日よりBunkamuraルシネマ他にて全国順次公開

*後日談ですが、本作の主演、ユー・ナンは、『マトリックス』のウォシャウスキー兄弟による最新作『スピード・レーサー』にも出演しているんだそうです。

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こちらは「モンゴル国」で生まれたささやかな佳作。幼い子供(ナンサ)と大自然とのオーバーラップになんだかいろんな想いが浮かんでは消えていき、エンドクレジットで号泣してしまいました・・・。

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